2016.7.23 10:57更新
宇治の住宅街で火災 11棟焼く 女性2人が不明
23日午前8時10分ごろ、京都府宇治市小倉町西浦の中華料理店「呑龍」から出火していると119番があった。この火事で木造3階建ての店舗兼住宅延べ約90平方メートルが全焼したほか、住人の女性2人と連絡が取れなくなっており、府警宇治署などが確認を急いでいる。
同署などによると、火元の家は4人暮らしで、このうち行方がわからないのは、50代と70代とみられる2人。消防車など11台が出動し、火は約2時間後に消し止められたが、隣接する店舗や住宅など計10棟が全半焼した。
近くに住む60代の男性は「ボンボンボンと大きな音がした」と不安そうな表情。また、位牌(いはい)を持ち出して避難したという30代の女性は「原因がわからないが放火とかだったら怖い」と話していた。
現場は近鉄京都線小倉駅から北西約500メートルの住宅密集地。
http://www.sankei.com/west/news/160723/wst1607230038-n1.html
一〇〇式重爆撃機(ひゃくしきじゅうばくげきき)は、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の重爆撃機。キ番号(試作名称)はキ49。愛称は呑龍(どんりゅう)。略称・呼称は一〇〇式重爆、百式重爆など。連合軍のコードネームはHelen(ヘレン)。開発・製造は中島飛行機。
1944年4月にはキングレコードから呑龍をテーマにした「鐘馗呑龍新司偵(時雨音羽作詞、細川潤一作曲、鬼俊英歌)」が作られている。
機名の由来
開 発年は皇紀2600年の1940年で、陸軍に制式採用されたのは1941年である。原則的には制式採用年に因み、一式重爆撃機と命名するのが慣例だが、 1940年はめでたい年で全国的に祝賀ムードだったこともあり、皇紀2600年の数字を冠して一〇〇式重爆撃と命名された。ニックネームは「龍を呑む」と いう勇ましい名称だが、実際には江戸時代に貧乏人の子弟を養育した心優しい浄土宗の僧「呑龍」の名前からとったものである。これは製造会社の中島飛行機の工場があった群馬県太田市に「子育て呑龍」と呼ばれた大光院があったことから名づけられたという。で、もう一つの三重の宇治は・・・
、、、(爆wwwwwwwwwww
2 件のコメント:
【所沢航空発祥記念館】特別展「中島飛行機の傑作戦闘機たち」関連ツイートまとめ - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/1004036
旧日本軍戦闘機の展示会 - NHK 首都圏 NEWS WEB
http://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20160723/4246131.html
埼玉)戦前の「中島飛行機」特別展 所沢航空発祥記念館:朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/articles/ASJ7R51HZJ7RUTNB00Y.html
所沢航空発祥記念館特別展「中島飛行機の傑作戦闘機」を開催します。 - 埼玉県
http://www.pref.saitama.lg.jp/a0001/news/page/160715-13.html
6 主催
所沢航空発祥記念館
7 後援
埼玉県教育委員会
所沢市教育委員会
8 特別協力(敬称略)
株式会社立飛ホールディングス
9 協力(敬称略)
太田市 大刀洗平和記念館 筑波海軍航空隊記念館
中田商店 富士重工業株式会社 文林堂・航空ファン
有限会社大澤製作所 ワック株式会社
岡部英一 金子としお 小島正喜 中村泰三 林紀幸
東京)中島飛行機跡地から地下道あらわる 武蔵野:朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/articles/ASJ8244FTJ82UTIL00W.html
高橋友佳理
2016年8月3日03時00分
工場跡地から出てきた地下道の床面と見られるコンクリート板=武蔵野市緑町2丁目、牛田守彦さん提供
戦闘機「零戦」のエンジンを造っていた旧中島飛行機武蔵製作所(武蔵野市)の跡地から、地下道の床面が見つかった。都の公園拡張工事で地面を掘り起こしたら現れたもので、都は撤去を進める。市民らは「貴重な遺構。記録に残して」と要望。市教育委員会が記録を取り始めた。
武蔵製作所は日本有数の軍需工場で、太平洋戦争中に米軍の空襲を受けた。地下道の一部が現れたのは東側の工具工場があった場所。戦後、都営武蔵野アパートが建設され、2012年度に取り壊された。隣接する都立武蔵野中央公園の拡張工事に伴い、今年7月から地面を掘り起こし、アパートの杭などを撤去していた。
地下道があったことは工場の図面などに残る。移動の効率化のため、工場内の各施設が地下道でつながっていたとみられる。「武蔵野の空襲と戦争遺跡を記録する会」(川村善二郎代表)の副代表で法政大中学高校教諭の牛田守彦さん(54)が1日に現場を訪れ、地下道の床面と見られるコンクリート板がはがされているのを確認した。床面は幅3メートル、長さ10メートルほどでその場で砕かれ、穴は埋め戻されたという。工事を担う都西部住宅建設事務所の担当者は「工事記録は取っているが、(遺物としての)記録は市に取ってほしい」と言う。
牛田さんは「都営アパートができたときに地下道は壊されたと思っていたが、床面は残っていて驚いた。中島飛行機時代の貴重なもの。保存が難しければ、せめて記録してほしい」と話す。「戦争と武蔵野」をテーマに企画展を開催中の市立武蔵野ふるさと歴史館の田川良太館長は「武蔵製作所は地下でつながる工場として知られていた。地下道の存在をできる範囲で記録していきたい」と話す。
牛田さんは14日午後1時半から武蔵野市境南町2丁目の武蔵野プレイスで「武蔵野地域の戦争遺跡」について講演する。現れた地下道についても写真などを紹介する予定だ。
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