2015年7月14日火曜日

鳴海寺詣り歌と天白信仰









愛知県日進市東部の名古屋商科大学の西南隣接地にある三ヶ峯上池付近に源を発する。日進市を西へ流れ名古屋市へ入ると天白区を横断。各区および東海市の境界を流れ、名古屋港へ注ぐ。天白川大橋付近から星園橋付近までは天白川緑道として整備されている。名称は下流の名古屋市緑区鳴海町にあった『字天白』(旧東海道にある天白橋のすぐ東隣の土地のこと)にその昔『天白神』が祀られていたことによるものである。
天白川の名前は明治時代になってから名づけられたものであり、それまでは米野木川と呼ばれていた(同時に社川と呼ばれていた支流は植田川と称することになった)。これは当時の愛知郡植田村(現在の名古屋市天白区植田地区に当たる)では米野木川も社川も『植田川』と呼ばれており、紛らわしいため名称を整理したものである。江戸時代の頃から水害が度々起きており、流路が幾度も変わっている。






天白信仰(てんぱくしんこう)は、本州のほぼ東半分にみられる民間信仰である。その分布は長野県静岡県を中心とし、三重県の南勢志摩地方を南限、岩手県を北限として広がっている。
信仰の対象・内容が星神・水神・安産祈願など多岐にわたることから様々な研究・解釈が行なわれたが、1980年ころから伊勢土着の麻積氏の祖神天白羽神(あめのしらはのかみ、長白羽神の別名)に起源を求める説が紹介されることが多くなった。


長白羽神(ながしらはのかみ)は『古語拾遺』の天岩戸に登場する思兼神に命じられ、を育て青和幣(あおにぎて)を織ったという。神麻続機殿神社伊勢神宮に奉納する荒妙(あらたえ)を織った神麻続部(かんおみべ、神麻績部とも)の祖神とされ、白い衣類を白羽と呼んだのは長白羽神に由来するとされる。
天太玉命の同族神であるという。別名を天白羽神(あめのしらはのかみ)といい、天白信仰を長白羽神由来とする説がある。常陸国久慈郡(現茨城県常陸太田市)の式内社・天之志良波神社の祭神として祀られている[1]


『倭姫命世記』では垂仁天皇25年、倭姫命天照大神を伊勢の百船(ももふね)度会国玉掇(たまひろう)伊蘇国に一時的に祀られたときに建てられた神服部社(はとりのやしろ)がのちの麻績機殿神服社で、内宮が現在地に定まったときに内宮近くに機殿を作り、天棚機姫神(あめのたなはたひめのかみ)の孫の八千々姫命(やちぢひめのみこと)に神の教えに従って和妙を織らせた。倭姫命は翌垂仁天皇26年、飯野高丘宮に機屋を作り、天照大神の服を織らせた。そこに社を建て、服織社(はたとりのやしろ)と名付けた。神麻績氏の住む麻績郷(おみのさと)で荒衣を織らせた。天智天皇7年(668年)8月3日に両機殿が火災で失われたため、この年の9月の神御衣祭のための作業は仮屋で行ない、その後30丈離して両機殿を別々に建てたと記されている。ただし、『倭姫命世記』は鎌倉時代荒木田氏あるいは度会行忠が記した伝承・説話であり史実ではないとするのが一般的である。『伊勢二所太神宮神名祕書(神名祕書)』に同様の記述がみられるが、『倭姫命世記』と同様で鎌倉時代の弘安8年(1285年)に度会行忠が記したものである。複数の資料に記されていても史実である可能性は極めて低いと考えるべきであるものの、天智天皇7年の火災の記述は国記などが記された以降の話であるなどの理由から、史実である可能性が高いと考えられる。
信憑性が高いと考えられている資料では、『神祇令』・『延喜式』・『皇太神宮儀式帳』に神御衣祭が記されており、遅くとも平安時代初頭には御衣の奉織が行なわれていたことは確実である。和妙は服部(はとりべ)が、荒妙は麻績部(おみべ、麻績氏とも)が奉織し、それぞれ封戸22を与えられていた。神宮に仕えたこれらの一族は神服部(かんはとりべ)、神麻績部(かんおみべ)とも呼ばれた。服部は三河国より赤引の糸(あかびきのいと)と呼ばれる絹糸を入手していた。麻績部には土師器を調進する一団がいたほか、信濃国などの東国に進出し、機織などの技術とともに天白信仰を伝えたと考えられている。
白河天皇承暦3年(1079年)、神麻続機殿は現在地に移された。室町時代には北畠家室町幕府の意向を無視し、神宮の神領を収奪し勢力を拡大した。北畠家の領地と隣接するこの地は特に早期に支配され、服部部・麻績部ともに姿を消してしまう。両機殿は地元住民らが祠を祀るだけとなり、奉織の行事と祭祀は中絶となった。この時期は定かではないが、神御衣祭は宝徳3年(1451年)を最後に中絶となった記録が残されている。静岡県浜松市北区初生衣神社(うぶぎぬじんじゃ)で行なわれる「おんぞ祭」は東方へ移動した神服部が1155年から内宮へ和妙を納めたことに由来するとされる。
織田信長と次男の織田信雄の計略により北畠家は北畠具教を最後に実質的に滅亡した。豊臣秀吉が日本を統一し治安が回復したころから伊勢神宮への参拝客が増え始めた。両機殿へは山城国紀伊国などの織物業者が講を作り参拝するようになった。上機殿は参宮街道に近い立地条件から、下機殿よりも参拝客が多かった。神宮に直接管理されなかったこともあり、このころから両機殿は分不相応な社殿などを造営するようになった。
江戸時代に入り、天下泰平となった元禄12年(1699年)には神御衣祭が再興され、糸が奉納された。ただし神宮から神職が参行するまで復興されたのは明治7年(1874年)であり、奉織が再興されたのは大正3年(1914年)5月である。
享保3年(1718年)、この地の領主の津藩主藤堂高敏の寄進により両機殿が修理された。文化文政のころ、神服織機殿神社は服太神宮と、上機殿は麻績太神宮と称するようになった。このころの両機殿の様子は天保年間発行の『太神宮両御機殿通俗畧記』(外部リンク参照)に詳述されている。寛政9年の『伊勢参宮名所図解』には、左右に八幡宮春日社社殿を配置して三社信仰の形態であったことが記されている。明治初期の『神三郡神社参拝記』では、左右の社殿を東西宝殿と記している。江戸時代後期から明治初頭にかけて、分不相応な社殿は両機殿だけではなく、神宮が社殿などを管理しなかった瀧原宮伊雑宮御塩殿神社でも同様であった。

明治31年(1898年)、両機殿は明治維新後初の造替が行なわれたが、桁行1丈6尺(約4.85m)・梁行9尺8寸(約2.97m)とされた。これは明治6年に定められた一等摂社の桁行9尺・梁行7尺を大きく越え、格式に不相応な大きさであった。昭和9年(1934年)の造替でも貞享4年(1687年)の記録の規模に縮小されたが、それでもまだ所管社には不相応に大きい規模である。








、、、(爆wwwwwwww

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

エンガチョした甲斐がありました。
切っ掛けは此処ではないけれど、エンガチョして良かったと此処で再確認してます。
有難うw

GABRIEL さんのコメント...

確か其処辺り
江戸期は梅林で有名だったらしく
松尾芭蕉が俳句詠んだとか何とか
本当かは調べていない(w

現在は山も削られて単なる新興住宅地域になっているかと
生粋の名古屋人(爺婆)が教えてくれました
昔(歴史)を知らないと
防災なり色々と損だよね