公益財団法人中東調査会(ちゅうとうちょうさかい)は、日本のシンクタンクである公益財団法人。
活動中のものとしては最古の日本の中東研究機関である。元外務省(中東アフリカ局中東第1課)の所管の財団法人。
概要中東諸国の研究や情報収集を行っている。外務省から資料作成を委託されて行う研究グループとして発足し、組織されたものである。
1956年2月、戦時期のイスラーム地域研究を担っていた回教圏研究所の調査部長であった小林元(1904年〜1963年)を中心に創立され[1]、1958年9月には機関誌『中東事情』(現『中東研究』)を発刊した。創立時の役員に前嶋信次、山名義鶴がおり、先述の回教圏研究所のほか、満鉄調査部およびその内局である東亜経済調査局の流れを汲むとも言われる。1960年10月に外務大臣所管の財団法人として認可された。
公益法人制度改革により2012年に公益財団法人化し、最初の評議員選定委員会により選任された、外務省出身の浦部和好元大臣官房長、須藤隆也元中東アフリカ局長のほか、渡辺喜宏元三菱UFJフィナンシャル・グループ専務取締役及び国際問題評論家の北村文夫の4人が、評議員に就任した。2017年齋木昭隆元外務事務次官が理事長に就任した[2]。
役員
- 評議員
- 会長
- 副会長
- 理事長
- 常任理事
- 細野哲弘(元資源エネルギー庁長官、元特許庁長官)
- 監事
著名な在籍研究者
- 守村卓(モルガン・スタンレーMUFG証券取締役会長、元三菱東京UFJ銀行代表取締役副頭取)
回教圏研究所[1](かいきょうけんけんきゅうじょ)は、1938年(昭和13年)3月に日本において設立されたイスラーム圏に関する研究機関。
概要
所長である大久保幸次により設立され、当初の名称は「回教圏攷究所」であった。ほどなくして善隣協会(1934年設立)の経営となり、1940年に回教圏研究所と改称、1945年5月の空襲で全焼するまで活動を続けた。大日本回教協会・満鉄東亜経済調査局・西北研究所などと並ぶ戦時期日本人によるイスラーム地域研究の中心であり、井筒俊彦・竹内好が参加していたことでも知られる。機関誌として『回教圏』を発行した。沿革
- 1938年3月:大久保幸次、東京市白金三光町に家屋を購入し回教圏攷究所設立。
- 1938年5月:善隣協会の経営下に移る。
- 1938年7月:機関誌として『回教圏』発刊(1944年12月号まで刊行)。
- 1940年5月:回教圏研究所と改称、原宿に移転。
- 1945年5月:空襲により全焼。活動停止。
大久保幸次所長と研究所
大久保幸次(1887年-1947年)は東京牛込に生まれ、東京外国語学校を経て東京帝国大学東洋史科専科を卒業。その後外務省および日土協会(現在の日本・トルコ協会)により派遣された先のトルコで知り合った徳川家正(駐トルコ特命全権大使)の資金援助を受け、回教圏攷究所を設立し、最後まで所長を務めた。その後、研究所は善隣協会傘下に入ったが、占領地のイスラーム工作に資する国策研究を要求する協会と、「ヨーロッパ人を経由せず直接日本人によるイスラーム研究」を志向し学術研究を重視する大久保との間にはさまざまの齟齬や対立があったといわれる。所員であった竹内好によると「『剣かコーランか』などというのはとんでもない誤解だ」が大久保の口癖だったという。また、同じイスラーム研究機関であった大日本回教協会(中心メンバーは古在由重ら)との交流も深かった。大久保は戦後ほどなくして病死した。研究員たち
研究員の中には応召して戦死した者が多く、第二次世界大戦後まで生き延びた者のなかでも、イスラーム研究を継続した蒲生・井筒などは例外的存在であり、ほとんどが別分野の研究に転じた。- 野原四郎(1903年-1981年):当時駒澤大学講師。戦後は中国研究所に属し中国現代史を研究。
- 蒲生礼一(1901年-1977年):当時東京外国語学校教授。戦後は東京外国語大学ペルシャ語科教授。著書に岩波新書『イスラーム』、訳書にサアディー『薔薇園』など多数。
- 竹内好:戦後、中国文学研究者(当該項目参照)。
- 井筒俊彦:戦後、イスラーム哲学研究の権威(当該項目参照)。
- 幼方直吉(1905年-1991年):戦後、中国現代史・社会史研究者。
- 小林元(1904年-1963年):調査部長。当時駒澤大学教授。戦後は大東文化大学教授にして中東調査会設立の中心となった[2]。
機関誌『回教圏』
1938年7月に創刊され、1944年12月号まで通巻69号が刊行されている。イスラーム圏を対象とする学術誌としては日本最初のものであった。中国および南洋のイスラーム圏を扱った論文・論説が多いことが指摘されている。関連事項
また、雑誌『世界』1965年1月号の特集「転機にたつ日本の選択」に掲載された論文「周作人から核実験まで」の中で「けれども、理性をはなれて、感情の点では、言いにくいことですが、内心ひそかに、よくやった、よくぞアングロサクソンとその手下ども(日本人を含む)の鼻をあかしてくれた、という一種の感動の念のあることを隠すことができません[12]」と毛沢東による一方的核実験と核保有宣言に際してポストコロニアルの視点から意見を表明した。
ja.wikipedia.org/wiki/竹内好
→マレーシア
で、トルコと言えば・・・
、、、(爆wwwwwwwww
2 件のコメント:
三笠宮さま逝去1年:思い継承 研究拠点、トルコに財団 - 毎日新聞
https://mainichi.jp › articles
Oct 27, 2017 · 天皇陛下の叔父にあたる三笠宮さまが100歳で亡くなられてから27日で1年となった。 古代オリエント史の研究に情熱を傾け、トルコでの遺跡発掘の支援を続けた三笠宮さまの思いは同国と日本の友好
But now hundreds of thousands of Turks have been on the march protesting at what they say is President Erdogan's purge of all opposition forces - not just the coup plotters. Is President Erdogan a danger to democracy in Turkey?
http://www.bbc.co.uk/programmes/p058h0fs
「トルコ・アタチュルク大統領銅像始末記」-日本財団会長 笹川陽平ブログ - blog.canpa ...
blog.canpan.info › sasakawa › archive
Jun 25, 2010 · 陸路、深夜の移動は無事終了した。 6月3日、三笠宮寛仁親王殿下、三笠宮彬子女王殿下ご臨席のもと、アタチュルク大統領銅像は、串本町樫野崎灯台広場に無事設置され、晴れの銅像除幕式が行われた
https://petitlyrics.com/lyrics/919475
ミサイルの行方は父母の夢ww
悪夢(爆
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