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2012年6月6日水曜日

資生堂宣伝部


今日にいたる広告業界の繁栄は、ひとえに先達たちの礎の上で築かれてきた。しかし、広告人は過去にはほとんど興味がなく、いま起こっていることとこれから起こるだろうことを表現する楽しさに夢中なのである。戦前でも同じような人種が広告に取り憑かれていた。舞台は森永製菓宣伝部にコピーライターとして在籍していた新井静一郎資生堂宣伝部山名文夫ら23人の精鋭たちが、立ち上げた「報道技術研究会」である。山名文夫が委員長を引き受けて、広告人による国家情宣活動が始動する。
徐々に世情がきな臭くなり、一般広告の仕事が激減していた頃である。そこで内閣情報局や大政翼賛会をクライアントにして戦意高揚、国威発揚の制作物を「報研」は次々に受注し、優れた戦争美化キャンペーンをつくりつづけていく。戦争を論理付け、国家戦略をわかりやすいポスターや展示物などにしていった。なかでも山名文夫は資生堂の唐草模様をデザイン的に完成させ、女性美をイラスト化した作品群をつくってきており、そのアートディレクションは現在でも十分通用するものだった。とりわけ彼がつくった「おねがいです。隊長殿、あの旗を射たせて下さいッ!」のポスターは戦時中最もインパクトのある広告になり、当然多くの人心を揺さぶった。また、大東亜共栄圏構想を認知理解させるために「報研」のメンバーがチームでつくった「太平洋報道展」は、日本最高峰の表現技術レベルだった。彼らの果敢なる広告魂が、日本のプロパガンダを実質的に支えたのである。

終戦後、山名文夫はふたたび資生堂に入り、宣伝文化部制作室長として女性を描きつづけ、多摩美術大の教授にもなった。死後、優秀なクリエイターに贈られる「日本宣伝賞山名賞」に名を残した。新井静一郎は、電通に入り、常務取締役まで登りつめた。
彼らは果たして戦争に加担したと後悔したのだろうか。そこを馬場マコトは丹念に追っている。広告技術者である山名や新井は「戦争犯罪を犯した意識がまったくなく」、「新しい表現によって人を死なせてしまった後悔よりも自分の広告技術が高みに到達できたことへの満足感を感じている」と馬場マコトは結論づけた。






しかし・・・

2010年7月21日水曜日

資生堂が排出権購入

たった二千万円ですから要するにエコエコ詐欺の宣伝目的ですね。(w


で、鳩山イニシアチブによる海外からの排出権購入が消費税云々のスリーピーのKY発言により暗礁に乗り上げてしまい、ぽっぽが引退できなくなってしまったと・・・

2010年1月9日土曜日

コレが酒井法子と押尾学の政界コネくしょんだ!



1985年10月26日の「'86ミスヘアコロン・イメージガール・コンテスト」(資生堂主催)でBOMB!賞を獲得(グランプリは水谷麻里、準グランプリは岡谷章子、Momoco賞は畠田理恵が受賞)。ただし、当初このコンテストにBOMB!賞なる賞は存在しておらず、実際にはオーディション落選後に、サンミュージックの専務が「『彼女の』才能を試してみたい」、と願い出たことでデビューの運びとなった[1]。BOMB!賞はその際に急遽新設され、11月22日付で贈られている




米津 等史(よねつ ひとし、1959年(昭和34年)2月24日 - )は、日本の政治家。

衆議院議員(1期)を務めた。
概要 [編集]

幼少の頃から極真空手創始者大山倍達に非常に可愛がられた。1981年東海大学政経学部卒業(東海大高輪台出身)。

養父が顧問弁護士の資生堂総務部経て小沢一郎の要請で1996年第41回衆議院議員総選挙で新進党から比例区南関東1位で初出馬初当選。新進党分党後は自由党結成参加し同山梨県連会長。

2000年体調不良を理由に第42回衆議院議員総選挙不出馬。




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、、、(w