日独伊三国同盟への関与
白鳥は大島と連携して防共協定強化、つまり日独伊三国同盟の推進を図った。イタリア赴任前には同盟に反対する叔父の石井菊次郎に対して、「叔父の外交は古い」といいはなっている[39]。しかし三国同盟には反対派も多く、「薄墨色の外交」を基本理念としていた有田八郎外相も積極的に推進するつもりはなかった[40]。また日本政府としては同盟はあくまでソ連に対抗するためのものであり、英米に対してはイタリアとの連携によって牽制する程度の意味しかなかった[41]。しかしドイツは対象を限定しない一般的同盟を求め、白鳥と大島はその代弁者となった[42]。白鳥は「自分たちに都合のいい虚偽」を独伊に押しつければ、「帝国の道義的外交」の瑕疵となると主張し、日本側の目的達成よりも独伊の要求に沿うことで、同盟締結を優先するよう主張していた[43]。また交渉が停滞すると、たびたび自分を本国に召還するよう要請し、本国政府に対して圧力をかけた[44]。本国の指示に従わない白鳥らに対し、若干譲歩するものの、同盟は基本的にソ連を対象としたものであることを説明するよう訓令したが、白鳥らはこれも無視した[42]。米内海相は「政府の威信いずこにありや、政府の命に従わぬような大使は宜しく辞めさすのが至当なるべし」としたものの、政治状況は両大使を罷免できる状況ではないと嘆いた[45]。3月22日には五相会議が「すぐに有効な軍事援助はできない」という意図を伝えるよう決定し、もし両大使が従わない場合は召還するという方針を決めた。これを昭和天皇に上奏すると、天皇は「その旨を文書にするべし」と指示し、五相会議のメンバーによる念書が天皇に提出されている[45]。しかし白鳥らは訓令を拡大解釈し、独伊が英仏に対して宣戦する場合は、日本も宣戦すると明言した[45]。
この行為に天皇は、白鳥らの行為が天皇大権を侵すものであると激怒した[46]。米内海相は両大使を召還するべきだと主張したが、平沼騏一郎首相は召還しても無駄だと言うばかりであった[46]。有田外相も日本の外交を運営しているのは白鳥と大島だと、グルー米大使にこぼしている[46]。以降、五相会議は白鳥と大島に訓令を送らないことを決め、同盟交渉は停滞することになった[46]。
交渉の遅延にいらだったリッベントロップ外相は、1939年4月20日に「日本との同盟締結があまり難航するなら、ソ連との不可侵条約を結ばざるを得まい」と恫喝まがいの発言をした。大島は単なるブラフと受け取ったが、白鳥はこれを本格的な警告と受け取った[40][47]。有田外相は白鳥の意見を聞き入れなかったが[40]、8月に独ソ不可侵条約が締結された。これにより三国同盟交渉は一旦白紙となったが、白鳥はこの頃から日独伊にソ連を加えた同盟関係を志向するようになり、「日独伊ソ四国によるユーラシアブロック構想」を考えるようになった[48][49]。日本では平沼内閣が総辞職した。元老西園寺公望は次の内閣の課題として「一切の掃除を断行」し、「大島・白鳥の輩を召還せしむるを可とす」と語っており[50]、新任の野村吉三郎外相は白鳥、次いで大島を召還し、革新派の栗原をスイス大使に転出させた[51]。
1978年(昭和53年)10月17日、靖国神社の合祀祭にて昭和殉難者として合祀された。その際昭和天皇が富田朝彦宮内庁長官に対し「A級が合祀されその上 松岡、白取(白鳥)までもが」、「私はあれ以来参拝していない それが私の心だ」と述べ、白鳥の合祀に不快感を示したという、富田メモが2006年に発表され、話題となった[74]。
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2 件のコメント:
この当時、東大の東洋史学者にろくなの無し
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