2016年12月13日火曜日

苗字は”か”ではじまり名前は”る”で終わる亀山薫 神戸尊 甲斐享 冠城亘






亀山 薫(かめやま かおる) 神戸 尊(かんべ たける) 甲斐 享(かい とおる) 冠城 亘(かぶらぎ わたる)
 

大熊 朝秀(おおくま ともひで)は、戦国時代武将越後上杉氏、次いで甲斐武田氏の重臣。越後国中頸城郡冠城主。(現在の新潟県上越市板倉区
大熊氏は父の政秀の代から上杉氏の段銭収納を務めていた。父の政秀の活動は享禄年間に途絶え、この頃に朝秀への家督継承があったとみられる。朝秀は父と同様、上杉家中において段銭方などの要職を務めた。越後守護上杉氏の滅亡前後から守護代長尾氏に仕え、のち長尾景虎(上杉謙信)の擁立にも尽力し、その家臣として重きを成した。
弘治2年(1556年)、上野家成下平修理亮との領地争いをきっかけに家中内の派閥対立が激化する。争いに嫌気がさした長尾景虎の出家騒動が起こると、朝秀は上杉氏と敵対する甲斐国の武田信玄に内通して反旗を翻し、会津蘆名盛氏と共に越後に進入するが、西頸城郡駒帰にて家成に敗れ、越中に逃れた。永禄6年(1563年)、武田信玄に招聘され、府大家老・山県昌景の与力となる。やがて信玄の直臣として取り立てられ、足軽大将騎馬30騎、足軽75人持となる。勝頼の時代になってもその地位は揺るがず、遠江小山城代に任じられている。

天正10年(1582年)3月、甲州征伐において多くの重臣が織田信長徳川家康へ寝返る中、最期となる天目山の戦いまで勝頼と運命を共にして武田家への恩に報いた。子孫は真田家に仕え存続した。
  • 武勇に優れ、信玄の命で上野国長野業盛を攻めた際には剣豪として知られる上泉信綱一騎討ちを演じ、無傷で引き分けたといわれる。
  • 信玄の時代から、上杉氏との外交交渉の一端を担当していたといわれる。




上泉 信綱(かみいずみ のぶつな、永正5年(1508年)? - 天正5年1月16日1577年2月3日)?)または上泉伊勢守(かみいずみ いせのかみ)は、上州出身の戦国時代兵法家。生年は推測(後述)、没年は天正10年(1582年)など諸説あり。

同時代史料上の上泉信綱

『言継卿記』の大胡武蔵守

上泉信綱は、戦国時代の史料上には、山科言継日記言継卿記』に、永禄12年(1569年)1月15日 - 元亀2年(1571年)7月21日まで32回みえている。「大胡武蔵守」として多く現れ、「上泉武蔵守(信綱)」などとある。伊勢守とはみえない
『言継卿記』によると、永禄12年1月15日、卜部兼興の子・長松丸の訴状に「叔母舅」の大胡武蔵守としてみられる。以後、武蔵守は言継を訪問するようになる。ただし5月16日から元亀元年(1570年)5月22日までは年始の挨拶1回のみである。元亀元年5月23日には言継は軍配を上泉武蔵守信綱から伝授された。6月28日信綱は従四位下に叙せられたことを言継に語っている。また武蔵守が兵法を披露するのは元亀元年8月10日の梨本宮門跡と19日の太秦真珠院での2回のみである。 元亀2年3月には武蔵守は近日在国するとあり、7月2日に武蔵守が大和国から上京している。7月21日、信綱は京を去り故郷へ向かうことを言継に伝え、言継から下野国結城氏への紹介状を得ている。






吉田 兼倶(よしだ かねとも)は、室町時代中期から戦国時代にかけての神道家。本姓卜部氏吉田神道(唯一神道)の事実上の創始者[1]








結城氏(ゆうきし)は、平安時代末期から戦国時代にかけて、主に下総で活動した一族(大身)。通字として「」(とも)や「」(ひろ)が名前に用いられている。
鎮守府将軍藤原秀郷の末裔・小山朝光(結城朝光)が平安時代後期に源頼朝の挙兵に従い、志田義広滅亡後の鎌倉時代には下総の結城(茨城県結城市)を領した事が結城氏(下総結城氏、本記事中では一部を除き単に「結城氏」と記す)の始まりであるとされている。なお、朝光の実家である小山氏の本拠である下野国の小山(栃木県小山市)に隣接していることから、結城も元々小山氏の所領であったとする考えもあるが、朝光自身が自分は父の遺領を伝領せず、頼朝の配下となって初めて所領を得たと語っていること(『吾妻鏡』正治元年10月27日条)、治承合戦期まで結城郡では古くからの郡司であったと推定される簗氏・人手氏や常陸平氏系の行方氏が支配していたと推定されることから、結城郡には元々小山氏一族の影響は及んでおらず、一連の合戦を通じて没落した行方氏らに代わって朝光が頼朝から結城郡を「新恩」として与えられたと考えられている。[1]
家伝によれば、朝光には源頼朝御落胤説があり、北条氏のために親子の名乗りができず、その代わりに身分の上では小山氏の庶子に過ぎなかった朝光にあらゆる優遇を施した、と伝える。伝統的に源氏を称し、代々の当主も「頼朝」の「朝」の字を通字としている。いくつもの動乱の時代を経て、鎌倉以来の名族としてその家名を後世に伝えた。

鎌倉時代・南北朝時代

下総結城氏の繁栄とその衰退

朝光とその子結城朝広の時代、幕府の要職を歴任し、鎌倉府の御家人の中心として繁栄期を迎えた。しかし、朝広の子の結城広綱以降は当主の夭折と少年新当主の家督継承(直光をのぞき基本、数え12歳以下の幼少である)[2]が相次ぎ、衰退することになる。1333年、当時の当主結城朝祐足利高氏(後の尊氏)の上洛軍に加わってそのまま六波羅探題攻撃に参加、建武政権より本領安堵を得た。ところが、庶流である白河結城氏結城宗広が早くから討幕に参加していたという事で、1334年に結城宗広に対して「結城惣領」として一族を統率するようにとする後醍醐天皇の綸旨が下された[3]。実際に惣領に還付されるべき結城一族の跡が宗広に宛がわれ、更に1335年には北畠顕家によって突如、朝祐の所領であった陸奥国糠部郡七戸が没収されて南部政長に与えられている[4]。こうした経緯から、朝祐は足利氏に接近して足利尊氏とともに建武政権に反旗を翻してその覇業を助け転戦することになる。その結果、朝祐は多々良浜の戦いで戦死し、後を継いだ直朝関城攻防戦で戦死している。『梅松論』には1336年正月に京都において下総結城氏及び同族の小山氏は敵の南朝方にいる白河結城氏の軍勢と区別するために右袖を割いて冑につけて戦ったという故事が記されている(両結城・小山氏は家紋が同一のため、同士討ちを避けるためという)。また、同年12月には北畠顕家・白河結城氏の軍が結城郡に侵攻している[5]。また、結城直朝の戦死のきっかけとなった関城を支配する関氏(藤姓関氏)も下総結城氏の庶子でありながら南朝方についた一族であり、結城一族は南北に分かれて争うことになった。
こうした状況の中で下総結城氏は一貫して足利氏を支持し、直朝の弟の結城直光の代には安房の守護を務めるなど再興を果たしている。また、一旦は白河結城氏に渡った惣領の地位も同氏の内紛の影響もあり、宗広没後は再び下総結城氏の下に戻った。

白河結城氏と南北朝の争乱

鎌倉時代末期、朝広の子の一人である結城祐広は白河(福島県白河市)を本拠として白河結城氏(白河氏、または白川氏)となる。1333年に後醍醐天皇の皇子護良親王による鎌倉幕府討伐の令旨が届けられると、祐広の子の結城宗広は鎌倉幕府に対して挙兵し、続いて後醍醐天皇の綸旨を受けて新田義貞の鎌倉攻めに参加し、鎌倉幕府滅亡後の建武の新政においては、宗広は前述のように結城氏惣領の地位と奥州各郡の検断職の地位を与えられ、宗広の子の結城親光が三木一草と称される1人となった。また、親光の兄の結城親朝は奥州府の一員となり陸奥守北畠顕家北畠親房父子を補佐する。足利尊氏が建武政権から離反し南北朝時代になると、下総結城氏が足利方に従ったのに対し、白河結城氏は南朝方に属した。親光は尊氏が九州から入京を果たした際に尊氏暗殺を試みて失敗して殺され、宗広は北畠親子に従い続けたが、家督問題を巡って宗広と溝があったとされる親朝[6]常陸(茨城県)へ渡り関東地方における南朝勢力を確保しようとした親房の救援要請に対し距離をおき、1342年に足利方に従う。宗広の意向に反して白河結城氏の家督を掌握した親朝は宗広が獲得した結城氏惣領の地位を否認して、自己の本領白河の確保と周辺地域への勢力拡大を目指すことになる。以降の白河結城氏については白河結城氏の項目を参照。










、、、(爆wwwwwwwwwww

1 件のコメント:

GABRIEL さんのコメント...

ようやく真田が赤字に(笑)