NHKスペシャル「731部隊の真実〜エリート医学者と人体実験〜」 2017.08.13
いわゆる731部隊。
戦時中細菌兵器の開発を行った日本軍の秘密部隊です。
これまで厚いベールに覆われてきたこの組織。
その全貌を知る手がかりがロシア・モスクワで見つかりました。
当事者たちの肉声を記録した22時間に及ぶ音声テープ。
終戦から4年後731部隊の幹部らを裁くために旧ソ連で開かれた軍事裁判の記録です。
細菌兵器開発のために生きた人間を実験の材料として使ったと証言されていました。
731部隊が実験を行っていたのは中国東北部の旧満州にある秘密研究所。
生きたまま実験材料とされ亡くなった人は3,000人に上るともいわれています。
なぜ人体実験はこれほどの規模で推し進められたのか。
NHKは国内外の数百点に及ぶ資料を収集しました。
浮かび上がってきたのは軍人だけでなく東大や京大などから集められたエリート医学者たちも人体実験を主導していた実態でした。
京大出身のこの細菌学者は致死率の高いチフス菌を研究。
細菌を詰めた爆弾で大量感染を引き起こす実験をしていました。
この医学者は人の手や足を人為的に凍傷にかからせる実験をしていたといいます。
専門知識を持った医学者が集められ組織された事で実験が大規模に進められていったのです。
命を守るべき医学者がなぜ人体実験に手を染めたのか。
70年の時を経て明らかになる731部隊の真実です。
中国東北部にある都市ハルビン。
ロシア人が建設したこの国際都市は戦時中日本軍の拠点となっていました。
ハルビンの郊外20キロ。
731部隊の本部跡が今も残っています。
破壊された建物の残骸。
終戦間際部隊の存在を隠すために爆破されました。
当時の写真です。
部隊は周囲数キロに及ぶ広大な敷地で極秘に研究を進めていました。
四角い形の3階建てのビルには冷暖房を備えた最先端の研究室が並んでいたといいます。
その中央に周囲から見えない形で牢獄が設置され実験材料とされた人々がとらわれていたといいます。
731部隊が編成されたのは1936年。
当時日本は旧満州に進出。
国境を接し軍事的脅威となっていたソ連に対抗するため細菌兵器を開発していたのです。
部隊を率いていたのは軍医石井四郎です。
当時細菌兵器は国際条約で使用が禁止されていました。
しかし防衛目的の研究はできるとして開発を進めました。
部隊の人数は最大3,000人。
石井は細菌兵器開発のため全国の大学から医学者を集めていました。
極秘で進められた731部隊の研究。
その活動を公にしたのが終戦から4年後に旧ソ連が開いた軍事裁判ハバロフスク裁判でした。
裁かれたのは731部隊の幹部や関東軍の幹部ら12人。
多くの医学者が日本へと引き揚げた中逃げ遅れソ連に抑留された人々でした。
この裁判はこれまでソ連が公表した文書の記録しかなくねつ造だと批判する声もありました。
今回見つかった音声記録では部隊の中枢メンバーが人体実験の詳細を証言していました。
医学者たちの指示の下で致死率の高い細菌を使って人体実験を繰り返したと語られました。
これは731部隊の隊員が持っていた中国人の写真です。
こうした人々が部隊に送られ実験材料にされたといいます。
当時日本軍は日本に反発する中国やソ連の人たちを匪賊と呼びスパイや思想犯としてとらえていました。
ロシアで発見された資料です。
逆スパイにするなどの利用価値がないと軍が判断した人は裁判を経ずに731部隊に送られたと記されています。
その中には女性や子どもも含まれていたと裁判で証言されました。
こうした人体実験に大学から集められた医学者たちはどう関わっていたのか。
当時を知る元部隊員にたどりつきました。
こんにちは。
よろしくお願いします。
14歳の時に731部隊に入隊した三武さんです。
事実を知ってほしいと今回初めて取材に応じました。
部隊が保有する飛行機の整備に携わった三さん。
医学者の実験のため囚人が演習場へ運ばれた時に立ち会いました。
囚人はマルタと呼ばれていました。
三さんたちは少年隊員と呼ばれ1年間細菌学などの教育を受けました。
指導したのは全国の大学から集められた優秀な医学者でした。
元部隊員の一人須永鬼久太さんです。
これまで全貌が知られていなかった医学者たちの関与。
その手がかりとなる貴重な資料を保管していました。
731部隊の戦友会が戦後まとめた名簿です。
載っていたのは731部隊に集められていた医学者たちの出身大学と名前です。
こうした人々は技師と呼ばれ軍の所属となっていました。
私たちはこの資料だけでなく現存する部隊名簿や論文などから技師の経歴を洗い出し確認していきました。
その結果明らかになった内訳です。
最も多くの研究者を出していたのは京都大学。
次いで東京大学。
少なくとも10の大学や研究機関から合わせて40人の研究者が731部隊に集められていました。
技師となった医学者たちは軍医と並ぶ将校クラスとして位置づけられ731部隊の中枢にいました。
エリート医学者が部隊の研究を主導していたのです。
なぜこれほど多くの医学者が731部隊に関わる事になったのか。
取材を進めるうちに部隊と大学の知られざる関係が浮かび上がってきました。
最も多い11人の技師が確認された…公文書を保管する文書館が取材に応じました。
文部省と京都大学の間の往復文書を年ごとにとじていると。
そういった資料ですね。
その中から731部隊と大学の金銭のやり取りを示す証拠が初めて見つかりました。
細菌研究の報酬として現在の金額で500万円近い金額が研究者個人に支払われていたのです。
受け取っていたのは医学部助教授だった田部井和です。
致死率の高いチフス菌を研究していた田部井。
731部隊設立後間もなく赴任し研究班の責任者となります。
そこでどんな実験をしていたのか部下が証言しています。
人体実験をしていたという田部井。
同じ時期京大からは医学者7人が部隊に赴任していました。
取材を進めると教え子たちを部隊へ送ったと見られる教授たちの存在が浮かび上がってきました。
大きな影響力を持っていたのが医学部長を2度にわたって務めた戸田正三です。
戸田は軍と結び付く事で多額の研究費を集めていた事が分かりました。
それを裏付ける戸田の研究報告書です。
陸軍などから委託された防寒服の研究で8,000円。
軍の進出先での衛生状態の研究で7,000円。
現在の額にして合わせて2億5,000万円にも上る研究費を得ていました。
軍と関係を深めていた戸田。
そのきっかけとなったのが満州事変でした。
傀儡国家満州国が建国されると国民はそれを支持します。
こうした世論の中で大学は満州の病院などに医師を派遣。
現地の人々を病気から守る防疫活動のためとしてポスト争いを始めます。
戸田が所属する京大からも多くの医師が派遣されます。
東大や慶応大などと競いながら京大はその数を倍増させていきました。
当時戸田は医学者も国の満州進出に貢献すべきだと語っていました。
こうした中大学への影響力を拡大したのが731部隊です。
巨額の国家予算を与えられていたといいます。
今の金額で年間300億円の予算。
それを動かしていたのが731部隊の部隊長石井四郎でした。
京大医学部出身の石井は母校の指導教官の一人だった戸田と関係を深めていました。
戸田は石井と人事の話もしていたといいます。
「戸田先生が東京へ出てこられると石井君と3人でよく会談をした。
研究の件もあれば人事の件もあり先生はよく京大や若い人のために奔走された。
そのためよく占領地の支那本土へも旅行された」。
戸田が部隊の研究内容を把握していた事をうかがわせる文書も見つかっています。
教え子が書いた回顧録によれば戸田は中国の731部隊の関連施設を繰り返し訪れていたといいます。
「戸田先生が来ると早速高等官将校一同を集めての学術講演会が開かれ和気靄々と部隊の研究を推進された」。
戸田と関係が深い教授の研究室からは8人の医学者が京大全体では11人が731部隊へ赴任した事が分かっています。
京大に次いで多くの研究者が731部隊に集められた東京大学。
取材に対し「組織として積極的に関わったとは認識していない」と回答しています。
取材を進めると東大の幹部が石井と交流していた事実が明らかになりました。
医学者で東大の総長を務めた長與又郎です。
遺族の許可を得て入手した長與の日記です。
そこには総長時代から石井と接点があった事そして退任後の昭和15年731部隊の本部を視察していた事が記されていました。
「石井大佐の案内にて事業の一般を見学。
水だきの饗応を受く」。
この時の記録には東大から赴任した研究者たちの名前が記されていました。
東大からは戦時中少なくとも6人が集められた事が分かっています。
東大で開かれた微生物学会の集合写真。
石井を囲んでいるのは全国から集まった名だたる教授たちです。
大学の幹部と石井が結び付く中で優秀な医学者が集められていったのです。
医学者の中には731部隊に送られた経緯を詳細に書き残していた人もいました。
京大医学部の講師吉村寿人です。
基礎医学の研究で多くの命を救いたいと医学者を志したといいます。
国内で研究を続けたいと思いながらも教授の命令にはあらがえなかったと回想しています。
「軍の方と既に約束済の様な様子であった。
先生は突然満州の陸軍の技術援助をせよと命令された。
せっかく熱を上げてきた研究を捨てることは身を切られるほどつらいことであるから私は即座に断った。
ところが先生は『今の日本の現状からこれを断るのはもってのほかである。
もし軍に入らねば破門するから出て行け』と言われた」。
吉村らが送られた731部隊の秘密研究所。
実験のために運び込まれた囚人は年間最大600人に上ったといわれています。
生理学が専門だった吉村が命じられたのは凍傷の研究でした。
当時関東軍の兵士たちは寒さによる凍傷に悩まされていました。
その症例と対策を探る目的で人体実験を行っていた様子が裁判で語られていました。
人間を凍傷にかからせる実験をしたという吉村。
部隊で凍傷研究を進めながら満州の医学会では論文も発表していました。
論文にはさまざまな条件に人体を置いて実験していた事が記されていました。
絶食3日一昼夜不眠などの状態に置いてから零度の氷水に指を30分つけて観察していました。
裁判では吉村の研究室で凍傷実験の対象となった人を実際に見たという証言もありました。
部隊から高額の報酬を受け取っていた京大の田部井和。
実験室での研究から実戦使用の段階へと進んでいきます。
開発していたのは細菌爆弾。
大量感染を引き起こす研究を始めていたのです。
一度に10人以上の囚人を使い効果を確かめたと部下が証言しています。
生きた人間を実験材料にした医学者たち。
本来人の命を守るべき医学者はなぜ一線を越えたのか。
それを後押ししたと見られるのが日本国内の世論です。
1937年日中戦争が勃発。
中国側の激しい抗戦で日本側も犠牲が増えていきます。
日本軍は反発する中国人らを匪賊と呼び掃討作戦を行っていきます。
政府もメディアも日本の犠牲を強調し中国人への憎悪を駆り立てました。
「暴虐極る匪賊」。
「匪賊を徹底殲滅」。
世論は軍による処罰を強く支持。
匪賊に対する敵意が高まっていたのです。
そうした時代の空気と研究者は無縁ではありませんでした。
731部隊以外でも学術界では匪賊を蔑視する感情が広がっていました。
それを示す資料が北海道大学で見つかりました。
当時の厚生省が主催する研究会が発行した雑誌です。
染色体を研究する大学教授の講演の記録。
満州の匪賊を生きたまま研究材料とした事を公に語っていました。
「匪賊が人間を殺すならばその報復ではないがその匪賊を材料にしてはどうかと思いついた」。
「死んだものは絶対にだめである…染色体の状態が著しく悪くなる」。
「匪賊一人を犠牲にしたことは決して無意義ではありません。
これほど立派な材料は従来断じてないということだけはできます」。
14歳の時に731部隊に入隊した三さん。
匪賊は死刑囚だから実験材料として利用してよいと教えられたといいます。
戦争が泥沼化していった1940年代。
731部隊はついに細菌兵器の実戦使用に踏み切ります。
中国中部の複数の都市で少なくとも3回細菌を散布。
細菌兵器での攻撃は国際条約で禁止されていましたが日本は批准しないままひそかに使用しました。
更に民間人にまで感染を広げる目的で中国の集落に細菌をまいたと証言されています。
そして戦争末期の1945年8月9日。
ソ連が満州に侵攻。
731部隊は直ちに撤退を始めます。
部隊は証拠隠滅のため全ての囚人を殺害。
実験施設を徹底的に破壊しました。
医学者たちには特別の列車が用意されいち早く日本へ帰国しました。
部隊の事は一切口外するなと言われた三さん。
この時死体の処理を命じられました。
その死体の処理に「少年隊来い」って言って引っ張られていって死体の処理を各独房から引っ張り出してほれで中庭で鉄骨で井桁組んでガソリンぶっかけて焼いた訳。
焼いてね全部焼き殺して骨だけにして今度骨を拾うの。
いや戦争っていうのがこんなものかと。
戦争ってのは絶対するもんじゃないと。
つくづくそう思いましたね。
本当にね一人で泣いた。
人体実験を主導し日本へいち早く帰国した医学者たち。
戦後その行為について罪に問われる事はありませんでした。
アメリカは人体実験のデータ提供と引き換えに隊員の責任を免除したのです。
多くの教え子を部隊に送ったと見られる戸田正三は金沢大学の学長に就任。
部隊との関わりは語らないまま医学界の重鎮となりました。
チフス菌の爆弾を開発していた田部井和。
京都大学の教授となり細菌学の権威となりました。
凍傷研究の吉村寿人も教授に就任。
「自分は非人道的な実験は行っていない」と生涯否定し続けました。
「私は軍隊内において凍傷や凍死から兵隊をいかにして守るかについて部隊長の命令に従って研究したのであって決して良心を失った悪魔になったわけではない」。
当事者たちが口を閉ざす中でタブーとなってきた731部隊。
戦後72年となる今年その歴史が改めて問われています。
医学者をはじめさまざまな科学者の代表が集う…防衛省から大学などへの研究資金が急増する中で今大学と軍事研究の在り方が議論されています。
会場では731部隊がアメリカの原爆開発と並んで取り上げられました。
今私たちに問いかける医学者と731部隊の真実。
それは戦争へと突き進む中でいつの間にか人として守るべき一線を越えていったこの国の姿でした。
今回発見された音声記録。
その最後には被告たちが自らの心情を語った発言が残っていました。
医学者柄沢十三夫。
人体実験に使われた細菌を培養した責任者でした。
戦争が終わってから初めて罪の重さに気付いたと語っています。
2017/08/13(日) 21:00〜21:50
NHK総合1・神戸
NHKスペシャル「731部隊の真実〜エリート医学者と人体実験〜」[字]
戦時中、旧満州で細菌兵器を開発した731部隊。新たに発掘した音声記録と数百点の資料から、エリート医学者はどのように集められ、なぜ人間を実験材料にしたのか、迫る。
詳細情報
番組内容
戦時中、旧満州で密かに細菌兵器を開発し実戦で使用した、731部隊。NHKが発掘した、旧ソ連・ハバロフスク裁判の音声記録では、部隊幹部らが、日本に反発した中国や旧ソ連の人々を「死刑囚」とし、実験材料としていた実態を克明に語っていた。こうした実験を主導していたのが、大学等から集められた研究者達だった。エリート医学者はどのようにして集められ、なぜ人間を実験材料にしたのか。音声記録と数百点の資料から迫る。
出演者
【語り】伊東敏恵
戦時中細菌兵器の開発を行った日本軍の秘密部隊です。
これまで厚いベールに覆われてきたこの組織。
その全貌を知る手がかりがロシア・モスクワで見つかりました。
当事者たちの肉声を記録した22時間に及ぶ音声テープ。
終戦から4年後731部隊の幹部らを裁くために旧ソ連で開かれた軍事裁判の記録です。
細菌兵器開発のために生きた人間を実験の材料として使ったと証言されていました。
731部隊が実験を行っていたのは中国東北部の旧満州にある秘密研究所。
生きたまま実験材料とされ亡くなった人は3,000人に上るともいわれています。
なぜ人体実験はこれほどの規模で推し進められたのか。
NHKは国内外の数百点に及ぶ資料を収集しました。
浮かび上がってきたのは軍人だけでなく東大や京大などから集められたエリート医学者たちも人体実験を主導していた実態でした。
京大出身のこの細菌学者は致死率の高いチフス菌を研究。
細菌を詰めた爆弾で大量感染を引き起こす実験をしていました。
この医学者は人の手や足を人為的に凍傷にかからせる実験をしていたといいます。
専門知識を持った医学者が集められ組織された事で実験が大規模に進められていったのです。
命を守るべき医学者がなぜ人体実験に手を染めたのか。
70年の時を経て明らかになる731部隊の真実です。
中国東北部にある都市ハルビン。
ロシア人が建設したこの国際都市は戦時中日本軍の拠点となっていました。
ハルビンの郊外20キロ。
731部隊の本部跡が今も残っています。
破壊された建物の残骸。
終戦間際部隊の存在を隠すために爆破されました。
当時の写真です。
部隊は周囲数キロに及ぶ広大な敷地で極秘に研究を進めていました。
四角い形の3階建てのビルには冷暖房を備えた最先端の研究室が並んでいたといいます。
その中央に周囲から見えない形で牢獄が設置され実験材料とされた人々がとらわれていたといいます。
731部隊が編成されたのは1936年。
当時日本は旧満州に進出。
国境を接し軍事的脅威となっていたソ連に対抗するため細菌兵器を開発していたのです。
部隊を率いていたのは軍医石井四郎です。
当時細菌兵器は国際条約で使用が禁止されていました。
しかし防衛目的の研究はできるとして開発を進めました。
部隊の人数は最大3,000人。
石井は細菌兵器開発のため全国の大学から医学者を集めていました。
極秘で進められた731部隊の研究。
その活動を公にしたのが終戦から4年後に旧ソ連が開いた軍事裁判ハバロフスク裁判でした。
裁かれたのは731部隊の幹部や関東軍の幹部ら12人。
多くの医学者が日本へと引き揚げた中逃げ遅れソ連に抑留された人々でした。
この裁判はこれまでソ連が公表した文書の記録しかなくねつ造だと批判する声もありました。
今回見つかった音声記録では部隊の中枢メンバーが人体実験の詳細を証言していました。
医学者たちの指示の下で致死率の高い細菌を使って人体実験を繰り返したと語られました。
これは731部隊の隊員が持っていた中国人の写真です。
こうした人々が部隊に送られ実験材料にされたといいます。
当時日本軍は日本に反発する中国やソ連の人たちを匪賊と呼びスパイや思想犯としてとらえていました。
ロシアで発見された資料です。
逆スパイにするなどの利用価値がないと軍が判断した人は裁判を経ずに731部隊に送られたと記されています。
その中には女性や子どもも含まれていたと裁判で証言されました。
こうした人体実験に大学から集められた医学者たちはどう関わっていたのか。
当時を知る元部隊員にたどりつきました。
こんにちは。
よろしくお願いします。
14歳の時に731部隊に入隊した三武さんです。
事実を知ってほしいと今回初めて取材に応じました。
部隊が保有する飛行機の整備に携わった三さん。
医学者の実験のため囚人が演習場へ運ばれた時に立ち会いました。
囚人はマルタと呼ばれていました。
三さんたちは少年隊員と呼ばれ1年間細菌学などの教育を受けました。
指導したのは全国の大学から集められた優秀な医学者でした。
元部隊員の一人須永鬼久太さんです。
これまで全貌が知られていなかった医学者たちの関与。
その手がかりとなる貴重な資料を保管していました。
731部隊の戦友会が戦後まとめた名簿です。
載っていたのは731部隊に集められていた医学者たちの出身大学と名前です。
こうした人々は技師と呼ばれ軍の所属となっていました。
私たちはこの資料だけでなく現存する部隊名簿や論文などから技師の経歴を洗い出し確認していきました。
その結果明らかになった内訳です。
最も多くの研究者を出していたのは京都大学。
次いで東京大学。
少なくとも10の大学や研究機関から合わせて40人の研究者が731部隊に集められていました。
技師となった医学者たちは軍医と並ぶ将校クラスとして位置づけられ731部隊の中枢にいました。
エリート医学者が部隊の研究を主導していたのです。
なぜこれほど多くの医学者が731部隊に関わる事になったのか。
取材を進めるうちに部隊と大学の知られざる関係が浮かび上がってきました。
最も多い11人の技師が確認された…公文書を保管する文書館が取材に応じました。
文部省と京都大学の間の往復文書を年ごとにとじていると。
そういった資料ですね。
その中から731部隊と大学の金銭のやり取りを示す証拠が初めて見つかりました。
細菌研究の報酬として現在の金額で500万円近い金額が研究者個人に支払われていたのです。
受け取っていたのは医学部助教授だった田部井和です。
致死率の高いチフス菌を研究していた田部井。
731部隊設立後間もなく赴任し研究班の責任者となります。
そこでどんな実験をしていたのか部下が証言しています。
人体実験をしていたという田部井。
同じ時期京大からは医学者7人が部隊に赴任していました。
取材を進めると教え子たちを部隊へ送ったと見られる教授たちの存在が浮かび上がってきました。
大きな影響力を持っていたのが医学部長を2度にわたって務めた戸田正三です。
戸田は軍と結び付く事で多額の研究費を集めていた事が分かりました。
それを裏付ける戸田の研究報告書です。
陸軍などから委託された防寒服の研究で8,000円。
軍の進出先での衛生状態の研究で7,000円。
現在の額にして合わせて2億5,000万円にも上る研究費を得ていました。
軍と関係を深めていた戸田。
そのきっかけとなったのが満州事変でした。
傀儡国家満州国が建国されると国民はそれを支持します。
こうした世論の中で大学は満州の病院などに医師を派遣。
現地の人々を病気から守る防疫活動のためとしてポスト争いを始めます。
戸田が所属する京大からも多くの医師が派遣されます。
東大や慶応大などと競いながら京大はその数を倍増させていきました。
当時戸田は医学者も国の満州進出に貢献すべきだと語っていました。
こうした中大学への影響力を拡大したのが731部隊です。
巨額の国家予算を与えられていたといいます。
今の金額で年間300億円の予算。
それを動かしていたのが731部隊の部隊長石井四郎でした。
京大医学部出身の石井は母校の指導教官の一人だった戸田と関係を深めていました。
戸田は石井と人事の話もしていたといいます。
「戸田先生が東京へ出てこられると石井君と3人でよく会談をした。
研究の件もあれば人事の件もあり先生はよく京大や若い人のために奔走された。
そのためよく占領地の支那本土へも旅行された」。
戸田が部隊の研究内容を把握していた事をうかがわせる文書も見つかっています。
教え子が書いた回顧録によれば戸田は中国の731部隊の関連施設を繰り返し訪れていたといいます。
「戸田先生が来ると早速高等官将校一同を集めての学術講演会が開かれ和気靄々と部隊の研究を推進された」。
戸田と関係が深い教授の研究室からは8人の医学者が京大全体では11人が731部隊へ赴任した事が分かっています。
京大に次いで多くの研究者が731部隊に集められた東京大学。
取材に対し「組織として積極的に関わったとは認識していない」と回答しています。
取材を進めると東大の幹部が石井と交流していた事実が明らかになりました。
医学者で東大の総長を務めた長與又郎です。
遺族の許可を得て入手した長與の日記です。
そこには総長時代から石井と接点があった事そして退任後の昭和15年731部隊の本部を視察していた事が記されていました。
「石井大佐の案内にて事業の一般を見学。
水だきの饗応を受く」。
この時の記録には東大から赴任した研究者たちの名前が記されていました。
東大からは戦時中少なくとも6人が集められた事が分かっています。
東大で開かれた微生物学会の集合写真。
石井を囲んでいるのは全国から集まった名だたる教授たちです。
大学の幹部と石井が結び付く中で優秀な医学者が集められていったのです。
医学者の中には731部隊に送られた経緯を詳細に書き残していた人もいました。
京大医学部の講師吉村寿人です。
基礎医学の研究で多くの命を救いたいと医学者を志したといいます。
国内で研究を続けたいと思いながらも教授の命令にはあらがえなかったと回想しています。
「軍の方と既に約束済の様な様子であった。
先生は突然満州の陸軍の技術援助をせよと命令された。
せっかく熱を上げてきた研究を捨てることは身を切られるほどつらいことであるから私は即座に断った。
ところが先生は『今の日本の現状からこれを断るのはもってのほかである。
もし軍に入らねば破門するから出て行け』と言われた」。
吉村らが送られた731部隊の秘密研究所。
実験のために運び込まれた囚人は年間最大600人に上ったといわれています。
生理学が専門だった吉村が命じられたのは凍傷の研究でした。
当時関東軍の兵士たちは寒さによる凍傷に悩まされていました。
その症例と対策を探る目的で人体実験を行っていた様子が裁判で語られていました。
人間を凍傷にかからせる実験をしたという吉村。
部隊で凍傷研究を進めながら満州の医学会では論文も発表していました。
論文にはさまざまな条件に人体を置いて実験していた事が記されていました。
絶食3日一昼夜不眠などの状態に置いてから零度の氷水に指を30分つけて観察していました。
裁判では吉村の研究室で凍傷実験の対象となった人を実際に見たという証言もありました。
部隊から高額の報酬を受け取っていた京大の田部井和。
実験室での研究から実戦使用の段階へと進んでいきます。
開発していたのは細菌爆弾。
大量感染を引き起こす研究を始めていたのです。
一度に10人以上の囚人を使い効果を確かめたと部下が証言しています。
生きた人間を実験材料にした医学者たち。
本来人の命を守るべき医学者はなぜ一線を越えたのか。
それを後押ししたと見られるのが日本国内の世論です。
1937年日中戦争が勃発。
中国側の激しい抗戦で日本側も犠牲が増えていきます。
日本軍は反発する中国人らを匪賊と呼び掃討作戦を行っていきます。
政府もメディアも日本の犠牲を強調し中国人への憎悪を駆り立てました。
「暴虐極る匪賊」。
「匪賊を徹底殲滅」。
世論は軍による処罰を強く支持。
匪賊に対する敵意が高まっていたのです。
そうした時代の空気と研究者は無縁ではありませんでした。
731部隊以外でも学術界では匪賊を蔑視する感情が広がっていました。
それを示す資料が北海道大学で見つかりました。
当時の厚生省が主催する研究会が発行した雑誌です。
染色体を研究する大学教授の講演の記録。
満州の匪賊を生きたまま研究材料とした事を公に語っていました。
「匪賊が人間を殺すならばその報復ではないがその匪賊を材料にしてはどうかと思いついた」。
「死んだものは絶対にだめである…染色体の状態が著しく悪くなる」。
「匪賊一人を犠牲にしたことは決して無意義ではありません。
これほど立派な材料は従来断じてないということだけはできます」。
14歳の時に731部隊に入隊した三さん。
匪賊は死刑囚だから実験材料として利用してよいと教えられたといいます。
戦争が泥沼化していった1940年代。
731部隊はついに細菌兵器の実戦使用に踏み切ります。
中国中部の複数の都市で少なくとも3回細菌を散布。
細菌兵器での攻撃は国際条約で禁止されていましたが日本は批准しないままひそかに使用しました。
更に民間人にまで感染を広げる目的で中国の集落に細菌をまいたと証言されています。
そして戦争末期の1945年8月9日。
ソ連が満州に侵攻。
731部隊は直ちに撤退を始めます。
部隊は証拠隠滅のため全ての囚人を殺害。
実験施設を徹底的に破壊しました。
医学者たちには特別の列車が用意されいち早く日本へ帰国しました。
部隊の事は一切口外するなと言われた三さん。
この時死体の処理を命じられました。
その死体の処理に「少年隊来い」って言って引っ張られていって死体の処理を各独房から引っ張り出してほれで中庭で鉄骨で井桁組んでガソリンぶっかけて焼いた訳。
焼いてね全部焼き殺して骨だけにして今度骨を拾うの。
いや戦争っていうのがこんなものかと。
戦争ってのは絶対するもんじゃないと。
つくづくそう思いましたね。
本当にね一人で泣いた。
人体実験を主導し日本へいち早く帰国した医学者たち。
戦後その行為について罪に問われる事はありませんでした。
アメリカは人体実験のデータ提供と引き換えに隊員の責任を免除したのです。
多くの教え子を部隊に送ったと見られる戸田正三は金沢大学の学長に就任。
部隊との関わりは語らないまま医学界の重鎮となりました。
チフス菌の爆弾を開発していた田部井和。
京都大学の教授となり細菌学の権威となりました。
凍傷研究の吉村寿人も教授に就任。
「自分は非人道的な実験は行っていない」と生涯否定し続けました。
「私は軍隊内において凍傷や凍死から兵隊をいかにして守るかについて部隊長の命令に従って研究したのであって決して良心を失った悪魔になったわけではない」。
当事者たちが口を閉ざす中でタブーとなってきた731部隊。
戦後72年となる今年その歴史が改めて問われています。
医学者をはじめさまざまな科学者の代表が集う…防衛省から大学などへの研究資金が急増する中で今大学と軍事研究の在り方が議論されています。
会場では731部隊がアメリカの原爆開発と並んで取り上げられました。
今私たちに問いかける医学者と731部隊の真実。
それは戦争へと突き進む中でいつの間にか人として守るべき一線を越えていったこの国の姿でした。
今回発見された音声記録。
その最後には被告たちが自らの心情を語った発言が残っていました。
医学者柄沢十三夫。
人体実験に使われた細菌を培養した責任者でした。
戦争が終わってから初めて罪の重さに気付いたと語っています。
2017/08/13(日) 21:00〜21:50
NHK総合1・神戸
NHKスペシャル「731部隊の真実〜エリート医学者と人体実験〜」[字]
戦時中、旧満州で細菌兵器を開発した731部隊。新たに発掘した音声記録と数百点の資料から、エリート医学者はどのように集められ、なぜ人間を実験材料にしたのか、迫る。
詳細情報
番組内容
戦時中、旧満州で密かに細菌兵器を開発し実戦で使用した、731部隊。NHKが発掘した、旧ソ連・ハバロフスク裁判の音声記録では、部隊幹部らが、日本に反発した中国や旧ソ連の人々を「死刑囚」とし、実験材料としていた実態を克明に語っていた。こうした実験を主導していたのが、大学等から集められた研究者達だった。エリート医学者はどのようにして集められ、なぜ人間を実験材料にしたのか。音声記録と数百点の資料から迫る。
出演者
【語り】伊東敏恵
医学界の重鎮長與專齋の三男として東京神田に生まれる。慶應義塾幼稚舎、正則学校、一高を経て、1904年(明治37年)12月に東京帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)を卒業。ドイツのフライブルク大学に留学し、帰国後、東京帝国大学の病理学教授となる。夏目漱石の主治医でもあり、1916年(大正5年)、漱石が病死した際には、未亡人夏目鏡子の希望で、漱石の遺体を解剖した。
伝染病研究所長や医学部長を経て、1934年(昭和9年)、東京帝国大学第12代総長に就任。1936年(昭和11年)帝国学士院会員。1938年(昭和13年)、文部大臣荒木貞夫から総長官選案を示されるも、大学の自治を守るために戦い、荒木の案を撤回させて総長を辞任。同年12月28日、東京帝国大学名誉教授の称号を授与された[1]。
また癌研究所や日本癌学会を設立し、癌の解明に努力。父の遺志を継いで、公衆衛生院や結核予防会をも設立した。自ら予言していた通りに癌となり、1941年(昭和16年)8月15日、死の前日に、医学への貢献により男爵となる。享年63。
逸話
- 東京帝国大学野球部長も務め、部の寮である「一誠寮」の看板は長與の揮毫による。この時、『誠』の字の右側の『ノ』の字を入れ損なったが、これを指摘した選手たちに「最後のノは君たちが優勝したときに入れよう」と語ったという(東大の六大学野球最高位は1946年春季の2位であるため、未だに『ノ』の部分が欠けたままとなっている)。
- 1996年、日本癌学会は彼を記念して長與又郎賞(長與賞)を設立した。
日記
- 『長與又郎日記 近代化を推進した医学者の記録』全2巻 小高健編 学会出版センター 2001-02
栄典
親族
長兄長與稱吉も医師で男爵。弟岩永裕吉は同盟通信社の初代社長。弟の長與善郎は白樺派の作家。妻は森村組創業者のひとり森村豊の娘・玉。長男長与太郎は銀行員で男爵継承、妻は志賀直哉の次女・留女子(るめこ)。四男長与健夫も医師で愛知県がんセンター総長などを務める。吉村 寿人(よしむら ひさと、1907年 - 1990年)は日本の医学者。
経歴
生理学者として師である正路倫之助(兵庫県立医科大学、後の神戸医科大学初代学長)より731部隊に赴任するよう命じられ、凍傷研究に従事した。戦後京都大学に戻り、正路倫之助が学長になった兵庫県立医科大学(現在の神戸大学医学部)に移動して研究を続け、その後京都府立医科大学の教授となり、学長を務めた。
年譜
- 1930年(昭和5年)京都帝国大学医学部卒業
- 1936年(昭和11年)京都帝国大学講師、同年4月 京都帝国大学 医学博士 論文の題は「硝子電極法による血液水素イオン濃度の研究(英文)」[1]。
- 1938年(昭和13年)731部隊第一部凍傷研究班長
- 1945年(昭和20年)帰国
- 1962年(昭和37年)日本生気象学会会長
- 1967年(昭和42年)京都府立医科大学学長[2]
- 1972年(昭和47年)兵庫医科大学教授
- 1978年(昭和53年)勲三等旭日中綬章受章
- 1980年(昭和55年)神戸女子大学教授
公益財団法人がん研究会(がんけんきゅうかい、Japanese Foundation for Cancer Research)は、1908年(明治41年)に創立された日本初のがん専門の研究機関である。
概要
「がん研」は、日本におけるがん研究及び治療機関の最高峰の1つとして知られている。がん治療においては、国立がん研究センター病院と共に日本屈指の医療機関。がん研究会のシンボルマークは「蟹」であるが、これは癌を英語で「cancer」といい、癌と同時に蟹座を意味する言葉であることに由来する。
名誉総裁には常陸宮正仁親王を迎えている。
沿革
「がん撲滅をもって人類の福祉に貢献する」という基本理念をもとに、当時の日本の政財官学界の重鎮であった青山胤通、山極勝三郎、渋沢栄一、桂太郎が中心となって創立した(発足時は旧字で「癌研究會」)。高松宮妃や、後に東大総長に就任する長與又郎等の尽力により、1934年(昭和9年)に、がん専門の研究所と病院を開設した。
2005年(平成17年)に、長年拠点としていたが手狭となった癌研究会付属病院(上池袋・最寄り駅は大塚)から、広い臨海地区に新設した最新の設備を有するがん研究会有明病院(東京都江東区有明)に移転し、引き続き、日本のがん研究、診療の一大拠点となっている。病院の移転と供に研究所も同じ場所に移転している。
また、有明地区への移転と同時に国内有数の緩和ケア病床(≒ホスピス)を新設し、終末期医療に対する取り組みも先進的なものとなった。
2011年(平成23年)から公益財団法人に移行し、同時に名称を「癌研究会」から「がん研究会」に改めた。
未だに受け継がれてるんですよ、、、(爆wwwwwwwwwwww
37 件のコメント:
で、映画アンブロークンは何時公開されるのですか? Remember 小笠原事件!(爆w
http://tokumei10.blogspot.jp/2015/02/remember.html
>小笠原事件(おがさわらじけん)は、1945年(昭和20年)に小笠原諸島父島において日本の陸海軍高級幹部が、アメリカ軍航空部隊の搭乗員である捕虜8名を処刑し、そのうち5名の人肉を嗜食した事件[1]。父島人肉食事件とも。
もセットでドウゾー的な
紹介しました冒頭の動画、最後が1~2分程度切れてることに後から気づきました・・・
最後まで尺があった別動画から文字起こし
『私には現在日本に
82になります母と
妻ならびに2名の子供がございます
なお私は自分の犯した罪の
非常に大なることを自覚しております
そうして終始懺悔をし後悔をしております
私は将来生まれ変わって もし 余生がありましたらば
自分の行いました悪事に対しまして
生まれ変わった人間として
人類の為に尽くしたいと思っております』
この医学者は 刑に服した後
帰国直前に自殺したと伝えられている
工藤は昔、とある社長に自分の美術館を作ってほしいとすりよりました
その社長曰く、ガリガリで好みじゃなかったのでお断りしたと
社長の周囲にキムチ臭い人達がよってきてましたね
・いまの京大と東大の対応差がなかなか
・医師(技師)をそこそこ送った慶應大・・・(16:51~に映ってるのは6人、17:47~では2人)
731部隊と言われるモノが真正のクズであることに異論はまったくないです
ですが、愚民は障碍者の死ぬ権利を否定する方向に大きく触れそうです
事実を悪用するのはマスゴミの十八番です
沈黙という形で
雪達磨に共犯者が
今も存在している
本多勝一も731部隊を
取り上げてましたよね
虚実織り込ませて良くない
左翼も
大日本帝国の悪業を
煙に巻く工作要員な
綾瀬はるか、うさぎの島で「平和のありがたさを改めて感じた」 : スポーツ報知
www.hochi.co.jp/entertainment/20170804-OHT1T50215.html
2017/08/04 - 実際に毒ガスを作っていた藤本安馬さんをインタビューした綾瀬は「藤本さんは毒ガスの(健康被害になった)被害者ですが、一方で中国で加害者だったことも受け止め ... 多くの人に藤本さんのお話を聞いて欲しいと思いました」と語っている。
https://ja.wikibooks.org/wiki/小学校社会_6学年_上巻
終戦の日とは鬼畜大日本帝国軍部から日本人が英米により解放された目出度い日
http://tokumei10.blogspot.jp/2015/08/blog-post_470.html
Title 731部隊と細菌戦 - 慶應義塾大学学術情報リポジトリ
koara.lib.keio.ac.jp/...php/AN00234610-19980701-0071.pdf?...
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by 松村高夫
にある黒龍江省五常県背陰河に「守備隊」を装って防疫班(東郷部隊と称した)を設け,細菌戦の. 研究を開始し,中国人にたいする人体実験も始めた。だが,34年 9 月に16名の収容者が脱走に成功. し,内部の秘密が露呈したため防疫班を閉鎖し,ハルビン ...
鬼畜大日本帝国軍部の残党の流れを汲むみなさまがたは、この期に及んでも、曖昧で傲慢な態度のまま、事態の鎮静化をじっと待っているつもりだろうか?
http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/user/tsuchiya/gyoseki/presentation/ICHS05.pdf
3515088628
京大 石井四郎 清野謙次
清野謙次 安場
>安場 tokumei10.blogspot.com/2015/12/culprit.html
> 鬼畜大日本帝国軍部の残党の流れを汲むみなさまがたは、この期に及んでも、
> 曖昧で傲慢な態度のまま、事態の鎮静化をじっと待っているつもりだろうか?
だからパンピーは温くてお花畑で平和ボケのバカだと言われる
真性のサイコパスや悪人が何を言われようと反省なんかする訳ないだろwwwww
自分の代わりに子供でも親戚でもお仲間でも何でも差し出して自分だけは
何が何でも逃げ切ろうとするに決まってるだろwwwww
Statement of Michael J. Ravnitzky, Monday, September 27, 1999
Public Forum: Monday, September 27, 1999
U.S. District Courthouse, 500 Pearl Street, New York City
https://www.archives.gov/iwg/research-papers/ravnitzky-statement-september-1999.html
言語の壁で10000周遅れ、全員パンピー
資料が無いといって逃げず、確認できる資料をすべて開示
反省以前の問題
国家は逃げるな
逃げる歴史が負の遺産となる
グロテスクな挑戦を招く素地を造るな
逃げるな 危険
https://www.youtube.com/watch?v=_mfKol3GGpg(動画編集ソフト等で映像を1分8秒遅らせられるなら)
https://www.youtube.com/watch?v=NxYr2DVYCrM
>Published on Aug 15, 2017
>旧日本軍最大の損害を出したインパール作戦。確かにあまりにも悲惨な結果ではありますが、NHKはこの作戦の背景にイギリス帝国からのインド独立があった事に一切触れませんでした。日本が当時の西欧列強からの独立のきっかけを作った事を知らせたくないのでしょうか。
>
>以下引用
> ジャーナリストの高山正之氏によるとインパールを語る戦史は最初から結論が「牟田口が悪い」で決まっており、これは司馬手法だと言っています。司馬遼太郎の乃木希典、伊地知幸助評に似る、というものです。本来日本人は人民裁判的評価は行わないといいます。
>どうやらインパール作戦は「戦後の色眼鏡」を外して見なければならないようです。
>日本が当時の西欧列強からの独立のきっかけを作った事を知らせたくないのでしょうか。
日本を国際金融資本の植民地にしたのはアジア主義者(爆w
http://tokumei10.blogspot.jp/2013/08/blog-post_6445.html
>本来日本人は人民裁判的評価は行わないといいます。
戦後の軍部残党によるでっち上げの一つでは?
たとえ国家もどきでも
証拠隠滅を証拠にして
おまけに証拠隠滅が不完全で
なおも強弁しようとする見苦しさにつき合えない
ヘルマン・ホイヴェルス神父 石井四郎
敗戦直後の戦争調査会について - 国立国会図書館デジタルコレクション
dl.ndl.go.jp › view › download › digidep...
検討された結果として、調査会が設けられた。 しかし、その背景には、戦争責任の調査と追及. を求めていた世論の存在 があり、また、複数の. 政治指導者(後述)も、敗戦の原因を調査する. 必要性を認識していた。つまり、戦争 ...
Tsuneyoshi Takeda Unit 731
今回のNHKスペシャルについては731も「戦慄の記録 インパール」もGJと思えました(続編を是非)
全員HARAKIRIすべき軍部上層部の実態が窺えて何度もマウスを画面に投げつけたくなりました
んでその子孫が今も日本であらゆるところでのさばってはノマノマイェイとかバラエティとかまでやってんですもんね
(牟田口司令官のお孫さんは今回のConfessionともいうべき情報提供でセーフとすべきなのか?)
NHKの全番組が365日全部これぐらいまともなら受信料もまだ納得いきますが(それでも国有化しての国籍条項復活が優先と思える)、キャスティングから何からほとんどがダメダメすぎやしませんか(会長が代わる前もだいぶ酷かったけど、代わった2月?以降ますます酷い)
軍部上層部の責任をうやむやにして誰も取らぬ体制が まんま日本の各所で残り続けてる現状、
これも変わらない限りは戦争をせずとも日本の負け確
ps://books.google.co.jp › books
戦争と医学(日本語版): - Page 109 - Google Books Result
2008
私の罪業と申しますのは、実は、私は陸軍軍医学校教官で、戦争直前米国フィラデルフィアにおいて凍結真空乾燥の技術を学んだことが契機となって、この日本における乾燥血漿の製造を開発したことであり、その結果多くの患者さんを ...
en.m.wikipedia.org/wiki/Project_112
https://books.google.co.jp › books
The Tokyo Trial: A Bibliographic Guide to English-language Sources
Jeanie M. Welch - 2002 - HISTORY
KHABAROVSK, SIBERIA (CONDUCTED BY THE U.S.S.R) The Japanese set up a biological warfare program ... warfare station, was started near Harbin, Manchuria, under the command of an Imperial Japanese Army ...
Imperial Japan's Abominable Dr. Death, And The Most Disgraceful War Crime "Amnesia" In History
https://www.forbes.com/.../imperial-japans-abominable-dr-death-an...
2014/03/09 - In this space last week, I mentioned the strange story of Takeo Tamiya, who, in becoming president of the Japan Medical Association, rose to the highest pinnacle of the Japanese medical profession in the immediate aftermath of World War II. To say the least this ... doctor in history. The fact is he had played a particularly significant role in Japan's war effort as chief recruiter for Unit 731, the Japanese imperial army's notorious biological warfare research organization.
"Amnesia"
[PDF]Military Medical Ethics, Volume 2, Chapter 16 ... - Semantic Scholar
https://pdfs.semanticscholar.org/.../7fbb49c41a3f06b1cc4857ae96f...
SH HARRIS 著 -
Japanese Biomedical Experimentation During the World-War-II Era. 495. Unit 100, joined the JNIH staff during its early days. Kaneko Junichi (a former Unit 731 surgeon and an expert on constructing bacteria bombs), Asahina. Shojiro (who had headed Unit 731's Department of. Entomology), and Umezawa Hamao (one of the BW units' most prolific publishers of scientific papers based upon human experiments) were among the. JNIH's leading staff members.134(pp1–2) At least half.
"Two events related to biological warfare probably went unnoticed by the Americans. In 1928, a Japanese officer by the name of Shiro Ishii began promoting biological warfare research and took a 2-year tour of foreign research establishments, including the United States. After his tour, he concluded that all the major powers were secretly researching biological warfare. Although his conclusion was erroneous for the United States, it was probably accurate for the Soviet Union. In 1929, the Soviets reportedly established a biological warfare facility north of the Caspian Sea."
「731部隊」隊員らの実名開示 3607人分、公文書館
2018年04月15日15時35分 (更新 04月15日 15時50分)
戦時中に中国で人体実験を繰り返したとされる旧日本軍の「731部隊」の隊員ら3607人の実名が記された名簿が国立公文書館から開示されたと、滋賀医科大の西山勝夫名誉教授が15日までに記者会見して明らかにした。
西山氏は「隊員ほぼ全員の実名が明らかになるのは初めて。研究に役立ててもらうため、今後ホームページで公開する」としている。
開示されたのは、731部隊を中心とする「関東軍防疫給水部」の「留守名簿」。1945年1月1日付で作成され、軍医52人、技師49人、看護婦38人、衛生1117人などの実名や階級、連絡先が記載されているという。
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/408780/
731部隊の構成全容明らかに 国立公文書館が名簿開示(京都新聞 ...
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180414-00000059-kyt-soci
18 時間前 - 同会は今月、京大に対し、731部隊所属者に関係する文書の開示請求を行っている。 14日は同会主催の講演会「研究者が戦争に協力する時 731部隊の生体実験をめぐって」があり、約150人が参加。常石敬一・神奈川大名誉教授が京大出身の731部隊軍医少佐が博士論文として提出したペスト菌特殊実験について講演し、「ペストに感染させたノミが石井部隊の主要な生物兵器だった。人体実験した論文を得難い実験として評価したのは京大に問題がある」と指摘した。
人体実験疑い京大調査継続せず
03月01日 17時08分
戦時中、京都大学から博士号を授与された旧日本軍の軍医が人体実験を行っていた疑いが強いとして検証を求めている団体に対し、京都大学は調査の継続は不可能などとする予備調査の結果を伝えていたことがわかりました。
京都大学は昭和20年、旧日本軍の「731部隊」に所属していた軍医に対し、サルにペストを媒介するノミを付着させて感染の経過を調べた論文で博士号を授与しています。
この論文をめぐって、大学教授などでつくる団体は▼サルの種類が書かれておらず、▼「頭痛を訴えている」など不自然な記述があることを挙げ、実験は捕虜を使った人体実験の疑いが強いとして、去年7月、大学側に検証を求めました。
団体によりますと、先月、京都大学から予備調査の結果について回答があり、▼実験がサルに対して行われたことを否定する科学的に合理的な理由があるとは言えず、▼本人に聞き取りができないうえ、実験ノートもデータも存在しないことから調査の継続は不可能だとして、今後の調査は行わないと伝えられたということです。
団体は、軍医がどのように頭痛を判断したかも調べていない調査は不十分だなどとして異議を申し立てて改めて詳しい調査を求めたということです。
事務局長を務める滋賀医科大学の西山勝夫名誉教授は「当時の歴史的な背景についての検証が一切なされていない。京大はこの問題に真摯(しんし)に向き合ってほしい」と話しています。
旧日本軍の軍医に対する博士号の授与をめぐる京都大学の予備調査に対し、大学教授などでつくる団体が異議申し立てを行ったことについて、京都大学は申し立てを受け取ったことは認めたうえで、「コメントはありません」としています。
kyoto/20190301/2010003041.html
books.google
Veterans' Administration Programs in Montana: Hearing Before the ...
United States. Congress. House. Committee on Veterans' Affairs. Subcommittee on Oversight and Investigations — 1982 · Disabled veterans
Reluctant statements by producing enormous casualties ( 1 , pp . the more ... ( also Japanese and confirmed tacitly by dated May 6 ) , gave more details ...
books.google
Bulletin of the Atomic Scientists
Vol. 37, No. 8 · Magazine
A top secret Tokyo headquarters "memorandum for the record" (also dated May 6), gave more details: "USSR interest in Japanese BW personnel arises from ...
●https://sgp.fas.org/news/1999/11/feinstein.html●
Introduction of the Japanese Imperial Army Disclosure Act of 1999 - FAS Project on Government Secrecy
Nov 10, 1999 — A top secret Tokyo headquarters "memorandum for the record" (also dated May 6), gave more details: "USSR interest in Japanese BW personnel ...
https://www.govinfo.gov › pkg › html
Congressional Record, Volume 141 Issue 88 (Thursday, May 25, 1995)
May 25, 1995 — ...I hope people on this Memorial Day and next Armistice Day and on V-J Day, which you can celebrate twice, August 15, the cessation of hostilities, September 2, the deck, remember what I read, that people were being murdered and beheaded and slaughtered before the day they surrendered on that deck of the Missouri. I am going to find out why our U.S. Army and our chemical warfare departments used this evil, satanic, ill-gotten, bloody scientific knowledge and did not bring these men to the justice that we did Hitler's gang.
https://pdxscholar.library.pdx.edu › ...PDF
Factors in the US Decision to Classify the Japanese Biological and ...
LR Zhang 著 · 2021 — Yuasa Kim, an army doctor for the Japanese Imperial ... weapons.13 By this time, Japan's Unit 731 was ten years ahead with research backed ...
731部隊の「職員表」が存在 旧日本軍、細菌戦組織解明に期待
2023/07/17
731部隊を含む関東軍の組織改正を巡る報告書の表紙(明治学院大国際平和研究所の松野誠也研究員提供、国立公文書館所蔵)
旧日本軍で細菌兵器開発や捕虜への人体実験などを極秘裏に実行した731部隊(関東軍防疫給水部)の「職員表」を含む公式文書が残されていることが17日、分かった。1940年に組織改正して防疫給水部となった際に関東軍が作成し、部隊の構成や隊員の氏名、階級などを記している。厚生労働省から移管され国立公文書館が保管する文書を、明治学院大国際平和研究所の松野誠也研究員(日本近現代史)が発見した。
731部隊の関連文書は敗戦時に焼却が命じられており、新文書は細菌戦組織の実態解明につながると期待される。松野さんは「部隊の各部の構成とともに隊員の氏名と階級などが明示された旧日本軍作成の資料が見つかったのは、初めてではないか。誰がどのように部隊に関与し、戦後どう生きたかを明らかにする材料になる」と話す。
文書は満州(現在の中国東北部)に駐屯した関東軍の組織改正の報告書。機密性が最も高い「軍事機密」扱いで、表紙に「昭和十五(1940)年九月三十日」「関東軍司令部調製」と記されている。
https://nordot.app/1053643108688068681
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