2015年7月13日月曜日

近江鉄道と近江商人、阿部市郎兵衛 (7代)からヴァチカンまで芋づる式に

2015.7.12 23:24更新

渋滞停車中のバス、突然タイヤ破裂…乗客3人軽傷 大津

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渋滞で停車中に突然破裂したバスのタイヤ

12日午後4時40分ごろ、大津市一里山の国道1号で、近江鉄道(本社・滋賀県彦根市)の路線バスが渋滞で停車中、左側の前輪タイヤが突然破裂した。この衝撃で、車内の床部分のタイヤハウスが破損してタイヤ片や金属片などが車内に飛び散り、乗客の17~50歳の男女3人が顔や手などを切る軽傷を負った。滋賀県警大津署は、タイヤが破裂した原因を詳しく調べている。

同署によると、事故があったバスは、67人乗りの大型バス(全長約10メートル)で、当時はけがをした3人を含め、乗客8人と男性運転手(41)の計9人が乗車。同県草津市-大津市間の路線を走行中、渋滞で停止した直後に「バン」と大きな音を立てて左タイヤが破裂した。

このバスは、毎年実施が義務付けられている事業用バスの車検を昨年7月26日に受けており、今年も近く受ける予定だったとみられる。
http://www.sankei.com/west/news/150712/wst1507120070-n1.html








阿部 市郎兵衛 (7代)(あべ いちろべい (ななだい)、天保8年(1837年)-明治37年(1904年))は、明治維新期の近江商人繊維産業鉄道銀行など各種事業の支援者となり、日本の産業育成に貢献した。

天保8年(1837年)近江国神崎郡能登川村(現滋賀県東近江市能登川町)に生まれ、幼名を元太郎と言った。父は近江商人阿部市郎兵衛家(屋号『紅屋』)の分家阿部市太郎家の2代目当主(通称吉太郎)である。本家市郎兵衛家には継子がなく、元太郎が伯父である6代市郎兵衛の養子になり、安政4年(1857年)7代市郎兵衛として家督を継いだ[1][2]
家督継承後、紅屋家業の麻布商を営むと共に、米穀肥料問屋業務を新たに始めその発展に伴い千石船を10数隻を支配して、北海道九州など各地の物産を江戸大阪輸送し販売を行った。明治12年(1879年)には西洋型帆船を建造し、明治15年(1882年)にも千五百石積帆船を新造した。矢継ぎ早の帆船新造は評判となり東京商船学校の研修も受け入れたと伝えられる[1]
明治維新による産業興隆機運の中、市郎兵衛も新規事業への参入意欲は旺盛で、様々な事業に進出、又は支援を行った。
滋賀県会議員弘世助三郎・馬場新三・高田義助、滋賀県知事中井弘等は三重県・滋賀県の有力者に呼び掛け、京より名古屋を直接結ぶ鉄道敷設を計画し、阿部市郎兵衛を始め、三重県桑名船馬町(現桑名市)の諸戸清六京都市上京区春帯町の濱岡光哲、東京市華族井伊直憲等11名が発起人となり、明治20年(1887年)3月30日関西鉄道株式会社の設立を申請した。明治21年(1888年)3月1日、関西鉄道会社設立(資本金300万円)に対し免許が交付され、翌年滋賀県内の草津三雲間が開通し、順次営業区間は広がっていった[1][3]
  • 阿部ペイント製造所
明治21年(1888年)阿部ペイント製造所を大阪に設立し社長に就任した(昭和4年(1929年)鉛粉塗料に買収され現在大日本塗料[1]
明治21年(1888年)8月滋賀県知事中井弘の勧奨に応じて、阿部周吉・小泉新助・山中利兵衛伊藤忠兵衛・中村治兵衛・西川貞二郎等滋賀県有力者(近江商人)と共に発起人となり金巾製織株式会社を設立(本社、大阪四貫島)。明治23年(1890年)1月初代社長となり、他に役員として阿部周吉・3代目阿部市太郎・小泉新助・中村治兵衛・高田義甫・田村正寛、監査役として西川貞二郎が就任した(明治39年(1906年)大阪紡績(明治15年(1882年)設立し市郎兵衛は発起人)と合併、大正3年(1914年)三重紡績と合併し、後の東洋紡になる)[1][2][4]
明治24年(1891年洋紙需要の急増に国産で対応すべく阿部製紙所を大阪西野田新田に設立し、社長に就任。製紙工場は火災にあうなどしたが、明治31年(1898年)新工場を建設、明治34年(1901年)に個人経営から阿部製紙合資会社に改組した(日本製紙㈱を経て富士製紙と合併し、現在王子製紙[1][2]
明治27年(1894年)近江銀行創設に加わり、監査役に就任した[2]
滋賀県湖東地区は当時鉄道ルートから外れていたことから、湖東平野を縦断し東海道本線彦根駅関西鉄道深川駅(現甲南駅)を結ぶ鉄道計画が持ち上がった。明治26年(1893年)11月大東義徹(司法大臣)・林好本(彦根市長)・西村捨三等の旧彦根藩士族と中井源三郎・下郷傳平等有力近江商人を中心に44人が発起人となり明治29年(1896年)資本金100万円で近江鉄道株式会社が設立した。設立当初発起人等が役員となったが、資本金100万円では計画の半分も鉄道敷設できず、設立当初より資金繰りが厳しく、明治31年(1898年)役員全員が辞任し、新たに市郎兵衛が社長に就任し、阿部市三郎等が役員となった。明治34年(1901年)3月優先株式2万株(100万円)の発行を決定し、そ大半を丁吟(3代小林吟右衛門)と阿部一族(阿部市郎兵衛家・阿部市三郎家等)が引き受けた(大正13年(1914年)までに彦根-貴生川多賀線が開通した後宇治川電気関西電力の前身の一つ)の系列に入り、西武鉄道グループの傘下となる)[1][2][5]
  • その他
大阪の繰綿問屋の共同出資により明治20年(1887年)設立した有限会社内外綿(後にシキボウ傘下)、明治28年(1895年)1月設真宗信徒生命保険(現東京生命)・創業大日本製糖株式会社(現大日本明治製糖)、明治29年(1896年)開業京都企業銀行(大正元年(1912年)9月破産申請)・愛知県の明治銀行(昭和13年(1938年)8月業務廃止)、明治31年(1898年)開業七尾鉄道株式会社の他に浪花紡績・京都絹糸紡績・京都硫曹(現日産化学)等の設立発起人、役員になった[1]
市郎兵衛は、これら新規事業創設に当たり阿部一族として活動した。金巾製織では弟である3代目阿部市太郎が市郎兵衛の後社長になり、阿部利兵衛家3代周吉や市太郎の養子房次郎(後に東洋紡績社長)も役員として活躍した。近江鉄道では市郎兵衛の同じく弟である2代目阿部市三郎が市郎兵衛の後に社長となった。また、従兄弟である阿部市次郎家の2代目阿部彦太郎は、市郎兵衛が展開した回船事業の後を受け大阪商船等の役員となり、内外綿の初代社長となった[2]

晩年は弟である2代目市三郎の長男を養子とし、市郎兵衛家8代目として家督を譲ったが、養父に先立ち明治35年(1902年)死去してしまった。このため7代目市郎兵衛が亡くなるまでの間家政を見、明治37年(1904年)死去した[1]



金巾製織株式会社(かなきんせいしょく)は日本初の金巾製織会社。明治期の近江商人創業の紡績企業。現在の東洋紡株式会社の前身のひとつ。

滋賀県知事中井弘の勧奨を契機とし、1888年(明治21年)8月に資本金120万円で創業。発起人は第7代阿部市郎兵衛阿部周吉小泉新助山中利兵衛伊藤忠兵衛中村治兵衛西川貞二郎らいずれも有名な近江商人と野村寛(県会議長)等。1890年(明治23年)1月に初代重役を選出し、社長に第7代阿部市郎兵衛、常務に阿部周吉、取締役に第3代阿部市太郎、小泉新助、中村治兵衛、高田義甫、取締役兼商務支配人に田村正寛らが就任。
大阪四貫島に本社を定め2万坪の敷地を確保し、1890年(明治23年)10月に日本初の金巾製織の工場として紡績機13,552錘、力織機50台で開業(後の東洋紡績四貫島工場)。工場設備一式は三井物産が請負い納入。1893年(明治26年)には第二工場が建設され紡機1,472錘、織機142台を増設。当時は不景気であったが業績は順調で開業初期より年6%配当を行うなど資産も大きく伸び、1896年(明治29年)の全国鉱工業企業中8位の総資産規模となる。工場増設では創業初期の大林組も関わる。大林組は金巾製織と同族の阿部製紙所(旧王子製紙の前身のひとつ)の工場受注で創業していた。
1893年(明治26年)小泉新助が社長に就任。1897年(明治30年)第3代阿部市太郎が社長に、阿部周吉が専務に就任。1904年(明治37年)阿部房次郎(第3代阿部市太郎の養子。後に東洋紡績社長、大阪商工会議所顧問、貴族院議員等を歴任)が専務に、田村正寛が常務に就任。

その後、1906年(明治39年)に大阪紡績と合併、続いて1914年(大正3年)に大阪紡績と三重紡績が合併し、東洋紡績となる。















で、某競技場の千ン百億円はホントは何のためのカネよ?(爆wwwwwwwwwww

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

外国人だけの消防団誕生 滋賀・草津、9月に発足 : 京都新聞
http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20150828000041

 滋賀県草津市は9月から、留学生を中心に外国人だけで構成する消防団を発足させる。市内在住の外国人に向けて災害時の避難誘導や防災啓発などに取り組む。消防庁によると、外国人による消防団は「全国的にも聞いたことがない」という。

 同市には立命館大びわこ・くさつキャンパスの留学生を含め約2千人の外国人が居住する。災害時には会話の困難さなどから要援護者となる外国人を、日本語の堪能な外国人自らが助けるため結成する。

 立命館大や市国際交流協会を通じて外国人居住者に呼びかけ、中国、ベトナム、韓国国籍の9人が入団する。同大学の留学生や社会人で21~37歳。7人は英語もできる。

 市消防団本部直属で担当地域を持たない「機能別消防団」として発足する。震災時などの避難所への誘導や、通訳、翻訳に協力するほか、平時から防火指導や啓発活動にも取り組む。

 防災の日の9月1日に市役所で任命式を行う。敬礼の仕方などの訓練を経て、10月3日に立命館大である県消防大会にも参加する。

 今後も外国人に入団を呼びかける予定。市危機管理課は「日本に理解が深い外国人に能力を生かしてもらい、防災につなげたい」と期待している。

【 2015年08月28日 10時23分 】



情報収集させて有事の際に何かを…でしょうか。火消し…