重文の山門、スタンプでつけた5か所の落書き
2014年05月01日 12時00分
滋賀県甲良町池寺の西明寺で30日、重要文化財の「二天門」の柱や横木などにスタンプでつけた5か所の落書きがあるのが見つかった。
彦根署は、器物損壊事件として捜査している。
発表では、同日午前7時30分頃、寺で掃除を担当している人が落書きを発見。いずれもスタンプで、「東京 小岩 こすげ」(縦6センチ、横1センチ)との文言で共通していた。同寺によると、29日早朝には異変がなかったという。
二天門(間口約7・5メートル、奥行き約3・9メートル)は1407年の建立。国宝の本堂などに通じる入り口にあたる。室町時代の山門の様式を備えているとして重要文化財に指定されており、入り口の両脇には持国天像と増長天像が奉られている。
また、東近江市の百済寺でも、仁王門で1か所、同じ落書きが見つかった。
2014年05月01日 12時00分
http://www.yomiuri.co.jp/national/20140501-OYT1T50058.html
百済寺(ひゃくさいじ)は、滋賀県東近江市にある天台宗の寺院。山号を釈迦山と称する。本尊は十一面観音、開基(創立者)は聖徳太子とされる。金剛輪寺、西明寺とともに「湖東三山」の1つとして知られる。
歴史琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西山腹に位置する。寺伝によれば、推古天皇14年(606年)、聖徳太子の建立という。聖徳太子は当時来朝していた高麗(高句麗)の僧・恵慈とともにこの地に至った時、山中に不思議な光を見た。その光の元を訪ねて行くと、それは霊木の杉であった。太子はその杉を、根が付いた立ち木のまま刻んで十一面観音の像を作り、像を囲むように堂を建てた。これが百済寺の始まりであるといい、百済の龍雲寺にならって寺を建てたので百済寺と号したという。百済寺の史料上の初見は11世紀の寛治3年(1089年)であり、聖徳太子創建との伝承がどこまで史実を反映したものかは不明であるが、百済寺という寺号から見て、この寺は渡来系氏族の氏寺として開創された可能性が高い。平安時代には、近江国の多くの寺院と同様、比叡山延暦寺の勢力下に入り、天台宗の寺院となっている。
平安時代から中世にかけて、かなりの規模をもった寺院だったようだが、明応7年(1498年)の火災で全焼し、その数年後の文亀3年(1503年)の兵火でも焼け、この2回の火災で創建以来の建物ばかりでなく、仏像、寺宝、記録類なども大方焼けてしまった。さらに天正元年(1573年)には織田信長の焼き討ちに遭い、またも全焼している。当時、この地に勢力をもっていた佐々木氏の一族六角氏は、観音寺城の支城である鯰江城(なまずえじょう)を百済寺の近くに築いていた。信長は自分と敵対していた佐々木氏に味方するものとして、百済寺を焼き討ちした。本堂をはじめ現在の建物は近世以降の再興である。
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