日商岩井も今では双日になっていますか、色々な 歴史のある商社の集まりなんですね。https://www.sojitz.com/jp/corporate/history/
ナイキの創業者が語る日本への愛「日本人は挑戦できる人たちだ」 - ライブドアニュースhttp://news.livedoor.com/article/detail/15341938/2018年9月22日 8時0分東洋経済オンライン 笑顔で「日本への愛」を語るフィル・ナイト氏(筆者撮影) 発売から1年足らずで20万部を突破、「2017年最高の書」と高い評価を得たナイキ創業者の自伝『SHOE DOG(シュードッグ)』。 米Netflix社が同書の「映画化権」を取得、日本でも「ビジネス書大賞2018」で大賞を受賞するなど、2018年も話題になり続けている。 「ナイキは日本から生まれた」とも言えるほど日本と関係が深く、日本好きなナイト氏本人に、日本人へのメッセージを語ってもらった。ナイキ本社にはなぜか「日本庭園」があるアメリカ・オレゴン州ポートランドは、アメリカで最も住みたい街と言われる。食やファッションなどライフスタイル全般で注目を集める都市だ。昨今のシリコンバレーの生活コスト暴騰から、生活の質の向上を求めてポートランドを目指すエンジニアも少なくない。ポートランド郊外、ビーバートンに本社を構えるのが、世界で最も有名なスポーツブランド、ナイキだ。東京ドーム約35個分の広さを誇り、あらゆる競技の施設が用意されているキャンパス(ナイキでは本社の敷地をこう呼ぶ)の中心には、広々とした池がある。 ナイキ本社にあるNissho Iwai Garden(筆者撮影)その池を望む社員の憩いの場には「Nissho Iwai Garden」(日商岩井ガーデン)がある。春になると桜並木が満開になる日本庭園は、ナイキの成立と日本との間に深い関係があることを物語る。そんなナイキ本社で、創業者のフィル・ナイト氏へインタビューすることができた。ここでは、ナイト氏が本に著したナイキと日本について、そして現代の人々へのメッセージに迫りたい。『SHOE DOG』はナイキの創業物語だ。日本ではすでに20万部を突破したベストセラーとなった。ナイト氏にとって、この本が日本で多くの人々に受け入れられたことには特別な意味がある。「人口が3倍もいるアメリカでは40万部です。そう考えると、より多くの人々に関心を持ってもらえてとてもうれしいです。ナイキのストーリーの始まりには、日本が深く関わっていましたから」そう顔をほころばせる。ナイキの前身となったブルーリボンスポーツ(Blue Ribbon Sports)という会社名は、1962年にオニツカ(現・アシックス)の靴を輸入してアメリカで販売しようと交渉のために日本を訪れた際、口をついて出た企業名だった。そのブルーリボンの窮地を救い、また自社開発のシューズの発売にこぎ着けた背景には、日商岩井(現・双日)ポートランド支店の尽力があった。さまざまなストーリーのきっかけに日本があったとふりかえる。『SHOE DOG』には1980年、つまりナイキの株式上場までが綴られている。その理由について、ナイト氏はこう明かした。「はじめは、ナイキの40年の歴史を網羅しようと思っていました。ですが400ページの本では、細かい出来事を書き表すことはできません。皆さんに本当に知ってほしかったのは、初期の話です。1980年に株式公開をして以降のことは、多くの人が知っているでしょう。でもシューズ業界の外の人には、ジェフ・ジョンソンさん、ボブ・ウッデルさん、皇孝之(すめらぎ・たかゆき)さん、伊藤忠幸(いとう・ただゆき)さんのことは知られていない。彼らがどんな活躍をしたかを書くべきだと思ったのです」 本社内に飾ってあった旗には、日商岩井社員の名前が書いてあった。左は当時の日商岩井社長、後に日銀総裁となった速水優氏。右は皇孝之氏(筆者撮影)学生時代から注目した日本
学生時代から注目した日本フィル・ナイト氏は大学院を修了して間もない1962年に日本を訪れ、スポーツシューズを輸入し、販売を始めた。その後自社開発を行い、今日のナイキの成立へと歩んできた。しかしなぜ、日本に注目したのだろうか。「私はスタンフォード大学ビジネススクールの論文で、日本のカメラがドイツのカメラより売れるのなら、日本のスポーツシューズも、ドイツのスポーツシューズのように売れるのではないか、と書きました。当時、アメリカや世界の市場ではドイツのプーマやアディダスが市場を独占していましたが、日本製のシューズが売れると考えたのです。そこで東京で靴屋を回り、オニツカの靴が一番だと知り、彼らに連絡しました」オニツカとの交渉でも、ナイト氏はスポーツシューズへの深い造詣を披露し、共感を得ていく。「会議室で、私たちは靴についてたくさんのことを話しました。私はオニツカの靴をアメリカで売りたい。彼らからも、アメリカに輸出したいという考えを聞きました。2つの考えが合致した瞬間です。その一方で、彼らは私のことを若く繊細だとみていたでしょうが、私たちは靴についてよく知る間柄でした。とても和やかな議論の中で、私はサンプルをオーダーすることにこぎ着けたのです。すべての交渉が、そのときにまとまりました」その後、300足のオニツカのスポーツシューズを発注し、アメリカの西部13州での販売を許された。ただし、そのビジネスは自転車操業そのものだったという。「信じていました。日本のスポーツシューズの販売はうまくいくと。売り上げのすべてにくわえて、会計士の仕事で得た給料までも、靴の仕入れにつぎ込んでいました。私は大学院を修了しても、人生で何をしたいのかはっきりしていませんでした。しかしスポーツシューズの販売が理想だ、という完全なる確信があったのです。ビジネスを成立させ、自分や家族の支えとなることを望んでいました」ナイト氏のブルーリボンは、2度、資金繰りで窮地に追い込まれることになる。その危機を救ったのが、日商岩井だ。なぜ日本の商社に頼ることになったのか、その経緯を次のように語った。 バンに靴を積み込み、売り歩いたという創業当時を彷彿とさせる展示(筆者撮影)「売り上げや自分の給料をすべてつぎ込まなければならなかった理由は、当時、ベンチャーキャピタルのような存在がなかったからです。銀行を説得するには時間がかかりましたが、日商岩井を説得するのは、それほど難しいことではありませんでした。彼らは私たちの会社が急成長していること、そして利益の伸びが良好であると判断し、熱心に話を進めました。彼らは、私たちに100万ドルの融資を提供し、私たちはそれをオニツカからの靴の輸入に充てたのです」ナイト氏は、1970年代の日本の商社が、ブルーリボンにとってのベンチャーキャピタルのような振る舞いをし、成長するビジネスを資金面で支える投資家のような役割を担ったことをふりかえる。しかしこれも、勉強家のナイト氏は予見していたことだった。「『フォーチュン』誌の記事で、『日本株式会社』の成り立ちについて読んだ際の重要な箇所は、日本の商社が世界中のあらゆる市場で非常にアグレッシブだということでした。日商岩井も、私に非常に熱心で積極的だったのです」日商岩井の皇孝之氏は、ナイト氏のことを真剣で熱心と評している。しかしむしろ皇氏の方が、アグレッシブだったと、ナイト氏はふりかえる。「皇さんがいなかったら、ナイキは存在していなかったでしょう。ビジネスは彼のおかげで好転しました」2度目にナイト氏を救ったアイスマンナイト氏が書いた『SHOE DOG』に登場する日本人の中で「アイスマン」の異名を取るのが伊藤忠幸氏だ。カリフォルニア銀行から口座を凍結され、資金繰りの改善を求められたナイト氏が頼ったのが、日商岩井ポートランド支店の会計を担当する伊藤氏だった。伊藤氏はナイト氏の窮地を救うため、あらゆることを明らかにしてほしいと望み、会計帳簿まで差し出させたという。なぜそれに、ナイト氏は応じたのか。「私は神経質になっていました。もし伊藤さんがNoといえば、そこで会社は倒産でしたから、日商岩井が唯一の望みだったのです。だいたい1週間の出来事でした。伊藤さんは融資に積極的でした。一晩で検討し、そのとき何が必要なのかを知りたがっていました」そのとき、伊藤氏はナイキを救おうと最も強く望み、そのために動いていた人物だった。にもかかわらず、本では「冷酷な男」と呼ばれた。伊藤氏本人はそう呼ばれることが本心ではないと告げると、ナイト氏は大笑いをした。「それは悪いことをしましたね。彼は本当に真摯な男だったという意味なんです。彼らとは3年間、非常に近い関係でした。デル・ヘイズ、ボブ・ウッデル、ジェフ・ジョンソン、ロブ・ストラッサーといったチームみんなを知っていた。当時日商岩井は、我々のマネジメントで会社がより成長できると信じていた。だから支えてくれたのです」そうした黎明期の恩義を、Nissho Iwai Gardenに込めていると、フィル・ナイト氏は語る。「我々はキャンパス中に、ナイキとともに歴史を作ってきたアスリートの名前を冠するグラウンドを設置しています。日商岩井はナイキの歴史の中で、非常に、非常に重要な位置を占めます。そこで、キャンパスの中心に日本庭園を設置しています」日本に助けられた男が見る、日本の明るい未来日本の高度成長期、日本の商社とビジネスパーソンを、現代のようにベンチャー企業が仕組み化される以前から活用し、世界企業へと成長を果たしたナイキ。その一方で、バブル崩壊後の日本の低迷や回復の遅れを見て、いま、どのように感じているのだろうか。 『SHOE DOG』特設サイトはこちら「私には日本好きというバイアスがあります。日本で仕事をすることも好きですし、日本へ行くことも好きですし、日本のあらゆることが好きです。たしかに、日本経済は低迷していました。しかし私は非常に楽観的に未来を見ています。再び成長していくと思います。日本のビジネスパーソンがアグレッシブではない、起業家精神がない、リスクを取らない、という見方は、真実ではないと思います。ソニーの盛田昭夫さんのことを、誰もアグレッシブではないとか、起業家精神がないとは言わないでしょう。素晴らしいビジネスパーソンは実際にいるし、日本の未来は十分に明るいと言えます」日本の若者に対しては、こんなメッセージを述べている。「私が学んだ人生で最も重要な教訓は、『最後まで挑戦し続けろ』。アメリカのビジネスパーソンにとっても、同じような時期がありました。リスクを取ることを恐れ、失敗を恐れていたのです。しかしその期間は短く、その後、シリコンバレーでは、たとえばテスラはリスクを取っています。これはあらゆる国で見られることです、あらゆる国でリスクテイカーは求められるのです」そして、こう述べたのだ。「日本の5年後を見ていろよ」と。ナイト氏は日本の未来を明るく見ている。しかしその期待に応えるために我々が学ぶべきことは、この本に数多く収められているのだ。>ナイキ本社にあるNissho Iwai Garden(筆者撮影)NikeがTOC認定とかなんかないんですかね
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日商岩井も今では双日になっていますか、色々な 歴史のある商社の集まりなんですね。
https://www.sojitz.com/jp/corporate/history/
ナイキの創業者が語る日本への愛「日本人は挑戦できる人たちだ」 - ライブドアニュース
http://news.livedoor.com/article/detail/15341938/
2018年9月22日 8時0分
東洋経済オンライン
笑顔で「日本への愛」を語るフィル・ナイト氏(筆者撮影)
発売から1年足らずで20万部を突破、「2017年最高の書」と高い評価を得たナイキ創業者の自伝『SHOE DOG(シュードッグ)』。
米Netflix社が同書の「映画化権」を取得、日本でも「ビジネス書大賞2018」で大賞を受賞するなど、2018年も話題になり続けている。
「ナイキは日本から生まれた」とも言えるほど日本と関係が深く、日本好きなナイト氏本人に、日本人へのメッセージを語ってもらった。
ナイキ本社にはなぜか「日本庭園」がある
アメリカ・オレゴン州ポートランドは、アメリカで最も住みたい街と言われる。食やファッションなどライフスタイル全般で注目を集める都市だ。昨今のシリコンバレーの生活コスト暴騰から、生活の質の向上を求めてポートランドを目指すエンジニアも少なくない。
ポートランド郊外、ビーバートンに本社を構えるのが、世界で最も有名なスポーツブランド、ナイキだ。東京ドーム約35個分の広さを誇り、あらゆる競技の施設が用意されているキャンパス(ナイキでは本社の敷地をこう呼ぶ)の中心には、広々とした池がある。
ナイキ本社にあるNissho Iwai Garden(筆者撮影)
その池を望む社員の憩いの場には「Nissho Iwai Garden」(日商岩井ガーデン)がある。春になると桜並木が満開になる日本庭園は、ナイキの成立と日本との間に深い関係があることを物語る。
そんなナイキ本社で、創業者のフィル・ナイト氏へインタビューすることができた。ここでは、ナイト氏が本に著したナイキと日本について、そして現代の人々へのメッセージに迫りたい。
『SHOE DOG』はナイキの創業物語だ。日本ではすでに20万部を突破したベストセラーとなった。ナイト氏にとって、この本が日本で多くの人々に受け入れられたことには特別な意味がある。
「人口が3倍もいるアメリカでは40万部です。そう考えると、より多くの人々に関心を持ってもらえてとてもうれしいです。ナイキのストーリーの始まりには、日本が深く関わっていましたから」
そう顔をほころばせる。ナイキの前身となったブルーリボンスポーツ(Blue Ribbon Sports)という会社名は、1962年にオニツカ(現・アシックス)の靴を輸入してアメリカで販売しようと交渉のために日本を訪れた際、口をついて出た企業名だった。
そのブルーリボンの窮地を救い、また自社開発のシューズの発売にこぎ着けた背景には、日商岩井(現・双日)ポートランド支店の尽力があった。さまざまなストーリーのきっかけに日本があったとふりかえる。
『SHOE DOG』には1980年、つまりナイキの株式上場までが綴られている。その理由について、ナイト氏はこう明かした。
「はじめは、ナイキの40年の歴史を網羅しようと思っていました。ですが400ページの本では、細かい出来事を書き表すことはできません。皆さんに本当に知ってほしかったのは、初期の話です。
1980年に株式公開をして以降のことは、多くの人が知っているでしょう。でもシューズ業界の外の人には、ジェフ・ジョンソンさん、ボブ・ウッデルさん、皇孝之(すめらぎ・たかゆき)さん、伊藤忠幸(いとう・ただゆき)さんのことは知られていない。彼らがどんな活躍をしたかを書くべきだと思ったのです」
本社内に飾ってあった旗には、日商岩井社員の名前が書いてあった。左は当時の日商岩井社長、後に日銀総裁となった速水優氏。右は皇孝之氏(筆者撮影)
学生時代から注目した日本
学生時代から注目した日本
フィル・ナイト氏は大学院を修了して間もない1962年に日本を訪れ、スポーツシューズを輸入し、販売を始めた。その後自社開発を行い、今日のナイキの成立へと歩んできた。しかしなぜ、日本に注目したのだろうか。
「私はスタンフォード大学ビジネススクールの論文で、日本のカメラがドイツのカメラより売れるのなら、日本のスポーツシューズも、ドイツのスポーツシューズのように売れるのではないか、と書きました。当時、アメリカや世界の市場ではドイツのプーマやアディダスが市場を独占していましたが、日本製のシューズが売れると考えたのです。そこで東京で靴屋を回り、オニツカの靴が一番だと知り、彼らに連絡しました」
オニツカとの交渉でも、ナイト氏はスポーツシューズへの深い造詣を披露し、共感を得ていく。
「会議室で、私たちは靴についてたくさんのことを話しました。私はオニツカの靴をアメリカで売りたい。彼らからも、アメリカに輸出したいという考えを聞きました。2つの考えが合致した瞬間です。その一方で、彼らは私のことを若く繊細だとみていたでしょうが、私たちは靴についてよく知る間柄でした。とても和やかな議論の中で、私はサンプルをオーダーすることにこぎ着けたのです。すべての交渉が、そのときにまとまりました」
その後、300足のオニツカのスポーツシューズを発注し、アメリカの西部13州での販売を許された。ただし、そのビジネスは自転車操業そのものだったという。
「信じていました。日本のスポーツシューズの販売はうまくいくと。売り上げのすべてにくわえて、会計士の仕事で得た給料までも、靴の仕入れにつぎ込んでいました。私は大学院を修了しても、人生で何をしたいのかはっきりしていませんでした。しかしスポーツシューズの販売が理想だ、という完全なる確信があったのです。ビジネスを成立させ、自分や家族の支えとなることを望んでいました」
ナイト氏のブルーリボンは、2度、資金繰りで窮地に追い込まれることになる。その危機を救ったのが、日商岩井だ。なぜ日本の商社に頼ることになったのか、その経緯を次のように語った。
バンに靴を積み込み、売り歩いたという創業当時を彷彿とさせる展示(筆者撮影)
「売り上げや自分の給料をすべてつぎ込まなければならなかった理由は、当時、ベンチャーキャピタルのような存在がなかったからです。銀行を説得するには時間がかかりましたが、日商岩井を説得するのは、それほど難しいことではありませんでした。彼らは私たちの会社が急成長していること、そして利益の伸びが良好であると判断し、熱心に話を進めました。彼らは、私たちに100万ドルの融資を提供し、私たちはそれをオニツカからの靴の輸入に充てたのです」
ナイト氏は、1970年代の日本の商社が、ブルーリボンにとってのベンチャーキャピタルのような振る舞いをし、成長するビジネスを資金面で支える投資家のような役割を担ったことをふりかえる。しかしこれも、勉強家のナイト氏は予見していたことだった。
「『フォーチュン』誌の記事で、『日本株式会社』の成り立ちについて読んだ際の重要な箇所は、日本の商社が世界中のあらゆる市場で非常にアグレッシブだということでした。日商岩井も、私に非常に熱心で積極的だったのです」
日商岩井の皇孝之氏は、ナイト氏のことを真剣で熱心と評している。しかしむしろ皇氏の方が、アグレッシブだったと、ナイト氏はふりかえる。
「皇さんがいなかったら、ナイキは存在していなかったでしょう。ビジネスは彼のおかげで好転しました」
2度目にナイト氏を救ったアイスマン
ナイト氏が書いた『SHOE DOG』に登場する日本人の中で「アイスマン」の異名を取るのが伊藤忠幸氏だ。カリフォルニア銀行から口座を凍結され、資金繰りの改善を求められたナイト氏が頼ったのが、日商岩井ポートランド支店の会計を担当する伊藤氏だった。
伊藤氏はナイト氏の窮地を救うため、あらゆることを明らかにしてほしいと望み、会計帳簿まで差し出させたという。なぜそれに、ナイト氏は応じたのか。
「私は神経質になっていました。もし伊藤さんがNoといえば、そこで会社は倒産でしたから、日商岩井が唯一の望みだったのです。だいたい1週間の出来事でした。伊藤さんは融資に積極的でした。一晩で検討し、そのとき何が必要なのかを知りたがっていました」
そのとき、伊藤氏はナイキを救おうと最も強く望み、そのために動いていた人物だった。にもかかわらず、本では「冷酷な男」と呼ばれた。伊藤氏本人はそう呼ばれることが本心ではないと告げると、ナイト氏は大笑いをした。
「それは悪いことをしましたね。彼は本当に真摯な男だったという意味なんです。彼らとは3年間、非常に近い関係でした。デル・ヘイズ、ボブ・ウッデル、ジェフ・ジョンソン、ロブ・ストラッサーといったチームみんなを知っていた。当時日商岩井は、我々のマネジメントで会社がより成長できると信じていた。だから支えてくれたのです」
そうした黎明期の恩義を、Nissho Iwai Gardenに込めていると、フィル・ナイト氏は語る。
「我々はキャンパス中に、ナイキとともに歴史を作ってきたアスリートの名前を冠するグラウンドを設置しています。日商岩井はナイキの歴史の中で、非常に、非常に重要な位置を占めます。そこで、キャンパスの中心に日本庭園を設置しています」
日本に助けられた男が見る、日本の明るい未来
日本の高度成長期、日本の商社とビジネスパーソンを、現代のようにベンチャー企業が仕組み化される以前から活用し、世界企業へと成長を果たしたナイキ。その一方で、バブル崩壊後の日本の低迷や回復の遅れを見て、いま、どのように感じているのだろうか。
『SHOE DOG』特設サイトはこちら
「私には日本好きというバイアスがあります。日本で仕事をすることも好きですし、日本へ行くことも好きですし、日本のあらゆることが好きです。たしかに、日本経済は低迷していました。しかし私は非常に楽観的に未来を見ています。再び成長していくと思います。
日本のビジネスパーソンがアグレッシブではない、起業家精神がない、リスクを取らない、という見方は、真実ではないと思います。ソニーの盛田昭夫さんのことを、誰もアグレッシブではないとか、起業家精神がないとは言わないでしょう。素晴らしいビジネスパーソンは実際にいるし、日本の未来は十分に明るいと言えます」
日本の若者に対しては、こんなメッセージを述べている。
「私が学んだ人生で最も重要な教訓は、『最後まで挑戦し続けろ』。アメリカのビジネスパーソンにとっても、同じような時期がありました。リスクを取ることを恐れ、失敗を恐れていたのです。しかしその期間は短く、その後、シリコンバレーでは、たとえばテスラはリスクを取っています。これはあらゆる国で見られることです、あらゆる国でリスクテイカーは求められるのです」
そして、こう述べたのだ。「日本の5年後を見ていろよ」と。
ナイト氏は日本の未来を明るく見ている。しかしその期待に応えるために我々が学ぶべきことは、この本に数多く収められているのだ。
>ナイキ本社にあるNissho Iwai Garden(筆者撮影)
NikeがTOC認定とかなんかないんですかね
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