湯川秀樹博士が愛した黒板 米国で使用、阪大に移設
朝日新聞 小堀龍之 2014年5月2日22時22分
日本人で初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士が米国で愛用していた黒板が、ゆかりのある大阪大へ移設された。大学院理学研究科(大阪府豊中市)の建物内の共用スペースに説明パネルとともに設置され、5月2、3日の学園祭で一般に公開される。
湯川博士は1933~39年に阪大の前身の大阪帝国大に勤務し、「中間子論」を発表。米コロンビア大客員教授だった49年にノーベル物理学賞を受けた。黒板は同大で使われていたが、改修工事で廃棄されそうになり、3月に阪大が譲り受けた。学生や教員が数式を書いて議論するのに使っており、「使い心地がよい」と評判という。阪大の橋本幸士教授(理論物理学)は「本来は博物館に展示されるような貴重な黒板。学生に学業の意欲を高めて欲しい」と話す。
http://www.asahi.com/articles/ASG4X41PVG4XPLBJ003.html
ある意味、おいらがブログを書き始めた目的がもう完全に達成されてしまったわけですが・・・(爆wwwww
小川 琢治(おがわ たくじ、明治3年5月28日(1870年6月26日) - 昭和16年(1941年)11月15日)は、日本の地質学者、地理学者。和歌山県田辺市出身。
家族長男の小川芳樹は冶金学者。次男の貝塚茂樹は東洋史学者。三男の湯川秀樹は、物理学者。四男の小川環樹は、中国文学者。五男小川滋樹(ますき)は、第二次世界大戦で戦病死している。孫に経済学者の貝塚啓明(次男茂樹の子)がいる。
知恩院(ちおんいん)は、京都府京都市東山区にある浄土宗総本山の寺院。山号は華頂山(かちょうざん)。正式な寺号は華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざん ちおんきょういん おおたにでら)。本尊は法然上人像(本堂)および阿弥陀如来(阿弥陀堂)、開基(創立者)は法然である。
旧制第三高等学校(きゅうせいだいさんこうとうがっこう)は、京都市および岡山市に所在した旧制高等学校。略称は「三高」。現在の京都大学総合人間学部および岡山大学医学部の前身である。1894年に第三高等中学校(1886年設立)を母体として発足し、初代校長は折田彦市。
三高の淵源は、1869年に大阪で設立された舎密局に求められる。第三高等中学校時代の1889年に京都に移転した。東京の第一高等学校(一高)が「向陵」を称したのに対し、神楽岡(吉田山)の麓にあることから「神陵」を称した。また、一高が「自治」を標榜したのに対し、三高は「自由」を掲げた。
第三高等学校に至る教育機関の起源は、明治2年5月1日(新暦:1869年6月10日)に大阪で設置された「舎密局」(せいみきょく)に求められる。のちに三高の歴史は1869年を起点に綴られ(1950年の廃止までを記した『神陵史』には「第三高等学校八十年史」と副題が付けられている)、三高の創立紀念祭は5月1日に開かれることとなった。
舎密局はその名(「舎密」はオランダ語: chemie(化学)に漢字をあてたもの)が示す通り、理化学を中心とする理科教育を目指す機関であった。学校の名称はその後、「化学所」「理学所」「開成所」と変遷している。
吉田山 - Wikipedia via kwout
要するに・・・・
大本に集まった多くの宗教家たちが伯家の霊統を受け継いでるってのは大嘘。(爆wwwwwwwww
彼らが受け継いでるのは・・・
要するに唐様神道こと吉田家の霊統なわけです。(爆wwwwwwww
だから白川家の予言通り唐様ラインの皇室は2012年以降は滅びるしかないわけです・・・(爆wwwwwwww
で、現本家に関しましては・・・
羽振り完了(爆w | 匿名党 via kwout
既にGODのパワー譲渡済みなわけです・・・(爆wwwwwwww
折田 彦市(おりた ひこいち、嘉永2年1月4日(1849年1月27日)[1] - 1920年(大正9年)1月26日)は、明治時代に活動した日本の教育者・文部官僚。旧制第三高等学校(三高)の初代校長として知られている。その前身校も含めれば約30年間にわたって三高の校長を務め、同校の「自由の学風」を築いたとされる。
嘉永2年(1849年)1月4日 、薩摩藩士折田寧剛の四男として薩摩国鹿児島で生まれた。青年期までの名として彦市のほかに三之丞・権蔵があり、諱は年長であった。少年期には家族の縁に恵まれず、父は安政5年(1858年)に没し、母も慶応元年(1865年)に世を去っている。長兄の年昭に子がなかったため、その養子となっている[3]。
折田は少年時に儒者の平田氏に学び、次いで藩校造士館に入学した。同じ時期、造士館では2歳年上の森有礼が学んでいる。文久2年(1862年)4月、14歳の時に藩主島津茂久(のち忠義)に小姓として出仕。明治元年(1868年)1月、茂久に従って上洛した際、選ばれて岩倉具視の御附役となった[3]。折田を岩倉に推薦したのは、長兄の年昭と親交があった西郷隆盛であるとも[4]、大久保利通であるともされる[5]。
折田は岩倉から厚い信頼を受けた。のちに折田が「系図」に自ら記したところによると、岩倉暗殺の風説が流れた際に随伴して警護に当たったことがあったという[6][7]。戊辰戦争の際には岩倉の伝令役として、東山道鎮撫総督・副総督になった岩倉の二子(岩倉具定・具経)との連絡にあたり、戦闘に参加したこともあったらしい[7]。
一時期、折田は岩倉邸を離れ、神戸の洋学塾「水本塾」で英語を学んだ[8]。岩倉も洋学の必要を認めており、明治元年(1868年)9月に具定・具経を折田に託して長崎に遊学させた。岩倉兄弟と折田は、佐賀藩が設立した致遠館に入学し、グイド・フルベッキに学んだ。フルベッキは長老派教会のオーバーン神学校を卒業、アメリカ改革派教会の宣教師として来日し、当時は長崎の致遠館と済美館で英語を教授していた。
フルベッキは明治2年(1869年)4月に明治政府の招聘により上京したため、岩倉兄弟と折田が彼に学んだ時期は短かった。しかし、フルベッキは宣教師ネットワークを通して日本人留学生の留学斡旋も行っており、折田らの留学にも大きな役割を果たすことになる[9]。
明治3年(1870年)3月、米国留学する具定・具経兄弟の随行者として折田は横浜を出航した。随行者にはほかに、長崎でフルベッキに学んでいた服部一三・山本重輔がいた。5人は政府の資金援助を得られる官費留学生であった[10]。政府が折田に指示したテーマは「制度学」であった[11]。岩倉兄弟と服部・山本はニュージャージー州ニューブランズウィックのラトガース大学の予備校(グラマースクール)に入学したが、折田だけはニューブランズウィックから西へ10km離れたミルストンの町に赴き、エドワード・コーウィン牧師宅に寄宿した[12]。折田だけが別行動になった理由は、折田の英語力不足(岩倉兄弟も同様であったが、彼らには身分があった)、日本人学生を受け入れる下宿探しの困難、定員の制約などが推測されている[13]。歴史学者としても知られるコーウィン牧師は複数の日本人留学生を受け入れており、折田は神田乃武と一時期同居していた[14]。ミルストンで折田は毎日のように教会に通い、聖書の勉強会に参加するようになる[15]。
旧知の森有礼は、当時駐米公使としてアメリカに赴任していた。折田は、森やほかの留学生仲間と頻繁に手紙や書籍のやり取りをしている。原保太郎、最上五郎、戸田氏共などとは親しい交流があったほか、スイスに留学していた同郷の大山巌と文通をしている。
1872年3月、岩倉使節団で訪米した岩倉具視に兄弟の状況を報告するため、折田はワシントンに赴いている。1872年5月、具定は体調不良のため帰国、具経は父とともにヨーロッパに渡り、折田は岩倉兄弟の随員としての制約から解放された[16]。
折田は1872年6月27日にプリンストンのニュージャージー大学(現・プリンストン大学)に合格し、入学する。長老派教会の大学である同校を受験したのはコーウィンの勧めであると言われるが、森有礼も大きく関わっているとされる[17]。折田の入学の際には森有礼がプリンストンまで赴き、保証人としてサインをしている[18]。ニュージャージー大学の1年上には高良二(高良之助)がおり、親交を結んだ。当初は全科目(ラテン語やギリシャ語などの古典語を含む)を履修する正規の学生ではなく「専科生」としての扱いであったが[19]、古典語をはじめとして猛勉強を行い、4年次には正規の学生に認められている[20]。一方で在学中には当時アメリカの大学で流行していたスポーツにも親しんだ。
ニュージャージー大学の学長ジェームズ・マコッシュは、南北戦争後の大学再建に努めた人物であり、「秩序ある自由」のもとで学生の自主性と学習意欲を重んじ、選択科目制を導入した[21]。教育者折田の「自由」の精神は、この留学時代に培われたとみなされている[22]。
卒業を控えた1876年5月28日に、マコッシュの司式によりキリスト教の洗礼を受けている。1876年6月、バチェラー・オブ・アーツ(学士)の学位を得てニュージャージー大学を卒業した。卒業に際しては、成績上位者の中から教員の投票によって選ばれ、式辞を述べる栄誉を得た[23]。なお、のちの1882年7月にマスター・オブ・アーツ(修士)の学位を得ている。
1876年には、米国でフィラデルフィア万国博覧会が開催され、日本政府も出展を行った。この際、折田は博覧会副総裁西郷従道から調査・通訳などへの協力を求められた[24]。大学卒業後の6月に正式に米国費府博覧会御用掛を命じられて2ヶ月間勤務し、西郷ら要人の視察に同行。報労金として150ドルを受領した[25]。折田は博覧会終了後に西郷の許可を得て、博覧会に出品されていた『日本博物誌』を母校に寄贈する[26]。
折田は1876年(明治9年)9月2日にニューヨーク港からアカプルコ号で帰国の途につき、パナマ経由で10月27日に横浜港に帰国した[27]。なお、この船の上で同郷の文部官僚畠山義成(杉浦弘蔵)の死を看取っている。
帰国した折田は、1876年(明治9年)11月16日付で文部省督学局勤務の辞令を受ける[28]。後年折田本人が語ったところによれば、文部省入りは大久保利通の推薦によるというが、残されている日記にはそうした事情は記されていない[29]。折田は学監ダビッド・モルレーの通訳を務め、東京府の学校視察に同行するなどしている[30]。
1878年(明治11年)4月には外務省に入った。これは外務大輔であった森有礼との関係によるものとみられる[31]。なお、この4月に佐登子夫人と結婚している[32]。同年11月4日には二等書記生としてイタリア・ローマ公使館勤務を命じられたが、病のため任地に赴かないまま辞職、文部省に戻った。
1879年(明治12年)10月、体操伝習所主幹に任命され、教育界に入る。この学校は体操指導者を育成する学校であり、ジョージ・アダムス・リーランドが教授として指導に当たっていた。折田の人事について、日本の体育教育の立ち遅れに対して兵式体操の導入を主張していた森有礼との関係を推測する見方がある[33]。折田はその後校長を務める学校で、体操教育の導入に積極的に取り組むことになる。
三高前身校とのかかわり1880年(明治13年)5月7日、31歳の折田は大阪専門学校校長に着任した(前任者は服部一三)[34]。就任当時、大阪専門学校には本科(化学科・医学科)・予科があったが、7月には化学科が廃止されて本科は医学科のみとなった。折田は医学科の拡充を企図し、教室や附属病院の用地の選定にあたるなど、精力的な動きを見せた[35]。しかし同年12月11日、文部省の財政問題などから改組が行われ、大阪専門学校は従来の予科(大学進学のための予備教育機関)を主体とする大阪中学校と なった。折田が拡充を目指していた医学科は消滅し、折田は学生の行き先を求めて奔走することになる。めまぐるしく変わる教育政策に翻弄された折田は、文部 省に対して「事漸く成るに近して……本校改称の挙に遭ひ、企画計画する処頓に全く廃す」と不満をあらわにした年次報告書を提出している[36]。
折田は、寄宿舎の整備、体操教育の導入など学校内容の充実に務めた。大阪中学校は最初の(唯一の)官立中学校であり、文部省からは地方の中学校の模範となることが期待されていた。当時は中学校に関する方針自体が未整備であり、中等教育と高等教育の 接続も定まっていなかった。このため、折田が制定した教則は、その後の中学校のあり方を方向づけ、指導的な役割を果たした。折田は「模範学校」の校長とし て、近隣諸府県や上京出張時の沿道府県の学校の視察にもあたった。折田は中学校を大学に直接接続する学校として整備する一方、大阪中学校を大学相当の教育 機関に発展させることを構想していた。
1885年(明治18年)、折田は大阪中学校校長として「関西大学創立次第概見」を文部省に提出する。これは、大阪中学校を改組・拡張して関西に第二の大学を開設しようとするものである[37]。同年7月、大阪中学校は大学分校と改称され、折田は大学分校校長となった。
文部省学務局長1885年(明治18年)12月、折田は文部権大書記官・学務局次長心得に任命され、大学分校校長を去った(後任は中島永元)。1886年(明治19年)3月には学務局長に就任した。
折田が文部省に呼び戻されたのは、1885年(明治18年)12月に文部大臣に就任した森有礼による文部省の官制改革と人事刷新に伴うものである。森は学校教育制度の改革に着手しており、折田はこの作業に加わっている。1886年(明治19年)3月から4月にかけて諸学校令(帝国大学令・師範学校令・中学校令・小学校令など)が制定された。
この際、大学分校も中学校令に基づいて高等中学校に改組され、1886年(明治19年)4月29日に第三高等中学校となっている。校長は引き続き中島永元が務めた。
第三高等学校校長
現在の京都大学本部構内正門は、1889年に第三高等中学校正門として建設された。
1887年(明治20年)4月、中島永元が文部省に転出し、折田が第三高等中学校の校長に復帰することになった[38]。 第三高等中学校は京都への移転が決定されており、折田はその準備を進めるとともに、本科や医学部の設置を行っている。1889年(明治22年)8月、第三 高等中学校の京都・吉田(現・京都大学本部構内)への移転が完了した。なお、この間の1889年(明治22年)2月11日、森有礼文相が暗殺されている。 旧知であり公私ともに親密な関係にあった森の横死は、折田のその後に影響を及ぼしたと考えられる。
1894年(明治27年)6月23日、第三高等中学校は高等学校令による高等学校に改組、第三高等学校と なり、折田はその初代校長となった。第三高等学校には予科が置かれず、法学部・工学部・医学部が置かれた。これは将来、三高の大学への昇格を視野に入れた ものである。しかし、これにともなって従来の高等中学校の本科・予科はともに解散されることになった。所属していた学生の大部分は各地への離散を余儀なく され、7月7日、最後の卒業証書授与式後「分袂式」を開いて京都を去った。この出来事は折田にも痛恨の出来事として受け止められたようであり、折田は当局 者に対して「人の子供を預かって斯んな残酷なことは出来ない、二度と解散などと云ふ事を遣られるならきっぱりお暇を貰ふ」と言ったと後年回想している[39]。
1897年(明治30年)には京都帝国大学が設立されることとなった。第三高等学校長の折田は、牧野伸顕(文部次官)、木下広次(文部省専門学務局長)、永井久一郎(文部省会計課長)とともに創立委員に任命され、審議にあたっている[40]。文部省内の当初案では三高を昇格して帝国大学にする案もあり[41]、関西への大学新設を働きかけてきた経緯から、折田を京都帝大総長の有力候補とする観測もあったが[42]、結局初代総長には木下広次が就任した。第三高等学校は施設を京都帝国大学に譲渡し、吉田神社参道(東一条通)を隔てて南側の二本松地区(現・京都大学吉田南構内)に移転した。第三高等学校は大学予備教育機関として転換され、予科が復活設置される一方で専門学部は廃止された。
1910年(明治43年)11月、校長を辞任。突然の辞任の理由について折田は語っておらず、はっきりしない。折田は前年還暦を迎えており、おそらく老齢と健康問題によるものと推測されているが[43]、親族の借金の保証人となり結果的に不始末となった出来事があり、これを恥じたためではないかとの推測もある[44]。折田彦市前校長退任式と酒井佐保新校長就任式は11月27日に武道場で行われた。折田は「三高三十年の感想は、わずかな時間に尽くすべくもない。私の生活は第三高等学校であった」と退任の挨拶を述べ、生徒の中には涕泣するものもあったという[35]。
退任後折田は退任後も京都に住んだ[45]。折田は大日本武徳会の副会長を務め[46]、武徳会が運営する武術専門学校(のちの大日本武徳会武道専門学校)の校長を務めている。また、古くから親交のあった(長兄・年昭の親友であった)高崎正風が主宰する道徳団体「一徳会」の副会長などを務めた[46]。
1910年(明治43年)12月27日には貴族院議員(勅選議員)に選ばれ[47]、死去までその席にあった。1911年(明治44年)には錦鶏間祗候となっている。
1912年(明治45年)5月1日の創立記念日に、三高で肖像画(藤島武二画)の除幕式が行われた[48]。1916年(大正5年)、三高に名誉教授の制度が設けられ、同年4月7日[49]、折田に最初の名誉教授の称号が贈られた。
1920年(大正9年)1月26日死去、享年71。当時猛威を振るっていたスペイン風邪によるものである[46]。墓所は三高にほど近い真正極楽寺(真如堂)。
真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)は、京都市左京区にある天台宗の寺院で通称・真如堂(しんにょどう)と呼ばれる。山号は鈴聲山(れいしょうざん)。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は戒算である。
永観2年(984年)、比叡山の僧である戒算が夢告により、比叡山常行堂の本尊阿弥陀如来を東三条院詮子(一条天皇生母)の離宮に安置したのが始まりである(『真如堂縁起』)。正暦3年(992年)一条天皇の勅許を得て本堂が創建されたという。不断念仏の道場として念仏行者や庶民、特に女性の信仰を得てきた。しかし応仁の乱をはじめ度重なる火災により堂塔は焼失した。その後足利将軍家や豊臣秀吉により京都市内の何カ所かを転々としたのち、元禄6年(1693年)、現在の場所に再建された。
本尊の阿弥陀如来は「頷きの阿弥陀」とも呼ばれており、慈覚大師が「修行者を守護して下され」と祈ると首を横に振り、「衆生、特に女性をお救い下され」と祈ると頷いた、という伝説がある。
三井家の菩提寺で三井高利ら三井一族の墓石が並んでいる。お十夜(浄土宗の重要な仏教行事)は、ここが発祥である。
近年は紅葉の名所として人気が高まっており、紅葉期は多くの人が訪れるが、普段は静かな寺院である。
7.新しい同窓会誌から
同窓会報 98 岡 潔先生を支えた三高の力 高瀬 正仁(2003)
okakiyosi
岡潔は和歌山県粉河中学を経て三高で学び、京大理学部数学科を1925年卒業した。卒業と同時に同数学科の講師に就任し、それから同助教授、広島文理科大学助教授の道を歩むが、1940年病気のために文理大を退職. 爾来、郷里で研究に専念するが、1949年奈良女子大学家政学部教授となり1964年定年まで在任した。さらに1969年には京都産業大学にも教授として就任した。1978年3月1日没。
1929年より3年間フランスに留学したが、多変数関数論を生涯の研究分野に定め、ことに1934年暮れこの分野の状況を分析したH.BehnkeとP.Thullen共著の本に接し、この分野に未解決の問題三つが残されていることを知ると、以後終生この解決に研究を集中し、1953年第Ⅸ論文で当初の主要問題すべてを解決した。その功績に対し日本学士院賞をはじめ権威ある各賞が贈られたが、1960年遂に文化勲章を受章した。
この文には功績が認められるに至る友情の経緯も書かれている。
私の三高在学中にも学者としての岡先生への賞賛が聴かれたが、他面、生活面での奇矯さも耳に入ってきた。曰く「靴下が表か裏かは問題にされない」「ほかの先生の講義中でもずかずかと教室に入られて、黒板で計算をされまた出て行かれる」「頭に響くといってゴム長を愛用されている」等々であった。その真偽のほどは知らないが、天才の持つ異常さ、非日常性、非常識さを持っておられたのは事実であろう。この岡を支えた三高の学友たちの友情がこの文に描かれている。九州大学大学院数理学研究院講師 高瀬正仁氏は昭和26年のお生まれで、三高の卒業生ではないが寄稿された。
数学の岡潔先生の評伝の執筆を志してから今年でもう八年になるが、このほどようやく海鳴社より二冊本の評伝が刊行される見通しがたち、この七月に一冊目の『星の章』が書店に並んだ。四・六判で550頁という厚い本で定価も4,000円(税別)と高めだが、口絵に大山忠作(日本画家)の作品「岡潔先生像」を使い、きれいな本ができ上がった。目下、二冊目の『花の章』の原稿を揃えているところであり、年末をめどに刊行したいと考えている。
岡潔先生は20世紀の初年にあたる明治34年(1901年)に紀州和歌山の山村「紀見村」(現在は橋本市の一区域)に生まれた人で、和歌山県粉河中学から三高、京大と進み、「多変数関数論」という数学理論の全容をほとんど独力で 作り上げることに成功した大数学者である。没後四半世紀が過ぎた今日では、数学を学ぶ若い世代の間にも岡先生の名を知るほどの人はきわめてまれになってしまったが、昭和38年から44年頃にかけて『春宵十話』(毎日新聞社)を初めとする一連のエッセイが世に出てたいへん評判を呼んだ一時期もあった。ちょうどぼくの中学、高校時代と重なるが、昭和41年秋、群馬県の地方都市(桐生市)の高校に入学してまもないとき、ぼくは書店の新刊書コーナーで岡先生の自伝風エッセイ『春の草 私の生い立ち』(日本経済新聞社)を見つけ、購入した。これを皮切りに『春風夏雨』(毎日新聞社)『紫の火花』(朝日新聞社)などのほかのエッセイや小林秀雄との対話篇『人間の建設』などを読み進めていくうちに、すっかりファンになってしまい、将来の志望も数学へと傾いていった。しかもその数学の諸分野の中でも岡先生が開拓した多変数関数論が年頭を離れる日はなく、岡先生の論文集を座右の書物にして数学を学び、そのまま今日に至っている。あまつさえこうして八年もの歳月をかけて評伝の執筆に腐心するという成り行きになったのであるから、若い日の読書の影響は思いのほか大きく、当の本人も計り知れない領域にまで及んでいたのである。
『星の章』の守備範囲は岡先生の誕生から三十代の終わりがけまでで、十編の独立した文章で構成されている。三高、京大を通じて六年間の岡先生の学生時代の描写を試みて『松原隆一との別れ(三高と京大)』という作品が得られたが、この時代は数学者「岡潔」の揺籃期であるから重要さも格別で、調査にも一段と力が入った。寮歌を歌いながらの夜ごとの散策、紀念祭、野球の対一高戦等々、簡素だが美しい青春の名場面が打ち続き、三高の魅力は知るほどに増すばかりであった。
岡先生が、三高の理科甲類に入学したのは今から84年前の大正8年9月である。この年の春3月、粉河中学を卒業した岡先生は、7月、三高の入学試験を受けて合格した。成績はすばらしく、700点満点の8割に達する556点を獲得し、志願者総数1852名、合格者287名のうち文理全体で14番、理科では4番であった。大宅壮一(ジャーナリスト)、小川鼎三(脳の研究者)、梶井基次郎(作家)等々、多士済々の同期生たちの中に、岡先生と同じ数学を専攻し、生涯の親友になった秋月康夫先生がいた。この年度から制度が変わり、中学四年終了で高校受験できるようになったが、秋月先生は大阪の天王寺中学から四修で合格した秀才である。京大で岡先生と語り合いながらともに数学を学び、卒業後は長く三高に勤務し、戦後、京大教授に就任した。岡先生の方は中学五年卒業組で、いわゆる「五卒」であった。
昭和二十年代も後半にさしかかり、五十代に入ったころから岡先生の名声は急速に高まり、学士院賞、朝日賞、文化勲章など、日本の学者として最高の栄誉を次々と受けていったが、岡先生は秀才がそのまま堅実に大成したというタイプの学者ではなく、背景には幾分複雑な人生が控えている。岡先生は京大卒業後フランスに留学し、帰朝後、広島文理科大学に勤務したが、昭和13年6月、休職して帰郷してしまい、それから十年余にわたり(一年弱の北大での勤務は別にして)孤高の数学研究に身を投じた。岡先生の生涯の「星の時代」というべき魅力的な一時代であり、岡先生の数学研究はこの時代に神秘的な深みに到達したのである。
そこで僕らの関心を引くのは休職の理由だが、休職のちょうど二年前の昭和11年6月下旬、岡先生は広島で不可解な事件を起こし、新聞沙汰になったことがある。(深夜自宅の近くを通行中の夜間中学生を襲い物品を奪い、殴りつけたりしたという)。誰にも理由のわからない奇妙な出来事だったが、岡先生はこのころからどうも精神の平衡を失いがちで、(脳病院に)入院を余儀なくされるなど危うい日々が打ち続き、一連の経緯の結末として休職、帰郷という事態に立ち至ったのである。岡先生の生涯を通じてもっとも劇的な場面である。
帰郷した岡先生は一途に数学研究に打ち込むばかりで、全く仕事をしなかった。休職中は給与の支給もあったが、帰郷して二年目の昭和15年6月には正式に依願免本官ということになり、収入の道筋が完全に途絶えてしまった。家の資産を切り売りするなどして糊口をしのいだものの、到底足りないところに支援の手をさしのべたのは、三高の同期生、東洋紡績の谷口豊三郎であった。秋月先生の口利きで岡先生の苦境を知った谷口は、谷口工業奨励会からの援助という形にして、昭和15年8月ころから月々百円の支援を続けたのである。昭和36年、岩波書店から岡先生の数学論文集が刊行されたとき、出版費用を援助したのも谷口豊三郎であった。
それでも戦後のインフレでいよいよ生活がたたなくなったとき、岡先生は新制の奈良女子大学に就職したが、斡旋の労をとったのはまたも秋月先生であった。三高校長時代に秋月先生と親しかった落合太郎(仏文学者)が、奈良女子大学の学長に就任したのも幸いした。
岡先生の学問の真価が広く世に認知されていく上で、もっとも強力に作用したのも三高の力であった。岡先生の論文はみな「多変数解析関数について」という通しの表題をもち、第一、第二という風に番号が打たれているが、第六番目の論文までは国内の学術誌に掲載された。どれも数学史上に記録される傑作揃いだが、国内に顧みる人はなく、岡先生はいつまでも無名であった。ところが岡先生は戦中戦後の紀見村時代を通じて一つの数学理論を完成の域に高め、第七番目の論文を書き上げた。昭和23年7月のことである。岡先生はこれを、ボロ服に風呂敷包みを肩に振り分けるという、まるで百姓のような格好をして秋月先生のもとに持参した。折しも同じ三高出身で、京大の学生時代に岡講師の演習を受けた湯川秀樹が渡米する直前のことであった。岡先生の論文は秋月先生から湯川さんに託されて太平洋をわたり、さらに大西洋を越えてパリに運ばれてフランス数学界の機関誌の巻頭に掲載された。これが、数学者「岡潔」が広く世界に認知された初めであり、この評判が逆に日本に伝播して数々の栄誉に反映したのである。三高のチームワークのたまものというほかはなく、岡先生の生涯の中でも際立って感銘の深い出来事である。
昭和24年7月12日の日付で紀見村の岡先生に書かれた秋月先生の手紙が残っている。秋月先生は米仏両国で第七論文が評判になっていることを伝え、その上で「兎に角、奈良に落ち着かれて数学の御研究に打ち込まれんことを私として只管御願い致します』『外からの雑音には関はりなく君独自の御思案に専心して下さいますよう願い上げます」と申し出た。岡先生もこれに応え、「秋月君の手紙は直情のにじんだよい手紙である」と日記に書き留めた。ここにもまた三高の友情が生きている。
岡先生の学問と人生を生涯にわたり陰に陽に支え続けたのは有形無形の「三高の力」である。孤高の数学者岡先生は決して孤独ではなく、三高の友情のエーテルに包まれていたのである。(数学者・数学史家)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tbc00346/component/new_book2.html
YUDAYAKUZAの手羽先さん曰く・・・
、、、(爆wwwwwwwww
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10 件のコメント:
オーロラ作戦
Aurora site:tokumei10.blogspot.com
まとめお疲れ様です。
いつもながらの直球w
自分は辿れて吉田(応仁以前)までかな。
行間と古典(疑ってかかる)と英語がよめないから、難しい。
>だから白川家の予言通り唐様ラインの皇室は2012年以降は滅びるしかないわけです・・・(爆wwwwwwww
>既にGODのパワー譲渡済みなわけです・・・(爆wwwwwwww
これをちゃんと聞いてちと安心w
しかしながら更なる追求は続く^^
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E6%94%BF%E5%BD%A6%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E5%8A%9B%E9%81%93%E5%B1%B1%E3%82%92%E6%AE%BA%E3%81%95%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B
そういえばこの本、近所の古本屋に時期がずれて両方とも置いてあったなあw
速攻でどちらも売れたようですが
>夫人 湯川スミ
世界連邦 エスペラント
http://www.tbtcf.com/shinryo/
YUKAWA STORY (1954)
https://archive.org/details/gov.archives.arc.53506
Japan 1985
On 13 August 1985, a Japanese Air Lines jumbo jet crashed into a mountain range, killing 517 passengers and crew, and making the accident the worst air crash involving a single plane.
Miraculously there were three survivors. More could have been saved as they heard the groans of other survivors. One even heard the cries of their father and sister who later perished. The plane had crashed at about 7 pm, just after it got dark. But the Japanese rescue workers did not arrive on the scene until dawn the flowing morning because neither the civilian nor military rescue workers had night rescue equipment.
US military rescue teams at an American airbase less than half-an-hour away had the necessary night rescue equipment, which had been developed during the Vietnam War. American authorities informed the Japanese government that they had the equipment and the men sat up all night waiting for the call. But the US offer of help was not accepted - as a result of Japanese national pride, it is thought.
The crash led to ground-breaking court case. On board was Akihisa Yukawa, a wealthy executive of Sumitomo Bank. While his two legitimate sons received £900,000 compensation from JAL and Boeing, his illegitimate daughter fifteen-year-old violin prodigy Diana Yukawa, and her sister seventeen-year-old Cassie, a talented pianist, were offered scholarships worth less that £300 a month. The sisters sued so that they could continue their studies at the Royal College of Music.
Using DNA testing to prove their relationship to the dead banker, they won a ruling in a British Court. However, the case has yet to pass to the courts in Japan, where illegitimacy is still considered a source of shame.
"100 Catastrophic Disasters" "By Nigel Cawthorne"
湯川秀樹 知恩院
"Is that papa's plane...?"
Violinist and composer Diana Yukawa on her relationship with the Japanese song Sukiyaki
Release date:7 April 2016
http://www.bbc.co.uk/programmes/p03q9723
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