2016年8月24日水曜日

両陛下@上田


の続きですかねえ・・・

両陛下が空気を読まれて恥を忍ばれてまで日本国民のためにご老体に鞭うたれながらConfessionにはげまれておられるのに、末端サマナどもときたら未だにわるあがきしまくりなわけで・・・

静養中の両陛下、旧常田館製糸場を視察

20日から長野県の軽井沢町で静養中の天皇皇后両陛下は23日、かつて養蚕が盛んだった長野県上田市を訪問し、明治時代に建てられた重要文化財の旧常田館製糸場を視察された。明治・大正の隆盛期には従業員が敷地内で暮らし、病室や娯楽室も併設された近代製糸工場の特徴を示すこの建物群は、国の重要文化財に指定されている=(C)NNN
2016年8月23日公開
http://www.yomiuri.co.jp/stream/?id=04844

天皇皇后両陛下 長野県で養蚕資料館を訪問

8月20日 17時14分

天皇皇后両陛下は、20日、静養のため訪れた長野県で、養蚕などに関する資料館を訪ねられました。

両陛下は、午後1時すぎ、長野県のJR上田駅に到着されました。天皇陛下が、「生前退位」の意向がにじむお気持ちの表明後、地方を訪問されたのは初めてで、駅前には1000人を超える人たちが集まり、両陛下は、大きな歓声に笑顔で手を振って応えられました。

このあと、両陛下は、かつて養蚕が盛んだった上田市にある、信州大学繊維学部の資料館を訪ねられました。この建物は、明治43年に養蚕や製糸に関する全国初の高等教育機関として設立された上田蚕糸専門学校の倉庫などとして使われていたもので、当時の教材や養蚕の歴史に関する資料などおよそ90点が展示されています。

両陛下は、蚕の卵をかえすための機械や、幼虫になるまでの過程を示した模型などを熱心に見て回られました。毎年、皇居で養蚕に取り組んでいる皇后さまは「卵がかえるのにどれくらいの日にちがかかるんですか」などと、担当者に盛んに質問されていました。両陛下は、今月30日まで、長野県の軽井沢や群馬県の草津で静養する予定で、このあと、車で軽井沢町に向かわれました。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160820/k10010644031000.html






長野県のご先祖調べ

令制国の信濃国にほぼ相当します。(旧神坂村・旧山口村が岐阜県中津川市に編入)
古代は「科野(しなの)」の文字を用いています。

■戦国期以前の長野県
南北朝時代の信濃国は、南朝方の諏訪氏や仁科氏・香坂氏らと北朝方の小笠原氏や村上氏との間で抗争が繰り広げられ、 応永7年(1400)「大塔合戦」では守護小笠原氏と村上氏を中心とする反守護勢力の在地豪族との間に争いがありました。
そこに、足利幕府と鎌倉公方、鎌倉公方と関東管領との対立が加わり複雑な対立関係がつくられていました。
そのため信濃国では強力な支配権を持つ戦国大名が成長できず、信濃国守護の小笠原氏も一族内での対立もあり一つの地域勢力に留まりました。
主な勢力としては、越後長尾氏と縁戚関係を結ぶ高井郡の高梨氏(中野城)、埴科郡の村上氏(葛尾城)、関東管領上杉氏の被官である小県郡の海野氏・真田氏(戸石城)、 佐久郡の大井氏(岩村田城)・伴野氏(大井城)、安曇郡の仁科氏、諏訪大社の信仰を背景とする諏訪氏(高島城)、 信濃国守護職の小笠原氏(林城)、木曽谷を領す木曽氏(福島城)、伊那郡の保科氏(高遠城)・伊那小笠原氏(松尾城)・知久氏(神之峰城)があります。

戦国時代も後半期になると、甲斐武田氏が侵攻し武田信玄の代には信濃国の大半を制圧、信濃北部の諸豪を援助する越後上杉謙信との攻防が繰り広げられます。
信玄、謙信の死後、織田信長が信濃国を制圧し、「本能寺の変」で信長が死ぬと徳川氏・北条氏・上杉氏の勢力が進出します。 その後、豊臣秀吉が天下を取り、徳川家康は関東に移封され信濃は豊臣方の武将の支配下になりました。

現地調査では、武田信玄・上杉謙信時代の古記録や伝承を見聞きできます。 信玄は甲斐(山梨県)ではヒーローですが、信濃では征服者ですから特に佐久地方では悪役で通っているようです。
http://www.kakeisi.com/survey/survey_nagano.html














武者小路 実篤むしゃのこうじ さねあつ、1885年明治18年)5月12日 - 1976年昭和51年)4月9日)は、日本小説家詩人劇作家画家貴族院勅選議員
姓の武者小路は本来「むしゃのこうじ」と読むが、のちに「むしゃこうじ」に読み方を変更した[1]。しかし、一般には「むしゃのこうじ」で普及しており、本人も誤りだと糺すことはなかったという。
仲間からは「武者」(ムシャ)の愛称で呼ばれた。文化勲章受賞。名誉都民日本芸術院会員。贈従三位(没時叙位)。

東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)に、藤原北家の支流・閑院流の末裔で江戸時代以来の公卿の家系である武者小路家に武者小路実世子爵の第8子として生まれた。2歳の時に父が死去。子供時代は作文が苦手だった。
学習院初等科、同中等学科、同高等学科を経て、1906年(明治39年)に東京帝国大学哲学科社会学専修に入学。1907年(明治40年)、学習院の時代から同級生だった志賀直哉木下利玄らと「十四日会」を組織する。同年、東大を中退。1908年(明治41年)、回覧雑誌『望野』を創刊。1910年(明治43年)には志賀直哉、有島武郎有島生馬らと文学雑誌『白樺』を創刊。彼らはこれに因んで白樺派と呼ばれた。実篤はトルストイに傾倒したが、その彼はまた白樺派の思想的な支柱だった。1916年大正5年)には、柳宗悦志賀直哉が移り住んでいた現在の千葉県我孫子市に移住した。
理想的な調和社会、階級闘争の無い世界という理想郷の実現を目指して、1918年(大正7年)に宮崎県児湯郡木城村に「新しき村」を建設した。しかし同村はダム建設により大半が水没することになったため、1939年(昭和14年)には埼玉県入間郡毛呂山町に新たに「新しき村」を建設した。但し実篤は1924年(大正13年)に離村し、村に居住せずに会費のみを納める村外会員となったため、実際に村民だったのはわずか6年である。
この両村は今日でも現存する[2]。 同村のウェブサイトでは、実篤が村外会員になって文筆活動に専念した事を好意的に受け止めている。実際に実篤が村民だったころの活動は離村後の彼の執筆に 多大な影響を及ぼしたといわれており、また同村にとっても実篤が事実上その象徴的役割を果たしたことは否めず、両者は今日に至るまで言わば持ちつ持たれつ の関係にあると見ることもできる。
1936年、ヨーロッパ旅行中に体験した黄色人種としての屈辱によって、実篤は戦争支持者となってゆく[3]。1941年の太平洋戦争開戦後、実篤はトルストイの思想に対する共感から発する個人主義や反戦思想をかなぐり捨て、日露戦争の時期とは態度を180度変えて戦争賛成の立場に転向し、戦争協力を行った[4]
1946年(昭和21年)には貴族院議員に勅選されるが、4ヶ月後には太平洋戦争中の戦争協力が原因で公職追放された。1948年(昭和23年)には主幹として『』を創刊し死去する直前まで関った。1951年(昭和26年)には文化勲章を受章している。晩年には盛んに野菜の絵に「仲良きことは美しき哉」「君は君  我は我なり  されど仲良き」などの文を添えた色紙揮毫したことでも有名だった。

1976年(昭和51年)4月9日、東京都狛江市にある慈恵医科大学付属病院で尿毒症により死去。満90歳だった。晩年の20年間居住した調布市の自宅敷地および建物が、没後に「実篤公園」「調布市武者小路実篤記念館」として公開されている[5]







  • 「太平洋戦争期においても、武者小路の天皇に対する愛と尊敬は一度も変わったことがなかった。戦争中、武者小路は転向し、戦争に賛成し、協力したのである。これは小さい時から彼の心に滲みこんだ愛国思想と強い国家意識にかかわる」(夏艷文『武者小路實篤自我思想的形成』)


  • →戦争推進派




    http://tokumei10.blogspot.com/2016/08/blog-post_627.html?showComment=1471950563601#c6085586228236179364
















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    世界連邦運動界隈の人脈に関し圧倒的情報量を誇る日本プロファイル研究所さん・・・
    しかしですね、肝心の・・・


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    に関する情報が少なすぎるような・・・(爆wwwwwwww





    、、、(爆wwwwwwwwwwww



    12 件のコメント:

    匿名 さんのコメント...

    武田氏も小笠原氏も村上氏も源氏なんだけど

    てんこもり野郎 さんのコメント...

    site://tokumei10.blogspot.com 河内 武田
    site://tokumei10.blogspot.com 河内 小笠原
    site://tokumei10.blogspot.com 河内
    site://tokumei10.blogspot.com 河内ライン

    匿名 さんのコメント...

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A8%E5%AE%AE_(%E6%9B%96%E6%98%A7%E3%81%95%E5%9B%9E%E9%81%BF)

    山梨県に多い姓。信濃国埴科郡屋代郷雨宮(長野県更埴市雨宮)発祥。清和源氏村上氏流。
    甲斐に移り、代々武田氏に仕えた。

    山梨出身の雨宮知子さんwww
    声優のXもといテンこと天ちゃんも親戚なんでしょうかね(笑)

    匿名 さんのコメント...

    養蚕 製糸場 結核

    匿名 さんのコメント...

    養蚕 貧民 労働力

    匿名 さんのコメント...

    シルクの需要の掘り起こし

    匿名 さんのコメント...

    シルク価値創造ジャパンビジョン具現化検討委員会

    匿名 さんのコメント...

    皇后さまのご養蚕--日本の絹を考える 暮しの手帖

    暮しの手帖 皇后陛下

    匿名 さんのコメント...

    "日ソ東欧貿易協会" "世界連邦"

    匿名 さんのコメント...

    >てんこもり野郎様

    河内源氏について理解できました。ありがとうございます。上田市→大江氏→毛利の流れかと思っていました。

    しかし、徳川家も源氏と言うよりは服部家→桓武平氏の流れですね。びっくりします。

    匿名 さんのコメント...

    平均:"平"家による国民の"均"質化
    平等:"平"家の"等"輩(お仲間)
    平凡:"平"家による"凡"夫量産

    人はァ!平等ではない!!wwwwwwwwwwwwwww

    匿名 さんのコメント...

    「内平かに外成る」

    ほんとに嘘ばっかり。
    公約違反のアキヒトさん早く辞めてよ。
    black mariaも含めあんまり顔見たくないし。