Mutsuhiro Watanabe (渡辺むつひろ, circa 1918 – April 2003), POW-given nickname, "The Bird", was an Imperial Japanese Army sergeant in World War II who served at POW camps in Ōfuna, Naoetsu (present day Jōetsu, Niigata), and Mitsushima (present day Hiraoka). Watanabe was classified as a war criminal following the war for his abuse of prisoners of war (POWs) held by the Japanese military.[1]
The fourth of six children, Watanabe, was born into wealth, with his family owning hotels and mines. He was educated at Waseda University, where he studied French literature. He worked at a news agency for only a month before enlisting in the army. There he expected to become an officer, like one of his older brothers - and it was his failure to achieve this that appears to have been behind some of his cruelty.
Prison guard
Watanabe beat POWs every day, fracturing their windpipes, rupturing their eardrums, shattering their teeth, tearing one man’s ear half off, leaving men unconscious. He made one officer sit in a shack, wearing only a fundoshi undergarment, for four days in winter. He tied a sixty-five-year-old POW to a tree and left him there for days. He ordered one man to report to him to be punched in the face every night for three weeks. He practiced judo on an appendectomy patient.[2]Watanabe openly admitted getting a sexual thrill from beating prisoners. Additionally, he had unceasing mood swings. One minute he would be beating a prisoner, and the next he would be handing them fistfuls of candy and cigarettes.[2]
Louis Zamperini
Watanabe took a special interest in American track star Louis Zamperini. Zamperini was a legend to the villagers of Ōfuna, Japan, and Watanabe felt that Zamperini challenged his authority for that reason. Once he made Zamperini hold a heavy wooden log over his head for over 37 minutes, at the end of which Watanabe punched him in the stomach. "The Bird" would later haunt Zamperini's dreams, causing him to shake and sometimes even lash out. The Japanese word "Keirei" (salute) was used extensively by Watanabe to get the POWs to stand at attention while he beat them. Zamperini would sometimes mistakenly hear this word and stand at attention, awaiting the beating.[2]War criminal
In 1945, General Douglas MacArthur included Watanabe as number 23 on his list of the 40 most wanted war criminals in Japan. Watanabe went into hiding for seven years and was never prosecuted. He reemerged into society only after war crimes prosecutions were stopped and the U.S. Occupation of Japan was ending. During his time in hiding, Watanabe worked on a farm and in a small grocery store. He also visited his mother at a restaurant every few years to let her know he was alive. In 1956, the Japanese literary magazine Bungeishunjū published an interview with Watanabe titled "I do not want to be punished by America."[2]Later life
Following the Occupation, Watanabe became a life insurance salesman and was reportedly wealthy, owning a $1.5 million apartment in Tokyo and a vacation condominium on the Gold Coast of Australia.[2]Prior to the 1998 Winter Olympics in Nagano, the CBS News program 60 Minutes interviewed Watanabe at the Hotel Okura in Tokyo as part of a feature on Zamperini, the former war-time prisoner who was returning to carry the Olympic Flame torch through Naoetsu en route to Nagano. Watanabe did not apologize in the interview but acknowledged beating and kicking prisoners. "I wasn't given military orders. Because of my own personal feelings, I treated the prisoners strictly as enemies of Japan."[3] Zamperini forgave Watanabe and wanted to meet with him, but Watanabe declined the meeting.[4]
Watanabe died in April 2003.[citation needed]
Legacy
Watanabe's abuses are detailed graphically in the Laura Hillenbrand's book about Zamperini titled Unbroken: A World War II Story of Survival, Resilience, and Redemption (2010).[5] In 2014, Japanese musician Miyavi played Watanabe in Angelina Jolie's Unbroken, film adaptation of Hillenbrand's book.[6]
1981年9月14日、日本人の母親と日本に帰化した元在日韓国人二世の父親の間に大阪市此花区西九条で生まれる。
因みに現時点でMIYAVIさんの日本語WIKIには渡辺むつひろさんに関する記載は見当たらないわけで・・
此花区 - Wikipedia via kwout
早稲田大学OBでバブル期にゴールドコーストで暗躍されてた「渡辺むつひろ」ってもしかして・・・(爆wwwwwwwwwwwwwwww
、、、(爆wwwwwwwwwwwww
92 件のコメント:
ラーメン店「一風堂」の海外展開支援に20億円 クールジャパン機構www
産経ニュース 2014.12.8 18:34
クールジャパン機構は昨年11月に発足。吉本興業への出資wwwなどを決めており、選定案件は今回で計8件となった。「食」への投資は初めてとなる。
http://www.sankei.com/economy/news/141208/ecn1412080029-n1.html
でバード渡辺はなんで名前はつのだひろみたいなひらがななの?伍長とかまでわかってるのに?
ピックなしで刺青だらけの石原貴雅サン
SMAPで印税潤えてるんすかね?
真田博之みたく睦裕って書くんだと日本ではこうだと教えたったらいいのに
ごーまるさん がゴーマディソンにしか聞こえなかった旦那共々
夫婦で毒日煽りご苦労さまです
チャイナボカンマネーじゃんじゃん使って日本の膿をどんどん晒したってくださぃ
そういやバブルの頃オーストラリア買いあさったり、高橋治則とかあの界隈よく知らないんだよね~
site:www.npr.org/ Unbroken Zamperini
Faith: Louis Zamperini reads his Letter to the Bird
https://www.youtube.com/watch?v=_rHWZQdjfHQ
http://books.google.co.jp/books?id=MmJjSbl51HwC&printsec=frontcover&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false
不氣味なブラックリスト
昭和二十年、日本が敗戰の泥沼に一歩一歩沈みゆく頃、こゝ大森俘虜収容所では、連日のB29の飛來に俘虜たちは終戰の近きを知ってか、その態度も日増しに傲慢になってきた。
ある日のことであった。所長から俘虜たちの私物検査を命ぜられた私は、英軍の一老將校が寝臺のマットに何やら縫いこんでひそませているのを発見した。その書類を取り出してみた時、彼はなんとも云えない薄氣味の惡い冷笑を私に浴びせかけた。それは日本軍将兵軍属に関する細部に亙るブラック・リストであった。
私は陸軍軍曹であった。當時俘虜はジュネーヴ條約に因って我が軍に保護収容されていた。國籍も種々雜多であったが主に英、米俘虜を収容し、階級も將校、下士官、兵とそして民間人も少し居た。私は之等の俘虜達と起居を共にしていた。彼等の數は多少の移動はあったが常時六、七百名位であったと思う。
下士官、兵隊は幾つかのグループに分れ毎朝トラックで夫々の仕事場へ運ばれ労働に従事していた。將校達は所内で輕作業と農園造りをやったり讀書とかトランプ遊びで時を費やしていた。
私は彼等の勞働關係に関する殆ど全般にわたる業務を課せられ、毎朝出てゆく彼等の點檢や監督と日本看視員に對する指導に當った。それが濟むと手紙の檢閲や情報の収集や俘虜連絡將校への命令傳達などに没頭していた。
三年に亙る勤務の間、私は直接これら俘虜達との折衝に當る者として彼等からは強大な権力者として見做される立場にあった。どんな些細なことでも私の耳にはいり目にはいった。言語、習慣の異なった敵國人との間に当然起るべくして起った摩擦もあった。私達も軍隊で命令を受け動いている以上、より多くの制約を受け、規律を維持するに必要な嚴格さも要求せられた。
また私に突飛な甘言を呈する者もいた。日本は必らず負けるのだから自分に條件のよい待遇を與えて呉れゝば、アメリカで生活させてやるというような種類であった。
それから数カ月経たずして終戰となった。
俘虜たちのガラスのような目は強く私たちの心を射るようであった。そうした収容所勤務の者たちは死の影におびやかされ、自分たちは戰犯者として指名裁判にかけられるという噂でもちきりになった。
自由を奪われ敵國に俘囚の身となった彼ら!その彼らはいまや勝者の立場に逆轉したのだ。彼らは憎惡と怨恨のまじった目付で顔面には殺氣がみなぎってきた。彼らは屹度復讐するにちがいない。それとともに私たちは死の恐怖にとりつかれてきた。
戰いは負けたのだ。凡ては零だ。上層部は愚か一兵卒に至る迄彼等は容赦しないだろう。私達の不安と恐怖が現実の姿となってくるのも間近いことに違いないとも信じた。私達の勤務の性質から云っても到底極刑は免れ得ないだろう。そう考えると私は絶對に彼らに捕われ、戰犯裁判に引張り出されるのはごめん蒙りたいと決心した。
逃亡するのだ!時が解決するまで逃げるのだ。これが不法の裁判をのがれる唯一の方法でもあると思った。逃げとおせるかどうか疑問を抱く餘裕も判斷も出來ないまゝに、たゞ一途に逃げたいと居ても立っても居れない状態だった。俘虜達の冷たい目にとり圍まれたあの日は全く地獄の一日だった。夜の點呼も早々に切り上げて寢苦しい、味わったことのない一夜が明けた。二、三日經って収容所長の至急命令で、東部二部隊(近衛歩兵第一聯隊)へ原隊復歸することになった。部隊の上空にはアメリカ戦闘機が心憎いまでに亂舞していた。
私は腹が立つばかりで日本軍隊の崩壊を前にしては、誰も私を保護し誰をも信頼することが出來ないことを悟った。二週間後になって私は、母が鑛山事業をやっていたので、産業再建という名目で復員出来た。
やっとの思いで疎開地の小さな町日下部へ歸宅を許され飛ぶようにして歸っていった。
母親と妹が快く迎え入れてくれた。久し振りでの家族との生活で、心の温まる思いをしたが、何日とも續かないだろうこの生活も二三日で諦めて家を飛び出ることにした。
母には友人の墓参りに行くと稱していたが、妹には内々危険な身であることを知らせて置いた。その晩、身の廻り品と金を若干用意して家を去った。出る間際、妹が何を思ったのかトランプを手渡してくれた。私は獨りで占うトランプ遊びが大好きだった。戀占いなど他人によくしてやったが、これがまた奇妙に當った。じっとみつめた瞳が、私の運命を豫感したかのようにうるんでいた。
えゝい、まゝよ!と日下部驛から出る貨物列車に身を託した。
眞暗な貨物列車に寢轉んでこの車の方向が運命を決するのだと獨りつぶやいた。自分で豫測も判斷も出來ないこのような事態にあって、將来のことを今からクヨクヨを神經を尖らせても如何に無駄であるかを知った。出たとこ勝負で身を處そう。何とかなるだろう。逃亡というサイコロは既に振られたのだ。こういう考え方がやっと私に落着きを取り戻してくれた。
私は何の理由もなくこの車が遠い見知らぬ寒村の驛に運んでくれることを希望し、期待していた。ところが私を乗せた列車は二つめの驛で停車し動こうとしなかった。降り立った處は甲府驛で、終着になっていた。軽い失望を感じたが、その晩は驛で終戰の混雜した人達にまじって睡ってしまった。翌朝あてのないまゝ甲府の街をブラついていた。正午のラジオ・ニュースで東條以下七名を戰犯容疑者として逮捕する旨のニュースを耳にした。その七名の最後に私が指名されていた。豫想はしていたがまさか東條大將と同時に指名されようとは思ってもいなかった。
このことは確定的に死を宣告されたも同様なもので、恐怖のドン底につき落とされた感じがした。またその反面この決定的な發表で、私は今迄の得體の知れぬ不安と恐怖の状態から解放される自分を知った。今後これからの行動の一切は自分獨自の判断と計畫が成功・不成功の鍵となるのだと思うと一種の安堵感にも似た決心と闘爭心をもたせた。
死の暗い影
「沈黙と忍從」私はこの掟を破らないよう心に誓つた。さうでないと到底逃亡に成功しないことを知つていた。それには時間だ。もろもろの人間の業を呑みこみ、押流す、時の經過が解決もし、解答もするだらうと思つた。そしてこの不可解な時の流れが私の唯一の見方であると信じることにした。
目先の計畫を立てるため、最初に人里離れた温泉宿に身を落着けることに決め、地圖を擴げてみた。長野縣の萬座温泉が目についた。温泉宿や素朴な農家の人達で案外混雜していた。こゝでは見知らぬ人達がすぐ氣安くなり、隣人同士の氣持になつた。これらの人達には終戰の悲惨な氣持も深刻な表情もなく、他人事のように敗戰の事柄を語り合つていた。私の死の影もこゝでは随分薄らぎ、緊張した感情をやわらげてくれた。
そしてこの人達の善意にすがつて農家にはいりこもうと考えついた。私は逃亡者として第二の男をつくることにし、姓名を變え、ここで始めて生きるための計算をやり始めた。姓名は平凡なものに限ると思つて、「大田三郎」と名付けることにした。
私は東京の戰災者になりすました。身寄りのない獨り者で、ちよつとは学問したことを云いふらし宿の評判をとつた。次に金持らしい人の好さそうな隱居さんに殊更近づき話しかけた。隱居は私の體格に目をつけ、「お前さんは俵の一俵か二俵かつげやすかい、お百姓仕事は力が要りやしてナ」と云つたりした。幸い體格も五尺六寸十八貫あつてラグビーの選手もしたことのある私が、力持であることを難なく信じてくれた。私は下男として全力を盡すことを條件に、一緒に山を下ることになつた。
そこは長野縣の小海線に沿つた小さな町から、山あいを一里ほどはいりこんだ處で、戸数も五、六十戸の部落であつた。家は部落一の物持の農家で、小さな製粉機械もあつた。
人手も必要だつたし、下男の一人や二人置いても何の不都合も感じない、どつしりとした家構えであつた。私は當分、食と住との心配から脫れることの出来ることを心から喜んだ。
この隱居は今では亡き人になつたが、私にとつては終生忘れ得ぬ老人で、人を疑うことを知らない善意に滿ちあふれた、温情のあふるる人柄であつた。何か考え事をする時いつも義齒をクルックルッといわせていた。そして無駄口を叩かず、人の顔を正面からじいつとみて話しをした。年の頃は六十七か八で、でつぷり太つていて、腕などは何かの木の根のように太かつた。土に長年親しんできた人特有の頑固さと意地を持つていた。
食と住を得た安心感で幾日かが過ぎた。ほつとする間もなく、次に迫つてきたのは精神的な重荷と壓迫であつた。それは私だけが獨り自由な身で大氣を吸つていることのうしろめたさであつた。勞苦を共にした戰友や上官の辿るべき運命を想つた時、共に出頭すべきでないかという問題であつた。そのことが死の刑罰よりも深く、私の心を責めた。
追われる者特有の、犯罪者的心理と罪悪感とでもいえようか。戰爭は既に終つたのに、形のない、なにものかと闘わねばならぬ自分の境遇にひどい悲しみと憤りを覺えた。
そうして私は幾分の自虐の氣持から日中の勞働に人一倍働き、クタクタになるまで肉體をこき使うことにした。このことは案外効を奏し、夜は深く安らかな眠りを與えてくれた。私は生れて始めて藁ブトンの温かさを知り、農家の單調で平和な、そして素朴な生活を味わい、知つたのであつた。
一カ月というものは無我夢中で何のこともなく過したが、念頭からは死の暗い影をどうしても拂い切れなかつた。無口になり何かにとりつかれたように、考え込んでいる私の姿におかみさんがいつしか不審の念を抱き、不安な眼で眺めていることに氣がついた。
私は偽りの姿を一日も早く告白したい氣持にかられた。隱居の善意と同情にすがつてみれば成功するかも知れないと、ある晩、彼にそつと告白したのであつた。
老人は爐邊の殘火をみつめながら、黙つて聴いてくれた。例の義齒をクルックルッと云わせるだけであつた。別段愕きの色も現わさず居てもよいとも云わなければどこかへ行つてくれとも云わなかつた。たゞ「わつしは小さい時から口は禍のもとだとよく聞かされやしたが、輕くすべらすでネェ」と云つたきり、そつぽをむいてしまつた。
嚴しい追及の手
この邉鄙で平和な村にもC級戰犯裁判の模様をラジオで放送する日がやつて來た。
各人の罪状をこまかに語る日が何日となく続いた。私は無表情な顔でニュースを聽きながらも、家人の様子がどういう風に變つてゆくかを細心の注意でみていた。
知つてか知らずか、家人は私が近くに居る時は氣を利かすようにスヰッチを切るとか、素知らぬ顔で雜用を足していた。
私もこれに對し何の辯解も意見もはさまず、無視したような態度ですましていたが、逃亡者としての、暗い惨めな恐怖に戰く自己をみせつけられた。それに毎日の新聞は人類の敵として容赦なく非難し、私の精神をバラバラに嚙みくだき始めた。私はこれに抵抗するほど 强靭な精神力を持ち合わさなかつたが、たゞ私達だけのことは私達だけが一番よく知つているのだと、諦めともなぐさめともつかぬことを、自分に云い聞かせてこれらの人達に合掌した。
そしてこれらの放送や報道からも、私は神の裁きを受けても勝者の裁きには、絶對納得がゆかないぞと叫びたたくもなつた。
ある日、縁側で家人とお晝の雜談をしいる時、村の駐在が廻つて來た。年とつた人の好さそうなお巡りさんであつた。私は始め、戸籍調べかと思つていた。田舎の慣し通り、お茶と香物を添えて出すことにした。
「なあーにね、戰犯ちゅうもんが、まぎれこんでいはしねえかと、この先の開拓團までゆくだニイ」私はさり氣なく「それは御苦勞なこつてすナ」とつぶやくように云つてそつと顔をうかゞつた。「職務とは云いながら、辛うゴワスよ」と云いつ、胸のポケットから三枚の寫眞をとり出して私達に見せた。
その一枚にまぎれもなく私のうすぼんやりとした兵隊姿があつた。が、今の私と似ても似つかぬ寫眞なので、老人やおかみさんすら氣がつかなかつた様子であつた。
まさか當人と話していると氣づかぬこの老巡査は「手配ちゅうのもんは全國的でやしてね、一應行くだけは行かねばなんないでやすよ」と澁い茶をすゝつて煙草に火をつけた。
隱居は相變らずクルックルッと音を立てるだけで眉一つ動かさなかつた。その顔つきはよく奴らが使つていたポーカーフェイスという感じであつた。それから暫く雜談してお巡りさんは「莫迦な戰爭をやりおつたもんですわい」と云いながら、腰を上げ開拓團の方へ行つてしまつた。私はお巡りさんの後ろ姿に、拜みたいような氣持で一杯になつた。
追及の手がこんな邉鄙な村までのびていることを知つて、さすがその晩はよく眠れなかつた。その夜から再び身の切迫した危険を 强く感じ逮捕即ち死という想念にわけもなくとりつかれてしまつた。家人も察したらしく、心配と迷惑な表情で沈み勝ちになつてきていた。
襲い來る郷愁
嚴しい冬も過ぎ、暖かい陽ざしが照り出した頃、この家の若主人が小商賣をし始めたので、これを手傳うことになつた。
それは下町の仕事場で作る革製品の下駄の鼻緒類を、遠くに賣込みに歩く外交の仕事であつた。私は未だ旅をして歩くことには幾分の危険を感じたが、自分の都合ばかり考えることは許されなかつた。リュックに一杯つめて秋田新潟方面の露天商とか下駄屋に卸して歩いた。
人に會う機會も多くなつたので、ヒゲをたて、眼鏡を用いて變装した。私は異つた土地を轉々と歩くことが何となく樂しくなつて來た。
歩き廻つた土地の人々達の聲も色々あつた。「個人の罪にきせるのは氣の毒だ」とか「凡て戰爭が生んだ悲劇だ」とかいう反面「日本軍もひどいことをやつたもんだ」とか非難や懺悔の入りまじつた聲も一杯だつた。その頃の私の心境は、これらの人達に影響されたり支配されたりするほど、弱々しいものではなかつたので、好んでそういう人達の批評や非難を默つて聽くことにしていた。そして刈り取られる雜草も、春になれば萠えだすにきまつているのだとも思つたりした。
こうした話から見知らぬ人達の間で戰犯容疑者が逮捕されてゆく様子をきかされ、警察の活動と状況を知ることが出來た。
私の家族、親戚、知己にどんな壓迫があるかも想像出來たが、獨りの男が生きるか死ぬかの瀬戸際と思つて、暫らくの間目をつぶつて許してくれるように祈つた。
いつの日か屹度、笑顔で暮せる時もあるであろうとはかない希望の灯をもつていたからだ。
しかし家族、知己、のことを想うと、猛烈な郷愁を感じ、一度機會をみて、面會に歸つてみようと心に決めた。
一度そう考えついた時、矢も楯もたまらず家族の近況に接したくなつた。飛んで灯に入る夏の蟲という感じもしなくはなかつたが、捕まつた時は何事も運命だと諦めるサ、と自分に云い聞かせた。
私は獨り寸暇をみてはトランプ占いをして出發の日の吉凶を占つていた。それは淋しい唯一の慰みでもあつたのだ。トランプ占いも吉と出た。
母は事業をやつていた關係で、神戸と長野に家をもつていた。東京にいる時は、いつも姉の家に滞在することになつていたので、姉の家を訪ねることにした。汽車に乘つて僅か五六時間位で懐かしい姉とも對面出來るのだと思うと、今自分が行おうとするこの行爲の危険と冒険に氣がワクワクとした。夜と晝とどちらを選ぶか迷つたが食事時のお晝にすることにした。
電車から降りて約十分位の處だつたが、夏の烈しい陽照りと、一種の興奮で目がくらむような想いをした。幸い、この暑い陽ざかりに近所の人の目をうまく逃れ、門前に立ことが出來た。断わりもなく門を開け部屋にすべり込んだ。母と兄妹が何か話しあつていた處だつた。
視線と視線が瞬間からみあつた。お互い無言でみつめあつた。私は今迄の緊張から急に解かれ、その場にどつと坐り込んでしまつた。勝手口から姉もやつて來た。みながみな、喰い入るような目で私を眺め、生存を知つて心から喜こんでくれ、次から次へと話し合つた。一昨日も四人の刑事がやつて來たこと、未だ隔日に捜しに來ていることを知らされて、自分ながら無謀な行爲であつたことを後悔したが、久し振りで、家族と會えた喜びの方がはるかに大きかつた。
襖一枚が生死の境
兄がたまたま遊びに來ていた處だつたので、家族の大部分と會える好運に惠まれた日だつた。
皆の話から捜査の方法もきびしく、當時は皆が皆生きた心地すらもてなかつたと云い、殊に母親が一番ひどく監視せられ、どこへ行くにも二人の刑事が尾行し、訊問も連日に亙り、或る警察では留置場に一晩閉じ込められ責められたことを聞いた。兄などもM・Pに有無を云わさず、ジープで連行され、二三日家へも歸されず訊問されたりした。以前少しでも私と係合いのあつた者凡てが、訊問詰問されていることが想像出來た。家へ來る手紙は総て検閲濟みとなつていた。或る時などは見知らぬ人を使つて私からの手紙を持つて來たと云つて、下手な芝居を打つたとか・・・
そんなことを話し合つているうち、時計が二時を指した。母が刑事さんはいつも今頃から夕方頃に來ると云つたので、一同の不安が急に湧き出した。當人の私の方が落着いて平然としていた。私は「トランプでは吉と出ていたよ、今日は屹度來ないよ。大丈夫、大丈夫」などと云つていた時、玄関の方で物音がした。お客?いつものお客だ。みながさつと緊張した。茶碗をかたづける者、私の持物を押入れに放り込む者、私はすばやく次の部屋に退避した。其處はお茶をたてる部屋で、小さく區切つてあつて、道具もお茶道具と座ぶとんだけであつた。それに小さな押入れがあつた。私は度胸を決めこんで寢轉つていた。
この部屋まで踏み込んで來られては萬事休す。遂に逮捕されるかと、天井を見上げていた。逃避の緊張感と疲勞感から、一氣に解放される自分を望んでいる姿を發見した。
玄關で、三四人の男聲が家族と挨拶していた。逃亡直後の捜査と違つて、ドカドカ踏込んでくることはしなかつた。一應の挨拶で座敷に通つた。私には手にとるように、次の部屋の聲が聽こえた。「便りが來ないか」とか「家に寄りつかなかつたか」とか「若し出てくれば決して惡いようにはしない」とか勝手なことを銘々がしゃべつていた。母と姉が應待して返答していた。この襖一枚が私の生死の境をしていると實感も湧いて來なかつたが、ふと我に還り、このまゞ發見され逮捕されてゆく姿に氣がつき自分を 强く叱つた。「最後のチャンスまで逃亡するという意志と努力をもつてみたか」「例え隣りに死の神が居ようと、それは彼らの意志であつて決して自分の意志ではないのだ」そうだ、最後の一秒まで逃げるという努力に頭を使つてみよう、と思つた。
この場では唯一つ、押入れに身を隱すこと以外、考えられようもなかつた。隣の氣配を感じながら小刻みに音のしないよう襖を開け始めた。隨分時間をかけたと思つた。半分ほど開いた處で、うまく押入れにはいりこむことが出來た。心臓がドキドキと鳴り、呼吸のきれる音で、手を口に當てたのを覺えている。押入れの戸は開けたまゝだつた。間もなく刑事の一人がお世辭のように「お宅は廣いんですネ」と云つて仕切つてあつた、襖を開けた。私は観念して目をつぶつていた。しばらくして私が押入れに隱れていることも知らず「小綺麗にしていますネ」と云つて襖の閉じる音がした。
私は最後の小さな努力で難を避けられる結果となり、トランプの吉が見事當つたことを喜んだ。
その晩、泊ることを思いとゞめ、家族とも會えて、百萬人の味方を得たような氣持で、再び孤獨な逃亡の世界へ還ることにした。
私は二年後の十月一日午後七時、新宿のあるレストランの一階で家族の者のうち、誰かと會う約束をして闇夜に吸われる如く別れを告げた。
女の愛情もしりぞけて
私は再び鼻緒の外交員に歸つた。だがこの若主人が考えた程、商賣も上手くいかなかつたので、町で喫茶店を開業し今度は喫茶ボーイとして、店を切廻すことゝなつた。脫脂した牛乳にサッカリンで、甘味をつけた飲物だつたが、珍らしかつたので結構よく人もはいつた。私は誠實に甲斐々々しく働いた。
或る日、何を思つたのか、隱居が結婚話をもつて來た。が、現在の身では到底考えられもしなかつたので、その場で斷ることにした。それから會う毎にすゝめるので、私もこの結婚について、一應考える氣にもなつた。しかし、私はこの結婚の責任と重大さを痛感し、自分勝手な理由だけで、承諾するわけにはいかないと思つた。又一方追われる者として明日という日のない男のギリギリのエゴイズムは、女の愛情が私を支え、救う唯一のものであるとも考えた。そしてこゝでも生きたいのだと血の叫びをあげる自分を知つた。
隱居のすゝめるまゝ田舎の風習どおり見合いすることにした。老人の息子が病氣だつたので、その看護に來ている、というのであつた。息子さん見舞かたがた面接することにした。
思いもよらぬ田舎町での見合に、私は少し上氣していたようだつた。彼女はスタンダールか何かの戀愛論を膝の上に擴げて讀んでいた。
私は彼女がどんな姿態で應接するかということより、文學書を讀んでいたことだけが私の心を魅きつけた。彼女と話しているうちに、世帯もちのうまそうなしつかり者という感じを受け、彼女と文學とは縁遠いような氣もしたが、私は夢中になつて、文学に就てのみ話をした。多少とも文學を好む女性ならば屹度、追いつめられた人間のもつ心の動きや苦惱を理解してくれるだろうと、早ゝに判斷したのだつた。
その後この女性は度々、私の働いている店へ遊びに來るようになつた。私はこの結婚に對してもう一人の人間に、不幸をもたらすことのないよう、また自分自分悔恨に身を嚙まれないように、相互の理解と愛情の燃燒をもつ時間が欲しかつたのだが、この女性は両親を說得し承諾を得るよう積極的に、この話をすすめていた。二度、三度と會つているうち、この女性に私は他人に洩らされぬ一身上の秘密と事情があることを遠廻しに打明けることはしたが、すべての告白ということになると、私の生死に係わる秘密をどうしても、打ち明けるだけの勇氣はなかつた。そして力なく私はいつも言つた。「私との結びつきは、貴女を不幸にしても決して幸福にすることは出來ない」と。またそれは人知れぬ日々の勞苦と精神の負擔で屹度貴女を打負かすにきまつているとも、言い放つた。隱居さんの手を離れて、自活の道を早速考えねばならなかつた。この小さな田舎町では就職など凡そ考えられもしなかつた。私は手あたり次第どんな仕事にも、糧を得るために働いた。百姓家をあるいては手傳いをしたり、町の馬喰の手下ともなつて、牛や馬を農家から農家へ運ぶ日雇いもやつた。田舎道を二里も三里も足の遅い牛をひつぱつて歩いた。乳牛の小さいやつなどは、歩くのに本當に手間どり、急に氣の狂つたように跳びはねて、慣れぬ私を愕かすのだつた。また中途で寢込んでしまつて押せども引けども、動こうともしなかつた。
千曲川の畔を牛を追い追い歩く姿は、誰がみても百姓の姿としかうつらなかつたろう。秋晴れの日、淺間山の煙が中空にのぼるのを見て、又夕映えに暮れゆく田園の靜けさに泣きたい程の感動を覺えた。
影のように
家族との約束の日がやつてきた。あの日から數えて二年の月日が經つたのだ。其後の捜査模様と家族の状況を知る喜びと不安とが、いりまじつて車中胸が一杯だつた。このような冒険は、私にとつて遂げられぬ戀人同士の密會のような樂しさを覺えさせ、少しも危険とか恐怖の感じを抱かせなかつた。降り立つてから時間も相當あつたので、新宿の混雜した人の群に身を投じあちこち見て廻つた。定刻十五分前に約束の場に着き、素早く席に視線を投げ一わたり見廻したが、見當らなかつた。來るか來ないか、實に長い時間に思われた。定刻きつかりに、母ともう一人連れ立つた青年が現れた。その青年は見知らぬ人だつたので、私は用心深く母の視線を追つた。母は緊張と興奮で歪んだような顔をしながら、近づいて席に腰を下した。そして口早に青年を紹介してくれた。妹の婚約者だつたのだ。私達は初對面の挨拶を交した。
私は其後の捜査模様を知ろうと、母に次から次へと矢つぎ早に質問した。家の者もみながみな元氣でいることを知つて喜んだ。私の姿をじつと默つて見ていた妹の婚約者は、冷靜にそして決斷的に「これは時間の問題です。未だ未だその道は遠く嶮しいことゝと考えますが、どうか頑張つて生きて下さい」と男性的な聲で激勵してくれた。そして色ゝな状況を批判的な口調で說明もしてくれた。
私達は二時間ばかり坐つてあれこれ話に打込んだ。以前の面會の時もそうであつたが、私自身のことは決して話さなかつた。どこに居るともどうやつて暮しているとも一切、母にさえ口外しなかつた。誰にも興味のあることだが訊こうともしなかつた。唯元氣で働いて一日一日を送つていることを、知つて貰うだけで充分だと考えていた。それは訊問の際、私の居所を知つているということゝ、事實知らないということゝでは隨分心理的に苦痛の點でちがつてくることゝ思つていたからだ。
影のように來て影のように去つていくだけで、お互いに滿足していたのだつた。彼は時時注意深そうな目で、周圍を氣にして二人を見守るようにしていた。
この密會で、今までの勞苦と不安も打忘れ生きてきた歓びを心から味わつた。
生きることは何と素晴らしいものであるかと、思つたりして、この數時間の歓びに死の恐怖さえ霧散してしまつた。
母の話で私が心中者として三峯山中に、若い女と死體となつて葬られていたことを知つた。家族の者全部が死體現場まで檢證に連れ出され、確認するかどうか訊かれたのだつた。その死體は事實似ていることは似ていたのだつたが、半信半疑のまゝ「これが私の息子であるかどうか、はつきりと云い切れません」と申述べ、不明ということで歸ることになつた。案内の村人達は、しきりに確認して死んだ者として取扱つたらどうか、とすゝめたというのであつた。警察もGHQからの嚴しい捜査命令で本當に弱つていたのか、新聞にも報道したりして一時は大騒ぎしたので、知人や親戚の大部分は私が死亡したものであるという風に思つていた。
然しそんな事件があつた後も、ずつと係の刑事が、定期的に巡廻し探しに來ているのだつた。その後死體の側にあつたピストルの番號が私の部隊にあつた番號と一致せず、死體解剖に依る骨相的見地から本人でないことを知ると、躍起となつて新しく嚴重な捜査に乗り出して來たとも云つた。
これを聽いて私の歩むべき道の未だ遠くその嶮しいのに暗然となり、やり切れぬ思いをしたが、今迄以上細心の注意が必要と思い、都會の片隅で小さくうずくまつて暮してゆかねばならぬ自分を考えた。側で聽いていた妹の婚約者は、二人の涙と笑いの深刻な表情が、店の女給達の注意を引きはしないかと心配しだし「もうそろそろ別れた方が賢明ですね」と注意もし促した。生あればいつかは會えるのだ。生あつてこそ再び出發も出來るというものだと思つて、この短かい密會に別れを告げねばならなかつた。
別れぎわになつて彼は「こういう密會はまだまだ危険です。愼重な態度を望みます」と一言の注意をも忘れなかつた。私は生きて居れば、次の二年目か四年目の今日という日時に現われるかも知れないと云つて素早く新宿の雜踏にもまれていつた。
歸つて來たぞ!
初夏になると、今度はアイス・キャンデー賣りとして私は懸命に働いた。「甘いキャンデー」と印した小旗を箱に結びつけ、鈴をリンリン鳴らして走り廻つた。夏の田舎道を汗を流して無心に自轉車を驅つた。お客は少年少女が多かつた。
無邪氣な童心に觸れることで、私はどれだけ救われた思いをしたか分らなかつた。私は買つてくれる子供達の頭を一人一人なでながらキャンデーを五色の虹にたとえ、お話をし一緒になつて歌もうたつた。田舎の夏にはあちこち小さな村祭りがあつて賑やかだつた。その祭りを追つて近在を驅けずり廻つた。
盆踊りの若い男女の踊る姿をみて、平和の息吹のうちに、育ちゆく人達に心から祝福もした。そこには最早や戰爭で蒙つた暗い影は微塵もなく、自由で平和な生命力があるだけであつた。若い生命が流れているこれらの情景に、今後の日本の再出發を感じとり、私だけが唯一人、醜い形骸を肩に背負つて歩いているように取りのこされた淋しさを味わつた。
獨りの生活はわびしく亂れがちとなつたが、吾が道をゆくの氣構えで歩く私にとつては、却つて責任と負擔のない一種の氣樂さがあつた。
夏も過ぎ秋の穫り入れで忙殺される日が續いた。七度び迎える冬にも鼻汁をすゝりながら私は懸命に働いた。年も明け、そろそろ暖かい陽差しが欲しい頃、寢轉んで新聞をみていた。
「左記の者戰犯容疑を解除さる」
という小さな見出しが目に飛びこんできた。一瞬私はギクッとした。それに六名ほどの名が連ねてあり、四番目にまぎれもない私の名前が出ていた。思つてもいなかつたこの報道は、容易には私を信じさせなかつた。
この七年間、心の底ではどんなに望んでいたことか。發表が餘り突然だつたので、たゞ茫然としてしまつた。どうして今頃容疑が解けたのだろうか。新聞を喰い入るように見つめ乍ら、また思案は暗い方へと傾いていつた。
これもまた一つの手だ、ノコノコ出てきたところを、引捕えるに違いないと斷定した。
その後も、私は魚の行商をして近在の百姓家を廻り歩いた。「本當から、いや芝居の手だよ」と何度となく繰返して反問しながら二ヵ月ほど過ぎたが眞僞を確かめようと決心して神戸の家を訪ねることにした。
須磨驛へ、夜晩く着いた。懐かしい潮風を胸一杯吸つて、私は人通りも少ない夜道を歩いていつた。家の前を二、三度往來し、思いきつて門前に立つた。若し何かの都合で引越しでもしてはいないかと、門燈の下で表札を確かめてみた。呼鈴を押したが出てくる氣配もなかつた。思い切り長く押した。誰かが庭石を傳つてくる下駄の音がきこえた。息を殺して待つ何秒かは、怖ろしく長い時間に思えた。
戸を開けてくれたのは弟であつた。すつかり大人びていた弟は、さほど愕きの色も示さず大きな聲で「睦チャン歸つて來たゾ!!」と叫び私を抱きかゝえるようにして奥へ連れこんだ。
警察からの通知もあつたというので、私は完全な解放と自由を得た喜びにひたつた。
消え入りそうになつた私の生命も、七年近くたゞ生きたいと思う一心で生きてきたのだつた。それは惨めで悲しい生活であつたが、現に生きている身を感謝したい氣持で一杯になつた。警察からも新聞社からも訪問を受けた。
戰爭の愚劣さと罪悪は、私は私なりにいやというほど知らされた。あの狂氣と興奮からは一切遠ざかるような生き方をしたいと思つた。
MUTSUHIRO WATANABE A.K.A. THE BIRD TIMELINE & SUMMARY
http://www.shmoop.com/unbroken/the-birds-timeline-characters.html
Louie tries to find the Bird so that he can talk to him in person and forgive him, but the Bird refuses
美しい日本の一人の男の生きざま
近衞步兵第一聯隊歴史, 第 2 巻
近步一聯隊史刊行委員会
全国近步一会, 1981
昭和二十年八月十日前後のことですが、第六中隊所属軍曹渡辺睦裕君が大森捕虞収容所に派遣されてゐましたが終戦が間近で同収容所勤務者は報復を受けるので危ないと言う情報が這入ってきましたので私は即日召集解除して彼を自宅に帰しました。
アメリカに裁かれるのは厭だ!--七年間潜行し遂に戰犯を逃れた男の手記 / 渡邊睦裕/p294~305
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3198082?tocOpened=1
Gaisetsu hen
Nagano-ken (Japan). Keisatsu Honbu. Keimubu. Keimuka
1958
陸軍曹長渡辺睦裕(二九)が総司令部から指名手配され、以来講和条約発効までいくたの話題を生んだ戦争犯罪人の搜査がはじまったのである。後年同氏が、総合雑誌に発表した潜行記を見ても、追う者も追われる者もともに大苦難の時期であった
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:q4vQ4XH1F-cJ:www2.wheaton.edu/bgc/archives/exhibits/LA49/08after02-10.html+&cd=1&hl=en&ct=clnk&gl=us
billy graham louis zamperini
WATANABE Mutsuhiro XA532194
http://www.archives.gov/iwg/declassified-records/rg-319-army-staff/personal-name-files.html
>「左記の者戰犯容疑を解除さる」
>Louie tries to find the Bird so that he can talk to him in person and forgive him, but the Bird refuses
"in person"
At Tokyo Headquarters Camp in particular, Wade and his fellow POWs had to suffer the paranoid beatings and victimisation of Sergeant Matsuhiro Watanabe, who successfully avoided prosecution by the War Crimes Commission at the war's end.
http://www.amazon.com/Prisoner-Japanese-From-Changi-Tokyo/dp/0864176023
この幸運な女主人公は神戸須磨区離宮前町一七九渡辺将治氏夫人しづさんという、とって三十六歳、御主人は有名なパイロットでジャンジャン儲けるし、お子さんは一番下が十三で六人もいるし、いってみれば理想的な有閑夫人でダンスでもしていたらいいわけのもんです、ところが三年前夫人の母上がなくなって先祖代々伝わった古つづらを開けてみたら一枚の地図が出て来た、何だか山の中らしい、そのところどころに赤いしるしがつけてあるのが変だ、まるで探偵小説みたいだが夫人の科学的頭脳にはピンと来た、早速鉱山技師を連れて地図の示す所、長野県諏訪郡山中に出かけて赤い点をめあてに掘り返してみた、すると一丈と掘らないうちに出るわ出るわ黄金の山が出た…
神戸又新日報 1934.7.4(昭和9)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00076443&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA
www.warsailors.com/POWs/imprisonment.html#omori
2014.6.28 08:20
秋田に収容された元米捕虜死去 クーンさん95歳 昨年68年ぶり来日
AP通信によると、第二次世界大戦中に捕虜として秋田県小坂町の収容所に収容されていた元米兵、フィリップ・クーンさんが23日、米南部オクラホマ州タルサで死去していたことが分かった。95歳だった。昨年来日し、68年ぶりに収容所跡地を訪問したばかりだった。
クーンさんは米先住民の子孫で、フィリピンで従軍中に日本軍の捕虜になった。1942年の「バターン死の行進」を生き残り、台湾の収容所を経て、小坂鉱山にあった陸軍仙台俘虜(ふりょ)収容所第8分所に終戦まで収容されていた。
昨年10月、日本政府の招きで恩讐を超えて来日。細越満町長らと面会し、収容所跡地などを見て回った。
訪問に立ち会った町社会福祉協議会会長で元助役の工藤保さん(83)は「小坂の風景は、はげ山だった当時と違って緑に覆われ、あまりに変わっていたので、懐かしさはなかったようだ。日本に対する恨み言は一切口にせず、平和の大切さを話していた」と思い出を語った。
http://www.sankei.com/world/news/140628/wor1406280029-n1.html
http://ajrp.awm.gov.au/AJRP/AJRP2.nsf/Web-Pages/HomePage_J?OpenDocument
鉄条網に掛けられた毛布
http://ajrp.awm.gov.au/ajrp/ajrp2.nsf/WebI/Blankets/$file/Text.pdf?OpenElement
日本軍の捕虜となり、虐待に耐え抜き帰還した「アメリカン・ヒーロー」
2011.8.6 12:00 [早読み/先読み アメリカ新刊]
Unbroken: A World War II Story of Survival, Resilience, and Redemption 不屈さ:生存と忍耐力そして贖罪に至る第二次大戦のある物語
By Laura Hillenbrand
Random House
元オリンピック選手が生き抜いた戦争の不条理
発売以来、米主要各紙のベストセラーのトップの座を30週以上も占める史上でも珍しいロングランの売れ行きを見せている、今米知識人にとっては最もホットな本である。
主人公は、ニューヨーク生まれだが、カリフォル二ア育ちのルイス・ザンペリニ(現在も健在で94歳)というイタリア系アメリカ人二世。第二次大戦では両親の祖国は「敵国」だった。
イタリア系ということで幼年期はいじめに遭った。わんぱく小僧転じて中学時代はまさに不良少年だった。走るのだけは群を抜いていた。高校の頃から陸上選手として頭角を現し、名門南カリフォルニア大学陸上部に引っこ抜かれた。
期待通り、1936年ベルリンで開かれたオリンピックには中距離走のアメリカ代表として出場した。メダルにこそ届かなかったが、走りっぷりのよさが観戦していたヒトラーの目にとまり、握手をしたというエピソードの持ち主だ。今も健在で、カリフォル二ア州で悠々自適な生活を送っている。94歳だ。
その後、第二次大戦勃発と同時にザンペリニは米空軍に入隊。日本本土爆撃のミッションに向かう途中、戦闘機がエンジントラブルで墜落。
マーシャル群島沖を漂流すること47日間。グェゼリン島に漂着するが、そこで日本軍に捕まり、日本に連行された。日本に着くや、撃墜された米爆撃機パイロットだけを収容、尋問する横須賀海軍警備隊植木分遣隊(通称大船収容所)に入れられ、終戦まで過酷な尋問と拷問を受ける。罪のない市民を無差別に殺戮したことに対する恨み、憎しみもあっただろうが、それよりもなによりも、同収容所の最大の目的は敵パイロットから米軍の機密情報を聞き出すことにあった。
いってみれば、米軍にとってのキューバ・グアンタナモ収容所と同じだった。それだけに尋問は厳しかった。
著者は、アメリカ競馬史上に名を残した名馬シービスケットについて書いた「Seabiscuit: An American Legend」(映画化され、アカデミー賞最優秀作品賞はじめ7部門を独占)が爆発的な人気を博し、一躍有名になった女流作家、ローラ・ヘレンブランド。短い文章で畳み掛けるスタイル。徹底した取材で得た事実を華麗な文章で描き出す才能は高い評価を得ている。
ザンペリニは、帰国後、自分を目の仇にしていじめ抜いた「人を痛めつけることで性的快感を覚えるサディスト、ワタナベ・ムツヒロ伍長」に対する復讐心に燃える。尋問や拷問の後遺症から精神状態がおかしくなり、真夜中に悪夢に悩まされる日々が続く。
そうした中、著名な伝道師、ビリー・グラハム師の集会に出て、キリスト教に入信。自殺した「ワタナベ」とは再会できなかったものの、母親に「今は彼に対する復讐心はない。安らかに眠ってくれ」とのメッセージを送るところでストーリーは終わっている。
「南京虐殺」「バターン死の行進」そして「捕虜虐待」の記憶
正直言って、米兵捕虜に対する日本軍の虐待や中国人に対する残虐行為を扱った本はあまり読みたくない。戦争で死んだ日本人のことは思い浮かべても、敵国や他国の死者たちを思い浮かべることはあまりない。日本人の多くは、これまでそうやって生きてきた。
十数年前、中国系アメリカ人二世、アイリス・チャンの「レイプ・オブ・南京」が、(そこに書かれた事実関係の正確さはともかくとして)米知識人の間では話題になった時も、日本人はなぜこの本がそれほどアメリカ人に読まれるのか、釈然としないものがあった。
最近でこそ「Tears in the Darkness: The Story of the Bataan Death March and Its Aftermath」(邦題「バターン 死の行進」が邦訳されているが、日本軍の米英捕虜に対する加害に目を向ける機会はあまりなかった。
2009年6月には、藤崎一郎駐米大使が米兵捕虜団体の会合に出席して謝罪。10年には岡田外相が「バターン死の行進」で生き残った元米兵捕虜と面会し、外相として初めて公式に謝罪した。こうした行動については保守派はもとより、原水爆被害者団体からも「一方的な謝罪の必要はない」といった批判の声も出ていた。
確かに、戦争をどうみるかは依然としてセンシティブだ。アメリカ人の大半は、ヒロシマ、ナガサキの話や多くの市民を無差別に殺戮した東京空襲(よほど教養のあるアメリカ人以外はその事実すら知らない)を聞きたがらない。
そのことを著者は早くも承知だ。主人公が収容された大船収容所に関する多くの日本語資料を入手したが、その翻訳の労をとった日本人の名前は一切公表していない。
今なぜ日本軍の残虐モノが取り上げられ、売れているのか
今、アメリカ人で日本を好感を持っている市民は82%(ギャラップ調査)で好感度は英国、カナダ、ドイツに次いで第四位。米国中にはトヨタやホンダの車が走り回り、国技である大リーグでは何人もの日本人選手が活躍している。第二次大戦などは遠い昔の話のようにも思える。
それなのに、今なぜ人気作家はこのテーマを選んだのだろうか。
冒頭、著者は、ウォルト・ホィットマンの「The Wound Dresser」の一節を引用している。南北戦争当時、ホイットマンが志願看護士として陸軍病院で働いた時の体験から生まれた詩だ。
「今、最も新しくて、最も深く、君(傷病兵)を襲っている恐怖とはなにか。激しい戦闘か、あるいは巨大な敵軍の包囲網か。心の奥底で君が恐れ戦いているのは」
傷ついた兵士たちの姿や積み上げられた兵士たちの切断された手足にホイットマンは衝撃を受ける。そこから死傷した兵士に「英雄」の姿を見るのだ。著者もまたザンペリニに「英雄」の姿を見ようとしたに違いない。
そのためか、この本の書評を書いたほとんどの評者は、「まるで映画を見るような描写」(ニューヨーク・タイムズ・ブック・レビュー)、「宝石商が宝石を鑑定するような著者の筆致」(ニューズウィーク)と、文章力の称賛に終始している。また「英雄」としてのザンペリニに惜しみない拍手を送っている。アメリカ人にとっては、ちょうど日本人が司馬遼太郎の「坂の上の雲」に出てくる滅私奉公の軍人たちに涙するのにも似た感情なのだろう。ひと言で言えば、お国のために肉体的にも精神的にも極限状態にまで追いやられた兵士の言動がアメリカ人の心の琴線に触れているのだろう。それが爆発的に売れている理由だろう。
日本人の心情にも精通している米ジャーナリストのピーター・エニス(「The Bottom Line」編集主幹)はこう見ている。
第二次大戦はまさに書き手にとっては宝の山。題材が埋もれている。確かに日本軍の捕虜収容所の実態が生々しく描かれているが、この本が売れていることと『反日』とはそれほど関係があるとは思えない。この本は、一個の人間としてのザンペリニの生き様を人気作家が書いたことが売れている理由だと思う」
この本が邦訳され、多くの日本人が読んだ時、どのような印象を受けるか。
たった60数年前に日米が敵として戦った第二次大戦。その記憶を一人一人がどう咀嚼しているかで、印象も変わるはずだ。(高濱 賛)
http://sankei.jp.msn.com/world/news/110806/amr11080612010007-n1.htm
>この本は、一個の人間としてのザンペリニの生き様を人気作家が書いたことが売れている理由だと思う
>And still I pray my country finds another kind of glory
Marine POWs
http://www.marines.mil/Portals/59/Publications/History%20of%20the%20U.S.%20Marine%20Corps%20in%20WWII%20Vol%20V%20-%20Victory%20and%20Occupation%20%20PCN%2019000262800_5.pdf
trove.nla.gov.au/newspaper/result?l-publictag=Mutsuhiro%20Watanabe
Tagged: 300 POW's 60 Die Starvation
http://trove.nla.gov.au/newspaper/result?l-publictag=300%20POW%27s%2060%20Die%20Starvation
Laura Hillenbrand shows spirit of endurance
http://www.standard.co.uk/lifestyle/books/laura-hillenbrand-shows-spirit-of-endurance-6555500.html
Unbroken - film review: Angelina Jolie directs Jack O'Connell in this unaffecting drama
With Angelina Jolie in the director’s chair, the drama goes missing in the real-life story of an Olympic athlete turned defiant prisoner of war
http://www.standard.co.uk/goingout/film/unbroken--film-review-angelina-jolie-directs-jack-oconnell-in-this-unaffecting-drama-9935233.html
Angelina Jolie joined by two Chelsea pensioners at the premiere of Unbroken
Angelina was joined by a handful of guests from the armed forces at the premiere of her new film Unbroken
http://www.standard.co.uk/showbiz/celebrity-news/angelina-jolie-joined-by-two-chelsea-pensioners-at-the-premiere-of-unbroken-9884065.html
(2014年5月7日)13:46
70年ぶり、戦死者遺品と「再会」むせび泣く遺族 寄せ書きの日の丸、米歴史家ら返還活動
第二次大戦で戦死した旧日本兵から、旧連合国軍の兵士が戦利品として持ち帰るなどして海外に散逸した遺品を遺族に返還する「OBON(お盆)2015」のプロジェクトの一環で、大型連休期間の4月28日~5月3日の間に相次いで4件、名前などが寄せ書きされた日の丸が遺族のもとに返還された。来年は戦後70年。遺骨も受け取ることができなかった遺族たちは、遺品との“再会”を果たすと、亡き人をしのび、むせび泣いた。
70年ぶり「再会」
4月28日、靖国神社(東京都千代田区)。東京都葛飾区に住む塚島久男さん(86)は、日の丸が目の前に広げられると、兄、成夫(しげお)さん=栃木県出身=の名に手を当て、おえつを漏らした。70年前、兄を見送ったときの光景がよみがえったのだという。
「よく帰ってきてくれた。長い一人旅は終わったよ」
日の丸はビルマ(現ミャンマー)で、23歳で戦死した成夫さんの出征にあたり、日立製作所亀戸工場の同僚らが武運と無事を祈り贈ったものだった。
久男さんは6人兄弟の末っ子。上3人の兄が出征し、成夫さんだけが戦死。遺骨も遺品も戻らなかった。「ギターを弾くのが好きで、あか抜けた楽しい兄貴だった」。兄の面影が忘れられず、祭られている靖国神社に毎月のように訪れたこともあった。
寄せ書きされた日の丸を手にした久男さんは、両親らが眠る栃木県の墓前に旗を持参し、“帰還”を報告したという。
海外に数千枚
大戦では多くの旧日本兵が、こうした寄せ書きの旗を身につけて戦った。旗をはぎ取って持ち帰った旧連合国軍の兵士たちも多いという。
「OBON2015」を展開する米オレゴン州在住の歴史家、レックス・ジークさん(60)と妻の敬子さん(46)=京都市出身=は、海外に少なくとも数千枚の寄せ書き日の丸が存在すると推測し、収集・返還活動を続けている。夫妻は大型連休期間に来日し、大阪や栃木、岡山、山梨から出征した日本兵4人の日の丸を遺族に手渡した。
成夫さんの日の丸は、英国の古美術品店で売られていた。購入した英国人がインターネットで寄せ書きに込められた意味を知り、遺族への返還を決心。人伝いにジーク夫妻に託された。
成夫さんの日の丸が返還された翌日の4月29日には、米・南カリフォルニア大学の図書館に収蔵されていた日の丸が、同様に岡山県倉敷市に住む遺族へ返還された。昭和19年9月、妻と3歳だった娘を残し、34歳で太平洋上の島で戦死した岩坂平作さんが身に付けていたものだ。旗は汗や血でにじみ、激戦を物語っていた。
娘の美恵子さん(72)は、父の出征当時はまだ生後半年で、父の記憶はないが、親類には「仏のように優しい人だった」と聞いた。遺骨や遺品は帰ってこなかった。
29日午後、岡山県護国神社(岡山市中区)で旗を受け取った美恵子さんは、父の存在を確かめるように日の丸を見つめると、「何としても家族のもとに帰りたいという思いがあったのだと思います」と声を詰まらせた。
「政府が返還呼びかけを」
こうした日の丸が遺族のもとに戻る例は、ほんの一握りしかない。日本語が分からない外国人所持者は、出征兵士を思った親族や知人らの寄せ書きがされているということが理解できず、単なる軍旗と解釈している場合も少なくないという。
ニューギニアで戦死した大阪市西区出身の男性の日の丸を持っていた米ミシガン州在住のケント・プラムリーさん(59)は、結婚相手が日本人女性だったことから旗の意味を知り、5月3日、戦死男性の弟で徳島県板野町に住む山本武男さん(90)に返還した。プラムリーさんは、妻に聞くまで「銃や刀と同じ軍隊のものだと思い込んでいた。個人所有のものだとは知らなかった」という。
一方、ジーク夫妻によると、近年、元連合国軍兵士が高齢で亡くなって所有していた旗が流出し、ネットオークションで売買されるケースも増加しているという。
ジーク夫妻は「遺族にとって、海外に散逸する遺品がどれほど大切かを、これまでの返還事例が示してくれた。日本政府が返却するよう海外に向けて呼びかければ、海外の持ち主も快く応じるのではないか」と話した。
《用語解説・OBON2015》 戦後70年となる平成27(2015)年のお盆までに、海外に散逸する元日本兵の遺品をできるだけ遺族らに返還しようと、ジークさん夫妻が始めた活動。平成19年、ビルマで未帰還兵となった敬子さんの祖父の寄せ書きされた日の丸が家族のもとに返ってきたときの感動が、活動のきっかけとなった。オークションサイトの遺品の売買状況を調査して自粛を求める一方、遺品を収集して遺族に返還する活動を日米を行き来しながら進めており、日本遺族会や各地の護国神社なども協力に乗り出している。
http://www.sankei.com/west/print/140507/wst1405070030-c.html
>この本は、一個の人間としてのザンペリニの生き様を人気作家が書いたことが売れている理由だと思う
>With Angelina Jolie in the director’s chair, the drama goes missing in the real-life story of an Olympic athlete turned defiant prisoner of war
戦後70年近く経過した日本人が認識したのは Mutsuhiro Watanabe が 渡辺むつひろ 渡辺睦裕 の漢字表記で戸惑い、どこで何をしてどういうことで世間の注目を浴びたかということは、あまり強く記憶に残っていなかった。
渡辺睦裕氏の回想のタイトルの上部には、巻貝の挿絵が縦に並んで2つ描かれており、その2つの巻貝の間に「の」と記載されている。
[DOC] REPORT OF LIEUT. LEWIS M. BUSH, R.N.V.R. (H.K.)
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:PN9r9cXEYAAJ:gwulo.com/node/9858+&cd=1&hl=en&ct=clnk&gl=us
Yoshitomo Tokugawa
防衛省防衛研究所
旧軍における捕虜の取扱い
―太平洋戦争の状況を中心に―
立川 京一
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:EBJktN8XBuAJ:www.nids.go.jp/publication/kiyo/pdf/bulletin_j10_1_3.pdf+&cd=2&hl=ja&ct=clnk&gl=jp
俘虜管理改善ニ關スル件(昭一九、三、三 陸亞密六九六)
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:EXCJs6hxz8cJ:www10.ocn.ne.jp/~kuushuu/kaizen.html+&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp
日本の捕虜取扱いの背景と方針
立川 京一
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:WA4vwNWSYVoJ:www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2007/forum_j2007_08.pdf+&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp
http://news.google.com/newspapers?id=oWoaAAAAIBAJ&sjid=TyoEAAAAIBAJ&pg=5805%2C7005777
"I want to show them that instead of bitterness we come with Christian love in our hearts."
Lodi News-Sentinel - Aug 22, 1950
http://news.google.com/newspapers?nid=2245&dat=19500822&id=NRkzAAAAIBAJ&sjid=yDIHAAAAIBAJ&pg=2192,3762364
"Louis Zamperini" site:news.google.com/newspapers
Steve McClure miyavi
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:kS31oAtUtpsJ:thedailyhatch.org/category/war-heroes/+&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=hk
http://www.randomhouse.com/catalog/teachers_guides/9780812987119.pdf
Zamperini: That forgiveness has to be complete. If you hate somebody, it’s like a boomerang that misses its target and comes back and hits you in the head. The one who hates is the one who hurts. I talked to girls at a school in Palos Verdes and I said, “If you want to age quickly, then hate somebody.” After that, I got a letter from one of them, she was probably 15. “I went to a girl whom I’d hated for two years and I asked her to forgive me,” she wrote. “Now we’re the best of friends.” So forgiving someone is healing. To hate somebody hurts you physically, mentally, and spiritually.
http://www.reviewvalue.com/world/world-war-z.html
Consequences of captivity: health effects of far East imprisonment in World War II
D. Robson, E. Welch, N.J. Beeching, G.V. Gill
First published online: 14 October 2008
http://qjmed.oxfordjournals.org/content/102/2/87
Decades on, ageing POWs face their past in Japan
http://blogs.afp.com/correspondent/?post/Decades-on%2C-ex-WW2-prisoners-travel-to-Japan-to-visit-former-captors
site:www.pbs.org/thewar POW
"Major David M. Kirk" Watanabe
"A team of individuals who complement and support each other can achieve more than each of us can as individuals, much like what occurred in the POW camp. The men survived by leaning on each other, leaning on their faith, leaning on strength beyond themselves. That's how they endured," said Daetz.
Zamperini made a decision to persevere, fight back and help those in need. He stepped up and served as an exemplary Wingman.
"I've never thought that there was anything I couldn't overcome. You just make a decision to never give up, keep fighting back, be resolute," said Zamperini.
When the war finally ended, Zamperini had high hopes of great food, new clothes and a new life. The fastest man on the West Coast, an athlete who was once the epitome of strength and health, was now emaciated and struggling from Post-Traumatic Stress Disorder.
Zamperini was drinking heavily and fighting the nightmares that continued to haunt him, long after he and "The Bird" parted ways.
"Every day Watanabe was after me, so every night I had these nightmares, where I'm always strangling the guy. I thought everything was over. When I finally got home, the nightmares continued. I met the girl of my dreams and the nightmares were still there," said Zamperini.
"I went to a VA hospital and they had no idea what PTSD was. One night I woke up strangling 'The Bird' and it was my wife. I'll tell you what; it just shocked me to death. She called her mother and they decided to have a divorce. It was a hopeless situation," he continued.
http://www.edwards.af.mil/news/story_print.asp?id=123329506
Because war-crime prosecutions were suspended in the 1950s, he was never brought to justice.
http://www.smdc.army.mil/CG/2013/ZamperiniDedicationRemarksAsDelivered.pdf
"米国人元戦争捕虜" site:www.mofa.go.jp/s
"オーストラリア人元戦争捕虜" site:www.mofa.go.jp/
交流計画は着実に成果をあげてきたが、依然として、過去の問題(元戦争捕虜・民間人抑留者. 問題)が日英間の棘として存在している。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/shocho/hyouka/pdfs/h17_s_1_1_4.pdf
site:www.mofa.go.jp 捕虜
http://wcsc.berkeley.edu/wp-content/uploads/Japan/singapore/Trials/Case_details.htm
What War Captives Faced
In Japanese Prison Camps,
And How U.S. Responded
By JESS BRAVIN
Staff Reporter of THE WALL STREET JOURNAL
April 7, 2005
http://online.wsj.com/public/resources/documents/SB111265072445397621.htm
Japan apologizes for treatment of WWII POWs
https://www.youtube.com/watch?v=2l86W-fRi60
Prisoners of War Bulletin
http://onlinebooks.library.upenn.edu/webbin/serial?id=arcprisoners
2015 Rose Parade Grand Marshal Louis Zamperini
http://www.tournamentofroses.com/rose-parade/theme-grand-marshal
捕虜虐待容疑者の逮捕を伝える記事=1945年12月11日
http://mainichi.jp/graph/2013/03/26/20130326org00m040043000c/035.htm
BC級戦犯の裁判構成と捕虜虐待での起訴を伝える記事=1945年12月15日
http://mainichi.jp/graph/2013/03/26/20130326org00m040043000c/036.html
Some Japanese, including Hatto, tried to help POW's behind Watanabe's back. No one did more than Private Yuichi Hatto, the camp interpreter.
http://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&GRid=100306440
Mr. Yuichi Hatto was the former guard of the Omori camp. He was one of the "good guards.
http://www.us-japandialogueonpows.org/Alexander.htm
http://jfn.josuikai.net/circle/eigo/1996/1996Feb27.htm
http://jfn.josuikai.net/circle/eigo/1998/1998Feb22.htm
http://jfn.josuikai.net/circle/eigo/2000/July22.htm
en.wikipedia.org/wiki/The_finger
en.wikipedia.org/wiki/Kawakita_v._United_States
en.wikipedia.org/wiki/Kanao_Inouye
https://www.youtube.com/watch?v=sTTAcy0Skjw
http://www.loc.gov/vets/stories/pow-japan.html
http://lcweb2.loc.gov/diglib/vhp-stories/loc.natlib.afc2001001.01648/pageturner?ID=pm0001001
吹浦忠正 徳川 尾張 渡辺軍曹
太平洋戦争当時、生きて敵に捕まることは恥だと教え込まれていた日本兵たち。
収容所では、捕虜になったことを本国に知られるのを恐れ、偽名を使う人が相次いだといいます。
このため身元の特定が難しいとして、政府の本格的な調査が行われないままになっていたのです。
www.nhk.or.jp/kokusaihoudou/archive/2015/03/0313.html
当時の思想に残忍さを見るのか、あるいは独特の純粋さに何かを見るのか、はたまた・・・
site:www.47news.jp 戦争 捕虜
Lynyrd Skynyrd - Free Bird
> 戰爭の愚劣さと罪悪は、私は私なりにいやというほど知らされた。あの狂氣と興奮からは一切遠ざかるような生き方をしたいと思つた。
そして今なお、あの狂氣の棘を抱えて生きている人がいて、その記憶が語り継がれているという現実がある。
遠ざかる自由もあるのだろう。
しかし、一方では、その記憶が語り継がれ、そしてその記憶は未来にも確実に受け継がれていくという揺るぎのない現実がある。
英語が流暢で交渉能力があったとしても、現実を慎重に正しく吟味するだけの、極めて常識的な知覚が麻痺していては、元も子もありゃしません。
潜行三年―私の終焉―
http://ktymtskz.my.coocan.jp/cabinet/ootani6.htm
物語としては非常によく似た口調で記述されていて、このようなスタイルが当時の世相には受けたのでしょうか
The Bird, Watanabe, was a coward without honour. It is unfortunate the USA was unable to find this rate and execute him by hanging for his crimes. To know he lived with wealth and died in peace is offensive and without justice for those he made suffer. If I could, I would have hanged him myself.
David Tsugio Tsutada Billy Graham
www.loc.gov/teachers/classroommaterials/connections/wpa-posters/thinking.html
わたくしたちが重きを置いてきた「漢字の書き順絶対主義的」な教育に、完全に欠けているスキル獲得のプロセスのひとつ
捕虜の問題を映画の上映の可否についての論争にすりかえ、一過性の騒動として眺めていた事実があったとすれば、それこそ左右揃って愚かさの極みを露呈しただけ。
「日本語WIKIが見当たらない」
万年流行語として殿堂入りするんじゃないかしら。
いろんなところから新しい智慧や文化や風習が渡来してきた我が国にとって、文字通りの翻訳と風土に合わせた解釈を必要としてきたのでしょうけれども、所謂ことばをあやつるひと次第で、よかったこともあればとんだ誤解をしたことなども重なり、自己観が歪んでしまった結果、焼野原を迎えたわけですが、これ、ほっといたら、また、戦争してしまう。
偏った情報をいくら正しく解釈しても・・・。
キラキラ神話の歴史をありがたがるのは、独裁者が支配する国だけです。
どんなことにも、光と陰があり、それはそれとしてそのことを受け止めることは、それができないことよりも、ずっとましなことです。
捕虜といへば、赤十字案件だが、じぶんのところに関心が向かないように、じぃーっとしていたところが、ものすごくきもちわるい。
皇族や皇室にいくらかでもつながりのある組織や人物や企業であれば、判断することすらタブーとする風潮が全く無いというなら、象徴天皇制が現代に生きる人間にとって意味があるのかもしれないが、仮に、あらゆるタブーで擁護される対象があるのだとするならば、病的な社会。
Louis Zamperini: The Story of a True American Hero
Posted on December 24, 2014
by richardgreen2014
https://unwritten-record.blogs.archives.gov/2014/12/24/louis-zamperini-the-story-of-a-true-american-hero/
Philippines to mark 75th anniversary of Death March
ABS-CBN News-2017/02/01
"Our countrymen, especially the youth, should not forget the Bataan Death March 75 years ago, in April 1942. This is the kind of heroism which is very difficult to find these days," Roberto de Ocampo, chairman of the Philippine ...
Bataan Death March 75th year rites set in SF Presidio April 8
Inquirer.net-2017/02/24
SAN FRANCISCO – San Franciscans will mark the 75th Anniversary of the Bataan Death March on Saturday, April 8, at the Presidio Officers' Club at 50 Moraga Avenue to honor the thousands of Filipino and American ...
Bataan Death March survivor Lester Tenney dies in California aged 96
The Japan Times-7 時間前
LOS ANGELES – Lester Tenney, a former U.S. prisoner of war held by the Imperial Japanese Army and survivor of the 1942 Bataan Death March, died at a nursing facility Friday in Carlsbad, California, a local newspaper ...
en.wikipedia.org/wiki/Slavery_in_Japan
経歴[編集]
ノースカロライナ州生まれ。ハーバード大学卒業後、オックスフォード大学で修士号、ハーヴァード大学で博士号取得。1972年から現職。クリントン政権期に国防総省スタッフとして、ウクライナ、ベラルーシ、カザフスタンの核兵器廃棄政策にも携わった。
「合理的アクター・モデル」・「組織過程(組織行動)モデル」・「政府内(官僚)政治モデル」の3つのモデルでキューバ危機を分析した『決定の本質』は対外政策決定論の必読文献として有名であり、大きな反響を呼んだ。
ja.wikipedia.org/wiki/グレアム・アリソン
Thucydides Trap[edit]
Allison coined the phrase "Thucydides Trap" to refer to when a rising power causes fear in an established power which escalates toward war. Thucydides wrote: "What made war inevitable was the growth of Athenian power and the fear which this caused in Sparta." (τοὺς Ἀθηναίους ἡγοῦμαι μεγάλους γιγνομένους καὶ φόβον παρέχοντας τοῖς Λακεδαιμονίοις ἀναγκἀσαι ἐς τὸ πολεμεῖν)[3] The term appeared in a full-page ad in The New York Times on April 6, 2017, the day of U.S. President Donald Trump's meeting with Chinese President Xi Jinping: "Both major players in the region share a moral obligation to steer away from Thucydides's Trap".[4]
Sinologist Arthur Waldron has criticized the concept of the Thucydides Trap and Allison's application of it to US–China relations.[5]
Criticism[edit]
In April 2014, it was reported that from 2012 to 2013, the Belfer Center (through the Wikimedia Foundation) had hired a paid Wikipedia editor who would cite Allison's scholarly writings in various Wikipedia articles. Funding for the position came from the Stanton Foundation, for which Graham Allison's wife, Liz Allison, was one of two trustees. The editor also made some "supposedly problematic edits" based heavily on work of other scholars affiliated with the Belfer Center.[6][7]
en.wikipedia.org/wiki/Graham_T._Allison
HONDAのCMで曲がバリバリ流れてるMIYAVI、「韓国系日本人」と表記されることは期待できないんだろうな・・・
ミュージシャン、MIYAVIさんが日本人初の親善大使に UNHCRが任命 - 産経ニュース
http://www.sankei.com/entertainments/news/171117/ent1711170023-n1.html
2017.11.17 23:16更新
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は17日、日本人ミュージシャンのMIYAVIさんをUNHCR親善大使に任命すると発表した。日本人の親善大使任命は初めて。来日中のグランディ難民高等弁務官が20日、日本記者クラブ(東京)で正式に発表する予定。
MIYAVIさんは1981年、大阪府生まれ。三味線などの演奏方法を取り入れた独自の表現方法で知られ「サムライギタリスト」として世界を舞台に活動している。
UNHCR特使を務める米女優アンジェリーナ・ジョリーさん監督の映画「アンブロークン」に出演したことをきっかけに難民支援に関心を抱き、2015年、16年とレバノンを訪れ、難民の子供らと交流した。(共同)
https://y-fujita.com › archives
ふじた幸久 - アメリカの元戦争捕虜と交流
あなたと地球を笑顔に|命・暮らし・安全・幸せを守る|藤田幸久ウェブサイト.
https://y-fujita.com › archives
ふじた幸久 - アメリカ軍元捕虜の方々と
あなたと地球を笑顔に|命・暮らし・安全・幸せを守る|藤田幸久ウェブサイト.
https://y-fujita.com › archives
【朝日新聞】「戦時補償ー米捕虜訴訟の政治的解決を」 - 藤田幸久
あなたと地球を笑顔に|命・暮らし・安全・幸せを守る|藤田幸久ウェブサイト.
https://www.sangiin.go.jp › touh
戦時中の連合国捕虜使役問題に関する再質問に対する答弁書 - 参議院
参議院議員藤田幸久君提出戦時中の連合国捕虜使役問題に関する再質問に対する答弁書 一の1から3までについて 外交史料館が保管する終戦前の外交記録の中で、御指摘 ...
https://www.sangiin.go.jp › touh
戦時中の連合国捕虜使役問題に関する第三回質問に対する答弁書 - 参議院
参議院議員藤田幸久君提出戦時中の連合国捕虜使役問題に関する第三回質問に対する答弁書 一の1について 現在までの調査において、外交史料館に保管されている終戦前の ...
https://ja.m.wikipedia.org › wiki
藤田幸久 - Wikipedia
藤田 幸久(ふじた ゆきひさ、1950年(昭和25年)4月19日 - )は、日本の政治家。立憲民主党所 ...
出身校: 慶應義塾大学文学部哲学科
出生地: 日本 茨城県 日立市
http://www.powresearch.jp › report
日本政府招聘によるオーストラリア人元捕虜・家族の来日 2013
アメリカ元捕虜との市民交流会2013 (2013年10月16日). | 藤田幸久参議院議員の挨拶 | | ロスランスキーさん< | ジョンソンさん | ヒーアさん | クーン ...
http://archive.dpj.or.jp › news
民主党:【参院予算委】捕虜問題と戦後処理で首相見解質す 藤田議員
2009/03/09 — 藤田幸久議員は9日午後の参議院予算委員会で、捕虜問題と戦後処理について麻生首相の見解を質した。 冒頭、藤田議員は、捕虜問題を大きく進展させる ...
https://mainichi.jp › articles › ddl
元BC級戦犯に給付金を 朝鮮半島出身 立法措置求め /東京 - 毎日新聞
2019/04/25 — 第二次大戦中、朝鮮半島の出身で日本軍の軍属として捕虜監視などに従事 ... 藤田幸久参院議員(立憲)も「政
https://news.yahoo.co.jp › byline › s...
アンジェリーナ・ジョリーが今またブラピのDVを持ち出すワケ。元夫へ ...
2022/10/06 — そしてついに念願の平等な共同親権が実現したのだが、それに不満なジョリーは、裁判を担当した判事がピットの弁護士とビジネス関係にあったことを ...
https://news.yahoo.co.jp › articles
アンジェリーナ・ジョリーにDV被害を訴えられたブラピは事実無根を ...
2022/10/06 — 今回の裁判は、ピットが今年2月にジョリーを相手取り起こした裁判のカウンター訴訟。ピット側は、南フランスに夫婦で共同購入したワイナリーをジョリーが ...
https://www.vogue.co.jp › article › a...
授賞式でブラッド・ピットに召喚状を手渡そうとしていた。 - VOGUE
2022/08/01 — アンジェリーナ・ジョリーの弁護団は、SAG(全米映画俳優組合)賞や ... に元パートナーであるジェイソン・サダイキスとの親権を巡る裁判に関する書類 ...
https://www.vogue.co.jp › article › a...
アンジェリーナ・ジョリーがブラッド・ピットを提訴。離婚の ...
2022/10/05 — アンジェリーナ・ジョリーが、ブラッド・ピットからのDV被害を訴える文書を ... 南フランスのワイナリー、シャトー・ミラヴァルをめぐり、泥沼裁判を ...
https://front-row.jp › ...
ブラッド・ピット、ドロ沼離婚裁判中のアンジェリーナ・ジョリーを ...
2022/02/18 — 共同経営する南フランスのワイナリー「シャトー・ミラヴァル」の持ち分を違法に売り払ったとして、ブラッド・ピットが別れた妻のアンジェリーナ・ ...
https://www.tvgroove.com › ...
アンジェリーナ・ジョリー、ブラッド・ピットと共同所有してい ...
2022/07/27 — 親権裁判と同様、この裁判もドロ沼化。ジョリーがブラッドや彼のビジネスマネージャー、ブラッドの会社で
https://www.sangiin.go.jp › touh
米国同時多発テロに関する第三回質問に対する答弁書 - 参議院
内閣総理大臣 福田 康夫. 参議院議長 江田 五月 殿 参議院議員藤田幸久君提出米国同時多発テロに関する第三回質問に対し、別紙答弁書を送付する。
https://www.sangiin.go.jp › to...PDF
参議院議員藤田幸久君提出米国同時多発テロに関する質問に対し
参議院議員藤田幸久君提出米国同時多発テロに関する質問に対する答弁書. 一について. アル・カーイダは、その思想に共鳴する者や支持者等と漠然と連携した組織であり、 ...
https://y-fujita.com › archives
9.11への取り組みは犠牲者の視点から | 藤田幸久
2001年9月11日の同時多発テロから8年以上が過ぎました。私がこの問題を取り上げてきたのは、24人の日本人犠牲者を含む3千人近い無実の人々の命が失われたにも拘らず、その ...
https://y-fujita.com › archives
9.11の検証を求めた10日の質問の真意 | 藤田幸久
2008/01/14 — また、日本政府は、日本人24名が9.11同時多発テロで犠牲になり、従って、「テロとの戦いは他人事ではない」といった答弁を繰り返してきましたが、 ...
https://www.amazon.co.jp › 9-11テ...
9.11テロ疑惑国会追及―オバマ米国は変われるか 単行本 - アマゾン
Amazonで藤田 幸久, デヴィッド・レイ・グリフィン, きくち ゆみ, 童子 丸開, ... 民主党の国会議員、藤田幸久氏による国会での911同時多発テロへの疑惑追求の活動の ...
https://www.j-cast.com › 2010/03
民主・藤田国際局長米紙に反論 「同時テロ陰謀論言っていない」
2010/03/09 — 民主党・藤田幸久国際局長は反米志向があり、同時多発テロの陰謀論まで示唆した――。こんな内容の社説を米ワシントン・ポスト紙が掲載し、波紋が広がっ ...
https://s.kakaku.com › search › key...
「9.11テロ疑惑国会追及」に関連する情報 | テレビ紹介情報 - 価格.com
民主党・藤田幸久議員が去年出版した、9.11同時多発テロのアルカイダ犯行説に疑問をぶつけた本。 藤田議員の「9.11テロは陰謀」発言が波紋を呼んでいることから、この本が ...
Wikipedia
https://ja.m.wikipedia.org › wiki
渡邊睦裕
渡邊 睦裕(わたなべ むつひろ、1918年1月18日 - 2003年4月1日)は、大日本帝国陸軍の軍人。近衛歩兵第一連隊所属。最終階級は軍曹、ポツダム曹長。
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