1日午後9時20分ごろ、静岡県西伊豆町の安良里漁港で船が燃えていると消防に119番通報があった。消防や警察によると、燃えたのは、港中央に係留されている歌手の加山雄三さん所有「光進丸」という。消防が消火活動にあたっている。
目撃した近所の男性によると、午後9時ごろ、爆発音が聞こえて、港を見ると光進丸から炎と黒い煙が上がっていたという。警察が、船を管理している造船所に確認したところ、今年1月1日以降は光進丸を動かしておらず、人は乗っていないと話したという。
https://www.asahi.com/articles/ASL417H85L41UTPB00V.html?iref=comtop_8_04
古くは「阿羅里」または「阿蘭里」と書き、「新たに開いた村(里)」という意味といわれる。戦国時代北条水軍によって阿羅城が設けられていたが、1590年に豊臣水軍らによって攻撃を受け落城した。港は巾着港と呼ばれがごとく、入り口が狭く奥に広がった自然の良港で、その地形を利用して、明治時代から昭和30年代までイルカの追い込み漁が盛んだった。一時期は、イルカ漁の安良里といわれるくらい全国的にも名が知られていた。
現在では漁業は衰退し、その地形の特異性からヨットハーバーの町となっている。有名は加山雄三の所有する光進丸もこの港に停泊している。
町並みは、伊豆半島の特徴である海鼠壁と伊豆石の建物が見られる。ところが安良里独特のものがあって、商店(あるいはかつての商店)には必ずといっていいほど、ショーウインドウとオーニングが見られるところ。時の町の大工が流行らせたのであろうか。
http://www.shurakumachinami.natsu.gs/03datebase-page/shizuoka_data/arari/arari_file.htm
加山 雄三(かやま ゆうぞう、1937年4月11日 - )は、日本の俳優、シンガーソングライター、タレント、ギタリスト、ウクレレ奏者、ピアニスト、画家。本名は池端 直亮(いけはた なおあき)[1]。ニックネームは若大将。作曲家としてのペンネームは弾 厚作(だん こうさく)。血液型A型。
父は俳優の上原謙(池端清亮)、母は女優の小桜葉子[2](池端具子)。妹は池端亮子。母方の高祖父は明治の元勲・岩倉具視[2]である。
神奈川県横浜市神奈川区幸ヶ谷の家に生後8か月まで、次の東京都大田区田園調布には1歳9か月までいた[2]。幼少期に大腸カタルを患い病弱だったため、子煩悩な父・上原謙は息子のために、自然環境の良い神奈川県茅ヶ崎へ引っ越した。加山が覚えているのは、この茅ヶ崎の家からである[2]。海と茅ヶ崎駅の中間辺りにあって平屋の日本家屋だった[2]。お手伝いさんは必ず2人はいた[2]。茅ヶ崎市の実家には31歳で結婚するまで過ごした。
茅ヶ崎市立茅ヶ崎小学校、茅ヶ崎市立第一中学校、慶應義塾高等学校から慶應義塾大学法学部政治学科へ進み卒業後の1960年春に東宝へ入社。同年『男対男』で映画デビュー。当時、同じく有楽町にあった渡辺プロにも一時期在籍。
1961年、「夜の太陽」で歌手デビュー。NHK『NHK紅白歌合戦』出場17回。代表曲多数。後のフォークソングやニューミュージック全盛時代に先立つ、日本におけるシンガーソングライターの草分け的存在であり、また日本ではじめて多重録音を手がけた歌手でもある。
上原 謙(うえはら けん、1909年11月7日 - 1991年11月23日)は、日本の俳優。戦前戦後の日本映画界を代表する二枚目スターの一人である。本名は池端 清亮(いけはた きよあき)。
東京市牛込区納戸町の職業軍人の家に生まれる。豪族禰寝氏(根占・小松氏)の一庶流に池端氏があり、通字に「清」を用いたので、本名は池端清亮。父・池端清武は鹿児島出身の陸軍大佐だが、上原が中学生の時に死亡する。直後に本家の当主である伯父も亡くなり、伯父に男子がいなかったため伯父の娘が婿である鹿児島市長の上野篤の東京出張に付いていき清亮を跡取りにするため養子に迎える話を取り付けたが、夫妻は帰路に山陽本線特急列車脱線事故に遭難し、上野篤は死亡、伯母は両足切断の重症を負い、養子の話は立ち消えとなった[1]。後の映画俳優時代に、軍人役に多数出演した。成城学校(新宿区原町)卒業後、1929年に立教大学入学、学生時代は大学内のオーケストラでトランペットを吹き活躍する。1933年、松竹蒲田の新人公募の広告に複数の学友が無断で上原の写真を送り、その美男子ぶりから見事採用される。
小桜 葉子(こざくら ようこ、1918年3月4日 - 1970年5月12日)は、日本の女優。出身。日本における美容体操の草分け。本名は池端 具子(いけはた ともこ、旧姓:岩倉)。
東京府東京市麹町区霞ヶ関(現 : 東京都千代田区霞が関)生まれ。
1925年に小笠原プロダクションに子役として入り、母のペンネームだった小桜葉子を芸名にする。1926年5月、松竹蒲田に入り、子役(令嬢の子供)として主演作もあり大活躍したが、数年で娘らしくなり人気が落ちた。ちょうどその頃、上原謙が松竹へ入りすぐにNo.1の二枚目スターとなった。上原は大人気のスター桑野通子とのロマンスが話題となっていたが、上原を射止めたのは小桜であった。1936年10月、上原と結婚。1937年4月に長男(加山雄三)を出産。
1952年、映画「お茶漬の味」に特別出演している(結婚後のため、上原葉子とクレジットされている)。
1960年代に息子の加山雄三が映画で大活躍している頃、小桜式美容体操の講師として大活躍した。若々しく張りのあるルックスは加山の姉にしか見えなかった。
1970年5月12日死去。満52歳没。
小笠原プロダクション(おがさわら-、1923年 設立 - 1926年 活動停止)は、かつて第二次世界大戦前に存在した、京都の映画製作会社である。子爵小笠原氏の「第七代当主」になるはずだった同家の長男小笠原明峰が設立、自ら、および弟(次男)小笠原章二郎の監督作品を製作した。片岡千恵蔵、古川ロッパといったのちのスター俳優を無名時代に起用、初めて映画に主演させたプロダクションであることで知られる。
堀河 康親(ほりかわ やすちか、寛政9年2月20日(1797年3月18日) - 安政6年9月3日(1859年9月28日))は、江戸時代後期の公卿。おもに仁孝天皇(120代)と孝明天皇(121代)の二代にわたり仕え、従二位権中納言まで昇った。
正二位刑部卿の萩原員幹の子として生まれ、従二位参議の堀河親実の養子となった。正室は勧修寺経逸の娘。子に堀河親賀(子爵)、岩倉具視(明治維新の功臣、公爵)、藤大路納親(男爵)、桜井供親、中御門富子(中御門経之侯爵夫人)、堀河紀子(孝明天皇典侍)がいる。
文化7年(1810年)に元服とともに叙爵。はじめ親孝と名乗ったが、文政2年(1820年)に康親と改名した。文政5年(1823年)仁孝天皇の侍従となり、天保4年(1833年)に従三位に昇進して公卿に列する。安政2年(1855年)に参議となったが、翌年辞し、踏歌節会外弁となる。安政5年(1858年)の安政の大獄の際に八十八卿として子の親賀と孫の康隆とともに連座した。翌年権中納言となるも病のため職を辞し、まもなく病で薨去した。
→群馬
、、、(爆wwwwwwwwwwwww
5 件のコメント:
光進丸が炎上とか蛾こと飛んで火に入る夏の虫で草不可避
ジャニさんとタモリの船も遠いのにわざわざ西伊豆に停泊wお仲間か?
加山雄三@若大将
御仁の象徴でしたねヨットとか船
ヨットやクルーザー
個人所有や共同所有
維持費大変で手放す話も少なくなく
象徴のオワリ
10年前彼は80歳になったら自然エネルギーだけで走る船を造って7つの海を廻りたいと言った。太陽光発電技術が日進月歩過ぎて何度も設計し直しているとか。今年4月で81歳を迎える。火災保険金を原資に新光進丸を造船するか
光進丸20日にも清水港に移送へ
04月19日 19時01分
今月1日、西伊豆町で歌手で俳優の加山雄三さんのクルーザーが全焼した火事で、18日に引き揚げられたクルーザーが20日にも静岡市の清水港に向けて移送されることが関係者への取材でわかりました。
西伊豆町の安良里漁港に係留していた加山雄三さんのクルーザー「光進丸」は今月1日の夜に火が出て全焼し、鎮火後に沈没しましたが、18日に民間のサルベージ会社がクレーン台船を使って、クルーザーを台船の上に引き揚げました。
引き揚げられた光進丸にはブルーシートがかけられ19日、現場では周囲に漏れ出た燃料を回収したり、ダイバーが潜って海底のゴミを拾ったりする作業が行われたということです。
関係者によりますと安良里漁港は水深が浅いため、20日早朝の満潮に合わせてクレーン台船に乗せたままクルーザーを静岡市の清水港に移送するということです。
警察などの調べによりますと、クルーザーは船内の湿気などを防ぐため外部から電源を取ってエアコンを24時間稼働させていて、電気系統の不具合などで出火した疑いがあるということです。
警察や消防などは20日、クルーザーが清水港に到着後、船体を詳しく調べて、出火原因の特定を進めることにしています。
shizuoka/3034077031.html
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