2017年2月20日月曜日

キムチ系神道の学校こと瑞穂の國記念小学院@森友学園からキムチ臭い黒龍会人脈が芋づる式に














要するにキムチ系神道の学校なんですよ。(爆wwwwwwwwww









駐韓日本公使館記錄26巻> 一一。 雜纂> (32)[江原道地方自衛團援護會視察レポート提示]
ドキュメントのタイトル (32)[江原道地方自衛團援護會視察レポート提示]
文書番号
発信日 1907年12月21日(1907年12月21日)
発信者 內田良平
受信者 統監伊藤公爵

(32)[江原道地方自衛團援護會視察レポート提示]
不肖が瞬時た脂肪は暴徒の流行が深刻ていた江原道方面だったので、その真相を探求するために最も便利らしく、暴徒の種類は、次のように分類することができるらし。

1.中央政界で失敗した政治家、つまり政界の第指名。
2.調べられ、類似。
3.解散された兵卒。
4.地方の両班と儒者らの前衛政客に誘惑ダンハヨ出てきた者。
5.ギャンブル者と乞食。
6.ヒョプジャプベ、すなわちパラメータである(有職者の手先をする者)
7.砲軍に脅從する者。
8.農商業から徴用された者など。

本報告書に記載された亡命者の陳述書を詳しく見ると、以上のように分類することができ、そして分類した各種類のが政治上の本当の意義を持っていないのは言うまでもありません、このため、不肖は韓国で真の義兵というのは影も見つけ見ることができない、テドヅクたちと一緒に破壊を行っている人だけである。
この諸島が最も恐れていることが、私たちの軍隊憲兵である。 また、彼らが最も苦しんでいるバーは、彼らの行動を私たちの軍隊憲兵にプッシュされることにある。 今では、私たちの軍隊憲兵の増設と自衛団の組織が付いて彼らの行動を緊迫し絡め縛って、それに寒さであるため、2〜3回の大討伐を受けると、したとき、その跡が切断されるのは必至知事である。 何でこれを証明するか。 京城のヒョプジャプベが連れてきて、各地方の亡命者がますますない日がない。 いわゆるヒョプジャプベという者は京城内で浮浪者だけでもその数は1000人計り知れことができるとし匪亂以来性のこれらなくなった。 これは、典當店で、さらに困惑することを望んでおり、昨今急にこの種の顧客を迎えるために忙しいこと。
そもそも匪徒の常套手段である日中には、商品を行商人のように装った旅客がされてから、私たちの境界の有無と略奪することができる民家を探訪したが、夜になると、一定のポイントにセットするようになる少なくは数、多ければ3〜40人が突然武装して、私たちの不虞をトゥムタム。 ので、今のが切られて茎がベアて、また寒いときに会って徐々にスェジャンしたとはいえ暖かい季節にあえばプルサクのように再び生えて毎年、私たちがドキジルするために余念がないようにしているので、不肖がこれを見る限りでは現状のままであれば、百年を経過しても幅は決して殲滅されないものであること。 なぜなら、罷免された政治家を殲滅することができないからである。 ヒョプジャプベを除去していないからである。 乞食ということとお尻と呼ばれるものがある時代人たちなかった、ましてや騒動を払いので騒動を経験するしかないものであること。 良民の生産はますます苦しいてなり、これを放棄しようとする考えを持った者によって猛惡のような力強い人民に火にしようとする考えであってよ。
しかしながら不肖の眼中には暴徒があるとは見ていない。 また、不肖の眼中にはちょうど地方行政機関の不完全さがある限りである。 韓国の幅がなったのは、地方行政機関が不完全なことから来る罪として暴徒の罪ではない。 なぜなら、暴徒は群盜で政治上の真の意義を有する者がないからである。 周易で言う、「背負って、また乗る盗賊を来るようにすることで「ハニー自ら泥棒を呼ぶとした。 これすなわち、少数の警察官を運転して言語が通じない異国に入るするものである。 警務顧問部は、果たしてどのような一般的な方略を派遣員に指示したのか。 もしこれを指示したとすると、泥棒の略奪行為をダンハヨ韓国人は腐った木折れるような被害に遭うのはなぜなのか。 もし事前に內訓を降りて送って一旦緊急なことがあれば某某ポイント駐在巡査は某地に集合して某某居留民は、某地に避難するようにする一般的な方略を指示して配置するとすれば、3人の5人の集合として200 、3バックの敵と対峙することができないのはもちろんだが、20〜30人の警察官がセットと、そのものであって、3〜400の暴徒と戦うために十分であり、避難者のも事前に避難すべき場所を知って、そこに避難させて団結して、これらを後援する場合の軍隊の来院を待つことができるものであること。 果たしてこのような場合、警察官の行方不明と韓国人と韓民の被害がどうして私のように激しくなるだろうか。 警務の使命を帯びて二役に来て怠慢に境界途中多くの人命を損傷させ、秩序を乱すせて、私たちの警察の威信を失墜させたもの、宋秉畯がこれ責めはなるかもしれないあたりと言うことができるものであること。
今は警保局が新設され、地方管區と徐々に接触を通じ、警部は、その管内を瞬時に余念がありません。 これにより、大幅に面目を新たにしようとしますが、一回受けた傷はまだ快復されていないこと。 以前の些細な話の中で、実に、次のようなものがあります。
「あの長阪橋の上單騎として10万の大軍を逃げるしたのと同じ威力を加えるところが、あるいはそのような者があるだろうか。 しかし、剣一つ合計一つが10里しか寂しく駐在して急に100人の重圍に浸漬殺到よう降り注ぐ銃弾を冒して血路を開拓する者は、精悍な伸びが考えられる。 私たちの巡査は、今、このような精悍さを敢行したのが匪賊が発生して以来、その場合は何度もされている不明。 ところが、恐れること笑うのは節制のない罪として巡査が恐怖些細なことにも驚かざるを得ない情勢に進むようにしたためである。 幸運と不運は時あり勇と怯は形勢に走ったこと。 ので、巡査にとって、最終的に手間とも結果的にボールを無くしている。 頸部巡査が巡回することにオピョンソがあるところには、そこで寝泊りし、軍は軍需、面には面長に寝食して、すべての酒食を与えてして代償することもないので、オピョンソは日人ておくので、これを買う余裕ができたとしても郡、面には、その弊害を果たしていなくてじっと眺めを盗賊と誹謗ようになれば、これは沿道の多くの人々の言葉だが、巡査の上を照射してみると、やはり次のような事情がある。 言い、数回の襲撃で自然官服はズタズタ裂くながら敵に取れないようにし、夏には冬服を引き裂き、冬季には夏服を裂くので、そのタン野原は同ために交換されているときにダンハヨ自分たちが用意していないことができず、彼らは緊急時に避難の際にも、自分たちが払っていないことがなく、また精液のほか、別途巡回時に一味もないので、何回もの私をされた者は、彼らの家の世話をすることができないだけでなく、自分たちの給料も伝えることができなくなりますので、困っている状況このこのように。 「背負って、また乗る盗賊を来るようにすることで「たので、これは自分たちが盗賊を呼ぶようになるというものである。 ので、警務顧問部の旧組織は、少しもボールを収めることができないので、むしろ禍根をもたらすことが大きく、今新たに韓民たちにとって警察に信頼できる機会を作るということは、困難なものと考えられる。
警察の失錯はやめて地方制度の根本的なのは、機関の設備が倒れて地方行政機関は、あってもないような状態を見るようになる。 恵みを見ると、高慢で威力を見せる恐れ、怖がら扱えば堤て高慢と裏切りする。 これが韓国の上下が付いている共通の性質である。 他国では、恵みと威厳を兼ね行なうが、韓国では、恵みは施さず、威厳によって実施していないことがない。 のために韓国の諺に至るの「履いた人を作る前に、桑を作ること。」 桑の笞杖を作るためである。 人に先立ってムチで殴るツールが既に揃っているという言葉がされる。 臨韓牧民の要旨は、本来ここにあるとハゲトウム。 ところが今の地方制度は、完全にこの原則とは乖離している。 それは威厳は重くしながらも、恵みのみ、完全にベプム。 恵みをダブル完全に施すようになるのは、威厳を重ねというわけではなく、威厳を重ねるようにすることは、恵みを完全に重ねるようにしている理由がされている。 人民は彼らに威厳を重んじて、ここで恵みを重ねすることで、コマンドが初めて行われるため、韓国の旧制度には、兵使があるところは、兵士にひたすらし牧使は置かない。 鐵原が、これに該当する。 牧師があるところには牧師にひたすらし兵使を置いていない。 楊州がこれに該当する。 これは民心を一つして、人民の意志を決定するわけがされる。 これは、突然文明と言うこと無し。 しかし、制度上の文明と野蛮は、それらの人民の文か、野のかを比較検討することである。 まだ深くした者される水として一通り洪波を引き起こす可能性が無い限りである。
今、地方の状態は、観察使があり、軍需と軍隊があり、憲兵と警察がある。 そして、税務に郵所があり、稅務官があって、各制度をその中央で受任する。 ところが、中央の命令が馬の長鞭が馬の服に及ばず、ボール文化され几案に堆積されており、面倒雑用は四角い秒立てを丸い穴に取り付けるのと同じものである。 ちょうど2中だけでなく、5の6のうちされていることがあります。 また、2專だけではなく、5專6專がありますので、愚か愚か一般人民がどうするのか。 制度がどのような認知度を理解できない。 5の6のうちどれが君であり、どれを奴とするか。 5專6專いずれに頼って、どれに期待か。 ただ傾向が度重なることを報告し、これは主であり、その意味に基づいて專であることを知るようになるだけだ。 しかし、1を君といえば、他の5を奴隷市べきなのに、ひたすら專であれば他の形態を見ていないので、豪族大性としての才能と見識のある軍需も彼の膝は、私たちの下賜に乗るべきで、彼のアドバイスを聞いて、コマンドを尽くさなければすることになる。 不肖は郡政は軍政日だけだと言いたいか、実際には軍政の実績がない。 軍需は軍隊に伴食していない場合は、憲兵に伴食し、または警察に伴食している。 5つ先で、その中の重要な場所で伴食しているので愚昧人民にまで奴視されている。 このため、このような緊急シラーあっても、空がはヒキガエルを飲み込ん者と、ヒキガエルはカタツムリを追跡うとし、メッセージはヘビと一緒に後従おうとする。 もし普段に戻ると、野蛮人と向き合うように嫉妬しながら、彼らの力を一つの小さな村で、お互いが争って民心をさらに迷いながら人民の意志を、最終的に乖離させることは、手のひら覗き込むよりも明確な今日の地方制度を救済もに比べると不完全ですが、むしろ通俗されているところがあって民心を安定させることができた。 今は軍政だけあるだけだ。 郡政と警察とは分裂と部秩序に陥って行政機関としての運用は完全に閉鎖されたままミンジョンはますます不良でなっていること。
そもそも中央政治と地方の政治との交渉がされず、中央制度と地方制度との関連がされていないのは民心の闇と交通の不便に起因されるものであって、完全に彼らの圏域を区画しているらし。 その状態は、最下位などの動物の筋肉にも検出することができる状態とも比較されていないこと。 その一例を挙げてみると、レポートの中の吉運錫のようなこれは風采が堂々としたうえで、本当に守城將ダウン工夫がいるだけの者である。 李容九が頼むを、「仕事が、このようなところまで到達したら、気にことがない。 どうぞ、雑談を表明してフェポを提唱して見てください。 あなたが暴徒に供与したことがそもそもどのような所見でそうしたのか?」と言うと道隕石が言った、「スタンプが何所見があるでしょう。 ただし暴徒が、韓国が滅びるすること慷慨するので、その言葉に同心になっただけだ」とも呼ばれる。 イヨングが言った、「あなたは本当に韓国が今後滅ぼすと言うことができる。」の道隕石は言う、「スタンプが末永く京城に上京できず、完全に国史を知ることができませんでした。」イヨングが言った、「韓国は本当にこれから網しようとする。 しかし、将来、韓国を滅ぼすことは、外国人ではなく、幅もある。 日本がもし韓国を滅ぼすする何のために、今日まで待ってだろうか。 日・淸戦争は、韓国を滅ぼすされないようにするために起こったものである。 日露戦争もまたそうである。 巨額の財を取り除くながらいくつかのだけの人命を犠牲にして、韓国を危亡から救出した。 また、彼らの改革は、私たちを富強の境地に導いて一緒に文明世界に引き上げるためにそのようにしたものである。 日本がもし私たちを滅ぼすしようとした場合は、淸國に勝利し、ロシアに勝利して強国に小国を飲み込むことは片方の手を例えば十分だった。 ところで、私たち弱小さを扶持することが、このようなものです。 世界でどの国がこのような大恩を施しか。 ところが、頑強な心を開かずに敵として恵みを返済しようとしている。 試しに立場を変えて考えると、私たちがもし他人位してから拒否反応を受けることになるのが、このようなものですしても、その人を名指しして、彼の仕業を表示を彼らのように我慢して渡すことができだろうか。 もし実現されたバーなし日本も終局に私たちを併呑することがやむを得ずになるだろう。 他人の恩を仇として、自分が亡国を招いしようとすることが暴徒だけだ」ので道隕石が本ヨンヒ大きく悟ったバーがあるようでし音。 彼は言った、「あなたの言葉を聞いて、最初に朦朧ていたことが開かれました。 どうぞ、神明を尽くして先生の名をフィード。」その後ろに言われたことを前に述べたものと比較すると、すなわち、末永く京城に上京していモトハヨソ知ることができなかったということは、彼は本当に中心で知らものであった。 ので、硬性思想と地方思想は完全にお互いが干渉しないことを見ることができている。 京城思想を持っている、脂肪思想を数え、また文明式として蠻國に比較することになるのは、行政機関の閉鎖を開けざるを得ない理由がされる。
中央政権の党争は全くない脂肪と干渉しないことは、古今を通じて、誰もがその限りではないところがありません。 しかし、地方政治に注意することが多く、他国では、そのような類例を見ないバイム。 過去地方官の事件により上京することになり、その地方官は出廷して代わりにを拝謁するのではなく、代わりに、最初に迎えに来て、この地方官を拝謁する。 これは彼の職責が大きいことを拜迎するものであり、尊俾の例としては、本来の比較がされていない。 のために地方官は、彼の顔を見ずに帰って立って、彼の拜迎を受けながら伝え言った、「公伯のソニョンが多く、地方にあるので、これを背泳ぎするだけだ」とも呼ばれる。 これは無理理に合わせようということだけで、貴公子が外放射の牧民官の職をしようとする者が、元の多いどうして彼に代わりの守墓とするだろうか。 不肖が感じたバーにおける地方制度で研究するところあった。 後日成案して高敎を要求ハゲトウム。
考えハゴンデ、地方の本情況が京城に投影されないだけでなく、ましてや硬性の所要が脂肪とは、互いにグァンソプない、このような苛政に憔悴されている民心を収束して根本を培養することは、それにとって後日に貢献するところがされている上でなければ。 青コンデ中央の虛儀を簡単にしてから尊慮を牧民に注留していただくよう詳細に言わないご遠慮見聞するところの要領だけが上陳する。
自衛団の施行は、その運用の適切を基なら李朝時代城下町に特に実施された郷約の綱領を振興させ、それに応じて、今後の自治体の基礎を立案することができるものであること。 しかし、地方行政機関は、すでに申し上げたようなので、まだ運用上の確保できない疑問を生じさせた。 ましてやいきなり忘れてしまう韓国国民にとってよ。 私たちの官憲が熱心に誠意をこめて怠慢せず分岐して怠っていない場合、それらに簡単簡単にして続く簡単さが切実な両法であることは言わなくてもされているものである。 詳細については、謁見の際に高敎をバトドゥルゲト音。
1907年12月21日
內田良平再拜
統監伊藤公爵閣下

[別紙]
ドキュメントのタイトル 【江原道漣川地方視察報告書の提出件]
【江原道漣川地方視察報告書の提出件]
報告書
12月1日午後4時舊吏房に6面(前回のレポートに7面に記録したのは間違って伝えられたものであって、それの詳細は別表と同じ)の頭首を会合させた集まった者が120人で、ブレーキを合わせると150人であった。 山中にある小郡として参加人数がこのように多いのは車灘里(漣川で數町を離れて、本街道にある)市場に來會たサンミンのペースに応じて来て集まってきた人が多いからであった。
李容九が最初に暴徒の仕業は韓国を滅亡させようとヒュンジョクの仕業であることを言って自衛団を組織して良匪を区別して急いで秩序を回復することが急務であることを論じたこと。 不肖は、政府からの自衛の法を良民たちに教えてくれた良民たちが怠慢し、その法を受けずに、もし大討伐時に雨に誤認されて惨禍を着るも責任は若者にあり、政府を恨む権利がなくなるということを説明しし、漣川分隊長いわゆる津田幹太郞が熱心に長時間の演説をし、巡査佐藤某も丁寧に尽くしさとししたあった。
最後の夜の旧日進会員進士金益秀という者が来て、表示を次のような暴徒の脅迫状を提示する。 益秀は暴徒によって拉致されて行って、無理の中にある1ヶ月余り途中帰ってきた者であった。 益秀は進士でありながら町の免状に推戴された暴徒が邑から金銭を拠出するため、人質として拉致して行くべき。 不肖はイヨングと図って別々に洋酒のように表を与えたのは、脅從者とその意味を異にすることを実証するウィハムイム。 彼らの脅迫状全文は次のように。
「令漣川美內領所任(美內という地名がありません。暴徒が間違って少ないものであること)は、すぐに査問することがある。 汝矣洞居住キム進士イクスを直ちに火速逮捕して到来してください。 もし私的整理に基づいて埋めておけば、その町の領任は重罰を免れないだろう。 あなたがたはこれを知って行わして罪に至らないように敵実施すること。」
光武(丁未)10月23日
鎭東倡義所
再びその村領任にこの寶蓋(□□□□□の間に處制される)によって案問ので府捉持させること。
このような脅迫状を受け取るので、さらに自衛団組織の至急を見るようになる。
この書中の鎭東とは、鐵原官衙の呼称であるため、この地方のメンバーの幅は、鉄原を中心にして活動している者であるドゥトハム。 そして指揮者は、許蔿というのは益秀の言葉によって明らかにされたこと。
益秀ほかもう一人の日進会員がある。 その惨状は、言葉どうしてもできない。 景観の床、郵便願いの死は、すでに公報したあったので、今再び無駄な言葉はありません音。 その非道な状態は完全に大きな強度として匪行のほか毎号3圓以上から、5圓を忠実に配当して略奪を行なうとする。
佐藤巡査の言葉によると、暴徒のすべての可能性は、すべてのヒョプジョンする者として凶悪な行動をする者は、一部の無頼漢と京人の教師だけがあることが、さらに明らかヘジョトウム。
2日漣川を出発して鉄原に向かいした。 各種レポートを総合してみる、暴徒は寶蓋山の中で出没する、あるいは2〜30人、あるいは4〜50人で、誰もが、日中は休んで、夜に行動しながら潜伏している途中、徐々に北上して移動した疑いがお気に入り。 その実情を確実にするには、この道はすぐに持って行くにしても討伐することができないらし。 ここで一行の中で丈夫な装丁7人(一人3人、韓国人4人)を選抜して行軍しながらボゲサンの中を捜索しては鉄原で再会させる。
漣川から鉄原までの60理恵喬杏の根は、割れを超えれようとして、本衙は消失され、各官房は瓦棟目で崩れて衰退してフェンスは半分が残り。 漣川山郡のソウプを鉄原に比較すると、大都市に出てきたような感じがあった。 電子の寂しさは、120号に過ぎましたが、この群は、1000戸以上であり、官衙の凄さは、昔の形がそのまま存在しており、時価もやはり殷盛して、本当に鎭東防營という名称に遜色がなかったこと。
しかしながら宿泊施設を決定していなかったこと。 収差トセクしてやっと一つの大きな家を得て定した。 軍需金彰鉉が直接来て手配したものである。 夕暮れになって抱川、永平にオフセットしていた援護會特派委員長一行が來會した。 不肖はイヨングと憲兵中尉太田淸松を憲兵分遣所で会ったら。 金城分遣所から来た警部白木與も一緒に集まり少佐戶田金三度瞬時道にも、ここで会合されました。 少佐は明日朔寧に行くし、そして兵士たちはボゲサンに派遣してフォーチュンに解除できるようにしたとする。 また、LGはすでに自衛団を組織して、すでに面長に会うと不肖などの一行が郡に入ってくるのを待っていること。 この日の夜の午前1時ボゲサンに派遣した一行も來會する。 一行は、険しい山を登るながら既に兵火を着た深源寺に到着して、この山中にある敵の巣窟を見つけながら、適正を探ったが、8月以降収差賊禍を受けた尼僧に輪姦にあうまでしたこと。 近日に来ては、前日の夜、3〜40人のこともたちが東から西に向かって潜行することを見ただけで、また何の被害も立地なかったし、この山中は間道中の間島として西に向かうと永平、抱川と漣川などに通じるようにされるので、 3町のうち、そのどこに向かったのは知っている長さないとする。 ただし、赤道は討伐に会って逃げる者であると憲兵たちの行動に照らし歴然。
3日には、各面長と町民を招集してヒョユする事項があった午後5時近くになってもセットしていない。 移動郡衙に到着すると、8つの面長が集まっているだけで、すでに私たち委員長の説明を聞いて、不肖などの音声を聞く余地もないように耳にする。 LGはチャンファンに来て見ては不肖の切実なさとしに、最終的に交渉することを今夜はトーチをオンにしても、円弧のスピーチを終えることができるようするとする。
軍需は町民の招集を手配しイヨングがここに来て演説したが、不肖は風邪をひいてこれに応じなかったこと。 しかし、この演説を強行させた理由は、本群の町民たちは、キリスト教が多く、韓国人が避難したときに、暴徒に指摘し、これらを追放しただけでなく、教団を作って、日本人を排斥し、また​​密かに新政を防いで妨害することに力書いたので、あえて町民を集め結團の利益を説明しては頑徒を彼らのカテゴリの中の法則に引き込んで、彼らの秘密の行動を自然に減少させることにある。 憲兵と警察も一緒に演説したが漣川などの前例と同様に実施したものにする。
この日の夜、太田議員中尉が来て、彼に直接草案した自衛団実行細則を提示した。 非常に明晰な内容として法でも十分だと考えられる。 軍需は本当に中尉の指揮下にいなければ、何の組織もできないものである。
恵みに裏切り、威厳に服従することは、韓民にいつもある一任。 ので、軍需はありながらもないようにだけMPの威力に面從するだけだ。 鎭東防營とは兵使を配置していた旧称号である。 往年の兵使があるところは、必ず治める難しい地方で軍需を配置したのは、可視性が非常に困難なことが多かった。 この日の軍需が免状以外の町民を招集するのに苦労が多いのもまたこれと練乳されるものである。
旅館は、金某の家という。 一行の宿泊施設がないため、郡守がこの家を借りていたが金某は大きく怒った人の奴婢を残したまま、家族と一緒に他所に被した。 また、この日の夜一つの不思議なことがあった。 離れて女性の谷城が聞こえた言う、賞を受けたものであるとする。 続いて怒號聲が聞こえにイヨングが、これ怪異に思いながら、直接その場所に行って、この日を調べ戻ってきた人を送った送信者が戻ってきて韓膳2相を奉じて来てイヨング前にひざまずい座っ音。 イヨングがこれを見てみよう声と顔色が皆良くないこと。 不肖に言った、「あの作曲した女性は、私たちのメンバーが泊まっている家の食婆である(ご飯を調理するため、食婆と呼ばれる)。 私は事前に食事代を決定して会員を宿泊させるため、価格に不満を無くしたがしかし膳には公平に失敗したことが、このようなものです」とも呼ばれる。 その膳を詳しくみる一つは、韓国人の常膳であり、一つは、ほとんどが牛馬に投げ与えるのもモトドゥェム。 イヨングが言った、「この惡膳はその作曲した食婆が作ったものだ」とする。 会員たちは、私のコマンドを信じるので、そのような粗膳を食べることができないのだが、あえて怒らず人知れず自分のお金を出してビョルチャンを作るしようとしたが、老婆は大きくノーながらお酒を裏返しかけるのが望ましいで会員を非難した。 それ格して泣きを噴き出されたこと。 軍需、巡検と位置していた誰もが怒っている顔色であった。 最終的に老婆を連れてくるようにして兩膳を老婆の前で比較するようにして、自らを認識しながら話すつらい言葉他達したあと後命を郡主事家で待機するようにした。 彼らの習俗が頑強でいやらしいこと、このディッキー彼らの背後にある一般的なものを見ることができている。
4日鉄原を出発して龍潭で表面仕上げ。 リンドウはサグムグァンがあるところで、前日暴徒の襲撃にあいながら散弾銃で応戦してやっと避難することができたとする。 その辺は、キリスト教もの巣窟として日本人は大変危険で鉱山労働者として投信た者もいる。 ので、円弧のメンバーが来るという噂を聞いて坑夫の寿命が来て、鉄原まで迎えし、その近傍で自衛団を組織するようにしてくれることを要請した。 これに対して永平、抱川を経て鉄原で会った李熙悳の一行は、金星を経て淮陽に向かうし、不肖などの一行の自動小銃を分けて、その人たちに、携帯にし、不肖などの一行は、漣川郡管内のリンドウに迂回して金貨に向くように部署を定めは鉄原でリンドウに到着したのにやっと30リーもう少しれる里數であった。 不肖は坑夫の事務所で反日ほど休養しイヨングは直廳里で円弧演説を開始するために、ここに各自が分けとどまらざるを得なくされました。 この日日進会員として体を坑夫に身を隠したが出てきてイヨングに面会する者見た。
5日の朝早く不肖は反日の閑眠をとるだったが、風邪はまだ癒されていないこと。 職取り除かに到着したがイヨングは、キリスト教のシナゴーグとしての学校を兼用している限り、韓屋で宿泊しては荷物を取り締まりして不肖を待っていた。 ギャングと村の間隔は約10里であり、イヨングは少しの金を学童に与えたこと。 また、昨日のバイブルを持ってサグムグァンから来た自衛団組織の舞踊を主張する者としてイヨングに喝破された一座長も今朝バイブルを携帯せずに里民と一緒に一行を送別しては剡川江渡し場にソトウム。
川を渡って野原を通って永平本道に出て芝浦驛を経て金貨に向かいした。 葛峴で昼食を食べて、夜に金貨に入る行政約80里各駅の家々にクリスチャンの家と呼ばれるマーカーを見た。 おそらく外国の宣教師は、あえて、次のような言葉を口に出さないが、ミンが言うバー聞き建大、キリスト教入信すると暴徒と日本軍の侵害を免れることができますので、入学して標識ドアを付けるとする。 しかし、信徒たちの家には、暴徒が果たして加えていないとする。 百年の禍根を韓国で栽培する者は、必ずこの教導許容ものである。 これに対する適切な方策を立案していない可能性があるだろうか。
金化も、キリスト教もの巣窟である。 しかし、町民のほとんどは、自衛団の必要性を感じて、すでに團則の若干は実行している。 ので、暴徒の出没は速やかに知ることができる利便性を得ることなったとし、また、面長は昨日から不肖の一行が来ることを期待していたが、守備隊と警察は明日の夜明け暴徒を馬峴で迎撃すれば、午後を待って開会することを約束したこと。
6日午前2時の軍隊が県に向かいたと戦艦。 12時近く一行は、暴徒が任せ間大鹿(おそらく大獐)を持って帰ってきた。 午後3時駐屯地の本部内で円弧のスピーチを保持しながら、不肖はここに臨席していないこと。 聴衆約200人で、酔いどれ人がいた。 イヨングの説明中に質問をしようとする者がいたが子を制御しようとしても聞かなくて、最終的につかまえドアの外に追い出してしまったこと。
行中の一人が演説章に臨席したがノーながら不肖に言った、「白木警部という者は、韓国は4000年の歴史を持ち、日本は2500年の歴史を持っていたと公言した。 どのような大学が韓国天皇陛下と呼称するには冷や汗がなどをタイムリーにし、これを複数回繰り返し変更するので、最終的に耳を覆って立って逃げてきた」とも呼ばれる。 白木警部は、鉄原で先に金貨に来ている者であること。
この群で調査した戸口調査成冊は、別紙と同じ。
7日金貨を出発、山陽里に表面仕上げ。 最後の夜の暴徒の出没があったとする。 県を越えて不肖は一騎を運転前に行ったイヨングの一行は、少し遅れて音。 首の下の小さな居酒屋に入った人が横になっているのを見誰かいたところ、酔ったが決起して、目をむい見えながら言った、「だれがわたしを誰なのか?」一行が驚きながら、最終的に急にこの子を捕らえキャッチしながら言い、「暴徒が潜んでいるが逃げ者オマーンに話している」とした。 酔っは言う、「私は統監府の人を帯びた人である」とも呼ばれる。 一行は言う、「幸いなことに府員がありますので、一緒に行く部員を見てみよう」としながら逮捕した。 不肖が付いて行こうとしていくつかの町に行ったイヨングが取ったの態度が異常だと言い、命じ、その者のボトジムを点検することしたが、その中で、私たちメール用ポケットを取らなければならいた。 イヨングが大きく驚きながら通行人中の日本人にとって書簡を作成することにして金貨メール取扱所に送りながら、日本人は酔っを警戒し言う、「取り横たわっが期日を破ることがないようにするものであり、用事を携帯しているとして人をヌンミョルせず、このポーチを保つ神明を果たせ」とする。 酔ったリンゴながら金貨に向かったこと。
山陽里に到着したときも、まだ中天における行政はわずか50リー。 この町に滞在するのは大きな瓦屋根の家なところだけでドアはチョンラム色のシプジャギがはためいていた。 彼は入学日がやっと40日に過ぎないこと。 当初から信頼考えはなかった暴徒から災厄を避けるしようとして、お守りの代わりにするだけだとする。
8日サンヤンリから華川に行くわずか40リー。 軍注射と元書記が来て迎えながら昼食を終了します。 明日として、各面長を回動させる準備に着手すること。
韓国人二人が名刺をイヨングに伝達する。 二人は挨拶を終えてガドとマンゴンとかつらを脱いでは嗚咽しながら言葉を正しくできない。 その幅の敵だとすることができる者は、日進フェウォンワ日本人であり、幅は日進会員を指名することを日本人の子と呼ばれる。 彼は慷慨しながら吟誦するバー聞いてみると、
「死んで地下から頭のない幽霊となってください人間の世界では、頭の刈り機されマソ。」とも呼ばれる。
韓国人が単発を嫌うことが、このように激しい理由は3つの原因があるらし。 儒家の流として先王の法服でなければあえて着服していないと強く拒否して晋唐医官が3台のエマルジョンであるため、衣服を変えることができなくて、そのまま途上国に仕えながら従う對元對淸遺訓を固守しながら野蛮な野蛮人の風習影響を受けやすいのは、中国を野蛮人の風速で変化するものと誤解している古きを崇拝するために端を発した強固な見方が一般的な思想がされたものである。 無知な群衆の一般的な思想は、人間以下に下げながら汚れた人々と比肩する僧侶や単発ため、男女のように単発することは中の形状として非難する。 これは、習俗の関係で起こる一つの主な理由である。
そして外国に留学して文明た風習を持った者は心はもちろん、単発時期が適当であると感じるが党争のために日本人のようになることを懸念して消極的ある。 これも一つの主な原因となる。 以上の3つの原因を離れて単発として会員であることは三千里領土上にだけ一進会があるだけだ。 ので、日進会員は準日本人だとして虐殺あうされ、特にそれら會員章は、体に付着させて隠蔽するために適切な場所がない。 もし虐殺を免れしようとするなら、日本人のように申を尽くして逃避すること以外、別途わけないものであること。 のために妻子と眷属は、山において分散されて飢えに泣いて寒さに震えている。 今のかつらをかぶっていたことを脱いでおいて、体を露出させて会場の顔を見ては、すぐに泣いている者は、このような惨状で迷っている者たちであること。でも、この群守備隊を設置してからは、いわゆる森友安治が、多くの人々を来るようにするために努力した残りの今では市の日も旧習に応じて再開することになったので、やっと四方から集まり、生業に安堵した。
9日森友いわゆるが韓国人一人を連れてイヨングに紹介する。 イヨングが「この人は、日進会員である」と言って、彼の頭を検査したら、果たしてかつらを付着していた。 森友いわゆるが嘆息しながら言う、「これがあったんだ。 ただ日進会員とするため、軍隊が来てからは死力を尽くして軍隊のために手間を尽くした。 私はこれを不思議にしながら、果たして日進会員だろう。 このトンビョンもまた日進会員だった。 金貨で同伴して来て、やっと日本語を解読しては死力を尽くして軍隊の便宜を図った。 このため、私財を与え、今日になるまで、ここを離れることができなくなった」とする。 おそらくメンバーは、金鉱に潜入したものであり、あるいは軍隊に身を隠している者と、あるいは山において潜伏している途中、風と一緒に渡り歩く可憐な考えを買う余裕ができない。
砲軍領官として暴徒に依頼された張聖健という者群の注射について亡命を哀願しながら、すぐに口供書を作成することにしてイヨングと一緒に証明書を作成し、これを守備隊に送致したこと。 午後に演説会を郡衙で開催して面長以下会合した者150人で、説明の方法と人員は、各群の例と同じ。 不肖は風邪中、これに臨席した。
この日の夜に暴徒が高飛雲に出現したとの報告があった。 高空は首洞内の小さな町で、手動とは、その淵源が金剛山で発する華川上流として90余リー離れたジョルホムたところを総称するスカイダイビング。 いわゆる高空は、本群で50カリ離れたところにあり、人住んでいる場所から最も遠い静かなスカイダイビング。 そこ小道に出金星に出てくるの長される。 森友いわゆるはその日の夜に討伐しに向かいました不肖が伴う通訳をここに実行させてくれることを要請するため、明日の出発を延期した。
10日前邑吏として暴徒によって華川守城長に強制的に就任した吉運錫が軍注射に行って亡命することを要求するので、すぐに口供書を作成させ、証明書を添付したが両日に二人の口供にによる上を的確に知ったのが、さらに明らかでたこと。 特別報告書を作成し、長谷川大將に急報する。
で亡命者の口供書を得てからこれまで3件を得た、これを参照して首謀、漣川の脅迫状は、暴徒の首脳がすでに明らかになるから疑いの余地がない。 地方人民はソンビも農民でも砲軍たちであること。 通常は狭種子者として政治上の意味を帯びたのはなし。 悪質政治家が傾向との間の無作法者を集め、地方に降りて行って良民をヒョプジョンにして彼らに秩序を乱すために尽力したことに過ぎず、三千里領土でいまだに一人も太皇帝の譲位をようにするために起こる者ていることを見て不安。 また、本当に新条約に憤慨する閔泳煥があることを見て不安。 悪質政治家たちは、自分の利益のために無作法者たちを呼んで集めた、無作法者は勝手に良民を貪食するために嘯聚に応じてされ、良民は死を恐れているのでヒョプジョンすることになる。 彼らの目的は、個々の目的があり、合致された一つの目的ではない。 これらの間で小さな値のとか、また公的なつじつまが含まれていることを発見することができません。 人々はこぶ閔肯鎬がのを言う彼の名誉の降伏者として後日の地盤を構築しようとすることに過ぎず、その布で汚れ肺肝は王命の上奏書に現われる。
体に華美な装飾品をかけると穏やかな顔をして一新が泥に汚れたら誰残念しながら、すぐに彼を軽くつぶしないだけだとする。 この言葉は、頑固でサリーに暗い者が常に密かにするマルイム。 韓国が外国の征服をあえば、毎回必ず、自分たちが秩序を破壊して、手を使うことができなくマンドゥルム。 これは、この国が、今日まで残存するわけだが、懸軍萬里の古代と交通が便利な、今日とを比較することができなくて苦肉の策である故智ルールスプヨンだろうが、火力がより強いハヨジンように水深がさらに深まるようなことを知らない。 不肖はまた言った、 "韓国には暴徒がない。 地方行政機関の不完全なところ、これが暴徒が存在しているものである。」
この日の夕方森友いわゆる高空で戻る。 暴徒と会わなかったし、暴徒、40人余りが勝手に食べ物を食べて金60圓を略奪して行った後だったこと。 7日以降華川すべての損害は、アスタリスクと同じ。
11日雪が降ることを冒して華川を出発して県首の下で昼食を食べて雪江を渡って春川に入る。 一進会支部長李箕洙以下3〜40人お出迎えする。
12日午前には、各部訪問し、午後には郡衙の演説章に行き、夜には観察使黃鐵の招宴に出席する。 その席上で麟蹄見中、匪魁崔煥の檄文が封入されたことを春。 孫秉熙、イヨング、ソン・ビョンジュンを日本人と称したこと。 時事暗さがこのディッキー残りも類推することができる限りである。
この日の夜、曾禰部痛感の親書を受ける。 その夜にイヨングと歩みを共にしながら、京城に戻るを決意し、華川、京城間200リー中清平の川里で1泊して14日の夜東大門に進出する。 歓迎がすごいした。
15日春川で作成した第2の特別レポートを長谷川隊長に提出して17日に答疏を曾根部痛感に切り上げ。
漣川以下の脂肪に巡回した各群の概況を、これ初めて一括して大要を報告して切り上げ。
12月20日
內田良平
統監伊藤公爵閣下

[別紙] [附屬書]
ドキュメントのタイトル [一進會長李容九の榜文]
[一進會長李容九の榜文]
次の1編は、円弧会とは関係がありませんイヨングが途中貼榜した日次のメンバーを慰藉したものであり、円弧には関係ありませんが、暴徒には大きな関係があること。 のために全文を翻訳して、本報告書に添付。
ご遠慮日進会員に叫ぶ
ああ、そもそも私たちのメンバーと開會して4年の尚を送った。 これは何のためか。 もし改名を主張することと国を支援する人民を快適にしようとする自誓がない場合はどうのような災厄を受けだろうか。 愚昧しなければ改名という呼称が何生じさ文明がなければ暗昧という呼称は何に基づいて分別され、その理由は、文明がされていなくて強いられることになるのは、元の彼らが住む世界がそうなっているからである。 今、私たちが見るすぐに立つ文明先進諸国が、その初期には、これに対する医師が同じではないずコントラストの是非によりその争点に無限の困難を経験したりしながら、史上れた者、その数を計り知れなかったような過程を経て、今日私のような大国になったのだ。 これは今、私たちをはるかに遠い火のように映ってくれており、明確なものに火を見るようだ。 今、私たち日進メンバーは当初から、このような困難を経験しておりますので、本当に前鑑を見るのではないドニャ。 しかし、人なら誰死なないだろうか。 その死ぬべきところで死ぬことが難しいもので2千万の同胞を代表して文明をスチャンし、国家を保衛し、人民をアンオプに導くことから死ぬのが死ぬところで死ぬだろうとすることができる。 これは死んだにしても山ことになる。 今のを自称している連中は、誤解しながら無駄寄せ集めを集め上にはファンサンの場合をかけ下には、センミンに火を加えるようにしたらどう嘆かわしいことではないだろうか。
また、ましてや私たちの会員に対しては重大である、財産であるを問わず、ことごとく彼らの解読を受けており、聞くたびに情けないことであり、骨が痛いことである。 それに対する共憤において誓っ報復をしなければならやめるだろうが、もし嫌悪と恨みとしてこれらと比較するならば、暴力は暴力で交換する必要がありますが、しかし、明暗智愚が一緒にした筒移るれ同胞を代表する義務は虛像に戻りされるため、後進を改名にインドしようとする目的は、その功が九仞の山に1箱をよりできず無駄になるようなものです。 他人の罪を私たちが論じ言うものであり、私たちの小さな知恵を他人に施し運んこれ四肢に陥ったものであって、次に国を助けたバーされて人民を快適にしたのであれば、これは先生の遺訓がなかったか。 今彼らに話を着て惨事した者は、その恨みと報復として、それに対する雪恥はしていないたとするが十回許して九回我慢がされて、彼ら妄動者を心を回して実現されて帰化する者がいる場合は、積極的に保護を加え、各自が彼らの生業に従事させて、これらと一緒に文明部強国に進むようにすると、私たち一進会の目的を確立して千秋史筆の光輝と絶念銅像の栄光となるはずだから、このどうして今日のような報怨に比較のか。 今、政府では、自衛團をインストールして、全国を一つに団結すれば醜い者も陰になることがあり、人民を保護して、各自が快適になることを約束することができるものであり、私たちのメンバーチョムウィに見ますので犯しヨンヒ聞か飲んで、より一層心をつくしが自衛団の実施を図りしていただくよう千万回下さい。
1907年11月日
一進會長李容九
本報告書に添付しなければならつ添付していないことは、前回の報告書に添付されたものである。

http://db.history.go.kr/item/level.do;jsessionid=A44562650521F859C046D6585C45CADB?levelId=jh_026r_0110_0320




一進会(いっしんかい、イルチンフェ)は、1904年から1910年まで大韓帝国で活動した政治結社。
宮廷での権力闘争に幻滅し、次第に外国の力を借りてでも韓国の近代化を目指す方向に傾きつつあった開化派の人々が設立した団体。[要出典]中でも日清戦争日露戦争の勝利により世界的に影響力を強めつつあった日本に注目・接近し、日本政府・日本軍の特別の庇護を受けた。日本と韓国の対等な連邦である「韓日合邦(日韓併合とは異なる概念)」実現のために活動した。
当時、大韓帝国では最大の政治結社であり、会員数は公称80万人から100万人[1]。一説には実数は4000人未満にすぎなかったとの見解もある[2]が、日露戦争をロシアに代表される西欧侵略勢力との決戦とみなし、日韓軍事同盟でロシアの侵略を阻止しようと考えた李容九は、日本に協力し、日本の武器弾薬を北方へ輸送するために京義鉄道敷設工事をしたが、その工事に参加した一進会員は全部で15万人であったとされ、また北鮮から満州へ軍需品を運搬するの業務に動員された会員は11万5000人で、あわせて約27万人が日露戦争時に一進会として活動したという話も残っている[3][要ページ番号]
日韓併合の目的を達成した一進会は、その後、韓国統監府が朝鮮内の政治的混乱を収拾するために朝鮮の政治結社を全面的に禁止したため、解散費用として十五万円を与えられて他の政治結社と同様に解散したが[4]、一進会を率いた宋秉畯らは朝鮮総督府中枢院顧問となり合併後の朝鮮の政治にも大きく影響を与え続けた。合邦善後策として桂首相に資金百五十万円を懇請したところ、千万円でも差し支えなしと答えられ、活動に猛進した。
しかし、当時の韓国は政党政治ではなく、一進会が韓日合邦を望んでいたとしても、それは韓国人の民意を示したものではないこと、そして一進会は韓国民衆から強い批判を受けていたとの感情的側面からの想像による主張[5]などが今日あるが、実態は長い異民族宗主国の属藩王朝の圧政しか知らない当時の朝鮮民衆に国家国民の意識は無く、併合は民衆の反抗などもなく平和裏に進んだ。

背景朝鮮では、日清戦争で日本がに勝利すると、王妃である閔妃が朝鮮で一層強化する日本の支配力を警戒した。三国干渉によってロシアの東アジアへの影響力が強まったことで、日本への牽制を含めて親露政策を強めるようになる。その後、乙未事変で閔妃が暗殺され(殺害現場にいた純宗の言で『乙未事件ニ際シ、現ニ朕ガ目撃セシ国母ノ仇、禹範善』となっているだけでなく、この禹範善は『禹ハ旧年王妃ヲ弑セシハ自己ナリトノ意ヲ漏セリ』と自ら犯人であることを漏らしている。(アジア歴史資料センター『在本邦韓国亡命者禹範善同国人高永根魯允明等ニ於テ殺害一件』))、1896年2月11日、親露派の李範晋や李完用らによってクーデターが行われ国王の高宗がロシア公使館に移り執務(露館播遷)を行うようになった。日本の後押しを受けていた開化派政権は崩壊し、ロシアの影響力が強まった。1896年7月、開化派の流れを汲む人たちが朝鮮の自主独立、法治主義の確立、新教育の振興、農業の改良、工業の育成、愛国心、君主への忠誠心の培養を訴え李完用らが独立協会を設立した。
1897年以降、ロシアの影響力が顕著になると、独立協会は反露闘争を展開、国王の高宗に王宮に戻ることを要請した。高宗は王宮に戻り、大韓帝国の独立を宣言した。これによりロシアの勢力は朝鮮から後退したが、独立協会の主張は次第に守旧派官僚との対立を招き、最終的に高宗の勅令により独立協会は解散させられた。
ロシアの勢力が朝鮮から後退したことによって再び日本の勢力が増大し韓国の経済的支配を進めた。ロシアと日本は朝鮮や満州の利権を巡り対立を深めた。こうした背景のもと、日露戦争中に日本軍通訳をつとめた宋秉畯が日本の影響下に政治改革のための組織を計画したが、この計画は元独立協会系の人々に受け入れられた。
一進会の設立宋秉畯は、日露戦争のさなか、日韓議定書が締結された約半年後の1904年8月8日に独立協会系の尹始炳らと共に、政治結社一進会を設立する(当初、名称は「維新会」。8月20日に「一進会」に改名)。
その後、韓廷が進歩会に対し「法令に背いて集会し詔勅無くして断髪するのは乱民だから解散せよ、しなければ砲刑に処す」と訓令を発したため、一進会は進歩会に対し「怨みがあれば訴え、訴えるのに会するのは自然の理である。また、乙未削髪詔勅(断髪令)は未だ取り消されておらず、軍人や警察官や外交官の断髪は詔勅によるものではない。現在の惨状を座視するのは忍びないから、現政府に従うな」と助言を発した[6]。進歩会は一進会に対し主義目的が同じだとして合併を依頼し、中央の一進会は十三道の進歩会を吸収した[6]。ちなみに同年8月22日には第一次日韓協約が締結されている。
当初、尹始炳が会長であったが、尹の要請によって李容九が会長に就任した。
他にも、初代統監であった伊藤博文が、黒龍会主幹を務めていた内田良平と共謀し、「韓国から日本との合邦を提議させるために」、一進会を設立させたという見方もある[7]。しかし、陸軍側の資料である「魚潭少将回顧録」によれば、一進会は、帝国陸軍韓国駐剳軍と統監府の対立の中で、韓国駐剳軍が統監府及び伊藤博文統監を間接的に攻撃するために設立させたものであり、その後、一進会が内田良平を通じて統監側に近づいたとしている[8]
会員・役員1905年時点で会員は全国28万4千人あまりに達し、特に平安道咸鏡道の二道に多かったとされる[9][要ページ番号]。初期の役員は以下の通り[9]
  • 会長: 尹始炳 (前観察使)
  • 十三道総会長: 李容九 (無官豪傑)
目的一進会では、独立協会に見られる民主主義、独立国家主義の思想を継承し、「政治改革と民主の自由」を掲げた[10]。また、日露戦争時に設立され、日韓軍事同盟においてロシアを侵攻を阻止することが、ロシアの大韓帝国に対する影響力を弱め、さらには欧米列強のアジア進出を防ぎ、朝鮮の復興になるとも考えていた。
会則1904年12月22日、尹始炳は以下の五ヶ条の会則を発布した[11]
一、本会員は一切断髪する事
二、帽子は外国の様子を傚行し、務めて本国品にて製造する事
三、平常服は現行せる本国俗制を変ぜざる事
四、平常服表衣は窄袖の周衣を以て施行し染色する事、但し公私服はこの限に非ず
五、洋服の一欵は或自由に属するも極めて簡略を旨とし財産を乱費するなき事
活動日露戦争における日本軍への協力一進会の設立当初、日本側の一進会への評価は低かった[10]が、一進会の設立後、宋秉畯は当時の日本の大佐、松石安治に対し書簡を送り、現状の高宗およびその官僚主導では大韓帝国の独立・維持は困難であると説明し、また京義線敷設の協力をも申し出ている[12]。当時の日露戦争においては、日本軍が物資輸送のため京義線の敷設を計画するが、日本軍の人員不足で計画が暗礁に乗り上げており、この際、一進会がこの敷設工事に無償支援し、会員14万人以上を動員した。さらに一進会は、日本軍の軍事物資輸送も支援に乗り出し、10万人以上の会員が自費で日本軍の武器、食料を戦地まで運んでいる。また、この日露戦争当時、一進会会員は、当時の伝統であった長髪をやめ、自主独立運動の象徴としている。朝鮮では露館播遷で断髪令を廃止しており、このような断髪は一般市民からは考えられないものであった。
演説独立門の西側にある独立館が一進会の演説会場であった[9]。しかし、独立館は6〜700人以上の聴衆を入れることはできず手狭になったため、独立館の北側に新たに1600〜1700人の聴衆を入れることのできる八角堂を建設した[9][要ページ番号]
統監政治1905年10月、日本政府は韓国保護権の確立の方針を閣議決定し、翌11月には伊藤博文を特使として派遣し、11月28日第二次日韓協約の締結が強行された。これに先立ち、一進会は1905年11月5日に「外交権を日本政府に委任し日本の指導保護を受け、朝鮮の独立、安定を維持せよ」という宣言書を発表している。[13]韓国統治の総責任者だった伊藤は早期の韓国併合に反対していた。しかし、1909年4月、伊藤は桂太郎小村壽太郎との会談において、両人が提示した併合の方針について大綱を是認している[14]1909年10月、伊藤が満州のハルビン安重根に暗殺された後、1910年5月に韓国統監(第三代)に就任した寺内正毅は、義兵の制圧と並行して、韓国併合への準備を進めた。
韓日合邦の要請一進会は、1909年12月「韓日合邦建議書(韓日合邦を要求する声明書)」を純宗、第二代韓国統監曾禰荒助、首相李完用に送り、韓日合邦を要請している。
この上奏文を書いたのは内田良平が率いる国粋主義団体黒龍会の武田範之である。武田によって起草された上奏文は、山縣有朋桂太郎首相(当時)、寺内正毅陸軍大臣に内示され、事前の了解を得ていた[15]
この建議書の中で、李容九は会員100万人の声明と称して、「日本は日清戦争で莫大な費用と多数の人命を費やし韓国を独立させてくれた。また日露戦争では日本の損害は甲午の二十倍を出しながらも、韓国がロシアの口に飲み込まれる肉になるのを助け、東洋全体の平和を維持した。韓国はこれに感謝もせず、あちこちの国にすがり、外交権が奪われ、保護条約に至ったのは、我々が招いたのである。第三次日韓協約(丁未条約)ハーグ密使事件も我々が招いたのである。今後どのような危険が訪れるかも分からないが、これも我々が招いたことである。我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、我々も一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか」と主張し、韓国と日本の連邦形式の対等合邦を求めた[16]
声明発表後の各方面からの反発一進会の声明に対して大韓協会、西北学会や天道教徒がただちに反対した。声明発表翌日には漢城西大門において、李完用が大演説会を開き、併合反対決議が行われた。統監府の憲兵隊が当時の韓国統監であった曾禰荒助に送った報告によれば、この声明発表は日本人の政治活動家である内田良平が主謀したものであり、一進会に対して大規模な反対運動が起こった。この事態を重くみた曽禰統監は、一進会の集会、演説を禁止し、一進会と大韓協会の日本人顧問に対して論旨退去を命じ、活動を弾圧した。併合を規定方針とした日本政府にとって、賛成、反対の議論が沸騰し、両派の衝突が起こり秩序が乱れること自体が障害と映ったからである[17]
併合後に設置された朝鮮総督府によっても、当時の韓国民衆が一進会に対して大きな反対の声を挙げ、その結果として一進会が孤立状態にあったことが指摘されている[18]
解散一進会の主張はあくまで日韓両国民の対等な地位に基づく日韓共栄であって日本の考える外地としての併合とは全く異なるものであることや、日韓併合については韓国側の要求は一切受け入れない方針であったため日本政府は一進会の請願を拒否した[19][20]。これは、当時の大韓帝国の巨額の債務や土地インフラに膨大な予算が必要になることから日本国民の理解を得ることは難しいとの政治判断からであった。一方、一進会の宋秉畯も、韓日の対等合邦は国力の差から困難であると判断して韓日併合論を展開し、1910年第2次桂内閣により日韓併合がなされた。日韓併合後、韓国統監府は、親日派/非親日派の政治団体の対立による治安の混乱を収拾するため、朝鮮の全ての政治結社を禁止し解散させた。これにより、一進会は併合直後の1910年9月12日に日本政府によって解散を命じられ、解散費用15万円を与えられ、同年9月25日に解散した[4]。一進会を率い、韓日併合論を説いた宋秉畯らは朝鮮総督府中枢院顧問となり、合併後の朝鮮の政治にも大きく影響を与え続け、その後、その功績により宋秉畯には伯爵位が与えられた。
一方では日韓の対等合邦を日本側が拒否し、その後に韓国を飲み込む形で併合したということから元会員の間には失望、怒りが広がり、後の三・一運動に身を投じる者も多く存在した。一進会の中心人物であった李容九は日本政府から送られた華族の叙爵を断り、会の解散から1年経たないうちに憤死した。喀血し、入院していた際に訪れた日本人の友人に対して一進会の活動についての後悔を語った[21]
日本人の関与一進会の活動には内田良平や日韓電報通信社長の菊池忠三郎など日本人が深く関与し、日韓合邦の要請を出すことに成功したが、最終的には伊藤暗殺や一進会に対する政府、韓国国民の反発からコントロールできなくなってしまい、 菊池忠三郎によって「日韓合邦が頓挫した今、一進会は暴徒に変ずる恐れがある」という報告がされている[22]。 日本人顧問であった杉山茂丸は会の目的である「日韓合邦」が失敗し、併合された後の1921年に、元会員たちから自決を要求された。これを受けて杉山は、朝鮮の日本統治改革を強く訴える建白を執筆し、李容九や一進会の元会員たちを騙したことについても懺悔した[21]
評価

  • 平凡社の『朝鮮を知る事典』では、一進会を「親日御用団体」と呼び、表立った運動以外にスパイ活動などにも協力したとしている。また、親日団体としての働きについてはプラスの効果よりも民衆の反発を招いたマイナスの結果の部分が大きかったとしている。また、一進会の実態が「李容九や宋秉畯などの利権集団」であったとも記述している。
  • 鹿鳴海馬の『伊藤博文はなぜ殺されたか』(1995)では一進会は日本が日本軍の通訳をしていた宋秉畯に作らせた親日派の政治団体であるとしている。「一進会は日本の国粋団体・黒竜会の内田良平といった有力者を顧問に、日本の保護を受け朝鮮国内の反日分子や反日運動のスパイ活動を行い、大衆の反感を買った。特に日露戦争後、一進会が日本の指導保護を要請する宣言を発表したので猛烈な反発を受けた。中でも「共進会」や「大韓自強会」といった民族派の団体から一斉に売国奴として非難された。」と記述されている。
  • 三省堂の『朝鮮の歴史 新版』では、一進会が1909年に出した声明について、民衆の声を代表しておらず、かつ「会員100万人」も実体のない数字だったとしている。
  • 金完燮の『親日派のための弁明』(2002)では、一進会の運動を、李氏朝鮮政府の圧政をはねのけようとする農民階級(東学党進歩会)と、支配階級出身で朝鮮の近代化をめざす改革派知識人グループ(維新会)、そして朝鮮近代化を支援することで「攻撃的な防御」を確保しようとする日本、の3つの改革勢力が結集されたものとして高く評価している。また、韓国政府が一進会を「親日御用エセ団体」と歪曲して韓国民に教えていると批判している。
  • 呉善花は、著書『韓国併合への道』で「少なくとも民族の尊厳の確保に賭けて大アジア主義を掲げ、国内で最大限の努力を傾けた李容九らを売国奴と決めつけ、国内で表立った活動をすることもなく外国で抗日活動を展開した安昌浩李承晩らを愛国者・抗日の闘士と高く評価するバランス・シートは、私にはまったく不当なものである」と評価している。
  • 朝鮮史研究者の板垣竜太は、一進会の親日の論理を「日本の朝鮮政策に対し儒教的徳治に基づくと期待したものであった。」と述べており、一進会の責任よりは日本が一進会すらも切り捨てたことを批判している。これは、一進会が大日本帝国の侵略の意図を見抜けず韓国を亡国へと導く役割を果たしたことは事実であるが、対等合併論自体は日本の朝鮮併合論(朝鮮が日本に従属し、主権を放棄する形で併合される)とは明らかに異なり、寧ろ併合後の日本が一進会すらも用済みとして切捨て、朝鮮統治を開始したことを踏まえてのものである。



、、、(爆wwwwwwww

3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

"田"の"内"側にいる"良"い"平"家さんw

命名は本当に重要(爆)

匿名 さんのコメント...

大地の子…? は一進じゃなくて一心だった



>一、本会員は一切断髪する事
野球部の丸刈りとか

匿名 さんのコメント...

瑞穂の國記念小學院 入学説明会 - YouTube
https://youtu.be/dYdaPBBzsQs

右に立ってる統括主任の 籠池町浪 先生がとってもキムチ顔なんですが…