2012年6月23日土曜日

山窩ことサンカと「氷川の大法螺吹き」(アラハバキ編)


の続きです。(w


→勝海舟


→氷川の大法螺吹き







生い立ち
文政6年(1823年)、江戸本所沢町の生まれ。父・小吉の実家である男谷家で誕生した。
曽祖父・銀一は、越後国三島郡長鳥村貧農の家に生まれた盲人であった。江戸へ出て高利貸し(盲人に許されていた)で成功し巨万の富を得て朝廷より盲官の最高位検校を買官し「米山検校」を名乗った。銀一は長男の忠之丞に御家人男谷(おだに)家の株を買い与えた]。男谷平蔵の三男が海舟の父・勝小吉である。小吉は三男であったため、男谷家から勝家に婿養子に出された。勝家は小普請組という無役で小身の旗本である。勝家は天正3年(1575年)以来の御家人であり、系譜上海舟の高祖父に当たる命雅(のぶまさ)が宝暦2年(1752年)に累進して旗本の列に加わったもので、古参の幕臣であった。
ja.wikipedia.org/wiki/勝海舟


【勝甚三郎元良】 かつ じんざぶろう もとよし 明和3(1766)年~文化5(1808)年
家禄: 41俵1斗2合6勺9才、2人扶持 (約五千二三百家の御旗本に家録50俵以下が百家強も存在した)勝甚三郎元良は青木左京長国の三男で、のぶ(信。夢酔の妻、海舟の母)の父御旗本、御持格 支配勘定(引下勤)支配勘定は御旗本ではなく御家人の役で、引下勤(ひきさげづとめ)は家格以下の役を務める事(引下勤は幕府の足高抑制政策であり、旗本にとっても無役の小普請に甘んじるよりは体面を保てた)
勘定奉行---勘定組頭---勘定役---支配勘定---支配勘定見習、が職制
瀧村鶴雄(小太郎、御勘定・表右筆・裏右筆から維新後静岡藩士)の【海舟傳稿】や、【武鑑】等に拠ると;
勝の名前は先祖の地、近江国坂田郡勝村(滋賀県長浜市勝町)に由来し、太郎季時(すえとき)が勝を名乗る。その後12代を経て三河国に移り、更に6代後の天正3(1575)年、夢酔の6代前の市郎左衛門時直が三州岡崎で御鉄砲玉薬組同心として徳川家に仕え、天正18(1590)年に家康に従い関東へ移り武州四ッ谷村に居屋敷を賜う。
つまり勝家は三河以来の直参御家人で宝暦2(1752)年、市郎右衛門命雅(のぶまさ、甚三郎の母方祖父、夢酔の3代前)が御旗本に昇進する(材木石奉行、廣敷番之頭)。
市郎右衛門の娘が旗本青木左京に嫁ぎその息子・甚三郎が、母の弟で勝家当主・安五郎(大御番)の養子となり勝家を継ぐが、甚三郎は実父・青木左京邸内に同居した。 
(青木家は左京の惣領・甚平滿眞が継いだ。下図は伊能忠敬の江戸府内実測図、文化13年)文化5(1808)年、甚三郎没す(小吉が勝家と養子縁組した時、養父母の甚三郎と妻は既に他界)。
急遽、甚三郎の末期養子として小吉(亀松=男谷左衛門太郎惟寅)が勝家と養子縁組するのだが、甚三郎の頭が判元見届(はんもとみとどけ)で7歳の亀松少年に「年は幾ツ 名はなんといふ」と尋ね、「小吉 年は当十七歳」と答えて苦笑される。
末期養子の判元見届は、双方の氏素姓、病床の養父の生存確認そして縁組意思を見届けるのであろうが、甚三郎は亡くなっているし、小吉は必須家督年齢(武家諸法度での云わば元服年齢)17歳を欠くこと10歳、非常に融通の利いた見届が罷り通っていたのである。
尚、小吉が不仲だった義祖母が、甚三郎の養父(勝安五郎)の姉、甚三郎の実父(青木左京)の妻であろう。
http://dokugen.web.fc2.com/top/nempu/jinzaburou.html


→勝海舟の父 = 勝亀松

【男谷平藏忠恕】 おだに へいぞう ただひろ 宝暦4(1754)年~文政10(1827)年

生国: 武蔵、 家禄: 100俵、 拝領屋敷: 木挽町築地(文化年間初期、右図、現在の中央区築地2-4-1


当分下谷金杉村中村(荒川区東日暮里4丁目の根岸寄り)百姓惣七地面借地


米山検校(男谷検校)こと山上鋃一(ろういち)の息子(九男?)
安永5(1776)年: 西丸御持筒組与力として新規御抱(御家人、家禄100俵)に際し男谷に改名か
天明6(1786)年: 御勘定吟味役(150俵高)、御旗本に昇進          ?男谷忠七(延宝年間)@小川町(西神田3-2)?
享和3(1803)年: 御勘定吟味役組頭(350俵高 、武鑑に家禄: 100俵、屋敷: 神田佐柄木町=須田町と多町の境い辺り)
文化9(1812)年: 同御殿詰(御殿勘定所勤務)、武鑑に屋敷: 本所相生町三丁目(墨田区両国4-25-1から2、と12から17)
文化10(1813)年: 退職
文政10(1827)年6月9日: 卒


長男・彦四郎思孝(燕斎)(御勘定、御代官から西丸裏御門番頭)が家督相続
二男・忠蔵は200俵の御旗本・松坂源太郎則信の婿養子に這入り、松坂三郎左衛門則方(久斎)を名乗る三男・左衛門太郎惟寅(小吉・夢酔)は41俵の御旗本・勝家へ養子に這入る四男・鉄朔(夢酔は弟と記す)は不詳(年齢から男谷忠友が記す美濃部栄助であろう)五男?町田三右衛門

男谷検校が息子・平蔵に【御家人株】を買い与え武士にしたと伝わるが、その5年前に検校は没しているし、亦そんな株券が存在した訳ではなく、相続者が無く且つ金銭的に困窮している武家と、持参金を以って養子縁組をしたのである
与力の相場は五百両から千両だったされるが、蘇峰や山下石翁と云う人に拠れば検校は平蔵に3万両を与えたと云う。
越後から江戸へ出た農民の倅が終には御旗本となるには、金銭のみならず倅・平蔵もそれなりの努力をしたであろう。
平蔵の祖父・山上徳左衛門の先祖は、近江国神崎郡山上滋賀県東近江市山上)で武田家に仕えた武士とされる
(偶然であろうが不思議にも勝家の先祖も近江国の勝村出身で、十里と離れていない

男谷検校は生地の越後国三島郡長鳥村平沢(新潟県柏崎市東長鳥平沢)から全盲で江戸へ来たとする説が流布しているが、
徒歩しか手段がない時代に越後から江戸まで全盲で歩けるとは考え難い
厳本善治は雑誌【少年世界】(第3巻 第11号、明治30年5月15日、博文館)で山下石翁の話として、江戸へ出て「此人後遂に盲目となりし」と記している。

亦、江戸へ出て行き倒れになった男谷検校を奥医師・石坂宗哲が助けたとする説も多いが、有り得ない戯言。石坂宗哲は鍼灸や経絡で高名な医師で、明和7(1770)年の生まれ、天保12(1841)年卒。 甲府の町医師、寛政9(1797)年幕命で甲府医学所を設立、寛政末か享和に幕府の医師、その後に御殿医(奥鍼治・鍼灸奥医師、御番料百俵)、法眼となる。
男谷検校は明和8(1771)年に没したとされるが、その頃石坂宗哲は生まれたばかりの赤ん坊が史実。
蘇峰徳富猪一郎の【勝海舟傳】には「奥医師たる石坂家」と姓のみあるが、石坂志米一と云う検校が同時代に存在する。亦、山下石翁は、「二千石を領せる旗本 石井某が雪いたく降る中を登城、雪中に倒れる男を助け」と述べている。
(「(検校の)末子は勝氏の旗本株を求め、これ海舟翁の祖父君」ともしているので、話の信頼性に疑問も残る)
男谷検校本人は「乍恐書付を以奉願候」で始まる【鍼道指南学校設立嘆願書】に、親元不如意なので幼少より江戸表へ出て、医師・嶋浦惣検校の弟子となり、養子でもあると書いている。
http://dokugen.web.fc2.com/top/nempu/heizou.html


男谷家の先祖も近江国

勝家の先祖も近江国  







まあ名前でモロバレですが勝海舟はサンカです。(w

で、氷川ですが・・・










富士山と筑波山を結んだ線と、浅間山と冬至の日の出を結んだ線の交差地点に位置する。また、大宮の氷川神社・中川の中氷川神社(現 中山神社)・三室の氷川女体神社が浅間山と冬至の日の出の線上に一直線に並ぶことから、この三社が男体社・女体社・簸王子社として一体の氷川神社を形成していたという説がある。



氷川神社の摂社に「門客人神社」があり、元々は「荒脛巾(あらはばき)神社」と呼ばれていたもので、アラハバキが「客人神」として祀られている。このアラハバキ社は氷川神社の地主神である[2]。現在祀られている出雲系の神は、武蔵国造一族とともにこの地に乗り込んできたもので[3]、先住の神がアラハバキとみられる[2]。

ja.wikipedia.org/wiki/氷川神社







アラハバキ(荒覇吐、荒吐、荒脛巾)


→オリオン座


→北斗七星

即ち妙見信仰。



→蛇神 = 龍神




→鋳鉄製の灯篭


→「ハバキ」は山伏が神聖視する「脛巾」に通じ




で、このサンカ=山伏=亀といふ本質をミスリードするために必死にダイバーションされてるテロカルトサマナの方々が・・・



ジョウモンガー!とかエミシガー!とか必死に頑張っておられるわけです。(爆w

おまけ。

11 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

祇園暴走事故(死傷者18人)立命館大学文学部中退藤崎晋吾容疑者

浦安市女性看護師殺害事件 立命館大学情報理工学部卒業西岡大志容疑者

勤めていた会社?
ttp://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:http://www.qualica.co.jp/saiyo/saiyo_new/introduction/development.html

てんこもり野郎 さんのコメント...

こりゃまた偶然ですなあ・・・(w

クオリカ株式会社
主要株主 ITホールディングス株式会社 80% コマツ 20%

ITホールディングス株式会社の旧住所と
登記簿にあるAIJ投資顧問株式会社の旧住所、
→日比谷ダイビル13F

、、、(爆w

で、犯行現場は紳士服の青山の上。
青山商事本店は広島県福山市。
福山市と言えば
失踪した椿弁護士@OHT
先日公認会計士が・・・
プリンスホテル火災事件@箱根商事→MOAとか(w

匿名 さんのコメント...

>サンカ=山伏=亀といふ本質をミスリード
>ジョウモンガー!とかエミシガー!

ますますワケワカメになってきたw
山家=外来、縄文蝦夷=在来 ですよね? 
亀 蛇 でググルと、確かに妙見祭りが、

匿名 さんのコメント...

>山家=外来、縄文蝦夷=在来

蝦夷=外来 でわ?

匿名 さんのコメント...

生粋の外来種はイエズス会w

匿名 さんのコメント...

今の蝦夷も熊襲も時とともに色々混じってしまってて
生粋の在来種なんて実は居ないってのが日本の現実w

1000年前から居るやつらと700年前からいるやつ
どちらが偉いって話は無意味。

戦後密入国してきたチョンは強制送還するべきだけどなw

匿名 さんのコメント...

>蝦夷=外来 でわ?
>生粋の外来種
>どちらが偉いって話は無意味。

了解です。今問題なのは
テロカルトと傘下の戦後密入国者
まとめてTOCということですね。

匿名 さんのコメント...

荒覇吐 東日流外三郡誌
東日流外三郡誌 古田武彦
古田武彦 平野貞夫

平野貞夫 中央集権国家

匿名 さんのコメント...

まぁ、縄文時代を曲解して、ヘアポ礼賛に工作した人間の一人は、

上田篤

でしょうなぁ

匿名 さんのコメント...

>当分下谷金杉村中村(荒川区東日暮里4丁目の根岸寄り)百姓惣七地面借地
めっちゃ朝鮮人街ですけどw

匿名 さんのコメント...

氷川信仰(ひかわしんこう)とは、スサノオに対する神道の信仰の一つである。

概要
『日本三代実録』や『延喜式神名帳』に「氷川神(ひかわのかみ)」と記載され、正四位上まで昇った。これが現在、氷川信仰の総本社とされる埼玉県さいたま市大宮区にある氷川神社の前身である。

農業用水として役割が大きい半面氾濫を起こす暴れ川・荒川の本支流域に多く、ヤマトタケルの東征経路や、8世紀に出雲族出身の无邪志国造が開拓したと伝えられる地域と一致した分布を示しており、氷川という名も出雲国の簸川(ひかわ、現在の斐伊川)に由来するとされる。