2018.4.5 17:00
オフィス北野批判の東国原にたけし謝罪「お前が正しかった」
タレント、東国原英夫(60)が4日夜、自身のツイッターを更新。テレビ番組の収録の合間に、芸能事務所、オフィス北野から独立したタレント、ビートたけし(71)と話をしたことを明かした。師匠の独立騒動を受け、「本日、テレ朝『TVタックル』の収録の合間、師匠と縷々話をさせて頂いた」とつづった上で、「昨今、ニュースやワイドショー等で報道されている内容の実情・詳細についてである。ちょっと驚いた事が2点ある」と伝えた。
東国原は会話の詳しい内容について、「師匠が僕に『お前、事実を(各メディア等で)自由に喋って良いからな』と仰った」と明かした。さらに「随分前に、僕が、オフィス北野の事務所体制や森社長の経営方針等を批判をした時に、師匠にボコボコに殴られた事があった」と告白。たけしから謝罪を受けたことを明かしつつ、「『あの時は済まなかった。今となっては、お前の言う事が正しかったと痛感している』と言う事だった」と記した。
http://www.sanspo.com/geino/news/20180405/geo18040517000023-n1.html
森 昌行(もり まさゆき、1953年1月7日 - )は、日本の実業家・芸能プロモーター。オフィス北野代表取締役社長。鳥取県鳥取市出身。現在はビートたけしや浅草キッド、寺島進を中心とするタレントのマネージメントや、北野武が初めて監督を務めることになった『その男、凶暴につき』に関わって以降『菊次郎の夏』『アウトレイジ』や『座頭市』などの北野武監督映画をプロデュースしている。元々はミュージシャン志望であり、趣味はエレキギター(対談などでギターのコレクションやエフェクター愛を語ったこともある[1])。日本のヘヴィメタルバンド「LOUDNESS」のライブビデオのディレクターとして制作に関わっていたこともある。北野武が海外で賞を受賞する際は同行しているので、テレビに映ることも多い。
略歴
高校卒業まで鳥取県鳥取市で過ごす。1976年に青山学院大学法学部を卒業。レコード会社への就職を夢見つつ、テレビ番組制作会社スーパープロデュースに入社、アシスタントディレクター(AD)やリサーチスタッフとして『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』(テレビ朝日)や『クイズ!!マガジン』(テレビ朝日)などの制作に携わる。1980年に『クイズ!!マガジン』でADとしてビートたけしと出会うが、当時は単なる司会者とスタッフの関係だった。1981年に『アイドルパンチ』(テレビ朝日)でチーフAD、ディレクターを務め、主要なスタッフとして企画立案に参画するようになる。たけしの弟子グループを「たけし軍団」と命名し起用したり、後の『ガンバルマン』(スーパージョッキー)や『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』の原型となるコーナーを企画するなど、たけしからも信頼され、寝食を共にする仲になる。1985年『アイドルパンチ』終了後は、しばらくの間たけしの番組に携わることはなかったが、1988年1月、新聞紙上に突然「たけし(当時の所属事務所・太田プロダクションから)独立・社長に友人の森氏」との記事が出る。この記事自体は誤報だったが、実際にたけしが独立する際に取締役制作部長の肩書きで、オフィス北野設立に参加することになる。その後、プロデューサーとして北野武名義の映画作品にも携わり、1992年からオフィス北野の社長に就任する。たけしが1994年にバイク転倒事故で入院した際には、連日のように記者会見する姿がワイドショーなどで流れ、時の人となった。北野武監督のプロデューサーとして
たけしは1989年に深作欣二の代役として『その男、凶暴につき』で監督デビューを果たす。バブル当時は異業種監督が一種の流行となり、たけしのテレビ人気を当て込んで映画会社から多くの監督依頼が来るようになる。森はディレクター時代から、たけしの演出や映像感覚の非凡さを知っており、「テレビタレント・ビートたけし」とは違う「映像作家・北野武」の世界を実現するため、自社での映画制作・配給を始める。当初は監督のマネージャー的な役割であったが、制作費や興行収入の管理と映画興行へのプロデューサーとしての責任を自らに課し、北野と意見が対立することもあるようになる。その制作方針は「監督・北野武の作家性を重視し、その世界を映像化することを最優先に、次回作の制作費が回収できればいい」との明快で確固たるものであり、たけしが映画監督として世界に飛躍できた第一の功労者と言っても過言ではない。北野武監督作品の他にも、ダンカンが監督した『七人の弔』や清水浩が監督した『生きない』なども手がけている。人物・エピソード
- 学生時代はミュージシャン志望で、音楽業界への顔つなぎのためにNETテレビ(現テレビ朝日)で美術スタッフのアルバイトを始める。その縁でテレビ制作会社に入社するが、テレビの仕事が面白くなり、ミュージシャンを断念した。
- ディレクター時代から知っているタレントは基本的に「さん付け」で呼ぶ。たけしのことも「北野さん」または「監督」と呼んでいる(たけしも「森さん」と呼ぶ)。
- 趣味はギター演奏とコレクション[1]。好きなギタリストはエドワード・ヴァン・ヘイレン。最近は[いつ?]ウクレレも弾く。映画祭参加などで海外に行くときは、ヴィンテージ・ギターや昔の名盤などを探し歩くこともある。
- 『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』時代、ADのかたわらデンセンマンのスーツアクターも務めた。たけしや軍団から何度もネタにされている。
- たけしが太田プロダクションから独立する際、両者の間に立ってスケジュールの引き継ぎなどをする。太田プロの社長・副社長からは、たけしが独立していくことへの想いをずいぶんと聞かされたという。
- 『アイドルパンチ』担当当時、たけしのマンションに半年ほど居候していたことがある。後に『街で一番の男ビートニクラジオ』(TOKYO FM)に出演した際、「この頃たけしさんからものの考え方などいろいろなことを教わり、大変影響を受けた。特に『男同士は仕事で付き合うもの』という考え方には衝撃を受けた。酒の席はしょせんは座興、仕事にはつながらない。しらふでできないような話は仕事にはならないという冷静さが大切。」と語っている。
- そのため現在では、たけしとは仕事以外ではめったに付き合うこともなく食事にも行かず、公私の別を厳密に分けている。
- たけしとはディレクター時代からの古い付き合いのため、たけしの独特の言い回しに慣れており、映画からの付き合いのスタッフとの間に入って「通訳的」な役割をすることも多い。
- 2001年の『BROTHER』で初めてハリウッドのスタッフと映画を制作する。この時のビジネスに徹するハリウッド関係者の姿勢に強い衝撃を受け、ともすれば芸術家を気取り、単に映画好きであり、投機的・博打的な日本の映画制作・興行システムを無責任と考えるようになる。文化の担い手としての映画とビジネスとしての映画の両立を目標としている。
- 北野映画の自身のベスト1は『3-4×10月』。
- かなりの酒豪で朝まで飲み明かすこともある。酔うと説教くさくなる。
- 日本のヘヴィメタルバンド「LOUDNESS」のライブビデオ「LIVE-LOUD-ALIVE LOUDNESS IN TOKYO」のディレクターとして制作に関わっていたことがあり、1985年の全米ツアーにも10日間ほど同行したこともある。当時資料用として撮影されたアメリカ公演のフィルムは長年行方不明とされていたが、後に森の会社であるオフィス北野に保管されていたことが発覚し、2015年に発売された「THUNDER IN THE EAST」の30周年記念盤の初回限定盤に収録、記念盤のドキュメンタリーDVDにも森が出演し、当時のエピソードを語っている。
、、、(爆wwwwwwwwww
3 件のコメント:
たけしさんの事務所って売り上げ24億位なんですね。。。。
地上波の放送権という莫大な利権を私物化している
日本の芸能界、放送業界そのほかもろもろのゴミさ
ん達、逝っちゃってくださいな。
この利権が国民に戻らない限り日本国民は奴隷と同
じ。(まあ日本国民以外は最初からTVとかを信用し
無いんだけどね。)
県知事務めても、芸能界の師匠には頭上がらないし、
芸能界の師匠も、そうした弟子を尊重しないんですね・・・
宮崎県民で支持してた人からは、どう見えるんだか
・・・さすがに、いくら儒教文化ライクで
学校の先生(や部活の指導者)と教え子であったとしても、
もう少し、対等な関係でしょ
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