11日夕方、北海道の函館山ロープウェイで、従業員が機械に挟まれ重傷を負った。この事故で足止めされていた観光客は、全員が無事下山した。
11日午後5時すぎ、函館山ロープウェイで「機械に人が挟まれた」と消防に通報があった。
現場に消防が駆けつけたところ、ワイヤ点検中だった従業員の成田良平さん(26)が、山麓駅のワイヤの機械の近くで、両足の太ももを挟まれていた。
成田さんは、およそ1時間半後に救急隊によって救出され、重傷だが意識はあるという。
この事故のため、山頂付近で観光客およそ1,000人が、一時、足止めされていたが、運行会社が手配したタクシーに乗るなどし、午後10時ごろまでに全員が無事下山した。
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00344267.html
函館山山頂に足止め数百人、下山に4時間超
2016年12月12日 01時43分
11日午後5時20分頃、北海道函館市の「函館山ロープウェイ」の山麓駅で、点検作業をしていた男性従業員が体を挟まれたと119番があった。
函館西署によると、運行会社社員の成田良平さん(26)が滑車と機械の間に両太ももを挟まれた。
成田さんは病院に搬送されたが、約7時間後に死亡が確認された。救助や点検のためロープウェーは運休となり、観光客数百人が函館山山頂に取り残された。運行会社が手配したタクシーなどで午後10時までに全員が下山した。
2016年12月12日 01時43分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
http://www.yomiuri.co.jp/national/20161211-OYT1T50096.html
やっぱ伊東リオンさんにどつかれた誰かさん関係の成田さんですかねえ・・・(爆wwwwwwwwww
函館山とは、展望台のある御殿山(334m)をはじめとして、薬師山(252m)、つつじ山(306m)、汐見山(206m)、八幡山(295m)、水元山(280m)、鞍掛山(113m)、地蔵山(286m)、入江山(291m)、エゾダテ山(129m)、観音山(265m)、牛の背山(288m)、千畳敷(250m)といった13の山々の総称である。
函館要塞は、1895(明治28)年、日清戦争終結後、日露戦争を想定して津軽海峡の防衛強化のため、また当時の北海道開拓の玄関口函館港湾を守ることも兼ねて計画され、要塞地帯法によって1898年から函館山のいろいろな場所に本格的に建設された。
しかし、1904年の日露戦争時、ロシア艦隊が日本船舶に危害を加えたが、要塞の施設が旧式だったため、要塞からは1は1発も砲弾が発射されなかったとのこと。ただし、要塞の存在がロシア艦隊の攻撃の抑止力になっていたのは間違いない。
こう書くと、要塞は大した施設じゃなかったのか?と思う人もいるかもしれないが、石組みやレンガ造りの構造物の遺構は目を見張るものがある。
その後、役立たずの大砲も撤去されたが、1922(大正11)年、軍部の意向で津軽海峡の重要性が再認識され、津軽海峡の青森側北海道側の各地、大間崎、竜飛崎、汐首岬、白神岬の砲台を合わせ津軽要塞が発足し、1940(昭和15)年に完成。
太平洋戦争が始まると、これまた、航空機相手に旧式で実戦には役に立たなく、函館も空襲にあって甚大な被害を受けた。
そして終戦を向かえ、明治後期から秘密のベールに包まれていた函館山は1946(昭和21)年、市民に開放された。そして、要塞の遺構も比較的程度も良く残っているのである。
函館山山頂の展望台のある辺りも、要塞の跡地である。
http://jm-hokkaido.sakura.ne.jp/is-hakodateyosai01.html
津軽要塞(つがるようさい)は、大日本帝国陸軍の要塞の一つ。1896年(明治29年)北海道の函館港及び函館湾守備を目的に計画され、1902年(明治35年)に完成した函館要塞が前身で、昭和になって津軽要塞と改称され、津軽海峡も守備範囲に加わった。2001年(平成13年)10月「函館山と砲台跡」として北海道遺産に選定された。
函館要塞は千畳敷砲台、御殿山第一砲台、御殿山第二砲台、薬師山砲台及び立侍保塁で構成される。1896年(明治29年)頃から「敵軍ヲシテ本湾ヲ利用セシメサル事」を目的に要塞設置が計画され、1897年(明治30年)11月函館要塞砲兵大隊が編成される。1898年(明治31年)6月には薬師山砲台が起工し、同年9月28日の陸軍省告示第11号により函館要塞周辺区域が示された。同年6月御殿山第一砲台の起工、同年9月に御殿山第二砲台の起工となる。同年11月25日、函館要塞砲兵大隊は北海道亀田郡亀田村に移転した[1]。1900年(明治33年)5月23日、函館要塞司令部が函館要塞砲兵大隊構内に開庁した[2]。1903年(明治36年)6月25日、函館要塞司令部が函館区谷地頭町に移転し同日より事務を開始[3]。
要塞諸施設の完成後に日露戦争を迎え、函館要塞も動員される。
1916年(大正5年)には御殿山第一砲台及び薬師山砲台が廃止された。昭和に入り守備範囲を広げる為に竜飛崎砲台及び汐首岬砲台及び大間崎砲台を完成させて、1927年(昭和2年)名称を津軽要塞と変える。このときに解体された戦艦伊吹の主砲も転用された。これらの戦力増強よって津軽海峡の封鎖が可能となった。
大東亜戦争が始まり各地の要塞が軍に隷属すると、津軽要塞も1943年(昭和18年)2月5日軍令陸甲第10号により北部軍に編入され、その後1944年(昭和19年)3月16日大陸命第967号により第5方面軍戦闘序列に編入され第5方面軍隷下となった。室蘭の防備も担当し、津軽要塞重砲兵連隊の第3中隊を配置していた。同中隊は後に第8独立警備隊に編入され、建設中の室蘭臨時要塞に展開して室蘭の防備に当たったが、1945年(昭和20年)7月の室蘭艦砲射撃では射界と射程の関係で何の反撃もできなかった。その他、北海道空襲などに際して、津軽要塞各部隊は対空戦闘を実施している。
戦後、アメリカ軍は函館山要塞が日本の徹底抗戦派のゲリラ戦拠点となる可能性を考え、施設の多くを爆破した。施設の完全破壊には至らなかったが、この影響に因る崩落の危険から弾薬庫や掩蔽壕の多くが現在は立入禁止となっている。函館山ロープウェイ山頂駅・展望台は御殿山第一砲台の上に建てられている。
明治の要塞建設以後、函館山等は要塞地帯として一般人の立入りが禁じられていたが、終戦後の1946年(昭和21年)5月一般開放され、2001年(平成13年)10月北海道遺産に選定された。
、、、(爆wwwwwwwwwww
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