2015年12月21日月曜日

安岡力也の生体肝移植、64%を息子が提供



 歌手や俳優として幅広く活躍した安岡力也さんは、肝臓がんを患い、2012年に65歳で他界しました。父の命を救おうと、生体肝移植で自らの肝臓を提供した長男の力斗さん(29)は、「当時の決断は、今も全く後悔していません」と振り返ります。
05年がん発見

「力斗、パパに君の肝臓を3分の1、くれないか」。父にそう言われたのは、10年夏のことでした。



180センチ、100キロを超える巨漢で、若いときは誰よりも丈夫だった父ですが、実は02年ごろからは闘病続きでした。肝臓に水がたまる病気で肝機能が低下し、大好きだった酒も禁じられました。

05年には肝臓に小さながんが見つかり、腹腔鏡手術で取り除きました。その後も、小さながんが見つかるたびに、手術を繰り返しました。

父は母と離婚しており、当時は私と2人暮らし。病気のことは父も私も悲観しておらず、「また見つかったら、手術で取り除けばいい」と考えていました。父は芸能活動も続けていました。

ところが翌年、父が「体が痛くて眠れない」としきりに訴えるようになりました。原因がなかなか分からず、弱音を吐かなかった父も「ひょっとするとオレ、やばいかもしれないな」とこぼすようになりました。何度も診てもらい、ようやく「ギラン・バレー症候群」と診断されました。

ギラン・バレー症候群は、体の免疫システムが暴走し、運動神経を誤って攻撃してしまう難病だ。手足のしびれや筋力の低下など、感覚障害が急速に進行し、歩行などが困難になる。

父は見るからに筋肉が落ち、手も足も自由に動かせない。芸能の仕事もできなくなり、山梨県のリハビリ専門施設で回復に努めました。私も仕事の合間に施設を訪れて励ましました。

1年以上のリハビリのかいもあり、父はつまずきながらも自分の足で歩けるようになりました。ただ、この間、肝臓の治療は中断しており、帰京後に診察してもらうと、がんが進行して肝臓がほとんど機能していない状態でした。医師からは「このままだと余命は1か月ぐらい」と宣告されました。
周囲の猛反対

力也さんに残された唯一の方法が、生体肝移植だった。検査の結果、力斗さんの肝臓が移植に適していると分かり、力也さんの求めもあって、10年に手術に踏み切ることになった。

父の友人たちや母は、こぞって移植手術に猛反対しました。「さんざん遊んだツケが回った結果なのに、何でお前が危ない目に遭わないといけないんだ」と口をそろえるのです。

でも、父は褒めることはあっても、めったに叱ることのない優しい人で、ずっと憧れの存在でした。そんな父が「もう一度、芸能界に戻りたい。テレビにも出たい」と願っている。恩返しするにはこれしかない。迷いは一切ありませんでした。

父の肝臓は予想以上に弱っており、私の肝臓は当初予定の3分の1では足りず、限度ぎりぎりの64%も移植しました。手術は42時間に及びましたが、無事に成功しました。
最後の乾杯

だが、すでにがん細胞は肝臓以外にも潜んでおり、肺や骨、皮膚にも転移していった。腎臓などの機能も低下し、力也さんの容体は悪化する一方だった。

主治医からは「医師として施すことはもうありません。余命は長くて1年。その間に思い出をつくってあげてください」と言われました。

12年2月、父や父の友人らと熱海温泉に旅行に出かけました。父の体力では1泊がやっとでしたね。

私たちが手助けして、車いすに乗ったまま温泉に入った父は「こりゃ、いいや」と、久しぶりに笑顔を見せました。病院では入浴していなかったので、本当に気分が良かったのでしょう。

入浴後、みんなでビール片手に乾杯しました。私が成人した時は、すでに父は断酒していたので、これが最初で最後の父との乾杯でした。父はコップに口をつけてなめるぐらいでしたが、「うまいなあ」と満足げでした。

翌日に病院に戻った父は、その2か月後、世を去りました。「力斗、本当にお前はパパのエンジェルだなあ」。それが父の最後の言葉でした。

今、私は千葉県内の建設会社に勤務しながら、テレビドラマに出たり、インターネットのラジオ番組を担当したりと、タレントとしても活動しています。父と同じ道を歩き始めました。「父の大きな背中をずっと追いかけていこう」。その一念で進みます。(聞き手・田中左千夫)


やすおか・りきと 1986年、東京都生まれ。2006年から力也さんの友人が経営する建設会社に勤務。14年からは芸能事務所に所属し、タレントとしても活動する。同年、父との生活をつづった著書「ホタテのお父さん」(東京キララ社)を出版した。


◎取材を終えて 力斗さんから、幼少からの力也さんとの写真を見せてもらった。「こわもて」の印象が強かった力也さんだが、親子2人での表情は柔和そのもの。親密ぶりがうかがえた。力斗さんの腹部には、生体肝移植の痕がくっきりと残っている。あえて目立つように縫合してもらったのだという。自らを危険にさらしてまで父を長く生かしたいという強い思いが、60センチの手術痕に込められているように見えた。

(2015年12月21日 読売新聞)


生体肝移植は後藤組の伝統だったんですかねえ?・・・(爆wwwwwwwww


安岡 力也 (やすおか りきや、1947年7月19日 - 2012年4月8日) は、日本ロックヴォーカリストキックボクサー俳優タレントシャープ・ホークスボーカル。本名は同じ。身長187cm、体重108kg、血液型O型イタリアジェノヴァ出身。埼玉県行田市育ち。長良グループ所属。
デビュー以来、本名の「安岡力也」名義で活動していたが、「安岡リキヤ」と表記していた時期もある。2001年、離婚を機に姓のない芸名「力也」に改名したが、2010年からは再び「安岡力也」名義で活動した。なお、俳優のRIKIYAとは別人である。子は俳優の安岡力斗[1]
祖父はシチリアンマフィアで、イタリア人の父と日本人の母の間にジェノヴァで生まれる[2]。父親もマフィアで6歳のとき、父の死亡により日本へ帰国[3]。一方、東京スポーツで生前の2011年4月に掲載された自身の連載「息子へ」では、祖父・父ともシシリーのマフィアで、米軍とつるんでいた関係で日本に来て、日本人で教師の母の間に仙台市で生まれた[4]。その後母親と転々として4歳から埼玉県行田市の祖母宅で育った[4]。父は表向きは貿易商でイタリアと日本を往復したため、父が日本にいる時は麻布の父宅によく行ったが、イタリアで育ったことはないと話している[4]。 


長良 じゅん(ながら じゅん、1938年3月10日 - 2012年5月2日)は日本芸能プロモーター音楽プロデューサー。本名は神林義忠[2]長良プロダクション会長を務めた。長男は長良プロダクション代表取締役であり、社団法人「日本音楽事業者協会」の常任理事でもある神林義弘







、、、(爆wwwwwwwwwwwww

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

自分の不摂生の因果応報を省みる事もなく、
我が子の身体から臓器を奪い取って現世にしがみつくw
これぞまさにユダヤ的サクリファイス精神(爆w

>「力斗、本当にお前はパパのエンジェルだなあ」。

Yes、小さなエンジェル!(爆wwwww

匿名 さんのコメント...

www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/004214720000421002.htm