2014年11月12日水曜日

金閣寺にロックオン!(爆wwwwww

福田みどりさんが死去…司馬遼太郎さんの妻
2014年11月12日 20時11分

作家の司馬遼太郎さんの妻で、司馬遼太郎記念財団名誉理事の福田みどり(ふくだ・みどり)さんが12日午後0時15分、心不全で死去した。

85歳だった。告別式は14日午後1時、同市下小阪3の11の18の同財団。喪主は弟で同財団理事長、上村洋行(うえむら・ようこう)氏。

大阪府生まれ。1949年、産経新聞社に入社。同じ文化部記者だった司馬さんと59年に結婚後、64年に退社。人気作家となった司馬さんを支え国内外の取材旅行にも同行した。

96年に司馬さんが死去した後、同財団理事長を2012年まで務めたほか、東大阪市の司馬遼太郎記念館の運営にあたった。

著書に「司馬さんは夢の中」(中央公論新社)など。
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20141112-OYT1T50128.html?from=ytop_ymag

これもまたドンピシャですなあ・・・(爆wwwwww



戦地からの復員後、生野区猪飼野東五丁目8にあった在日朝鮮人経営の新世界新聞社に大竹照彦とともに入社。1946年(昭和21年)、ふたたび大竹とともに新日本新聞京都本社に入社。同僚に青木幸次郎がいた[4]。このころから30歳を過ぎたら小説を書こうと考えるようになる。大学、宗教記事を書いたが、社は2年後に倒産、産経新聞社から「外語大卒だから英語くらいできるだろう」と誘われ、英語がまったくできないにもかかわらず「できます」と応じて京都支局に入る。入社して1か月も経たない1948年(昭和23年)6月28日午後、福井地震が発生し、その日のうちに福井の取材に行く。同年11月歌人川田順の失踪事件を取材、「老いらくの恋」という見出しを付け流行語になる。
翌年大阪本社に異動。1950年(昭和25年)には金閣寺放火事件の記事を書いた。このころ京都の寺社周り・京都大学を担当し、その結果京都の密教寺院で不思議な僧侶らと出会ったり、石山合戦のときの本願寺側の兵糧方の子孫の和菓子屋と話したり、京都大学で桑原武夫貝塚茂樹らの京都学派の学者たちに取材したりするなど、後年の歴史小説やエッセイを執筆する種となる出会いがあった。このことは後年の自筆の回想記(多く『司馬太郎が考えたこと』に所収)に記されている。その後文化部長、出版局次長を務めた。
同年に大阪大学医局の薬剤師と見合いにより最初の結婚。1952年(昭和27年)に長男が誕生するが、1954年(昭和29年)に離婚。長男は実家の福田家に預けられ祖父母に養育される。この結婚及び、誕生した息子のことは、公的には一切公表されず、司馬にとって「隠したい過去」であったのではないかと思われる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/司馬遼太郎


金閣寺放火事件(きんかくじほうかじけん)は、1950年7月2日未明に、京都府京都市上京区(当時[1])金閣寺町にある鹿苑寺(通称・金閣寺)において発生した放火事件である。アプレゲール犯罪の一つとされた。

1950年7月2日の未明、鹿苑寺から出火の第一報があり消防隊が駆けつけたが、その時には既に舎利殿から猛烈な炎が噴出して手のつけようがなかった。幸い人的被害はなかったが、国宝の舎利殿(金閣)46坪が全焼し、創建者である室町幕府3代将軍、足利義満の木像(当時国宝)、観音菩薩像、阿弥陀如来像、仏教経巻などの文化財6点も焼失した。
鎮火後行われた現場検証では、普段火の気がないこと、寝具が付近に置かれていたことから、不審火の疑いがあるとして同寺の関係者を取り調べた。その結果、同寺子弟の見習い僧侶であり大谷大学学生の林承賢(本名林養賢・京都府舞鶴市出身・当時21歳)が行方不明であることが判明し捜索が行われたが、夕方になり寺の裏にある左大文字山の山中で薬物のカルモチンを飲み切腹してうずくまっていたところを発見され、放火の容疑で逮捕した。なお、林は救命処置により一命を取り留めている。

動機

逮捕当初の取調べによる供述では、動機として「世間を騒がせたかった」や「社会への復讐のため」などとしていた。しかし実際には自身が病弱であること、重度の吃音症であること、実家の母から過大な期待を寄せられていることのほか、同寺が観光客の参観料で運営されており僧侶よりも事務方が幅を利かせていると見ていたこともあり、厭世感情からくる複雑な感情が入り乱れていたとされる。
そのため、この複雑な感情を解き明かすべく多くの作家により文学作品が創作された(詳細は後述)。一例として、三島由紀夫は「自分の吃音や不幸な生い立ちに対して金閣における美の憧れと反感を抱いて放火した」と分析したほか、水上勉は「寺のあり方、仏教のあり方に対する矛盾により美の象徴である金閣を放火した」と分析した。
また、服役中に統合失調症の明らかな進行が見られた(詳細は後述)ことから、事件発生当時既に統合失調症を発症しており、その症状が犯行の原因の一つになったのではないかという指摘もある。

その後の経緯

事件後、林の母親は京都市警による事情聴取のため京都に呼び出され(禅宗の僧侶であった父親はすでに結核により他界)、捜査官から事件の顛末を聞くこととなったが、その衝撃を受けた様子から不穏なものを感じた警官は実弟を呼び寄せて付き添わせた。しかし、実弟の実家がある大江[2]への帰途、山陰本線の列車から亀岡市馬堀付近保津峡に飛び込んで自殺している。
林の精神鑑定を行ったのは後に国立京都病院精神科を設立し医長となる加藤清である。1950年12月28日、京都地裁は林に対し懲役7年を言い渡されたのち服役したが、服役中に結核統合失調症が進行し、加古川刑務所から京都府立洛南病院に身柄を移され入院した後の1956年3月7日に病死した。

親子の墓は親戚のいた舞鶴市安岡にあるが、墓は今[いつ?]も清掃され花が手向けられている。





1922年4月3日、源太郎自身がかつて社長をつとめた京都鉄道の国有化後の後身である山陰本線の園部発京都行き列車に乗車中、清滝付近(現在の嵯峨嵐山津峡間付近、今はトロッコ列車嵯峨野観光鉄道嵯峨野観光線)の線路となっている)の保津川橋梁上で起きた脱線事故に巻き込まれ、列車もろとも保津川へ転落して亡くなったとされている(嵐峡にて列車脱線転覆1922年4月4日付大阪朝日新聞)。実際には亀岡駅周辺の土地所有に絡む利益誘導に怒った地元民によって暗殺されたという説がある。





で、金閣寺と言えば・・・











、、、(爆wwwwwwwwwwww

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

京都学派

匿名 さんのコメント...

西園寺が最近気になってしょうがありません