2016年7月1日金曜日

元文藝春秋社員で元『週刊文春』編集長の花田紀凱@愛華訪中団が青山繁晴擁護

『週刊文春』青山繁晴をトンデモ候補とはそれこそトンデモ記事だ。
花田紀凱 | 月刊『Hanada』編集長、元『will』『週刊文春』編集長

2016年7月1日 17時12分配信

今週の『週刊文春』(7月7日号)で参院選に立候補した青山繁晴さんをやり玉に挙げている。「安倍首相自ら口説いた参院選トンデモ候補青山繁晴」。
なにがトンデモなのか。
いくつか挙げているが、主なものは、1996年のペルー日本大使公邸人質事件のとき共同通信記者として現地に長期派遣された青山さんが、経費を私的に使いすぎたというもの。
いったいいくら使ったのか?
<「彼はペルー滞在の四ヶ月で約千五百万円の経費を使った。そのうち少なくとも四百五十万円に私的流用の疑いがかけられました」(元同僚)>
あの緊急時に4ヶ月で1500万ならちっとも驚かない。
ホテル代も入ってるだろうし、タクシーのチャーター代だって、情報源の人物との食事だって普段以上に金はかかるものだ。
金で情報を買うこともあるが、そんな時、領収書なんてもらえやしない。
スクープを狙えば金はかかるのだ。ぼくの経験だって、金で情報を買ったことはいくらでもある。その筋の連中から情報をもらったからといって、領収書なんてくれるはずもない。
しかも、青山さんは会社がグダグダ言ってるので、その450万円は、退職金で相殺しているのだ。
『文春』の記事あとは青山さんの独自ネタは裏が取れない、とか、88年の「昭和天皇吐血スクープ」も違う見方をする記者もいるとか、噂話レベルの話ばっかり。
『週刊文春』がきちんと検証できているわけではない。
それを青山さんにぶつけ、青山さんが激怒する様子を長々と書いている。
-選挙戦真っ最中のこの時期に、このていどのネタでこのタイトルはやっぱりやり過ぎだ。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/hanadakazuyoshi/20160701-00059504/




朝日新聞社の元契約編集者が擁護ってどうよ?(爆wwwwwwww






花田 紀凱(はなだ かずよし、1942年9月13日 - )は、日本雑誌編集者。『月刊Hanada』編集長、元ワック・マガジンズ取締役、『月刊WiLL』編集長。

経歴・人物

東京都生まれ。東京都立千歳高等学校(現東京都立芦花高等学校)、東京外国語大学外国語学部英米語学科卒業。

文藝春秋時代

1966年に文藝春秋入社。『オール讀物』編集部に配属され、池波正太郎五味康祐瀬戸内晴美藤原審爾などを担当。1968年11月に『週刊文春』編集部へ異動。以降基本的に『週刊文春』編集部と『文藝春秋』編集部を行き来し、『Emma』編集部にも創刊準備期間を含めて1年半ほど在籍。
1988年に『週刊文春』の編集長に就任した後は、タカ派の論調を展開。『週刊文春』を週刊誌売上トップへと育て上げ[1]積極的なテレビ出演で顔と名前が広く知られるようになる[要出典]。コラムニストの勝谷誠彦は文藝春秋時代の部下であり、勝谷が取材した女子高生コンクリート詰め殺人事件では、編集長として少年法に抵触する事を承知の上で、[要出典]加害少年の実名報道にゴーサインを出し、大きな議論を呼んだ。
1994年マルコポーロ』編集長に異動(初代・2代目では部数が伸び悩み、3代目)。順調に部数を伸ばしていたが、1995年2月号において、西岡昌紀によるホロコースト否認論を掲載。サイモン・ウィーゼンタール・センターから抗議を受け廃刊。
花田自身も編集長を解任され、閑職といわれる『戦後史企画室』に異動。分掌業務とは別に、新雑誌の企画を提案するなどしていたが、だんだんと出社しなくなり、事件の1年後の1996年に文藝春秋を退社した。

文藝春秋退社後

『週刊文春』時代に何度も批判記事を載せた朝日新聞社の契約編集者となり、その“右から左へ”の転身ぶりが話題となる。朝日新聞内外から強い反対があったが、経営陣はこれを無視して花田を受け入れた[2]
1996年秋に創刊された女性誌『uno!』の編集長に就任。「男も読める女性誌」を目指したが、花田・朝日新聞双方にノウハウのない状態で部数は伸び悩み、2年後の1998年6月に赤字で休刊。同時に角川書店に 移籍した。中から見た朝日について「文春とは全然違う。組織が大きいから官僚的にならざるを得ないし、官僚的でないとうまくいかない」「即断即決ができな いので雑誌作りには馴染みにくい」「(週刊誌で可能だった)10本の記事のために集めた20本の原稿を執筆者に謝って没にする、というようなことができな い」といった感想を当時のインタビューで述べている[3]
角川では『月刊フィーチャー』発行人(1998年)・『MEN'S WALKER』編集長(1999年)を務めたが長続きせず、いずれも部数が伸びずに休刊した。文春時代から相次いで雑誌を潰したことを西原理恵子に「雑誌クラッシャー」と揶揄されたこともある。
2000年12月に角川書店を退社。2001年に宣伝会議の常務取締役に就任し、月刊誌『宣伝会議』編集長、『編集会議』編集長を務めた。2004年にワック・マガジンズに取締役として迎えられ、同年11月に創刊された『WiLL』の編集長に就任、現在に至っている。
雑誌以外にも、テレビラジオコメンテーターを務めている。『噂の眞相』の元編集長岡留安則と親交があり、花田が『TVウワサの眞相』に出演したり、岡留が『WiLL』に連載を持つこともあった。
また、産経新聞に「週刊誌ウォッチング」の連載をするなど、週刊誌報道のご意見番となり、「最近の週刊誌はネットで資料集めをして取材もせずに書いているというのが読んでミエミエ。それをまたデスクが見抜けない」と苦言を呈していた[4]。ところが、自ら編集長を務める『WiLL』(2006年5月号)に、社民党(旧社会党)元党首の土井たか子を「本名『李高順』、半島出身とされる」と記述し[5]、慰謝料1000万円と謝罪広告の請求訴訟を起こされる。2008年11月13日、神戸地裁尼崎支部は「明らかな虚偽」として『WiLL』に200万円の賠償を命じた[6]。この判決は最高裁で確定している[7]
2007年、アメリカ合衆国下院121号決議がなされたとき、「慰安婦問題などなく、売春組織と売春婦が存在しただけ」というチャンネル桜主導の抗議書の賛同者として名前を連ねた。
日中の経済交流を進める愛華訪中団マスコミ関係者として複数回参加しており、東北地方太平洋沖地震福島第一原子力発電所事故が発生した2011年3月11日にも勝俣恒久(当時東京電力会長)が団長をつとめる団に参加していた。
『WiLL』や『週刊文春』時代に攻撃的なスタンスを取っている朝日新聞について上記のインタビューで「優秀な人が多い」と認めており、「個人的に 話してみたら全然違う話があったりする。論説がどういう仕組みでできるのか、どこかの雑誌で一回レポートすればおもしろいなと思うんですよ」などと述べて いる[3]

2016年2月、ワックマガジンズを退職するとともに『WiLL』編集長を退任、飛鳥新社に移って創刊予定の新雑誌で編集長を務める見込みと報じられた[1]。3月18日、新雑誌の編集発行や編集部員の「引き抜き」が「競業避止義務並びに善管注意義務及び忠実義務に違反する」としてワックマガジンズの取締役を解任される[8]。月刊『創』編集長の篠田博之は花田に対する取材で、花田からはそれとは異なる経緯・理由を聞いているとしている[9]。4月26日に飛鳥新社から創刊された『月刊Hanada』の編集長となったが、表紙のデザインが『WiLL』に酷似していることについて、『WiLL』編集部側はツイッターで「類似商品」「読者を愚弄する行為」と批判している[10]






SEESAAにアンチキムチ団を削除させた朝日新聞ですね、わかります。(爆wwwww





石原萠記

石原 萠記(いしはら ほうき、1924年11月5日 - )は、日本の社会主義運動家。社会党右派のイデオローグ。ソ連ロシア)、中華人民共和国韓国との文化交流、友好親善に努めている。出版社の自由社社長。日本対外文化協会副会長。日本出版協会理事長。STV-Japan取締役。「萠」は俗字で、人名漢字を使用して「石原萌記」と表記されることも多い。

経歴

山梨県甲府市百石町の染物店の二男として生まれる。1944年、早稲田大学在学中に陸軍に応召。1945年、中国・漢口第6方面軍司令部参謀部で終戦を迎える。
1946年、上海から博多に復員。その後、東洋大学史学科で考古学を学ぶ。日本共産党員だった渡辺恒雄河合武河合栄治郎の長男)らと学生運動を行う。日本共産党の影響下にあった「民主主義科学者協会」(民科)の歴史部会に出入りし、石母田正藤間生大松本新八郎ら共産党系歴史学者の研究に傾倒していた時期もあった。1951年卒業。
学生時代から右派社会党の衆議院議員、三輪寿壮の下で革新運動を行い、卒業後は郷里の山梨県に入り、県議や古い党員を次々と除名して右派社会党山梨県連を再建。衆院選出馬を準備していた。河上丈太郎(元社会党委員長)とは、河上の長男・民雄が留学から帰国する際に書籍の整理を依頼されるほどの仲だった。
1956年、「日本文化フォーラム」の設立に参画(当初は事務局長、後に専務理事)。1959年、自由社を設立し、月刊誌「自由」を創刊。
東海大学総長や社会党衆議院議員を務めた親ソ連の代表的人物松前重義と 親しく、「現代の巨星」と絶賛。1966年、ソ連政府の提案によるソ連・東欧との交流組織「日本対外文化協会」(対文協)を松前とともに設立した(現在副 会長)。日本対外文化協会、日ソ友好議員連盟、日ソ親善協会、日ソ交流協会、日ソ貿易協会の対ソ関係5団体とソ連の官製対日友好組織が主催して1979年 から1988年まで開催された「日ソ円卓会議」では政治部会の座長を務めるなど中心的役割を担った。日ソ円卓会議の内容は「自由」誌上に掲載された。松前 は自由社の取締役を務めた。
1972年、新しい社会主義を検討するため「変貌する社会と社会主義 国際セミナー」を社会主義インターナショナルなどと共催。このセミナーを機に江田三郎と親しくなり、江田から社会党離党の相談を受けるなど政治的盟友となった。
社会主義の中でも非共産党の社会民主主義の信念を持ち、社民・中道勢力による自民党政権打倒を目指した。1972年、江田三郎、矢野絢也公明党書記長)、佐々木良作民社党書記長)を、西ドイツで大連立を成功させた首相(ドイツ社会民主党党首)、ヴィリー・ブラントと会談させることを企て、8月28日にミュンヘン郊外で実施する準備を進めたが、マスコミに察知され中止となった。1990年には、松前重義とともに、土井たか子(社会党委員長)、永末英一(民社党委員長)、江田五月社民連代表)や山岸章連合会長)らに対し、西欧型の社会民主主義政権の樹立を目指す「社会民主主義研究会」の設立を呼び掛けた。
「自由」2008年2月号の座談会で「『自由』の役割は、60年安保、70年安保を闘い、それ以降の70年半ばには、江田三郎さんたちと社会主義インターを日本へもってこようとして、いろいろとご協力し合ってきた。そして、それが社公民という形で一つの運動になった」「『自由』の歴史は1959年発刊以来、一貫して民社主義(民主的社会主義)を理想としつつ、現実をいかに改革するかを、理論・政策と実践の両面から努力してきた」などと発言している[1]

歴史認識

政治思想は反共産主義を表明し、保守言論人に分類されることも多いが、前述した通り社会主義者であり、中国や韓国との相互理解を強調し、日中戦争太平洋戦争の戦争責任は昭和天皇にあると繰り返し表明している。また、沖縄戦における集団自決についても軍の命令だったとの立場をとっている。これは、自由社が刊行している『新しい歴史教科書』が依拠する史観とは明らかに対立しており、新しい歴史教科書をつくる会が教科書の新たな発行元に自由社を選んだことに疑問の声が出ている。

東京電力との関係

東京電力社長だった木川田一隆と親交があり、その紹介で平岩外四(後の社長、会長)と知り合う。石原および自由社は「自由」への広告出稿など東京電力から財政援助を受けていた。週刊文春の取材に対し「昭和の時代には、カネに窮して年も越せない時、東電の副社長は100万円用意してくれたなぁ」と語っている。東京電力がマスコミ関係者を連れて中国を訪問する日中友好ツアー「愛華訪中団」を主催東日本大震災による福島第1原発事故が起きた2011年3月11日もツアー中で、東京電力会長の勝俣恒久らとともに中国の要人に面会に行くバスの中で地震を知ったという[2]
東京電力幹部と民主党関係者をつなぐ懇親会「十人十色の会」を主宰。メンバーには江田五月海江田万里らがいる[3]

家族構成

妻、石原信子は自由社監査役。長男、石原寿記は横浜地方裁判所判事。長女、石原圭子は 東海大学教授。寿記の名付け親は三輪寿壮で、「寿」の文字を与えた。圭子は松前重義の縁故で東海大学平和戦略国際研究所の助手として採用され、その後、講 師、助教授、准教授となった。また、石原の妹は三輪の秘書を務め、三輪の死後は松前の秘書となった。このように石原と社会党関係者の交際は家族ぐるみだっ た。








勝俣 恒久(かつまた つねひさ、1940年3月29日 - )は、東京電力の第10代代表取締役社長福島第一原発事故当時の代表取締役会長である。 電気事業連合会会長、日本原燃株式会社会長、日本原子力発電取締役などを歴任した。
そのシャープさから「カミソリ勝俣」との異名を持つ。 座右の銘は「ケ セラ セラ[2]、好きな言葉は「明日があるさ」。 趣味は囲碁日本棋院の理事にもなっており、関係者いわく「シャープかつ正攻法」。 また、東電OL殺人事件では被害者女性の直属の上司であった。

2013年には、アラブ首長国連邦ドバイの高級マンションで暮らしていると報じられた[1]

東京府出身。のちに代々木ゼミナール創設者の一人となる勝俣久作の四男である。世田谷区立太子堂中学校[3]東京都立新宿高等学校東京大学経済学部卒業。1963年、東京電力入社[4]
新日本製鉄元副社長・九州石油元会長の勝俣孝雄は実兄で、丸紅元社長の勝俣宣夫は実弟である。孝雄・恒久・宣夫で産業界の勝俣三兄弟として知られた(実際は5人兄弟)[5]。他の2人の兄弟は勝俣邦道日本道路公団元理事、勝俣鎮夫東京大学名誉教授である。







小沢一郎につながる中心的Culpritですな。(爆wwwwwww

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

超訳 まっくろくろすけ w