2017年9月8日金曜日

「自他共栄」ではなく「精力善用」 日本刀「村正」の短刀とティーカップ

 【ウラジオストク時事】7日の日ロ首脳会談で、安倍晋三首相はプーチン大統領に、柔道の父と呼ばれる嘉納治五郎の書「精力善用」を贈った。

嘉納の遺作となった書で、柔道愛好家でもある大統領は「素晴らしいすてきなプレゼントだ」と感動した様子だったという。この後、両首脳はウラジオストクで開かれた柔道のジュニア大会「嘉納治五郎杯」をそろって観戦した。

プーチン大統領からは日本刀「村正」の短刀とティーカップが贈呈された。 

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170907-00000149-jij-pol









村正妖刀伝説

村正は、徳川家に仇をなす「妖刀」として広く知られている。

村正と徳川家の因縁

徳川家康の祖父清康は家臣の謀反によって殺害されており、凶器は村正の作刀であった[2][3]。また、家康の嫡男信康が謀反の疑いで死罪となった際、切腹に使った脇差も「千子村正」であったという[4][5]。このことを聞いた家康は幼少の頃に村正で手を切ったこともあり、「いかにして此作(こさく)の当家にさはる事かな」と村正をすべて捨てるように命じた[4][5]。さらに関ヶ原の戦いの折、東軍の武将織田長益(有楽斎)が、その子織田長孝とともに戸田勝成を討ち取るという功を挙げた。家康がその槍を見ている時に取り落とし、指を切った。家康は「この槍は尋常の槍ではない。作は村正であるか。」と聞き、有楽も村正であると答えた。退出した有楽は、近習から徳川家と村正の因縁を聞き、「内府(家康)の御味方である自分が村正を使うべきではない」と槍を微塵に砕いたという[6]。これらの因縁から徳川家は村正を嫌悪するようになり、徳川家の村正は全て廃棄され、公にも忌避されるようになった。民間に残った村正は隠され、時には銘をすりつぶして隠滅した。
また父広忠が岩松八弥によって殺害された際に使われた刀[7]、家康の命を受けた野中重政が家康夫人である築山殿を小藪村で斬った刀も村正、元和元年五月七日、真田幸村大坂夏の陣で家康の本陣を急襲した時家康に投げつけたと云われる刀も村正という伝承がある。

徳川家康と村正伝説の真偽

尾張徳川家は家康の形見として村正を伝承し、現在では徳川美術館に所蔵されている。末古刀に良く見られる皆焼の出来である[8]。このことから、徳川美術館は徳川家康が村正を嫌ったのは「後世の創作」であると断言している。
村正は徳川領の三河に近い伊勢の刀工であり、三河を始めとする東海地方には村正一派の数が多く、村正一派の刀剣を所持する者は徳川家臣団にも多かった。三河に移った村正一派を「三河文珠派」と呼ぶ。たとえば徳川四天王の一人、本多忠勝の所持する槍「蜻蛉切」には、村正の一派である藤原正真の銘が残っている[5]。また、四天王筆頭であった酒井忠次の愛刀(号 猪切)も藤原正真の作である。
なお、広忠の死因は多くの史料[9][10]では病死とされており、また武徳大成記[11]、徳川実紀などの編纂物でも死因を殺害とはしていない[12][13][7]。謀叛による暗殺説は岡崎領主古記[14]等の一部の説である[15]。また三河物語は信康の切腹時に使われた刀については言及していない[16]
海音寺潮五郎は、吉川英治が『宮本武蔵』を連載しているときに散歩のついでに吉川邸に立ち寄り、先客であった岩崎航介という東大卒の鋼鉄の研究家[17]から「妖刀伝説は嘘。昔は交通の便も悪いので近在の刀鍛冶から買い求める。三河からすぐ近くの桑名で刀を打っていた村正から買うのは自然だし、ましてよく切れる刀ならなおさら。今の小説家は九州の武士に美濃鍛冶のものを差させたり、甲州の武士に波ノ平(九州南端の薩摩国の鍛冶)を差させたりしているが、そういうことは絶無ではないにせよ、まれであった」と説かれている。[18]
村正が「徳川家にとっての」妖刀といわれた理由は定かではない。一説として、家康は村正のコレクターであり、その没後、形見分けとして一族の主だった者に村正が渡された。これが徳川一門のステータスとなり、他家の者は恐れ多いとして村正の所有を遠慮するようになったが、後代になると遠慮の理由が曖昧となり、次第に「忌避」に変じていった、とするものがある。しかし家康の遺産相続の台帳である「駿府御分物帳」に村正の作は2振しか記されていない。

妖刀伝説の流布

新井白石は「村正は不吉の例少なからず」と記述している[5]
寛政9年 (1797) に初演された初代並木五瓶作の歌舞伎『青楼詞合鏡』(さとことば あわせ かがみ)で村正は「妖刀」として扱われており、この頃にはすでに妖刀伝説が巷間に普及していたことが窺える。万延元年 (1860) には「妖刀村正」に物語の重要な役どころを負わせた二代目河竹新七(黙阿弥)作の『八幡祭小望月賑』(縮屋新助)が初演され、大評判を博した。明治21年(1888年)には、三代目河竹新七によって『籠釣瓶花街酔醒』が作られたが、これにも作中に村正が登場する。三田村鳶魚は、この作品の元となった吉原百人斬り事件を考証し、宝暦年間に馬場文耕が著した『近世江都著聞集』に、このときの刀は国光作であったとしている[19]文政6年(1823年)に起きた千代田の刃傷で用いられた脇差も村正という説と村正ではないという説がある[20]
幕末から維新の頃にかけて書かれた『名将言行録』には、「真田信繁俗に幸村)は家康を滅ぼすことを念願としており、常に徳川家に仇なす村正を持っていた」という記述があり、さらにそれを家康の孫である徳川光圀が「こうして常に主家のため心を尽くす彼こそがまことの忠臣である」と賞賛したという逸話が併記されている。
一方幕府の記録でも妖刀伝説は史実として扱われ、公式の歴史書『徳川実紀』東照宮御實紀付録巻一でも「柏崎物語」からの引用という形で徳川家との因縁が記されている[4]嘉永年間、林復斎らが幕命により編纂した『通航一覧』巻一三九には、長崎奉行竹中重義が平野屋三郎右衛門の訴出によって取り調べられ、私曲のかどで切腹となったことが記述されている。重義の死後、屋敷を調査したところ、おびただしい金銀財宝が見つかっただけでなく、「御当家三代有不吉例」であり、幕府が陪臣に至るまで厳しく所持を禁じていた村正の脇差を24差所蔵していたことが発覚した。通航一覧の記述では、重義は現在人気がない村正の刀が、徳川の世ではなくなれば高く売れるであろうと考えたために村正を多数保持しており、この脇差がなければ遠島であっただろうが、悪が深いことにより切腹となったとしている[21]。また先述の尾張家伝来の村正は健全な皆焼刃の作であるにも関わらず、「疵物で潰し物となるべき」と尾張家の刀剣保存記録(享和年間)には残されている[22][5]佐野美術館館長渡邉妙子は、「家康の死後に広がった村正の妖刀伝説をはばかって記したのではないか」と推測している[5]。村正が徳川将軍家に仇なす妖刀であるという伝説は、幕末の頃には完全に定着していたことがわかる。
このため徳川家と対立する立場の者には逆に縁起物の刀として珍重された。早くも慶安4年 (1651) には、幕府転覆計画が露見して処刑された由井正雪がこの村正を所持していたことが知られているが[23]幕末になると西郷隆盛を始め倒幕派の志士の多くが競って村正を求めたという[5]。また有栖川宮熾仁親王も本来親王がもつ格ではない村正を所持していた[5]。そのため、以後市場には多数の村正のニセ物が出回ることになった。

その他の逸話


  • 五郎入道正宗の弟子という俗説もあるが事実無根で、江戸時代の講談、歌舞伎で創作された話である。そもそも正宗は、鎌倉時代末期、村正は室町時代中期以降が活動時期である。実際の師匠は平安城長吉である。 
  • 村正作の一振と正宗作の一振を川に突き立ててみたところ、上流から流れてきた葉っぱが、まるで吸い込まれるかの如く村正に近づき、刃に触れた瞬間真っ二つに切れた。一方正宗には、どんなに葉っぱが流れてきても決して近寄ることはなかったという。刀匠の年代が全く違うものの、この二振の違いを表す有名な逸話である。
  • 戦前、東北大学の物理学教授で金属工学の第一人者として知られていた本多光太郎が、試料を引き切る時の摩擦から刃物の切味を数値化する測定器を造ってみたところ、 皆が面白がって古今の名刀を研究室に持ち込んだ。測定器の性能は概ね期待した通りだったが、なぜか村正だけが測定するたびに数値が揺れて一定しなかった。妖刀の不可思議な側面にあらためて感心した本多は、一言「これが本当の『ムラ』正だ」と論評。「あの先生が冗談を言った」としばらく研究室で話題になったという。科学雑誌『ニュートン』に掲載された逸話の一つである。
  • 南総里見八犬伝』には「村雨」という刀が登場するが、後世になって村正と混同され「妖刀村雨」と呼ばれることもある。[要出典]
  • 囲碁で小目への一間高かかりに対して二間で挟む定石からの変化に「村正の妖刀」という大型定石が存在する。この定石は昭和に入ってから誕生し双方が切り違い変化が難解で場合によっては大石が死ぬこともあり得る妖しさから、その名がついたといわれている。
  • 村正の斬れ味に纏わる逸話は数多いが、刀剣研磨師にもエピソードがある。「村正を研いでいると裂手(刀身を握るための布)がザクザク斬れる」「研いでいる最中、他の刀だと斬れて血がでてから気がつくが、村正の場合、ピリッとした他にはない痛みが走る」(永山光幹『日本刀を研ぐ』から要約)。







、、、(爆wwwwwwwww

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

イギリスのメイには日本料理の本だっけ?
長州5とマルタ島版画貰ったのに

匿名 さんのコメント...

ハラキリ覚悟、刺し違え覚悟でいけ、

(で、ないと。。)

という、

厳しくも、温かい、最後通牒的な、メッセージでしょうか