シンガポール大物の「存在」利用、フォーミュラ・ニッポン誘致 「佐川印刷」元役員の知人で大口流用先
総合印刷会社「佐川印刷」(京都府向日市)の元役員(61)による巨額資金流用事件で、資金の流用先となったシンガポールのサーキット建設事業を主導した元役員の知人男性(55)が、未完成のサーキットで自動車レース大会を計画し、大会の運営会社側に現地のレース団体幹部を紹介していたことが27日、分かった。男性自身はレース界で知名度が低かったが、実力者の紹介などを背景に信用を得て開催合意に至ったという。結局、サーキット建設は頓挫し、大会も実現しなかった。
運営会社は日本レースプロモーション(JRP)。当時、全国各地の主催者側の要請を受け、国内最高峰の自動車レース、フォーミュラ・ニッポン(FN、現スーパーフォーミュラ)を展開していた。
JRP関係者によると、男性は平成22年末ごろ、流用資金を投じて建設を主導したシンガポールのサーキットにFNの大会を誘致するため、JRP側と接触。現地の「シンガポール・モータースポーツ協会」副会長が大会実現に尽力するなどと伝えたという。同協会は、国内のモータースポーツイベントの公認も手がける日本自動車連盟(JAF)に相当し、大会開催を実現する上で強い影響力を持つとされる。
JRP側と男性が会長を務める建設業者は23年3月に記者会見し、24年中の大会開催で合意。副会長も来日して報道陣の前で両者と握手を交わした。
現地報道によると、合意の直前、男性側の建設業者と下請け業者の間でサーキット建設をめぐる代金の支払いトラブルが発生し、工事が中断した。さらに、サーキットの建設業者を決める22年の入札で男性側に不正の疑いが浮上し、JRP側は開催合意を解消。サーキットの建設自体も破棄された。
JRP関係者は産経新聞の取材に対し、男性を「レース界で無名の人物」と説明。サーキットが未完成だったにも関わらず男性側と開催合意した理由については「副会長の存在を見せつけられたため男性を信用してしまった。こちらが甘かったことは事実だが、建設に行き詰まった男性側がJRPを単に資金集めの材料として用いたのなら残念だ」と話した。
http://www.sankei.com/west/news/150627/wst1506270052-n1.html
株式会社日本レースプロモーション
Japan Race Promotion Inc. 種類 株式会社
市場情報 非上場
略称 JRP
本社所在地 〒102-0074
東京都千代田区九段南2-3-25
事業内容 自動車競技会の運営
代表者 白井裕(代表取締役)
シークス株式会社は、大阪市中央区に本社を置く、電子・機械部品を中心とした商社である。EMS事業も手がけ国内最大手、世界13位。前身は印刷インキ大手のサカタインクス株式会社の海外事業部である。
阪田 恒四郎(さかた つねしろう[1]、安政4年(1857年)7月 - 昭和19年(1944年)3月5日)は、日本の実業家、サカタインクス創業者[1]。俳人。大中寅二は女婿、阪田寛夫は孫、大浦みずきは曾孫にあたる[1][2]。
阪田家は、代々紺屋の屋号で安芸国忠海(現在の広島県竹原市忠海)で海運業を営んでいた[1]。恒四郎の父・林助は少年期に大坂へ出て幕府御用商の銅精錬所に奉公。恒四郎は大坂で生まれるが文久元年(1861年)、父の帰郷と共に4歳から広島忠海で育つ[1][3]。23歳で広島県豊田郡役所に書記として採用される。恒四郎の次男・阪田素夫(阪田寛夫の父)他、のちに家業を継ぐ五男のうちの3人はいづれも忠海生まれ[2][4][5]。明治28年(1895年)退職して広島市で銀行員となる[1]。翌、明治29年(1896年)38歳の時、運送業を始めようと千円持って上阪[6][7][8]。大阪駅前の運送店の買取り交渉を始めたが難航。その頃、新聞インキの製造販売を知り合いに勧められる。新聞事業の発展性を強く感じていたこともあって計画を変更して、インク製造事業に賭けてみようと同年、大阪九条村(現在の大阪市西区)に日本で初めてとなる新聞インキ専業メーカー・阪田インキ製造所(現・サカタインクス)を創業した[1][7][9][10]。明治39年(1906年)阪田商会に改称。還暦に達した大正6年(1917年)、次男の素夫に家業を譲って隠居生活に入り[8]俳句を楽しんで余生を送った[11][7]。俳号は桃雨[12]。孫の阪田寛夫は恒四郎に顔もよく似ており、気質や文芸の才能は恒四郎から受け継いでいるといわれる[7]。
、、、(爆wwwwwwwwwww
1 件のコメント:
そういや広島にも
豊田
が在りましたねえw
これはうかつだった、反省
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