コンテナ船「ACX CRYSTAL」と米イージス艦「FITZGERALD」の衝突事故について
2017年6月17日
6月17日1時30分(日本時間)頃、静岡県下田沖およそ20キロにて当社が用船・運航するコンテナ船「ACX CRYSTAL」(エーシーエックス クリスタル)とアメリカ海軍イージス艦「FITZGERALD」(フィッツジェラルド)が衝突しました。
「ACX CRYSTAL」の人命に異常はなく、油濁も発生していませんが、海上保安庁によると「FITZGERALD」の乗組員に行方不明者が数名いるとの情報があります。
当社は事故対策本部を立ち上げ、船主と連携して海上保安庁による捜査に全面的に協力しています。
「ACX CRYSTAL」は1,080個のコンテナを積載し、名古屋港から東京港に向け航行中でした。
「ACX CRYSTAL」の概要は以下の通りです。
1.船名 : ACX CRYSTAL
2.総トン数 : 29,093トン
3.全長 : 222.60メートル
4.船籍: : フィリピン
5.建造年 : 2008年
6. 船長 : Ronald Advincula(ロナルド・アドビンクラ)
7.乗組員 : 20名(フィリピン人)
8. 積荷 : 一般貨物
9.運航会社 : 日本郵船株式会社
10.船主名 : 大日インベスト株式会社
ご迷惑をお掛けしていることお詫び申し上げます。今後、詳細情報を入手し
次第ご連絡します。
http://www.nyk.com/news/2017/1188061_1521.html
Organization
Dainichi-Invest Corporation
Industry Boat Renting and Leasing Companies
Office Type
Headquarters Location
Office Address
18, Akashimachi, Chuo-Ku
Kobe, 650-0037
Japan
Contact Information
General Phone Number
+81 78 321 2301
大日明石町ビル@旧居留地、、、(爆wwwwwwwwwww
旧居留地18番地であることを示すプレートがありました。
居留地時代、18番はウォーレン・ティルソン商会が落札。他の業者と生田川の東側で屠牛場を経営していたようです。
また、1870年5月22日にはこの18番の建物を借りて、米国の宣教師D.C.グリーンが礼拝を行っています。
(しかしこの建物は礼拝に適さず、1872年には居留地48番にユニオン教会が建ちます。)
その後、18番はA.C.シム商会の所有となります。A.C.シム商会は薬品の輸入・販売などを行い、後にラムネ製造も行いました。このラムネは商会の所在地から18番とも呼ばれました。
シムは、スポーツマンで、神戸レガッタ・アンド・アスレチック・クラブを設立した人でもあります。
また濃尾地震や三陸の大津波の際には現地へかけつけ、ボランティアを行ったそうです。
彼の死後、多くの人が彼を悼み、東遊園地にはシムの記念碑が建っています。
http://brownrex.exblog.jp/22123956/
アレキサンダー・キャメロン・シム(Alexander Cameron Sim、1840年8月28日 - 1900年11月28日)は、イギリス出身の薬剤師、実業家。スコットランドのアバルー出身。19世紀後半に神戸外国人居留地で活動した。
1840年8月28日、スコットランドのアバルーに生まれる。若くしてロンドンに移り、1862年に王立ロンドン病院に薬剤師として就職した後、1866年に政府の海外派遣員の資格を得、香港の海軍病院で3年間半勤務した[1]。海軍病院を退職後日本へ渡り、長崎外国人居留地に数か月滞在した後、1870年に神戸外国人居留地へ移った[1]。
神戸外国人居留地でシムはレウェリン商会に薬剤師として勤務した後、18番地にACシム商会を設立、薬品の輸入・販売などを手掛けた[2]。シムは1884年頃からラムネの販売を手掛けた[3]。「日本清涼飲料水工業発達史」には「神戸のA.Cシム商会が日本で最初のラムネだろう」と記されている(それ以前にも長崎でラムネが製造・販売された記録があるが、大規模には流通しなかった[4])[5]。当時日本ではコレラの流行が社会問題化していたが、東京毎日新聞が「瓦斯を含有した飲料水を飲むと恐るべきコレラ病にかかること無し」書いたところラムネの売れ行きが伸びた。シム商会の所在地から「18番」と呼ばれたシム製造のラムネも好調な売れ行きを見せ[6]、「払い底になった」(『大阪日報』の報道)[7]。
シムはスポーツ選手として活動し、香港滞在時には陸上競技、ボート競技などで活躍した[8]。神戸外国人居留地でも各種の競技会・大会に出場したほか、1870年にスポーツクラブの創設を提唱し、神戸レガッタアンドアスレチッククラブ(KRAC)の設立(1870年9月23日)に大きく貢献した[9]。KRACは各種のスポーツのみならず様々な社会活動を行う団体として活動[10]し、居留地返還後も今日に至るまで存続している。
シムが神戸外国人居留地の居留外国人が自主的に組織した消防隊の隊長を務めた。シムはしばしば自宅近くの公園に設けられた火の見櫓に登り、見張りをした[11]。就寝時も出動に備えて消防服とヘルメット、手斧を枕元に置き[12]、消防隊長を務めた間、シムが出動しなかった火事はほとんどなかったと伝えられている[13]。居留地返還に伴って消防隊が消防組として神戸市へ移管された後、シムは消防組名誉顧問としての待遇を受け[14]、消防組を指揮する権限が与えられた[15]。
シムはボランティア活動に積極的に取り組んだ。日本各地で自然災害が発生した際には様々な支援を行った。1891年に濃尾地震が発生した際には義捐金集めに奔走し、さらに被災地に赴き食料や衣料の配給にあたった。シム自身も相当の金額を義捐金に拠出しており、そのことに対し明治天皇から酒盃が下賜された[16]。1896年に明治三陸地震が発生した際にも義捐金を集め、現地に赴き救援活動を行った[17]。
シムは居留地会議(神戸外国人居留地における自治機構の最高議決機関)の副議長を務めた。1899年7月17日、居留地返還に伴うセレモニーが行われた際には病気の居留地会議議長に代わって出席し、引継目録と引継書への調印・署名を行った[18]。
1900年11月28日、シムは腸チフスにかかり死亡した。感染経路はカキにあたったとも、訪問客から感染したともいわれている[19]。1901年、内外人公園(現在の東遊園地)にシムの顕彰碑が設けられた[20
、、、(爆wwwwwwwwwwwww
5 件のコメント:
>消防隊の隊長
デウス - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org › wiki › デウス
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ヴァレンティノさん、以前もフランスの貴族が馬鹿息子におもちゃを買い与えるように買収されたと嘆いていました。おフランスの馬鹿息子はおもちゃに飽きてカタールにバトンタッチしたのですね。馬鹿息子のときから中国の工場で作らせて明らかにクオリティがしまむらのようにへぼくなってオワタ
日本郵船 三菱 LNG カタール
7/11のテロ等準備罪の施行前にやっちまえで実行に移させた、としか思えず
もし遡及があれば適用第一号にこの明石の会社を・・・
・・・せぶんいれぶん?
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