マーク・ナッパー(Marc E. Knapper)は、アメリカ合衆国の外交官。在日米軍基地問題や中国・朝鮮問題に詳しく[1]、日本語と朝鮮語が堪能[2]。
父親は海兵隊員であり[3]、父親の沖縄駐留に伴い少年時代の数年間を沖縄で生活[2]。1987年から1991年までプリンストン大学に在籍[4]。ケント・カルダー教授の下で日本政治を専攻し[2]、政治学の学士号を最優等で取得[4]。1991年から1993年まで日本の東京大学大学院に留学し、国際関係論を研究[4]。自民党国際局に勤務し[1]、椎名素夫参議院議員の秘書として従事[2]。
1993年に国務省に入省[2]。1995年から1997年までウォルター・モンデール駐日大使の特別補佐官として日本の東京大使館で勤務[4]。1997年から2001年まで韓国のソウル大使館で二等書記官(政治担当)として勤務[4]。マデレーン・オルブライト国務長官の北朝鮮訪問に際しては、平壌で北朝鮮との予備折衝を担当[2]。2001年から2004年まで国務省東アジア・太平洋局中国部で政治軍事担当官[4]。2004年から2007年までベトナムのハノイ大使館で参事官(政治担当)[4]。2007年から2010年まで日本の東京大使館で政治部次席[4]。2010年から2011年8月までイラクのバグダッド大使館で参事官(政治担当)[4]。2011年8月から2014年8月まで国務省東アジア・太平洋局日本部長[4][5]。2014年8月から2015年5月まで国務省南・中央アジア局インド部長[4]。2015年8月から駐韓首席公使[4]。
椎名 悦三郎(しいな えつさぶろう、1898年(明治31年)1月16日 - 1979年(昭和54年)9月30日)は、日本の官僚、政治家。岸信介の腹心[2]として商工省や満州で活躍。商工次官、軍需次官も務めた。戦後は政界入りし、内閣官房長官(岸内閣)、通商産業大臣(21代・30代)外務大臣(94-95代)、自由民主党・総務会長、政調会長、副総裁を歴任。田中角栄の後継に三木武夫を指名した「椎名裁定」で知られる。椎名素夫は次男。血縁のない叔父に後藤新平がいる。
岩手県胆沢郡水沢町(水沢市を経て、現在の奥州市)に生まれる。父の後藤広は小学校の教師から水沢町(当時)の助役を経て、岩手県議会議員となり、更に水沢町長を10年間務めた。
悦三郎は高等小学校4年次に一人上京。実業家の原邦造家などの学僕をしていたが、夜学にも通わせてくれなかったことに憤り主宅を転転、父のとりなしもあって三件目で通学が許され、夜学の研数学館で数学などの受験準備をし、錦城中学入学を果たした[3]。旧制二高卒業後、東京帝国大学入学。同時に後藤新平の姉の婚家である椎名家に養子入りする。椎名家は蘭学者の高野長英(幼名、悦三郎)の血筋にあたった。
1923年3月に東京帝国大学法学部法律学科を卒業後、農商務省に入省[1]。農商務省が農林省と商工省に分離した後は、商工省に移り、岸信介の下、満州国統制科長、産業部鉱工司長を歴任する。
日本に戻り、商工省産業合理局長、商工次官、軍需省陸軍司政長官兼総動員局長として戦時下物資が窮乏する中、物資統制、調整に数々の実績を上げた。商工大臣・軍需次官であった岸信介を支え「金の岸、いぶし銀の椎名」と称された。また叔父の後藤新平と繋がりのあった正力松太郎の協力を得て、地元水沢町に日本初の公民館を建設した[4]。
1945年、終戦と共に退官。公職追放となる[5]。
岸信介の誘いで1955年の第27回衆議院議員総選挙に日本民主党公認で立候補し当選する(当選同期に愛知揆一・田村元・唐沢俊樹・高村坂彦・渡海元三郎・丹羽兵助など)。当選1回ながらも商工省出身で産業界に人脈があることを評価されて経理局長に就任する。当選2回で岸信介内閣で内閣官房長官に就任。内閣のスポークスマンであったが、記者会見では「細かいことは総理に聞いてくれ」とおとぼけを発揮する一方で日米安保条約改定で岸を支えた。
岸退陣後、岸派は分裂。椎名は福田赳夫と袂を分かち、川島正次郎の川島派として行動した。1970年の川島の死に伴い川島派は椎名派となる。
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