2016年12月19日月曜日

戦前の日本、大日本帝国は真正保守不在のパヨク国家だった

大森 勝久(おおもり かつひさ、1949年9月7日 - )は、日本の新左翼の元活動家で、北海道庁爆破事件犯人として死刑判決が確定した死刑囚(本人は一貫して冤罪を主張)。日本建国に遡って全面否定する新左翼思想に「反日亡国」と定義付けたことでも知られる。現在は保守思想(彼の言葉でいえば「真正自由主義」)に転向している。 アムネスティ・インターナショナル日本から「冤罪の可能性が最も高い7名の死刑囚」の1人に指定されている。
自由主義思想への転向獄中にいる間、大森は様々な文献を読んだ。その結果、ソ連中国などの共産主義独裁体制の実態を知り、民主主義を否定する既成の共産主義に強く反発した。そして徐々に自らの思想を変えていった。
1997年頃になると、左翼思想から完全に脱却、「真正自由主義者」の立場に立つことになった。現在では、彼がかつて唱えていた反日亡国論のことを「悪魔のような思想」とまで断言するに至っている
プライベート1985年に支援者の女性と獄中結婚し、現在も毎日のように面会しているという。また独房で株に関する書籍や情報誌を読み、かつては妻名義で所有する株式の売買の指示をだしていたという。外部協力者によって論文雑誌に掲載しているほか、政治評論のホームページを運用している[2]





戦前の日本は左翼国家、反日国家だった


一、国家社会主義勢力による革命
左翼(共産主義勢力)は「資本主義は、状況によってはファシズム(全体主義)、軍国主義と化し、対外侵略戦争を引き起す。戦前がそうだ。だから資本主義は廃絶しなくてはならない」と主張する。だが、これは全く誤っている。
歴史の偽造だ。
自由主義(資本主義と民主主義)はファシズム、軍国主義と無関係である
そればかりか、戦前のファシズム、軍国主義、その対外政策と戦ったのは、昭和天皇をはじめとする自由主義勢力であった。


一九三0年代の日本では、「革新」「国家改造」「昭和維新」、つまり革命がなされたのである。自由主義国家日本は打倒されてしまった。
この革命の担い手は、軍部であり、マスコミであり、民間団体であった。
彼らは「国家(あるいは国民)社会主義」や「ファッショ」や「反共」を主張した、マルクスやレーニンの共産主義とは別の左翼であった。

彼らは「反自由主義」「反資本主義」「反議会制民主主義」「反(正しき)個人主義」を唱えたように、まぎれもない別個の左翼であった。

だから彼らは「反米英仏蘭」であった。
米英らが自由主義国、民主主義国であるからだ。
彼らは反共であるから、当然反ソ連でもあった。

この革命の特徴は、主体が軍部であったことだ。

「革新将校」たちは、軍の政治関与を禁止した「軍人勅諭」を踏みにじって、軍部による革命を推進していったのである。

軍の政治機関化が起った。直接行動(二・二六事件など)を戦術とする皇道派、政府・軍部による上からの革命を戦術とする統制派と、戦術の違いなどはあるが、ともに「国家(国民)社会主義」に立脚する、もうひとつの左翼であった。

軍部、マスコミ、民間団体等が唱えた「国体明徴」「一君万民」「天皇親政」のスローガンは、明治憲法の天皇制の否定であった。
すなわち、立憲君主制、議会制民主主義の否定であった。

天皇を政治的に利用して、独裁体制、全体主義体制を造ろうとしたのである。
昭和天皇はこれを強く否定されていた。


一九三0年代以降の日本は、国家改造(革命)が成った、
「革命国家」「左翼国家」、だから「反日国家」であった。

本来の日本国家は自由主義国家である。
ドイツでは、ナチス党=国民社会主義労働者党=左翼が政権を握ったが、
日本でも、同類の左翼思想を持つ政治勢力(軍部など)が日本を支配したのであった。
「反共」であるが、自由主義ではなく、反自由主義の別の左翼であった。

彼らは、アジアから自由主義勢力の米英仏蘭と、共産主義勢力のソ連や中国共産党を追放、打倒して、「大東亜共栄圏」を建設し、最終的には、東洋文明の盟主たる日本と、西洋文明の盟主のアメリカとの間で最終戦争を行ない、勝利して世界を統一する、すなわち「八紘一宇」、という世界戦略を有していた。

革命国家だからこその戦略である。


彼らは当時も「右翼」と言われたが、それは共産主義勢力、ソ連や日共との対比で言われたものであり、自由主義勢力=保守主義勢力から見れば、「左翼」そのものである。ナチスも左翼である。これらを右翼と言うのは歴史の偽造である。




二、国家社会主義者に偽装した共産主義者の戦い-大東亜戦争を主導

共産主義者は、国家社会主義者に偽装して、自らの戦略を実現しようとした。

首相の共産主義者・近衛文麿やソ連のスパイ尾崎秀美ら共産主義者は、国家社会主義者の衣をまとって国家中枢やマスコミや民間団体に潜入し、国家社会主義者の前述の世界戦略や内政政策を利用しながら、共産主義者としての戦略の実現を目指していった。

共産主義者と国家社会主義者では、「反自由主義」「反議会制民主主義」「反資本主義」「反(正しき)個人主義」「反米英仏蘭」は共通しているからだ。

近衛文麿らは、祖国のソ連を防衛するために、北支事変を日中戦争へと拡大させて、関東軍が「北進」できないようにした。

その日中戦争は、蒋介石の国民党軍に壊滅される寸前にあった中国共産党を救出するとともに、国民党軍を弱体化させて、中国共産党が中国を支配できるようにするための戦争であった。

また近衛らは、この戦争を利用して、日本に統制経済、計画経済を導入し、(準)一党独裁体制、全体主義体制を導入していったのである。

一九三八年の国家総動員法、電力国家管理法、一九四0年の大政翼賛会である。統制経済と全体主義は、国家社会主義も目標とするものだ。

近衛は海軍と連携して、一九四一年七月二日の御前会議で、「南進」(対米英戦を辞せず)を決定していった。近衛らはそれによって、国家社会主義勢力が同盟国ドイツに呼応して、「北進」を主張し、祖国ソ連を挟撃する可能性を封じたのである。

四一年七月下旬の南部仏印進駐の強行は、左翼国家日本による、米英蘭に対する実質的な宣戦布告であった。近衛は、同年九月六日の御前会議で、昭和天皇の反対との御意思を平然と無視して、「直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」を決定していった。


近衛ら共産主義者がこれで狙ったことは、ひとつは、
この戦争によって英仏蘭の自由主義勢力をアジアから追放し、
その後を共産主義勢力(ソ連やその子飼いの勢力)が支配することである。

もうひとつは、この戦争で国家社会主義体制の日本を敗北させ、
日本を共産主義化することであった。

日本が大東亜戦争(八年戦争)で疲弊し、敗北が必至となれば、
レーニンの「戦争を内乱へ」や「敗戦革命論」に基づいて共産主義勢力は
成長してくるし、破滅的な敗北を回避するために、ソ連と連携しようという
動きも出てくる。

そういう状況の中で工作を行ない、ソ連主導で大東亜戦争を終結させていくのである。
すなわち、戦争の最終局面で、ソ連が対日参戦し、日本側はそれを「歓迎」し、ソ連軍が米軍よりもいち早く日本を占領して、終戦にする。

こうなれば、戦後統治はソ連主導でなされ、東欧諸国のように、日本の共産主義化が実現する。


一九四四年夏以降、「終戦交渉問題」が浮上する。

この時、米英との終戦交渉は、必ず「国体の破壊」となるから決して行なってはならないとの嘘プロパガンダが、陸軍の隠れ共産主義者将校からなされていったのである。

国家社会主義勢力も、このプロパガンダを共有していく。
こうして、対米英戦争は徹底的に継戦していくことになった。
それは、まだソ連軍がヨーロッパ戦線で戦っていて、兵力を極東へ向けることができないためである。ソ連主導で終戦する条件が整っていないためである。


対ソ連終戦工作を中心的に担っていった人物は、参謀本部戦争指導班長の種村佐孝大佐であったが、国家社会主義者に偽装していた共産主義者であり、戦後は日本共産党員になっている。

近衛ら共産主義者の大東亜戦争の目的は、アジアの共産主義化と日本の共産主義化であった。英仏蘭は戦後、アジアから撤退し、共産中国、共産ベトナム、そしてソ連と同盟するインドが誕生した。日本は敗北し、共産北朝鮮が生まれ、日本領土の南樺太、千島列島はソ連に奪われた。満洲も奪われた。

こうした戦後の勢力地図が、この大東亜戦争の目的が何であり、この戦争を主導した勢力が誰であったのかを、明瞭にしている。

すなわち、近衛文麿やソ連のスパイ尾崎秀美ら国家社会主義者に偽装した共産主義者と、ソ連が、それである。

日本の共産主義化については、なんとか回避することができた。

それは、ルーズベルト(四五年四月死去)に替ったトルーマン大統領が、
ルーズベルトとスターリンとの間の「ヤルタ秘密協定」を知って驚き、
スターリンはさらに日本本土の占領すら狙っていると考えて、
米軍を急北上させて日本に降伏を迫ったことと、昭和天皇のポツダム宣言受諾の降伏の聖断により、米国の下で終戦を迎えることができたことによる。

あと数ヶ月、米軍の北上が遅れていたら、ソ連軍が日本の本州の一部を占領していた可能性は高い。日本は東西ドイツのような分断国家になっていた。
数百万の日本人がシベリアに連行され、強制労働で殺されたであろう。

日本は米国の保障占領下で、自由主義国家日本に復帰することができたのである。

食糧・経済援助も受けられた。日本国民には、アメリカに感謝するだけの理由がある。





三、歴史の偽造を許してはならない

一九三0年代、共産主義勢力の一定部分は、国家社会主義者に偽装して、革命国家の各部署に潜入して戦っていった。首相の近衛が創ったブレーン集団たる「昭和研究会」や、その後身たる「朝飯会」のメンバーには、ソ連のスパイ尾崎秀美がいたし、
コミンテルン日本代表の細川嘉六もいた。

国家社会主義の衣をまとっているが、ほとんどがソ連や中国共産党を祖国と考える共産主義者であった。日共からの偽装転向者ももちろんいた。

朝飯会の実質的な主宰者は尾崎秀美であり、その会合は首相官邸で開かれていたのである。第一次近衛内閣の官房長官の風見章も、戦後は社会党左派に所属し、日本をソ連の属国にするべく戦っていった共産主義者である。

戦前の三0年代以降の日本は、革命国家、左翼国家、反日国家であった。
大東亜戦争(八年戦争)は、首相の近衛文麿をはじめ偽装した共産主義者が主導したものの、共産主義者と国家社会主義者の両者が行なっていったものである。

いわば左右の社会主義者が行なったものだ。


そして、この左翼の(準)全体主義体制、軍国主義体制と大東亜戦争に抵抗していったのが、昭和天皇を中心とする自由主義者、保守主義者、民主主義者、資本主義者たちであった。

歴史は完全に偽造されているのである。

左翼国家日本は米国らに破れた。
GHQは、戦後の保障占領統治で、ポツダム宣言に基づいて軍国主義を解体していった。日本はこれによって、基本的には、国家社会主義勢力の主力は打倒されて、自由主義勢力が国家を統治するようになったのである。

日本は以前の親米英の自由主義国家に復帰することができた。

これにより、共産主義勢力の主敵は国家社会主義勢力から、
自由主義勢力(民主主義勢力、資本主義勢力)に替った。

そのため共産主義者は、敵の信用を貶めるために歴史を偽造することにしたのである。


「戦前の軍国主義と侵略戦争は、天皇制と軍部と独占資本主義が行なったものだ」と。自らがやったことを、敵の仕業にスリ替えてプロパガンダしたのである。


一方の国家社会主義者も、戦前の体制と戦争を担った自分たちが反自由主義、反資本主義、反民主主義、反天皇制であったこと、すなわち別の左翼であったことを隠蔽した。

彼らも、共産主義者の偽造にあえて反論せず、歴史を偽造したのである。

歴史の偽造を許してしまったのは、保守主義勢力=自由主義勢力の思想闘争が微弱だからだ。

「保守論壇」と言われているが、そこで発言している者の大半は、戦前を支持する、国家社会主義の流れをくむ反米英主義者(〃右翼〃と言われているが)であって、保守主義者は少数派でしかない。

親米英の保守主義者であっても、戦前が左右の社会主義者が支配した左翼反日国家時代であったことを認識できていない。

この両勢力によって、戦前の革命国家がつくられ、物言えぬ暗い時代となり、大東亜戦争で三百二0万の国民の命が奪われたのだ。

中国その他でも多くの人々が戦争で命を落した。
そして戦争の帰結として、共産主義勢力がアジア各地を手に入れ、
その恐怖支配下で戦争をはるかに上回る命が奪われていった。
日本もロシアに領土を奪われた。

私たちは、戦前のこの国家と戦争を担った共産主義と国家社会主義を断固糾弾し、解体していかなくてはならない。


戦いの土台は思想戦である。

中国も日本の共産主義勢力も、日中戦争を糾弾する。

しかし毛沢東はかつて、佐々木更三を団長とする社会党訪中団に、「日本は中国に大きな利益をもたらした。日本軍のおかげで、中国共産党が中国を手に収めることができたのだ」と真実を暴露した。

私たちが、日中戦争を阻止できなかったことを反省するということは、中国共産党独裁政権と日本の左翼を打倒していくということである。

中共に一切の謝罪をしてはならない。


本文は、中川八洋教授の『大東亜戦争の「開戦責任」』に学びつつ、国家社会主義と共産主義を峻別する私の見解を述べたものである。

二00四年三月二七日記
http://www5d.biglobe.ne.jp/~anpoken/sub31.html



、、、(爆wwwwwwwww

14 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

広田弘毅の対ソ工作はそういうことだったのですね。。。

匿名 さんのコメント...

>一九四四年夏以降、「終戦交渉問題」が浮上する。

>こうして、対米英戦争は徹底的に継戦していくことになった。
>それは、まだソ連軍がヨーロッパ戦線で戦っていて、兵力を極東へ向けることができないためである。ソ連主導で終戦する条件が整っていないためである。

・・・



今もなお、糞パヨク共が跋扈する日本ェ・・・

匿名 さんのコメント...

ヘンな髪型で鉄棒で出来た凶器振り回して無礼な奴はキリステゴーメンで
解決な蛮族が数百年引きこもってたくせにある日突然、明治維新で不思議な力に
目覚めて今日から俺様が世界最強ですこの俺が世界を革命するんですぅ~!
みたいなの地で行ってますからね(笑)売れるラノベのストーリーと全く同じですよ(笑)
今頃尊い人命(笑)とか言われても、それは今の価値観であって当時は派手に
敵を巻き込んで死んでいく奴の方が重宝されてましたからね(爆)
大した武士道精神ですわ(爆)
要は洗脳でどうとでもなっちゃう扱いやすいパシリなわけですわ
バイトリーダーレベルのオツムしかないんですから正社員になれるなんて甘い妄想は捨てないと(笑)
でもその妄想が日本人のパワーの源泉だったりするので構造的に詰んでるんですよね
キムチ半島も寄生虫と中国が食った残滓しかいないのと同じように土地柄なんでしょう
平成になって自然災害が増えたのも消毒が足りないと真の神が言ってるのではないですかね(笑)

匿名 さんのコメント...

>まだ裁かれてないカルト脳な超A級戦犯

匿名 さんのコメント...

東亜協同体論

匿名 さんのコメント...

近衛 北朝鮮 1000万円

匿名 さんのコメント...

「民主主義」という日本語からして可笑しい
democracyには主義すなわち-ismはないわけで

匿名 さんのコメント...

近衛というのは踊らされただけというのが自論だが、その点以外は概ねそんなものかもしれない・・・。

匿名 さんのコメント...

死ぬまでNHK総裁だった近衛文麿

匿名 さんのコメント...

http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E7%86%8A%E6%9C%AC%E5%9C%B0%E9%9C%87%E8%90%BD%E3%81%A1%E3%81%9F%E5%B7%A8%E7%9F%B3%EF%BC%92%EF%BC%94%EF%BC%90%EF%BC%90%E5%86%86%E3%81%A7%E8%90%BD%E6%9C%AD/ar-BBxmGJ4?li=AA570j&ocid=spartandhp

匿名 さんのコメント...

第2次再審請求も認めず=北海道庁爆破の大森死刑囚-最高裁
時事通信-Jul 20, 2017
2人が死亡、95人が重軽傷を負った1976年の北海道庁爆破事件で殺人などの罪に問われ、死刑が確定した大森勝久死刑囚(67)の第2次再審請求審で、最高裁第1小法廷(小池裕裁判長)は20日までに死刑囚側の特別抗告を棄却する ...

匿名 さんのコメント...

今でも真正保守不在

匿名 さんのコメント...

道庁爆破事件で3度目の再審請求
02月14日 12時07分

昭和51年に道庁で時限爆弾が爆発し2人が死亡、95人が重軽傷を負ったいわゆる「北海道庁爆破事件」で、死刑が確定した69歳の死刑囚の弁護団が「犯行声明文の筆跡は死刑囚のものとは一致しない」として札幌地方裁判所に3度目の再審=裁判のやり直しを求めたことがわかりました。

昭和51年3月、北海道庁のロビーで時限爆弾が爆発し2人が死亡、95人が重軽傷を負った事件では、大森勝久死刑囚(69)が殺人などの罪に問われ、平成6年に死刑が確定しました。
大森死刑囚は無実を訴えて平成14年と平成25年に再審=裁判のやり直しを求めましたが、最高裁判所はいずれも再審を認めない決定をしています。
これを受けて、弁護団があらためて有罪の根拠となった犯行声明文の手書きの部分についてコンピューターによる解析を行ったところ、大森死刑囚の筆跡とは一致せず、別人が書いた可能性が極めて高いという結果が出たということです。
弁護団は今月8日、この鑑定書などを新たな証拠として札幌地方裁判所に提出し、3度目の再審=裁判のやり直しを求めました。
主任弁護人を務める浅野元広弁護士は、「確定判決の大きな根拠が崩れることになり、無罪は明らかだ」とコメントしています。
sapporo/20190214/7000007852.html

匿名 さんのコメント...

北海道庁爆破、再審認めず 第3次請求で最高裁決定
2024/1/11 20:57
社会

最高裁判所=東京都千代田区
昭和51年に2人が死亡、95人が重軽傷を負った北海道庁爆破事件で殺人罪などに問われ、死刑が確定した大森勝久死刑囚(74)の第3次再審請求で、最高裁第3小法廷(渡辺恵理子裁判長)は弁護側の特別抗告を棄却する決定をした。9日付。再審請求を退けた札幌高裁の判断が確定した。5人の裁判官全員一致の結論。

第3次請求で弁護側は、事件後に見つかった犯行声明文中の3個の「※」印は、別人が書いた可能性が高いとする鑑定結果を新証拠として提出。令和3年12月の札幌地裁決定は鑑定について「判断基準の客観性や、判断手法の合理性に疑問がある」などとして信用性を否定、新証拠には当たらないとして再審請求を棄却した。5年3月の札幌高裁決定も支持した。

確定判決によると、昭和51年3月2日午前9時ごろ、道庁1階のエレベーター近くで消火器を使った時限式爆弾を爆発させ、職員の男女2人を殺害するなどした。実行犯として起訴された大森死刑囚は無罪を主張したが、札幌地裁が58年3月に死刑判決を言い渡し、その後確定したhttps://www.sankei.com/article/20240111-6JIU7FHXKBIDNPKW7AU33JIS7A/