まずい?給食大量食べ残し…どんな献立が?
2017年9月15日 19:04
■生徒たちは、なぜ給食を残すのだろうか。そこには、町が決めた“ある理由”が関係していた。
■大磯町教育委員会・仲手川教育部長「今『食育』の必要性がさぐられていて、体に大事な栄養素をバランス良くとることがどういうことかというのを、給食を通じて身につけていただく」
■子供たちの健康のために給食に「食育」を導入し、塩分などを抑えたメニューにしたためだという。また、給食が冷たい理由については、衛生上の理由から19℃以下で運搬しているためだという。
http://www.news24.jp/articles/2017/09/15/07372655.html
商号 エンゼルフーズ株式会社
創業 1965年
会社設立 1970年
年商 20億円
1日の提供食数 50,000食
資本金 1,600万円
従業員数 296名
業務内容 幼稚園・学校・事業所給食の製造、販売
取引銀行 三井住友銀行、りそな銀行、城北信用金庫
本社 東京都北区豊島 8-1-1
夢工場 同上
さいたま支店 埼玉県さいたま市桜区桜田2-1-15
北神奈川支店 神奈川県相模原市緑区橋本台1-30-20
横浜支店 神奈川県横浜市都筑区佐江戸町885-1
食育(しょくいく)とは、様々な経験を通じて「食」に関する知識と「食」を選択する力を習得し、健全な食生活を実践することができる人間を育てることである。2005年に成立した食育基本法においては、生きるための基本的な知識であり、知識の教育、道徳教育、体育教育の基礎となるべきもの、と位置づけられている。単なる料理教育ではなく、食に対する心構えや栄養学、伝統的な食文化についての総合的な教育のことである。
この言葉を造語した石塚左玄は、食品の与える影響に関する独自の説によって、子どもに食べさせる食品の影響によって子どもの心身を養うという意味で用いた。
「食育」という言葉は、石塚左玄が1896年(明治29年)と1898年(明治31年)の著作(化学的食養長寿論、通俗食物養生法)で「体育智育才育は即ち食育なり」[1]と造語し用いられている。1903年(明治36年)には報知新聞編集長・村井弦斎が、連載していた人気小説「食道楽」の中で「小児には徳育よりも、智育よりも、体育よりも、食育がさき。体育、徳育の根元も食育にある」と記述している。
経緯小説家の村井弦斎が石塚の著書を読んで共感しており、1903年(明治36年)に著し、一大ブームを起こした『食道楽』秋の巻第252「食育論」[2]で「食育」という言葉を使用した。
左玄の説を実践する団体として「帝國食育會」という団体があった[3]。その後、政財界の援助により石塚の食物養生法を啓蒙する団体として「食養会」が結成された。食養会の関係者が「食育」を唱えていた[4]。 しかし、一般にはほとんど知られていなかった。
戦後、食養会の会長にも就任したことのある桜沢如一の起したマクロビオティックや、玄米健康法の関係者、有機農業・自然食品業界に石塚説が伝承された。
1970代に財団法人オルトビオス研究会(現日本ウエルネス協会)理事長であった蓬田康弘氏が食育を提唱し、77年にソニー創業者・井深大元会長が創立した財団法人幼児開発協会・機関誌『幼児開発』へ『食育のすすめ』を連載。83年、フジテレビの「テレビ寺子屋」でも食育について啓蒙した。
2002年(平成14年)11月21日、自民党の政務調査会に「食育調査会」が設置された。その目的は、産地偽装など食の安全を揺るがす事件が多発したことから、食育で消費者の不安や不信感を取り除くことだった。 だが一連の事件の多くは、消費者を蔑ろにした私利追求が原因だった。消費者の不安不信を取り除けば、事件の反省や再発防止策が不要になる上、一般人の知らない言葉をスローガンに掲げたことから、マスコミや研究者等が関心を抱き、語源を探した。この結果、歴史に埋もれていた石塚・村井が再び陽の目を見る。翌15年に時の総理・小泉純一郎の施政方針演説に取り上げられて「食育」が一般化した。
1988年(昭和63年)には、小泉純一郎が厚生省としては食が一番大事なのではないかと述べていた[5]。1993年に厚生省監修で『食育時代の食を考える』という著書が出版されている。服部幸應は自分の書いた1998年出版の『食育のすすめ』[6]を厚生大臣の頃の小泉純一郎が読んだからと説明している[7]。またマクロビオティックの久司道夫は議員会館で講演を行っていた[8]。多いときには議員が80人ぐらい集まるときもあった[9]。
ファーストフードへの批判国会で、無国籍で脈絡のない料理では「ファーストフード予備校」であり食育とはいえないのではという指摘がなされ、政府としても米食や日本型食生活を増やしたいとの意向が表明されている[10]。
食育基本法の訂正に伴ってマクドナルドが食育に力を入れることを表明し[11]、そして学校でハンバーガーの授業が行われるようになった[12]。これに対して、「企業が社会貢献するのは結構だが、こうした食品では食育と矛盾するのではないのか」という批判も起こった[13]。
幕内秀夫は、食育基本法の制定に伴ってジャンクフードの販売業者が食育という言葉を利用して出張授業などを行うようになったことを自身のウェブサイト「フーズアンドヘルス研究所」で批判している[14]。
石塚 左玄(いしづか さげん、嘉永4年2月4日(1851年3月6日) - 明治42年(1909年)10月17日)は、明治時代の日本の医師・薬剤師[1]、であり陸軍で薬剤監、軍医を勤めた。玄米・食養の元祖で、その食養は食養会につながり普及活動を行った。
福井藩(現福井県)出身。陸軍で薬剤監となった後、食事の指導によって病気を治した。栄養学がまだ学問として確立されていない時代に食物と心身の関係を理論にし、医食同源としての食養を提唱する。「体育智育才育は即ち食育なり」[2][3]と食育を提唱した。食育食養を国民に普及することに努めた。
栄養学の創設者である佐伯矩が現・国立健康・栄養研究所をつくるための寄付を募っていたとき、左玄の功績を耳にした明治天皇がそういう研究所があってもいいのではと述べ、その言葉で寄付が集まったという[4]。しかし、研究所は明治天皇が好きではなかった洋食を奨励し食養とも結びつかなかった[4]。天皇家の献立は食養学に基づいている[5]。
昭和初期以降、医師の二木謙三が玄米を完全食と呼び、健康のために玄米食を普及することに努めた。1943年(昭和18年)頃には大日本玄米連盟があり、1万人以上が加盟していた[12]。1942年(昭和17年)以降、大政翼賛会で国民を玄米に復帰させるとして議題となり、時の首相であった東條英機が玄米を常食していることも伝わり世論は玄米に傾いた[13]が、川島四郎ら軍の栄養学者は、玄米の消化が白米に劣ること、炊飯に要する燃料や調理時間が増加することを指摘して、玄米食に強く反対した。これに対し伝染病研究所の研究者らが玄米食について研究し、当時の「医界週報」での報告には、炊飯に要する燃料は増加したが、玄米食によって小食になった上、下痢も減り、仕事の耐久力が上がり、医療費は1/17に減った、と伝えたので、栄養学者も認めざるを得なくなったとある[14]。
で、
左の玄
で、
桜沢如一
如一は京都市東山区で生誕する[3]。少年の頃は病弱であり誌歌に触れ女子のような10代を過ごしたが、苦学を重ね商業高校、仏語学校を卒業し貿易商となる。苦学の時期より石塚左玄の食養にて健康を回復し、貿易事業と並行して、大和言葉のよみがえり運動の一環でシャルル・ボードレールの『NAYAMI NO HANA』(悪の華)などを翻訳した。カメラや撮影機、映写機、放送機など電子機器を扱った商売からは1924年には手を引き、左玄の食養会の活動に尽力し数十の書籍を出版した。またその成果をフランスのパリで試しに無銭武者旅行に出発し、フランスでも著作活動を開始する。同時並行で日本に帰った時には反戦運動を行い、その目くらましとして健康指導、翻訳活動に身を投じ、岩波文庫からのカレルの『人間』も当時の活動である。1937年には食養会の会長に就任するがその2年後には脱会した。
1940年には滋賀県大津市にその食養の理論を東洋思想の易を交えて独自展開する無双原理講究所を開設。次第に再び反戦活動へと傾倒していき、戦争がはじまると軍部や右翼から暴力を受けるが、1945年に日本が敗戦すると世界政府協会を作って、世界連邦運動に取り組み平和を追求することになる。その思想の根本には食による健康があった。再び、欧州やアフリカなど世界旅行によってマクロビオティックの普及につとめ、各地に団体や食品店が生まれ、1960年には訪米し普及に努める。日本での団体は、メゾン・イノグラムスと経て、日本CI協会となる。後継者にはアメリカでの普及に尽力した久司道夫、日本では大森英桜、岡田周三といった人物がいる。
、、、(爆wwwwwwww
8 件のコメント:
最近仕事で滋賀に行く機会が多いのですけど駅出た瞬間「人権」とか垂れ幕がしてあってほんと笑えますなw
で、
パナソニック、滋賀工場閉鎖へ 太陽電池の需要落ち込み
http://www.asahi.com/articles/ASK974VH0K97PLFA005.html
滋賀はオワコン!(爆)
マクロビ 三宅洋平 ベルギー チョコユダヤ
で臭い飯が生活習慣的にお好み?
エンゼルさんはでりしゃすo-157予備軍だと思うのですが
かえって免疫力がつくのですね。
>如一は京都市東山区で生誕する[3]。
生誕w
仏教テロリストですね。
連続投稿申し訳ありません。
どうもです
>医療費は1/17に減った
早死にするから、入院費・ガン治療費等いろんな医療費が減るわけですね
日本文化振興会 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/日本文化振興会
一般社団法人日本文化振興会(にほんぶんかしんこうかい)とは、1971年に桟勝正により創設された民間の顕彰団体である。任意団体として創設され、有限会社組織を経て、2015年に一般社団法人格を取得した。授与する社会文化功労賞は、俗に顕彰商法として知られている。 目次. [非表示]. 1 組織; 2 主業務; 3 歴代総裁; 4 関連組織・団体; 5 関連項目; 6 脚注; 7 外部リンク. 組織[編集]. 1971年に桟勝正が大阪市西区にて日本文化振興会を創立した。桟勝正が初代理事長に就任し、初代総裁に東久邇稔彦を迎えた。 ... 現在は総本部を東京都中央区銀座8-8-15 青柳ビル8階に置き、伏見博明が第5代総裁に就いている
叙勲・褒章・講演・出版|エンゼルフーズグループ本社 幼稚園給食 安心 ...
www.angel-foods.com/hiroba/mass.html
2004年, 社会文化功労賞, 日本文化振興会. 2005年, 先見 ... 首都圏において、毎日、5万人の幼児に給食としておべんとうを提供している日本一の幼稚園給食企業の社長が書いた本です。この本には、 ... れいろう」 財団法人モラロジー研究所 出版部.
「まずい給食」業者、町非難し責任転嫁する文書-讀賣新聞-
町議会では、業者の社長が19日付で取引先の私立幼稚園などに配布したとされる文書も取り上げられた。
「大磯町中学校給食報道について」と表題がつけられた文書で、業者は「半ば強制的に始まった全員給食」「選択制であれば、食べたくなければ注文しなければいいで済んだ」などと町の取り組みを非難した。
異物混入についても、「弊社で混入したと考えにくい案件も含まれ」るとした上で、「(異物の)90%以上は髪の毛」「2校のうち1校の学校にのみ混入している」などと事実と異なる内容を記載。生徒や学校側に責任があると主張しているように読めるものとなっている。
中崎町長は取材に対し、「食の安全は信頼関係があってこそ成り立つ。文書は信頼を損なわせるもので戸惑っている」と憤った。町教育委員会の仲手川孝・教育部長も「弁護士とも相談して今後の契約について検討していきたい」と述べ、業者の変更を視野に入れていることを明らかにした。
これに対し、業者の社長は取材に「内容をしっかり精査しないまま出してしまった。事実誤認があり、反省している。不徳のいたすところで町には謝罪したい。改めておわびの文書を出すつもりだ」などと話した。
引用元
http://www.yomiuri.co.jp/national/20170922-OYT1T50111.html
給食異物混入 横浜市が業者変更
09月29日 17時26分
神奈川県大磯町の中学校で委託業者が提供する給食に髪の毛などの異物が混入し食べ残しが相次いでいる問題で、同じ業者の弁当を一部で提供している横浜市では、安全性への懸念が広がっているとして、来月中旬から業者を変更することになりました。
この問題は、大磯町の2つの町立中学校で、去年1月に業者に委託して始めた給食から髪の毛やハエなどの異物の混入が84件確認され、生徒の食べ残しが相次いでいるものです。
横浜市では、給食は提供していませんが弁当を持ってくることが難しい生徒向けに「ハマ弁」と呼ばれる弁当を購入できるようにしていて、製造する3つの業者に大磯町の給食を製造している業者も入っています。
市によりますと、この業者が製造した「ハマ弁」への異物の混入が去年10月以降7件あり、大磯町の問題が発覚して以降、横浜市や仲介する管理会社に不安の声が数十件寄せられたということです。
管理会社は安全性への懸念が広がっており「ハマ弁」への信頼を確保する必要があるとして、この業者が担当する7つの区の57校分の弁当の製造を、ほかの2つの業者に変更することを決めました。
これについて業者は、「コメントは控えさせていただきます」と話しています。
yokohama/20170929/1050000211.html
山林で大麻草栽培か 3人を逮捕 10月04日 14時06分
神奈川県大磯町などの山林で大麻草を栽培していたとして、35歳の男ら3人が逮捕され、警察は大麻を売りさばく目的で栽培していたと見て調べています。
逮捕されたのは、いずれも神奈川県大磯町に住む農業の二宮寛憲容疑者(35)や、建築業の岡本峻介容疑者(35)ら3人です。
警察の調べによりますと、3人は9月までの半年間、大磯町や中井町の山林で大麻草、合わせて22株を栽培していたとして、大麻取締法違反の疑いが持たれています。
去年、「大麻草のようなものが山にある」という情報が寄せられ警察が捜査を進めたところ、地元の中学校の同級生だった3人が関わっていたことがわかったということです。
調べに対し、いずれも「栽培していたことは間違いない」と供述し、容疑を認めているということです。
警察は、3人が大麻を売りさばく目的で栽培していたと見て調べています。
yokohama/20171004/1050000242.html
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