崔太敏
崔 太敏 (チェ・テミン、朝鮮語: 최태민、1912年5月5日 - 1994年5月1日) は、大韓民国の宗教家、社会事業家。
黄海道生まれ[1]。日本統治時代に警察官を務め、光復後僧になったという[1]。6回結婚し、複数の偽名を使っていた[2]。
1970年代初め、仏教・キリスト教・天道教を総合した新宗教「永生教」の開祖となった[1][3]。のち永生教の看板を下ろし、1975年4月、宗教団体「大韓救国宣教団」を創設し総裁に就任、朴槿恵を名誉総裁に迎えた[1][3]。1979年、この団体を「セマウム奉仕団」に改称、地域・大学・企業内に支部を作り急成長させていった[3]。
朴正煕政権時代、青瓦台に自由に出入りし権勢をほしいままにしており、『韓国のラスプーチン』ともよばれていたという[4]。1977年9月、大韓民国中央情報部(KCIA)長金載圭の報告をもとに、不正容疑などのため朴正熙大統領から直接尋問されたものの、司法処理は免れた[1]。
五女は実業家崔順実[1]。
崔 徳新(チェ・ドクシン、1914年9月17日 – 1989年11月16日)は、大韓民国の軍人・政治家、朝鮮民主主義人民共和国の政治家。
1914年、平安北道義州に生まれる。父は、金日成が通っていた満州の樺成義塾の校長である崔東旿。
崔東旿が中国に亡命したので、崔徳新は9歳の時に母と共に中国に渡り、父を探して流浪した。中央陸軍軍官学校第10期を卒業した後、国民政府軍事委員会でドイツ語を翻訳し、ほどなく下部部隊の作戦参謀となる[2]。光復軍が創設されると宣伝課長に就任[2]。太平洋戦争勃発後に新編第38師新兵営営長、のちに新編第1軍参謀[2]。終戦後は中国軍を退役して光復軍華南韓籍士兵集訓総隊長として武装解除した日本軍から約3千名の朝鮮籍兵士を集め、彼らを引き連れて帰国した[2]。
帰国後は、1947年春に警備士官学校(特別組3期)[3]に入学し、僅か2ヶ月で南朝鮮国防警備隊の少尉に任官した。その後少佐に特進し、大田の第2連隊長に任ぜられた。大田滞在時に中佐に昇進し、連隊長の任期を終えた後は陸軍士官学校の校長に就任した。この当時の生徒に朴正煕がいる。その後はアメリカへ渡り、1949年にフォート・ライリーの陸軍幕僚学校(初等軍事組)、1950年にはフォート・ベニングの陸軍歩兵学校(高等軍事組)をそれぞれ卒業した。帰国後には、第1軍団参謀長、第8師団長を歴任。1950年10月から第11師団長として後方のゲリラ討伐を担当。この時、崔徳新は堅壁清野戦術を実行した。1951年2月には、第11師団は居昌良民虐殺事件や山清・咸陽良民虐殺事件を行った[4]。これが原因で師団長職を退いた。
1953年4月、休戦会談韓国代表。停戦協定の調印では李承晩の命令に従って、署名の寸前で席を蹴って退席した。そのため韓国側の署名は無い。
休戦後、第1軍団長に就任。この頃、父崔東旿は北朝鮮に渡っており在北平和統一促進協議会執行委員兼常務委員などの要職に取り立てられていた。自身への追及を恐れた崔徳新は父は拉致されたと主張した[5]。第1軍団長を最後に予備役へ編入。
退役後は越南工作を行っていたが、5・16軍事クーデターが勃発。維新勢力と関係の深い崔はクーデターを支持し、維新勢力の正当性のための東南アジア方面の親善使節団を担当した。これにより外務部長官へと取り立てられ韓日外相会談に参加したが、実質的な交渉は金鍾泌が握っていたとされる[5]。名ばかりの官職に嫌気がさした崔は駐西ドイツ大使に赴任し朴大統領とハインリヒ・リュプケ大統領との相互訪問を実現させたが、在任中東ベルリン事件が発生した。
統一院顧問、駐ベトナム公使、韓中日報社長などを歴任する傍ら、宗教方面に影響力があった父の縁で天道教教令に就任、信者の票を集め1971年大韓民国大統領選挙に貢献したが、やがて維新憲法の発布により宗教的サポートの必要がなくなり融資は絶たれた。金大中事件と文世光事件を経ていよいよ朴正煕への疑念は深まり、日本、台湾を経て弟のいるアメリカへ亡命した。
1977年11月18日、東京で「朴正煕政権の民族抹殺政策と売国的な軍事ファッショポリシーを糾弾する」との声明を発表。
亡命後、崔泓熙を通して北朝鮮へのシンパシーを強めるようになる。1986年4月に、妻の柳美英と共に北朝鮮へ渡り、以降は天道教青友党中央委員長、祖国平和統一委員長、朝鮮宗教人協議会長、最高人民会議代議員など多くの要職を歴任し、祖国統一賞も受賞した。
現在、遺体は愛国烈士陵に埋葬されている。
天道教青友党(てんどうきょうせいゆうとう、천도교청우당, Cheondogyo Cheongudang)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の政党である。
朝鮮半島固有の宗教的思想である天道教(東学)信者の農民が中心になり、1946年(主体35年)2月1日付で天道教北朝鮮宗務院が発足した。本党は宗務院の傘下で、同年2月8日付で結党された。外国帝国主義の侵略・従属への抵抗と、民族自決主義と民主国家の確立を目指すというポリシーを掲げていた[1]。
崔 泓熙 (최홍희、1918年11月9日 – 2002年6月15日) — 崔将軍としても知られる — は、テコンドーの創始者として知られる武道家。韓国陸軍少将としての経歴を保持する。松濤館流空手道二段、テコンドー9段。(テコンドーの段位表記はWTF・ITFともに全て数字)創氏改名による日本名は西山雄石[1]。
、、、(爆wwwwwwwwwwww
3 件のコメント:
蒙加の星
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"Abe must learn from Nakasone" Sejima
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