まあ末端はわかり松のようなKYな救いようのないアフォと法則発動体ばっかなんでしゃあないんですよ。(爆wwwwwwwww
籠池氏、維新府議と接触=小学校設置認可で―大阪
時事通信?3/3(金) 12:30配信
大阪府豊中市の国有地が学校法人・森友学園(大阪市)に小学校用地として格安で払い下げられた問題で、学園の籠池泰典理事長が小学校設置の認可をめぐり、地域政党「大阪維新の会」所属の府議会議員と接触していたことが3日、分かった。
籠池氏と面会したのは豊中市選出の中川隆弘府議。中川府議によると、学園が2014年10月に小学校設置認可を府に申請し、府の私学審議会が財務状況などを理由に継続審議とした同年12月の会合後に会った。山口県防府市長からの紹介で、豊中市内で面会し、籠池氏の妻とみられる女性も同席したという。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170303-00000064-jij-pol
松浦 正人(まつうら まさと、1942年9月10日 - )は、日本の政治家。山口県防府市長(5期)。
山口県議会議員(3期)、防府市議会議員(1期)を務めた。
中華民国江西省九江市に生まれ、終戦に伴い日本へ引き揚げ。山口県立防府高等学校、早稲田大学第二政治経済学部卒業。大学卒業後、西武クレジット勤務を経て、家業の製茶業「株式会社松うら」の経営を継いだ。その傍ら、防府商工会議所商業第二部会長を務める。
1980年、防府市議会議員選挙に無所属で出馬し、初当選。1984年、防府市長選挙に無所属で出馬したが、現職の原田孝三に敗れ、落選した。1987年、山口県議会議員選挙に自民党公認で防府市・佐波郡選挙区から出馬し、当選。以後、1998年まで山口県議会議員を3期11年間務める。
1998年、土木業者に便宜供与を図った疑惑が取り沙汰された吉井惇一防府市長が辞職。それに伴う防府市長選挙に山口県議会議員を辞職して出馬し、吉井市長及び新人の竹安由利子を破り当選した。2002年の防府市長選では、前防府市議の原田洋介を破り、再選。2006年の防府市長選では山口市・防府市の合併反対を訴え、新人の元下関市副市長・陶山具史を下し、3選を果たした。2010年の防府市長選では、島田明山口県議会議長の長男・島田教明の挑戦を受けるが、島田を下して4選。
2011年2月、政治団体「とことん防府」を結成[1]。同年4月の山口県議会議員選挙に「とことん防府」推薦で松浦の後援会長である神田義満を擁立し、当選させた。当選後、神田は山口県議会で一人会派「会派とことん」を結成。
2014年の防府市長選挙では、無所属新人の32歳の牛見航、同じく無所属新人72歳の木村練を破り5選を果たした。
2016年9月6日に、全国市長会会長を務めていた新潟県長岡市長の森民夫が、2016年新潟県知事選挙立候補を理由に長岡市長及び全国市長会会長を辞職したために、全国市長会会長が新たに選任されるまでの間、副会長の松浦が会長代理に指名されている[2]。
人物
- 山口県議会議員時代は高村正彦・佐藤信二系列に属し、自民党山口県連総務会長や政務調査会長を務めた。
- 平成の大合併について、当初は山口市・防府市ほか2市4町の合併に向け協議に参加していたが、合併後の市役所の位置をめぐって意見が対立したため、合併協議を離脱。また合併の是非を住民投票の結果に委ねるよう主張していたが、2006年の防府市長選挙では合併凍結を掲げ、官僚出身の新人候補を大差で下して3選。この市長選では、上田清司埼玉県知事が松浦の応援に駆け付けている。
高村 正彦(こうむら まさひこ、1942年3月15日 - )は、日本の政治家、弁護士(登録番号:10863)。自由民主党所属の衆議院議員(12期)、自民党副総裁(第13代)。
経済企画庁長官(第50代)、法務大臣(第70・71代)、防衛大臣(第3代)、外務大臣(第127・141代)、衆議院農林水産委員長、番町政策研究所会長(第3代)を歴任した。
徳山市長、衆議院議員を務めた高村坂彦の四男。
佐藤 信二(さとう しんじ、1932年(昭和7年)2月8日 - 2016年(平成28年)5月3日[1])は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(8期)、参議院議員(1期)。位階勲等は正三位勲一等。衆議院議員永年在職表彰受彰。第61、62、63代内閣総理大臣佐藤栄作の次男。
山口県熊毛郡田布施町出身。東京都立大学附属高等学校を経て慶應義塾大学法学部卒業後、日本鋼管株式会社に入社。
1974年の第10回参議院議員通常選挙で全国区に出馬し初当選。沖縄開発庁政務次官を務める。1979年の第35回衆議院議員総選挙にて、旧山口2区へ出馬し衆議院議員に初当選(当選同期に保利耕輔・畑英次郎・麻生太郎・岸田文武・白川勝彦・丹羽雄哉・亀井静香・吹田あきら・宮下創平・亀井善之・船田元など)。
自民党では父が率いた佐藤派の流れを汲む田中派→竹下派→小渕派に属した。竹下改造内閣で運輸大臣として初入閣。1992年の東京佐川急便事件で竹下派が小沢一郎・羽田孜支持グループと小渕恵三支持グループに分裂すると、佐藤は村岡兼造、中村喜四郎、西田司、野中広務らとともに小渕恵三を支持した。第2次橋本内閣では通商産業大臣を務めた。1998年の自由民主党総裁選挙では領袖の小渕を推す派の意向に反して出馬した梶山静六を支持し派を離脱した。
1994年の公職選挙法改正(小選挙区比例代表並立制施行)以降の選挙では、1996年の第41回衆議院議員総選挙で山口2区に出馬し当選。しかし、2000年と2003年の衆院選では民主党の平岡秀夫に連敗。2003年総選挙では比例中国ブロックで復活当選した。比例名簿では当選最下位であったため、引退した宮澤喜一が終身比例名簿1位のままであれば落選になっていた。
1997年1月の記者会見で「発電、送電事業の分離はタブーとされてきたが、大いに研究すべき分野だ」と電力業界の競争政策に関して発言したことで、電力の自由化の流れの嚆矢となった。
2005年7月5日の郵政国会の衆議院本会議の郵政民営化法案の採決では欠席して造反。同年9月11日の第44回衆議院議員総選挙には出馬せず政界を引退した。通算当選8回(参1回)。なお、急な引退表明をする一方で後継者指名をしなかったため、自民党山口県連は早急に山口2区での候補者選定を迫られることになった。自民党の後任候補は公示9日前に福田良彦を擁立することになった。
政界引退後
2008年2月18日、台湾の陳水扁総統から、日華議員懇談会の前会長として長年・日台友好に寄与した功績として、台湾で外国人議員に贈る最高栄誉の勲章である「大綬景星勲章」を現会長の平沼赳夫とともに授与された[2]。台湾高速鉄道の日本連合受注に大きく貢献した。
2009年12月22日、東京都世田谷区代沢の私邸に保管していた、沖縄返還にあたり有事の際にはアメリカ軍が沖縄に核兵器を非核三原則に違反して持ち込む事を容認する、父・栄作と大統領リチャード・ニクソンの秘密合意書(詳細は日米核持ち込み問題を参照)を公開した(なお、機密文書を持ち帰ったのは栄作である)[3]。
座右の銘を「愚公移山」としていた。
2016年5月3日死去[1]。84歳没。政府は没後、正三位に叙することを閣議決定した[4][5]。
- 父・佐藤栄作(内閣総理大臣)
- 母・佐藤寛子(外相・松岡洋右の姪)
- 兄・佐藤龍太郎(JR西日本取締役などを務めた)
- 妻・和子(東京ガス会長・安西浩の長女)
- 女婿・阿達雅志(公設秘書・参議院議員)
- また、娘(阿達と結婚した娘かは不明)は1980年代後半日本テレビの記者を務めていた[6]。
- 伯父・岸信介(内閣総理大臣)
- 従兄・岸信和(信介の長男、西部石油会長)
- 従姉・安倍洋子(信介の長女、安倍晋太郎の妻、安倍晋三・岸信夫らの母)
ご愁傷様です。(爆wwwwwwwwwwwww
2 件のコメント:
加計 鉄山、秦氏 キリスト人脈(YMACA)、福沢諭吉・・・
SID総研 丸善、福沢諭吉、横浜〇金銀行・・・
国際医療〇〇大学 慶応、日野原、笹川、東大、癌・・・
森友 教育勅語、瀬戸内海人脈・・・
岸信介 北村サヨ
コメントを投稿