まあ一応おいらも面識のある親父のお友達だった方ですが・・・
- 2004/07/21 — 神戸市や兵庫県、約90社の地元企業などでつくるオリックス・ブルー ... 署名を手渡した野澤太一郎後援会長(71)は「当初5万人を目標にしていた ...
旧神戸居留地十五番館裏話株式会社ノザワ 最高顧問 野 澤 太 一 郎
旧神戸居留地十五番館(以下十五番館と呼ぶ)が国指定重要文化財の指定を受けたのが、平成元年(1989年)5月のことであり、既に20年近い年月が経過し、 その間十五番館新館(現本社ビル)の建設、十五番館での中華レストラン開業、平成7年(1995年)1月の阪神 ・ 淡路大震災による倒壊、再建、再びレストラン開業と色々な経緯があったが、当時を知る者も追々と減少しつつあり、今の内に公式記録にない時系列なこと、或は公式記録にないエピソード的なこと等を思いつくまま記し、後々の参考としたい。
なお、十五番館保存修理工事報告書、十五番館災害復旧工事報告書の記述の一部、それらにまつわる書籍、雑誌、新聞等のコピーも併せ掲載する。2.旧神戸居留地十五番館の生い立ち 慶応3年(1868年)12月7日が兵庫開港の日である。開港と共に、外国人居留地が開設された。 居留地はイギリス人土木技師J.W.ハートの設計に従い、西欧的都市計画によって事業が進められ、 公園や遊歩道、ガス灯、下水道、街路樹などを整備し、ここに商館を中心として領事館やホテル、 教会などの洋風の建物が次々に建てられた。 十五番館は、第1回目の競売(明治元年(1868年)7月24日)で、フランス人ガンダンベルが落札 し、明治3年(1870年)9月にSWEET MEAT CASTLEを開業。翌月にホテル・ド・コロニー と改称、その後所有者も変わったが、この建物は、明治11年(1878年)3月に火災で焼失した。こ の火災の後、明治13年(1880年)ごろまでに建ったと推定されるのが現存の建物で、はじめはアメ リカ領事館として使用された。 アメリカ領事館が他所に移転した明治23年(1890年)以降、この建物は、しばらくのあいだ個人 住宅となっていた。明治32年(1899年)7月、条約の改正によって日本の外国人居留地は消滅した が、土地の所有権はしばらくはそのままであったようである。明治39年(1906年)、サッソン商会 が所有し、明治40年(1907年)以降は、江商株式会社(当時は江商合資会社)の神戸支店となったが、 大正6年(1917年)、永代借地権が抹消されて江商株式会社の所有となった。その後昭和41年 (1966年)、株式会社ノザワ(当時は野澤石綿セメント株式会社)の所有となり、近年まで同社の本 社・営業所としてここで営業が続けられていた。 3.旧神戸居留地十五番館を保存するに至った経緯 旧神戸居留地十五番館保存修理工事報告書(平成5年(1993年)3月発行)の9頁から10頁に詳し く記述されているので転載する。 基本的な考え方 居留地時代の唯一の遺構 現在の所有者・株式会社ノザワは、昭和41年(1966年)6月に江商(兼松江商)から土地建物を譲り受けた。 それまで北隣の22番地に本社を構えていたが、当時の社長・故野澤幸三郎氏がこの建物をたいへん気にい っており、江商移転に際して是非にと獲得したという。建物は江商時代の昭和30年代(1955年)から坂本勝 比古博士他の研究者によって重要性が指摘されてきたが、前社長はこうした意見に十分な理解を示し、本 社・営業所として大切に使用してきた。この姿勢は現社長・野澤太一郎氏をはじめ関係者に引き継がれ、 増改築や造作類の取替は最小限に留められ、平成元年(1989年)の重要文化財指定に至った。ちなみに、 この建物の旧居留地における位置付けを図に示す。これをみると神戸の中心的オフィス街として機能し発https://www.nozawa-kobe.co.jp/other/pdf/15ban02.pdf
野沢鉱山(のざわこうざん)は、北海道富良野市山部にある石綿鉱山である。ノザワ鉱山、野沢石綿鉱山、ノザワ富良野鉱山とも言う。
富良野市山部地区から空知川を渡った東岸の山の斜面に採掘場があり、東京大学演習林に隣接する。採掘場から西南、山部市街地に隣接する空知川西岸の平地に選鉱場や事務所、工場がある。中腹の採掘場からは空中索道が設置されており(終掘後に撤去)、選鉱場まで鉱石が運搬された。選鉱場の近くには石綿採取後のズリ(廃石)が堆積され、小山の様相を呈している。なお、採掘場のすぐ南側には山部石綿鉱山が存在している。
主要鉱物は蛇紋岩中から生成されたクリソタイル(白石綿)で、露天掘りによって採掘を行っていた。採掘した蛇紋岩は乾燥させた後、粉砕してバグフィルターにかけ、真空状態において蛇紋岩から石綿をグレード(石綿の項を参照)ごとに分離・採取した。精製された石綿は、スレートやエタニットパイプ(石綿セメント管)等の材料として用いられた。
歴史
1939年に軍人によって偶然石綿鉱床が発見されて、1942年に隣接する山部石綿鉱山、布部石綿鉱山と共に操業を開始した。日本国内(内地)の石綿鉱山では最も規模が大きく、地下資源が逼迫していた第二次世界大戦中は数少ない存在として500人が採掘・選鉱等の作業に従事していた。山部、布部と共に大量の従業員を抱えていた事から、山部地区は石綿鉱山の城下町となっていた。戦時中は主として繊維製品用として用いられる、グレード5クラスの石綿を生産していた。
外国産に比べて輸送費などのコストが低い事から戦後も規模を縮小して採掘を続けた。戦後は、主たる採掘の対象が建材や混和材に用いられる、グレード7や等級外品といった低グレードの物とテーリング(後掲)に変わった。しかし、資源の枯渇や輸入石綿に押されて1969年に採掘を終了している。採掘からは事実上撤退しているものの、鉱山そのものは、(鉱滓を採取・加工していることなどから)法的に操業を続けている形となっている。
2018年1月14日日曜日
杉原千畝こと岩井さん@鈴木商店ライン
石綿の繊維1本は直径0.02-0.35 μm(髪の毛の5000分の1)程度である。耐久性、耐熱性、耐薬品性、電気絶縁性などの特性に非常に優れ安価であるため、「奇跡の鉱物」として重宝され、建築材料、電気製品、自動車、家庭用品等、様々な用途に広く使用されてきた。
しかし、空中に飛散した石綿繊維を長期間大量に吸入すると、肺癌や中皮腫の誘因となることが指摘されるようになり「静かな時限爆弾」と呼ばれるようになった。以降、代替品としてグラスウール(ファイバーグラス)やセラミックファイバーが用いられる。
3 件のコメント:
イチローが引退時に
"神戸の方には感謝してる"
と触れていたのが何故か記憶に
何となく
神戸の方とはその方?別の方?
~綿の流通/インド綿の輸入により普及した綿産業~
明治24年滋賀県から横浜に出て輸入綿糸仲立業を営んだ北川与平は、明治31年(1898年)横浜から神戸に本拠を移して 支那綿の輸入を始めた。その後江州商人が協力して「江商合資会社」として綿花の輸入と綿糸の輸出をする貿易商社となったのである。このようにして綿花輸入の本場は、大阪、神戸が日本の中心地になったのである。
面識のある方 サスーンサンやジャーディンサン マセソンサン ケズウィックサンとおつきあいがあったということでしょうか 神戸には疎tいので知識不足ですが オテル・ド・コロニーというのは横浜神戸にあったと記憶してますが ユニオンクラブがアレでしたよね それはおいておいて ギルビでヤマトとか グラバー続きのハンターハンターでイワサキやアサノとか キヨシサンの開拓繋がりなのでしょうか 国際色豊かですが 表面上のようですね とどのつまりミカゲの関係者なのでしょうか いろいろ想像するとタイマーのような・・・
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