ロシア軍が北方領土の択捉島と国後島に配備した新型の地対艦ミサイルについて、稲田防衛大臣は、北海道の網走付近が射程範囲に入るという見解を示しました。
25日の衆議院安全保障委員会では、ロシア軍が択捉・国後両島に配備した新型地対艦ミサイルの射程範囲について、民進党の後藤議員が北海道が射程に入るのかどうかを質しました。
これに対し稲田防衛大臣は、「コンパスで引くと網走あたり、北東あたりは入るかと思う」と述べて、ミサイルの射程圏内に入るという見解を示しました。
また、ロシアによるミサイル配備の意図について、稲田大臣は一般論として、ロシア太平洋艦隊の部隊の展開の援護と、オホーツク海における戦略原子力潜水艦の活動領域の確保が考えられると述べました。
一方、岸田外務大臣は北方領土の返還をめぐって、「日米安保条約6条の適用除外を認めるか、事実上、在日アメリカ軍を置かない内々の約束をするかのどちらかが実現しない限り、領土交渉は合意できないのではないか」という質問に対し、「現在、ロシアから日米安保条約の適用除外について求められていることはない」「仮定に基づいて何か申し上げることは様々な影響を生じさせる」と答弁しました。
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2924233.htm
網走刑務所(あばしりけいむしょ)は、法務省矯正局札幌矯正管区に属する刑務所。犯罪傾向の進んだ者(再犯者・暴力団構成員)、執行刑期10年以下の受刑者の短期処遇を目的とする刑事施設[1]。日本最北端の刑務所。
明治維新後の日本は、内乱による国事犯や政治犯が続出したため、監獄は過剰拘禁となっていた[2]。同時に、「富国強兵」を掲げて西洋列強と肩を並べるためやロシア帝国による脅威を防ぐためには蝦夷地(北海道)の開拓が重要であった[2]。
そこで、1881年(明治14年)に「監獄則」改正を行って徒刑、流刑、懲役刑12年以上の者を拘禁する集治監を北海道に設置し、囚人を労働力として使役させて北海道の防衛と開拓を進める政策を執った[2]。また、刑を終えた後は北海道に住み着いてくれれば良いという考えもあった[2]。
1890年(明治23年)、中央道路の開削工事を行うため、釧路集治監から網走に囚徒を大移動させて開設[2]。発足時の囚人数は1,392人でその3割以上が無期懲役であり、ほかの囚人も刑期12年以上の重罪人であった[2]。中央道路工事は、1891年(明治24年)のわずか1年間で、網走から北見峠まで約160kmが開通しており、過酷な労働条件による怪我や栄養失調が続出し、死者は200人以上となった[3]。
1894年(明治27年)に、囚人使役は「囚人は果たして二重の刑罰を科されるべきか」と国会で追及されるまでの社会問題となり廃止されたが[2]、民間人や外国人などによる「タコ部屋労働」は大正、昭和になっても続いた[2]。
網走の発展は、刑務所設置に大きく関わっているが[2]、以前は地元にとって刑務所は決して好ましいイメージではなく、戦時中には刑務所名変更の請願を網走町(当時)が提出している[4]。これは、衆議院を通過したものの貴族院では不採択となり、網走刑務所の名は存続することになった[4]。
戦後、高度経済成長期になると、高倉健主演の映画『網走番外地』シリーズの人気により、網走刑務所は全国区の観光名所となった[4]。1983年(昭和58年)には、網走刑務所の全面改築工事に伴い、旧刑務所の教誨堂、獄舎などを移築復原した博物館網走監獄が天都山中腹に開館[4]。刑務所は網走市の観光にも大きく貢献している。
、、、(爆wwwwwwwwwwwww
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"1941年11月23日大日本帝国海軍第一航空艦隊(機動部隊)が集結し、同26日に真珠湾攻撃のため艦隊がハワイへ向け出港した場所として知られている。"
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