2017年5月15日月曜日

平成 ジャンプ@クルス島

海上タクシー衝突 アイドルグループメンバーや俳優らけが
5月15日 18時29分

14日夜、長崎県佐世保市の黒島を出港した海上タクシーが防波堤に衝突し、乗客7人が重軽傷を負った事故で船には、黒島で映画の撮影をしていた関係者が乗っていて、アイドルグループのメンバーや俳優などがけがをしたことがわかりました。海上保安部が、事故の原因を調べています。

14日午後10時前、長崎県佐世保市の黒島を出港した海上タクシー「さくら」12トンが岸壁からおよそ100メートルの海上で港の防波堤に衝突し、乗客の女性2人がろっ骨などを折る大けがしたほか、5人が軽いけがをしました。

佐世保海上保安部によりますと、船は船首の部分が大きく壊れましたが、自力で航行して佐世保市の相浦港に入りました。

船に乗っていたのは黒島で映画の撮影をしていた関係者で、アイドルグループ、Hey!Say!JUMP知念侑李さんと、俳優の中川大志さん、小松菜奈さんらが軽いけがをしたということです。

海上保安部が事故の原因を調べ、国の運輸安全委員会も16日、調査官3人を現地に派遣することにしています。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170515/k10010982481000.html








天皇陛下は、体調がすぐれず、15日午後、皇居で予定されていた公務を取りやめられました。関係者によりますと、天皇陛下は、体調がすぐれないため、15日午後、皇居宮殿で予定されていた春の叙勲の勲章受章者の拝謁をとりやめられ、皇太子さまが代わりを務められているということです。
また、同じく午後に予定されていた皇居などの清掃を行う「勤労奉仕団」との懇談も見送られ、皇后さまがお一人で臨まれるということです。

5月15日 16時01分
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170515/k10010982191000.html?utm_int=news_contents_news-main_002


黒島の島名には、二つの説があるといわれている。
一つは、黒島を海上から見た際、樹木が密生しており黒く見えるために、「黒島」というのだという説。もう一つは、カトリック教徒が多く住んでいたため、『クルス島』(cruz=ポルトガル語十字架の意味)といわれ、これがなまって「クロ島」になったという説である。
歴史上では、鎌倉時代平戸松浦氏の始祖である峯五郎披の所領中に黒島の地名が出てくるが、それは日本へのキリスト教伝来よりもずっと前のことなので、黒島の地名は海上から見ると木々が黒々しているためにそう呼ばれるようになったという説が有力であると考えられている。また本島は孤島にもかかわらず島内のいたるところに湧き水があり、そのことから古くは「水島」とも呼ばれていた。
黒島は室町時代後期から戦国時代初期にかけて、松浦氏が北松浦半島や周辺島嶼の統一を進める過程でその領地となった。その後松浦氏の家臣である西氏が付近に出没していた海賊討伐の褒美として黒島を与えられ、島の直接の統治を行うようになった。戦国時代後期に一度キリスト教が伝わり、古里地区にキリシタンが暮らしていた。
江戸時代になると、黒島は平戸島(現在の平戸市)に居城を置く平戸藩の領地となった。その当時の黒島は、石高(米の収穫量)は少ないものの、農業漁業に加え、御影石の採石地、軍馬の飼育地(根谷地区)として知られていた。
1803年享保3年)に牧場が廃止され、大規模な田畑の開墾が始まり、江戸幕府禁教政策による弾圧から逃れた大村藩キリシタン達が移住するようになった[2]1865年慶応元年)に長崎浦上のキリシタンが大浦天主堂で信仰を明らかにした「信徒発見」から数ヵ月後には、早くも黒島の信徒代表者が大浦天主堂を訪ね、その後明治時代カトリックに復帰した。1902年明治35年)には現在のカトリック黒島天主堂が建てられ、いまも島民の約7割がカトリック信者といわれる。

明治の町村制以降は北松浦郡黒島村という一島一村となり、1954年昭和29年)に佐世保市に編入、同市黒島免を経て1958年(昭和33年)に同市黒島町となり、現在にいたる。




アポローン古希: ΑΠΟΛΛΩΝ, Ἀπόλλων, Apollōn)は、ギリシア神話に登場する男神オリュンポス十二神の一人であり、ゼウスの息子である。詩歌や音楽などの芸能・芸術の神として名高いが、羊飼いの守護神にして光明の神でもあり、イーリアスにおいてはギリシア兵を次々と倒した[1]「遠矢の神」[2]であり、疫病の矢を放ち男を頓死させる神[3]であるとともに病を払う治療神でもあり、神託を授ける予言の神としての側面も持つなど、付与された性格は多岐に亘る。もとは小アジアに起源をもつ神格で、本来は繁茂する植物の精霊神から転じて牧畜を司る神となったという説や、北方の遊牧民に起源を求める説など[4]、アポローンの出自については諸説あり、複数の神格の習合を経て成立したものとも考えられている[5]。古典期のギリシアにおいては理想の青年像と考えられ、また、ヘーリオス太陽)と同一視されるようにもなった。
推定される原音に近づけてその名をカナ転写すればアポローンとなるが、日本語のカタカナ表記ではアポローン、または長母音を省略してアポロンとするのが通例である。





黒島天主堂(くろしまてんしゅどう)は、長崎県佐世保市黒島にあるキリスト教 カトリック長崎教区教会およびその聖堂である。正式名称を黒島教会(くろしまきょうかい)といい、至聖なるイエズスの聖心教会イエスのみ心教会の別名もある。国の重要文化財に指定されている。
佐世保市本土から西へ約10km離れた九十九島最大の島である黒島には、江戸時代の迫害を逃れて移住してきた隠れキリシタンが多く住んでいた。




今上もさっさと緊急引退させた方がええ。(爆wwwwwwwwww

4 件のコメント:

月夜 さんのコメント...

辞めたがってる
本人の意志を無視し
今上翁を今だ担いでいる人達は(笑)

匿名 さんのコメント...

なぜプッシュされていたのか、なぜこうCMされていたのか、わかる気がします
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E5%B3%B6%E7%B5%90%E8%8F%9C
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%86%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88

ご近所 さんのコメント...

>大浦天主堂
訪れるとわかるんですが、強烈な腐乱巣とキムチ風味が漂っておますw
おっと、下の階のアホの子、騒ぎまくりwww

匿名 さんのコメント...

1 capture
14 Dec 2013
NOV DEC JAN
(37)高見大司教の言葉/希望を信じ 共に前へ

支倉常長の直系の子孫支倉常隆さん(右)の案内で、慶長遣欧使節船が出帆した石巻市の月浦を訪れた高見三明大司教。高見大司教は、常長に随行した仙台藩士の子孫だという。遠祖のこと、東日本大震災の被災者に寄せる思いなど、2人の話は尽きなかった

 長崎には慶長遣欧使節の子孫を称する人たちが住んでいる。支倉常長の随員だった黒川市之丞、黒川六右衛門、松尾大源の3人は、キリシタンの迫害が仙台藩でも始まったことを知り、監視の目の届きにくい長崎の山あいに隠れ住んだと伝わる。カトリック長崎大司教区で6万人の信者を導くヨセフ高見三明大司教(67)も、その子孫の一人だという。高見大司教に、遠祖の地への思いなどを聞いた。

 -高見大司教は支倉常長とともに潮路を越えた松尾大源とつながりがあるとうかがっています。
 「高見家は大源の傍系の子孫と伝えられています。私は長崎市北東部の三ツ山町で生まれました。江戸期は大村藩領で、浦上木場村と言った所です。三ツ山には、大源の直系といわれる松尾姓の家が何軒かあります。でも、大源がどこで入信したのか、大源の子孫だというわが家がなぜ高見姓を名乗っているのか、詳しいことは分かりません」
 「長崎に帰着した大源は国元での迫害を耳にし、隠れ住む場所を三ツ山に求めたといいます。三ツ山はキリシタンの里ですから、潜伏信徒の手引きで格好の地を見つけ、一度仙台に戻って家族を引きまとめ、この地で帰農したのでしょう」

 -高見家の先祖も迫害に遭ったのですか。
 「『浦上四番崩れ』(1867~73年)と時を同じくして、『木場の四番崩れ』という迫害事件が起き、55人が殉教しました。殉教者の中には、大源の同僚だった黒川市之丞の子孫もいました」
 「私の曽祖父多四郎も捕まり、大村の牢につながれました。獄中で『このままでは木場の信徒が絶えてしまう』と脱獄を決意し、米国の船にかくまわれて神戸に逃れたといいます。ほとぼりが冷めてから長崎に戻ったのですが、明治新政府に脱獄の罪で罰金を課せられたそうです」

 -信徒たちは、禁教が解かれてからも苦労を重ねたと聞きます。
 「1873年に禁教の高札が撤去され、信徒たちも配流先から故郷に戻りました。ところが、浦上の土地を信者でない人たちが占拠していた。土地は何とか取り戻したものの、まともな住家がない。台風の襲来で、作物も思うように作れない。追い打ちのように腸チフスが流行する…。神に祈り、心を一つにすることで、度重なる苦難を乗り越えたのです」
 「浦上の信徒はかつて絵踏み(踏み絵)が行われていた庄屋屋敷を買い取って仮の聖堂を建てました。『いつか、どこにも負けない聖堂を持ちたい』と願い、1895年に浦上天主堂の建設に取り掛かりました。献身的な働きで信徒を助けたのがピエール・テオドール・フレノ神父です。空き缶を持って建設資金集めの托鉢(たくはつ)に回り、持ち前の建築の知識と芸術的センスを天主堂の施工に発揮したのです」

 -伊達政宗が仙台領内に宣教師を迎えようとしたのも、慶長三陸地震からの復興に必要な知識と技術の導入が目的だったとの説があります。
 「宣教先で神が森羅万象を造ったと教える時に、天文、歴史、哲学、科学など幅広い学識が必要になります。宣教師は開発度の低い土地にも赴きますから、土木や農業、医学の他、生活全般に関する知識も必要です」
 「明治時代の長崎で社会福祉に尽力したマルコ・マリー・ド・ロ神父は、ひたすら働くだけでなく、合理的に収入を増やす方法を示しました。『救助院』という職業訓練所を設立して、農業、印刷、医療、土木、建築、養蚕などさまざまな技術を教えました。パンを焼き、そうめんを作り、メリヤスを編んで、収入増を図ったのです」

 -浦上は長崎原爆の爆心地でもありました。
 「爆心に近かった浦上天主堂は倒壊し、中にいた信者は全員、亡くなりました。浦上地区の信者1万2000人のうち、8500人が1945年の内に死亡しています。長崎市全体では7万人余りの市民が犠牲となり、15万人以上が原爆症に苦しむことになりました」
 「私の母はいわゆる入市被爆者で、がんで亡くなりました。叔母は遺体も分からず、叔母の夫も数日のうちに息を引き取っています。祖母は全身大やけどで終戦の日に死亡しました。典型的な原爆症で声が出せなくなり、やせ衰えて死んだ親族もいます。私自身も胎内被爆者です」

 -今、東北地方は、東日本大震災の被害から立ち直ろうと必死です。
 「地震と津波、そして放射能汚染…。東北地方の皆さんが味わった喪失感は、いかばかりのものでしょう。何をどう頑張ったらいいのか分からない、という方もおられるでしょう」
 「でも、希望は絶対に失わないでほしい。復興のために働く人たちを見守り、共に手を携えて前を向いて進んでいってほしい。孤独はいけない。人とのつながりを大切にしてください」
 「潜伏キリシタンたちは『沖に見えるはパーパの船よ 丸にヤの字の帆が見える』と歌って迫害の時代を耐え抜きました。丸にヤの字とは、マリア様の隠語です。いつか、ローマから派遣されたパードレが、マリア様の像を持って船でやって来る-。そう信じて仲間と手を取り合ってきたからこそ、数々の災厄から立ち直って、今日という日を迎えることができたのです」
(生活文化部・野村哲郎/写真部・高橋諒)


2013年10月18日金曜日

https://web.archive.org/web/20131214104417/http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1117/20131018_01.htm