【速報】手術後3年今も意識は戻らず 医療事故で大学病院側が謝罪 右手骨折の手術で『処置を怠って心肺停止』 3年後の記者会見に家族怒り「医療事故で家族全員歯車が狂った」
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3年前に大阪市立大学病院で、全身麻酔で骨折の手術をした男性への処置を怠り、男性が一時心肺停止になっていた医療事故について、病院側が会見を開き、事故があったことを明らかにしたうえで謝罪しました。男性は今も意識不明の状態です。 病院などによりますと、2019年に当時の大阪市立大学病院で、右手首を骨折した男性(当時79歳)が全身麻酔で手術を受けた後、鎮静薬などを投与されました。男性は容態が急変して一時心肺停止になりましたが、心拍などを測る機器が繋がれておらず、医師が看護師に“多めに投薬したこと”を説明していなかったことから発見が遅れたということです。男性は今も意識不明です。 (男性の長男) 「お父ちゃん、聞こえる?聞こえる?」 11月26日、パソコンの画面に向かって長男(53)が必死に声を掛ける先には、3年間意識が戻らない82歳の男性の姿があります。 (男性の長男) 「(面会の時は)コーヒーの匂いをかがせてあげたり、いろいろやってあげたいことがある」 (男性の長男) 「(主治医は)『手首の骨折やから、危険性がないから、経過が良ければ翌日に退院できる』と。1時間もせんと帰ってくると言われていたけど、2時間半くらいしてから戻ってきたんかな、大いびきかいて(寝ていた)」
しかし男性はほどなくして心肺停止に。病院が家族にした説明によりますと、鎮静剤を多めに投与したことを医師が看護師に説明せず、さらに心拍などを測る機器が、男性に付けられていなかったことなどから発見が遅れたということです。病院側は医療事故であることを認め、家族に謝罪しましたが、家族はその後の病院側の対応に不信感を強めることになります。 安全管理を定めた市大病院の内部指針には「患者に重篤で永続的な障害が生じた場合、可及的速やかに報道機関等を通じて公表する」と記されています。ところが、この事故についてはホームページ上に載せただけだったのです。 家族が「もっと公にすべきではないか」などと指摘すると、病院側は「ホームページと記者会見の両方で公表した前例はない」「家族がホームページのみでの公表に同意したと思った」などと主張したということです。 (男性の長男) 「どうにかして隠し通そうとする姑息なやり方。それに怒りを一番覚えていますね。あの医療ミスで僕だけじゃなくて家族全員の歯車が狂った」 11月29日に会見を開いた当時の大阪市立大学病院(現:大阪公立大学附属病院)は、記者会見などがこれまで開かれなかった点については公表基準を「誤解していた」と話しました。 (大阪公立大病院 中村博亮 医学部・付属病院長) 「医療事故から、3年近くも経過しての報道機関への公表となりましたのは、令和3年8月に当院のホームページ上に今回の事故の件をアップロードしたことにより、規則上の公表を完了したと誤解しておりましたが、患者様のご家族からのご指摘により、報道機関への公表となったという経緯がございます。今回このような事態を深くお詫び申し上げます」
https://news.yahoo.co.jp/articles/bedb7378ed2979690c894674a4ed8306f21f024d
1925年(大正14年)10月に篤志家・岸本吉右衛門の寄付と市費で大阪市阿倍野区旭町1丁目61番地に設立された市立市民病院が始まり[3]。その後、1944年(昭和19年)4月に大阪市立医学専門学校が設立され、同附属病院となる。その4年後には新設の大阪市立医科大学の附属となり、1955年(昭和30年)4月に大阪市立大学への統合に伴って大阪市立大学医学部附属病院となる。その後2022年(令和4年)4月には、大阪市立大学と大阪府立大学を統合した大阪公立大学の新設に伴って現在の病院名となる。
市立医科大学の設立1年後の1949年(昭和24年)4月には看護師育成のために市立医科大学附属厚生学院を開設し、その後1977年(昭和52年)4月には医学部附属看護専門学校に改名した。なお、看護専門学校は2000年(平成12年)3月に閉校した。
2022年 (令和4年) : 大阪市立大学と大阪府立大学の統合・再編による大阪公立大学の新設に伴い大阪公立大学医学部附属病院と改称[4]。
4代 岸本 吉右衛門(きしもと きちえもん、1858年2月20日(安政5年1月7日[1][2])- 1924年(大正13年)10月28日[1])は、明治から大正期の実業家。大阪最大の鉄鋼問屋岸本商店の4代目店主[1]。旧姓・村田、幼名・正一郎[2][注 1]。
経歴
摂津国大坂、現在の天神橋筋二丁目で、村田友次郎の二男として生まれる[1][2][3][4]。瓦町一丁目の鉄商「泉屋」に奉公し、店主の3代岸本吉右衛門に見込まれて、その長女ひさと1883年(明治16年)に結婚して婿養子となる[1][3]。1895年(明治28年)12月に家督相続して吉右衛門を襲名した[1][2]。
1911年(明治44年)今泉嘉一郎と大阪製鉄所を成立する計画をしていたが、白石元治郎からインドベンガル産銑鉄を紹介されて輸入の方針に転じ、ベンガル製鉄の銑鉄について極東独占販売権を取得し輸入を始め、1918年(大正7年)にはインド鉄鋼会社の設立に参画した[1]。また日本鋼管(現JFEスチール、JFEエンジニアリング)の設立発起人となり、大阪の株主の取り纏めを担った[1]。
1912年(明治45年)合資会社岸本製釘所、1916年(大正5年)岸本製鉄所をそれぞれ設立し、銑鉄生産にも進出しようとしたが、第一次世界大戦後の需要減を見越して売却を行った[1]。1918年(大正7年)に岸本商店を株式会社に改組した[1]。その他、日本鋼管取締役、日本エナメル取締役、電気製鉄取締役、帝国鋳物監査役なども務めた[2][3][4]。
公共のための寄付にも熱心で、大阪市の市民病院[注 2]建設事業に百万円を提供している[3]。
親族
岸本 彦衛(きしもと ひこえ、1887年(明治20年)4月[1][2][3] - 1977年(昭和52年)1月1日[1][2][3])は、大正から昭和期の実業家、政治家。貴族院勅選議員。旧姓・岡村。
経歴
山口県で岡村米吉の六男として生まれる[2][3]。1907年(明治40年)大阪市立高等商業学校を卒業した[1][2][3]。鉄鋼問屋岸本商店店主・4代岸本吉右衛門の養子となり[2][3]、1929年(昭和4年)に分家した[2]。
1918年(大正7年)岸本商店常務取締役に就任[1]。以後、岸本商店副社長、大建産業副社長、日印通商取締役、函館船渠(現函館どつく)取締役、日本曹達監査役、大阪鋼材監査役、呉羽紡績監査役、日本繊維工業社長、大阪ロータリー倶楽部会長などを務めた[1][2][3]。
1946年(昭和21年)3月22日、貴族院勅選議員に任じられ[1][4]、同和会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した[1]。この間、終戦連絡大阪事務局参与などを務めた[1]。
5 件のコメント:
岸本家は名家ですが、最近はKIMさんがちょっとちょっとアルファベットを足してKIshiMotoさんになっていると感じることがあります。
医者ってどうしようもないですね
岸本 https://moguratushin.sakura.ne.jp/hantanouen/1hunter/1hunter.html
篤志w この言葉このまま命名する人珍しくないよね
大概ロクでもないけど
足と違って上肢は指じゃなければ全マだから怖いよね、
酸素付けてる間機器つけないなんて指示されてなくても
病棟担当(ナースとか)が気づくことじゃね?
しなかったんでしょうねw
>鎮静剤を多めに投与したことを
告げずなので、患者側の情報ないけど
お見送り決定案件だったのかもね、
ヤブ医者もここまで来ると大したもんですなw
もはや殺人鬼に治療してくれと頼んでいる様なもん
こういうの知る度に全麻受けた自分死ななくて良かったとつくづく思う
とはいえ術前にネットで仕入れた知識
:麻酔液を入れる前に看護士もしくは医師が
「5秒数えるとねむりますよ~」と言ってくれて
「1,2,3,・・・」ぐらい数えたところで意識亡くなりましたw
ってのを真に受け期待して台に乗ったら
2液入れたところで凄く痛くて
「痛いんですけど」言うたら
麻酔医が「ああ、それ痛いんだよ」と無愛想に言われた途端
意識飛びましたけどww
今思い出しても患畜並みの扱いwwwwww
もしこれからどうしても全麻で手術受けなきゃいけない人いたら
少し金高くなってもその科の専門のクリニックがいいかもね
いつも待ち時間の長い公立病院なんか入院期間含めて
不快でしかないわw
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