それでいいのか! 中国初の「民芸博物館」、設計したのが日本人だった=中国メディア
2016-07-13 07:55
日本漢字能力検定協会が運営する漢字の博物館「漢字ミュージアム」が6月29日、京都の祇園でオープンした。漢字の「本家」という意識がある中国でもこの博物館が話題となり、「わが国にも作るべきだ」といった意見も出たようだ。
中国メディア・今日頭条は12日、中国に初の「民芸博物館」ができたことを紹介するとともに、建物のデザインをしたのが中国人ではなく日本人の著名建築家であったことを紹介する記事を掲載した。記事は、中国美術学院の「民芸博物館」が先日落成したと紹介。同学院が日本の建築家・隈研吾氏にデザインを依頼したと伝えた。
中国の「民芸」ということであれば、中国人が手掛けるべきだ、どうして日本人の手を借りるのか、といった批判がネット上から聞こえてきそうだ。この疑問について記事は「民芸とは日本からやってきた概念であり、われわれはその価値に対する理解が少なく、審美の基準も持っていない」と説明。同学院の関係者が「日本の民芸は非常に発展している。世界最高の文化が中国に集まることで、われわれは初めて何が良くて、何が悪いのかを知ることができるのだ。他山の石を借りて自らの球を磨くということに過ぎないのだ」と解説したことを紹介している。
さらに、「民芸博物館」の建物が「非中国文化体系の外国人が全力をもって示した、中国の民芸に対する理解なのである」と説明。「開明な国は文化に対して、包容と自省という2つの態度が必要。世界トップレベルの建築の巨匠に手掛けてもらったことで、世界がわれわれをどう見ているのかを知ることができる。彼らの眼中にある中国は、われわれの心中に映る自分と同じだろうか」とし、あえて外国人の建築家に設計を任せた意義について論じた。
民芸とは、民衆の生活から生まれた手工芸品のことであり、1920年代に日本の思想家・柳宗悦らによって作られた言葉である。日本が民芸という概念の「発祥」ということを考えれば、日本人の建築家に設計を依頼したのも合点が行くかもしれない。それはともかく、自国の持つ文化について、外国からどのように見られているかを知るというのは、その文化を再認識したり、さらに発展させたりするうえで非常に重要と言えるのではないだろうか。中国の民衆生活から生まれた工芸品について、日本や外国の視点を謙虚に受け入れ、その良さを認識しようという試みは、評価できるものと言えそうだ。(編集担当:今関忠馬)(イメージ写真提供:123RF)
http://news.searchina.net/id/1614043?page=1
隈 研吾(くま けんご、1954年(昭和29年)8月8日 - )は、日本の建築家(一級建築士)。株式会社隈研吾建築都市設計事務所主宰。東京大学教授(博士(学術))。木材を使うなど「和」をイメージしたデザインが特徴的で、「和の大家」とも称される[1]。
来歴
神奈川県横浜市大倉山出身。父親が45歳の時の息子で[2]、医院を営んでいた祖父が建てた大倉山駅近くの古い家で育つ[3]。家の修繕をする父親に付き合ううち、建築に興味を持つ[4]。田園調布小学校に通っているときに、1964年東京オリンピックのオリンピック建築を見て、建築家を志す[5]。栄光学園高校では、長身 (189cm) を生かしてバスケット部でセンターを守っていた[6]。東京大学工学部建築学科卒業。東京大学大学院建築意匠専攻修士課程修了(1979年[7])。在学中は、芦原義信、槇文彦、内田祥哉、原広司らに師事。同級生には小林克弘(首都大学東京教授)や大江匡(建築家)、村田誉之(大成建設)がいた[8]。
日本設計、戸田建設、コロンビア大学建築・都市計画学科客員研究員(1985年 - 1986年)を経て、1990年に隈研吾建築都市設計事務所を設立する。法政大学工学部建設工学科非常勤講師、慶應義塾大学環境情報学部特別招聘教授(1998年4月から1999年3月)、早稲田バウハウス・スクール講師(1999年から2002年、春・夏)、慶應義塾大学理工学部客員教授(2002年4月から2007年3月)慶應義塾大学理工学部システムデザイン工学科教授(2007年 - 2009年3月)、アメリカイリノイ大学建築学科客員教授(2007年 - 2008年)を経て、2009年4月より東京大学工学部建築学科教授。2007年3月に博士論文「建築設計・生産の実践に基づく20世紀建築デザインと大衆社会の関係性についての考察」を慶應義塾大学に提出し博士(学術)の学位を取得。2008年フランス・パリにKuma & Associates Europe設立。
初期はM2(自動車のショールーム)などポストモダニズムに一部脱構築主義要素を加えた建物を発表していたが、高知県高岡郡檮原町の「ゆすはら座」存続への関わりをきっかけとして[9]、木材などの自然素材を生かした建築や、縦格子を多用したデザインが特徴的な作品を多く手がけるようになる。近年は活躍の場を海外にも広げ、国際コンペでの受賞も着実に増やしており、世界的に注目される日本人建築家の一人として認識されつつある。また設計の他、室内演出や家具・食器などのデザイン、ホテルやマンションの監修も手がける。
愛知万博では会場・パビリオンの設計に携わっていた(会場計画プロジェクトチーム)が、自然保護団体の反対で度々計画が縮小したため、辞任した。
中国、北京郊外のGreat (Bamboo) Wallは北京オリンピックのCMにも使われた[10]。韓国では、知韓派の建築家として活動している[11]。
栄典2009年(平成21年) - フランス芸術文化勲章オフィシエ
受賞
- 1997年(平成9年) - 日本建築学会賞作品賞(登米町伝統芸能館)
- 2001年(平成13年) - 村野藤吾賞(那珂川町馬頭広重美術館)
- 2010年(平成22年) - 毎日芸術賞(根津美術館)
- 2011年(平成23年) - 芸術選奨文部科学大臣賞(梼原・木橋ミュージアム)
栄光学園中学校・高等学校(えいこうがくえんちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、神奈川県鎌倉市玉縄四丁目に所在し、中高一貫教育を提供する私立男子中学校・高等学校。
高校からの生徒募集はしていない完全中高一貫校[1]。カトリック修道会の一つであるイエズス会を教育母体とするミッションスクールである。
当校の指す「栄光」は AD MAIOREM DEI GLORIAM(より大いなる神の栄光のために)というイエズス会の標語から来ている。
、、、(爆wwwwwwwww
6 件のコメント:
キムチうどん県民 : 【「和」を取り入れたイエズス会の栄光】新国立競技場「大成建設・梓設計・隈研吾建築都市設計事務所共同企業体」案を採用
http://blog.livedoor.jp/kimuchiudon/archives/1048142810.html
キムチうどん県民 : 安藤忠雄と30年ほど前からのつきあいがあるザハ・ハディドさん死去
http://blog.livedoor.jp/kimuchiudon/archives/1054985748.html
>養老孟司×隈研吾 「ともだおれ」思想が日本を救う
>ヨーロッパでのプレゼン、勝利の秘訣
>養老孟司×隈研吾×廣瀬通孝 鼎談:日本人とキリスト教死生観(2)
●土佐・水戸方面
高松宮宣仁親王
国際基督教大学(東京都三鷹市)の設立準備委員会名誉総裁
>宣仁親王妃
喜久子(父=公爵・徳川慶久 母=實枝子女王 祖父=有栖川宮威仁親王。お印は初めが亀、結婚後は撫子。)
光輪閣@旧高松宮邸・高輪 ”敬三は光輪閣世話人で川添はそこの支配人”
>財政顧問 渋沢敬三
(祖父=渋沢栄一 妻=登喜子 岳父=木内重四郎 岳母=岩崎弥太郎次女)
>秘書 川添(紫郎)浩史
(祖父=後藤象二郎 父=後藤猛太郎 養父=三菱銀行・川添清麿 義伯父=岩崎弥之助)
※ 渋沢敬三 https://ja.wikipedia.org/wiki/民具
●著名人子女人脈@戦前フランス
川添(紫郎)浩史
http://d.hatena.ne.jp/jyunku/20061018/p1
1970 大阪万博富士グループ 建築設計 村田豊
>村田豊 ”坂倉準三” ル・コルビュジエ
柳宗悦@白樺派 の息子
柳宗理
1915年東京都原宿に父・柳宗悦と母・兼子の長男として生まれた。次男に美術史家・柳宗玄、三男に園芸研究家・柳宗民がいる。
1934年東京美術学校洋画科入学。バウハウスにいた水谷武彦の講義でル・コルビュジェの存在を知り、デザインに関心を持つようになった。
1940年東京美術学校洋画科卒。商工省の水谷良一に誘われ、日本輸出工芸連合会の嘱託となり、当時輸出工芸指導官として来日していたシャルロット・ペリアンの日本視察に同行。日本各地の伝統工芸に触れる。
1942年、坂倉準三建築研究所の研究員となる。
1943年に太平洋戦争の下、坂倉が設計を進めていた日本文化会館の手伝いのために、研究員の身分のまま陸軍の報道班員として南方戦線の激戦の地フィリピンへ渡る。
2016/07/17 ユネスコ世界文化遺産登録 国立西洋美術館 坂倉準三、前川國男、吉阪隆正
契約相手方: オクムラボート販売株式会社
民芸
みんなGay (爆)
コメントを投稿