女性が首刺され死亡、男逮捕…別れ話でトラブル
2015年07月11日 21時24分
11日午前11時頃、大阪市中央区高津のマンション6階で女性が刺されたと、女性の友人男性(23)から通報があった。
大阪府警南署員らが室内で、首から血を流してうつぶせに倒れ、意識不明の若い女性を発見。女性は病院に搬送後、死亡が確認された。
同署員が、この部屋に住むアルバイト、隅田龍馬容疑者(24)をマンション前の路上で発見し、事情を聞いたところ、「別れ話でトラブルになり、殺そうとして刃物で切りつけた」と認めたため殺人未遂容疑で緊急逮捕。同署は容疑を殺人に切り替えて捜査する。
死亡したのは隅田容疑者と同居していた女性(21)とみられ、同署が身元の確認を急いでいる。
発表によると、女性はこの日午前10時50分頃、部屋から自分の荷物を運び出そうと、外出先から友人男性を連れて戻ったが、隅田容疑者が「2人で話がしたい」と要求。女性が1人で入室すると、隅田容疑者は玄関の鍵を閉め、刃物で首を複数回切りつけたという。
付近住民によると、事件直後、隅田容疑者は黒色のスエットズボンに半袖姿でマンション前に出て、はだしで周辺をスキップするなどしていたという。手と足は血だらけで、駆けつけた警察官に「私が刺した」と叫んでいたといい、近くの主婦(42)は「異様な光景で何が起きたのかわからず怖かった」と話していた。
2015年07月11日 21時24分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
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【名字】隅田
【読み】すみだ,すみた,すだ
現和歌山県と三重県南部である紀伊国伊都郡隅田荘が起源(ルーツ)である、豪族、隅田党(中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏))。ほか桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系である平氏(桓武平氏)などにもみられる。
隅田党 - Google 検索 via kwout
隅田氏は石清水八幡宮領の隅田庄を本拠に、中世を通じて紀伊の歴史に足跡を残した。隅田氏が拠った隅田庄は、寛和年間(985~987)、藤原兼家が石 清水八幡宮に建立した御願三昧院の料所として成立した。それもあって、隅田庄の本家職は藤原氏、領家職は石清水八幡宮が保持したが、鎌倉時代には石清水八 幡宮の領有する荘園となった。
長治二年(1105)、長忠延が隅田八幡宮若宮造営の功で俗別当となり、天永二年(1111)に隅田庄の公文職となった。これが端緒となって、隅田氏は 荘園管理と八幡宮の神事の権限を掌握、隅田庄に勢力を扶植していった。その出自は藤原氏の後裔を称しているが、忠延の名乗る「長」姓は伊都・那賀郡にみら れる古代豪族の姓であり、忠延はその系統に連なる在地豪族であったと思われる。のちに本家職の藤原姓を名乗るようになり、忠延の系統が隅田一族の惣領に なったのである。
鎌倉時代においても、隅田氏の嫡流は隅田庄の公文の地位にあり、一族が庄内の各地に分出した。一方で、上田氏などの他氏を包摂し、党的武士団を構成し た。隅田氏はいわゆる西国御家人で、地頭職には補任されなかったが、十三世紀中葉以降、隅田庄の地頭になった北条氏の被官となり、地頭代職の地位を与えら れた。隅田氏は承久の乱に際して幕府方として行動していることから、紀伊守護職を世襲した北条氏に重用されるようになったものであろう。
隅田党の発展期は十三世紀後半で、宗家から葛原氏、芋生氏、垂井氏などがつぎつぎと分かれている。隅田党は規模のうえでは小武士団に過ぎなかったが、紀 伊守護北条氏がしばしば六波羅探題を兼務したことから、奉行人として京都に出仕するようになった。鎌倉末期の元弘の乱(1331)には、隅田忠長が六波羅 検断・軍奉行として御家人を指揮するまでになっていた。その結果、隅田惣領家は北条氏と運命をともにし、元弘三年(1333)、惣領をはじめ一族十一人が 近江国番場において戦死している。
→甲南
で、龍馬と言えば・・・
、、、(爆wwwwwwwwwwww
1 件のコメント:
聞いた事ある苗字ばっかしだなあw
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