淤加美神、または、龗神(おかみのかみ、神)は、日本神話に登場する神である。
罔象女神(みつはのめのかみ)とともに、日本における代表的な水の神である。 『古事記』では淤加美神、『日本書紀』では龗神と表記する。
日本神話では、神産みにおいて伊邪那岐神が迦具土神を斬り殺した際に生まれたとしている。 『古事記』及び『日本書紀』の一書では、剣の柄に溜つた血から闇御津羽神(くらみつはのかみ)とともに闇龗神(くらおかみのかみ)が生まれ、『日本書紀』の一書では迦具土神を斬って生じた三柱の神のうちの一柱が高龗神(たかおかみのかみ)であるとしている。 高龗神は貴船神社(京都市)の祭神である。
闇龗神と高龗神は同一の神、または、対の神とされ、その総称が龗神であるとされる。 『古事記』においては、淤加美神の娘に日河比売(ひかはひめ)がおり、スサノオの孫の布波能母遅久奴須奴神(ふはのもぢくぬすぬのかみ)と日河比売との間に深淵之水夜礼花神(ふかふちのみづやれはなのかみ)が生まれ、この神の孫が大国主神であるとしている。
龗(おかみ。右のウィクショナリーも参照)は龍の古語であり、龍は水や雨を司る神として信仰されていた。 「闇」は谷間を、「高」は山の上を指す言葉である。
先の貴船神社のほか、丹生川上神社(奈良県吉野郡)では罔象女神とともに祀られており、また、全国に「意加美神社」などと称する神社がある。 祈雨(きう)、止雨(しう)、灌漑の神として信仰されている。
丹生川上神社(にうかわかみじんじゃ)は、奈良県吉野郡東吉野村にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
社名について
古くは「雨師明神」と称され、江戸時代からは「蟻通明神」とも称された。大正以降、同郡川上村の丹生川上神社上社・同下市町の丹生川上神社下社に対して「丹生川上神社中社」とも称されるようになったが、これは上下2社が既に存在したために、これを「中」としたもので、位置関係や社格の上下を表すものではない。
祭神
現在の祭神は以下の通り。本殿と東殿・西殿の3殿を中心として、各殿に神々を祀る。六国史では、「丹生川(河)上神」と地名を以て記され、具体的な神名を表すものはないが、古来朝野の祈止雨祈願がしばしば行われ、雨を司る水神であったので、これを記紀神話に見える罔象女神(みずはのめのかみ)や龗神(おかみのかみ)に充てるようになった。また平安時代初め頃から「雨師神」とも称されるようになったが[1]、雨師とは風伯と並ぶ古代中国の雨乞いの神なので、これは唐風文化への傾倒による神名であることは明らかである[2]。また、祈雨祈願の際には黒馬が、止雨の時には白馬(または青馬)が奉献される例であったが、これは馬を水神乃至はそれと密接な動物と見る観念に基づくものであり[3]、また馬の色は、雨雲と黒、晴天と白という観念連合に基づく類感呪術であろう[4]。
現在の祭神は、大正11年(1922年)にそれまでの「大穴貴神・表筒男命・伊邪奈伎命」を変更したものである。
歴史
社伝に因れば、鎮座地は神武天皇が天神の教示によって天神地祇を祀り、戦勝を占った地であり[5]、白鳳4年(675年)に罔象女神を御手濯(みたらし)川(高見川)南岸の現摂社丹生神社の地に奉斎し、その後現在地に遷座したものと伝えるが、寛平7年(895年)の太政官符(『類聚三代格』所収)には、当時の丹生川上神社の祝や禰宜の解を引き、『名神本紀』という書に「『人声の聞こえない深山で我を祀れば、天下のために甘雨を降らし霖雨を止めよう』との神託により創祀した」との伝えがあることを記してる[6]。吉田兼倶撰といわれる『二十二社注式』には、天武天皇の白鳳乙亥年(4年)に垂迹し、大和神社の別宮になったと記されているので、吉野と浅からぬ関係にあった同天皇によって創祀されたものとされている[7]。古来大和神社(天理市鎮座)の別社とされ[8]、祈止雨の霊験著しい雨師神として、朝廷から重んじられ、宝亀4年 (773年)には神戸4烟が充てられている(『続日本紀』)。律令制時代を通じて祈雨神祭祭神に預かり、祈止雨祈願のために貴布禰社とともに奉幣がなされた例は枚挙に遑がないが、その折には奉幣使に大和神社の神主が従う定めとされていた[9]。『延喜式神名帳』では官幣大社(名神大社)に列格し、律令制の弛緩に際しても、二十二社の1社にもなるなど朝廷からの厚い崇敬は変わらなかったが、次第に奉幣も減少するなど衰微していき、応仁の乱以降は、ついにその所在すら不明となるに至った。なお、社伝では中世以降たびたび造改築されたことが伝えられており、当神社所蔵の慶安3年(1650年)の造営の上梁文には、当初の鎮座地に丹生神社を新造するとともに、本社を金剛峯寺の鎮守神に倣って「蟻通明神」と改称した旨が記されている。近世以降『神名帳』の研究が盛んになり、特に式内社の所在地が問題とされるようになると、まず丹生川上神社下社が式内大社丹生川上神社に比定され、次いで明治に入って上社が比定されたが、大正4年(1915年)に森口奈良吉が『丹生川上神社考』を著し、明治以降郷社に 列していた当神社が式内丹生川上神社であることを考証し、その後の調査でそれが立証されたため、同11年に社名を「蟻通神社」から「丹生川上神社」に改 称、上下2社に対して「中社」を称するとともに、3社を合わせて「官幣大社丹生川上神社」として社務所が置かれるなど、当神社がその中心に位置づけられ た。第二次大戦後の官制廃止にともなって、昭和27年(1952年)に3社はそれぞれ独立、当神社は現在神社本庁に属して、その別表神社とされている。
奉幣(ほうべい、ほうへい)とは、天皇の命により神社・山陵などに幣帛を奉献することである。天皇が直接親拝して幣帛を奉ることもあるが、天皇の使い・勅使を派遣して奉幣せしめることが多く、この使いの者のことを奉幣使という。
延喜式神名帳は奉幣を受けるべき神社を記載したものであり、ここには3132座が記載されている。
奉幣使には五位以上で、かつ、卜占により神意に叶った者が当たると決められていた。また、神社によって奉幣使が決まっている場合もあり、伊勢神宮には王氏(白川家)、宇佐神宮には和気氏、春日大社には藤原氏の者が遣わされる決まりであった。通常、奉幣使には宣命使が随行し、奉幣の後、宣命使が天皇の宣命を奏上した。
中世以降、伊勢神宮の神嘗祭に対する奉幣のことを特に例幣(れいへい)と呼ぶようになった。例幣に遣わされる奉幣使のことを例幣使(後述の日光例幣使と区別して伊勢例幣使とも)という。また、天皇の即位・大嘗祭・元服の儀の日程を伊勢神宮などに報告するための臨時の奉幣を由奉幣(よしのほうべい)という。
、、、(爆wwwwwwww
延喜式神名帳は奉幣を受けるべき神社を記載したものであり、ここには3132座が記載されている。
奉幣使には五位以上で、かつ、卜占により神意に叶った者が当たると決められていた。また、神社によって奉幣使が決まっている場合もあり、伊勢神宮には王氏(白川家)、宇佐神宮には和気氏、春日大社には藤原氏の者が遣わされる決まりであった。通常、奉幣使には宣命使が随行し、奉幣の後、宣命使が天皇の宣命を奏上した。
中世以降、伊勢神宮の神嘗祭に対する奉幣のことを特に例幣(れいへい)と呼ぶようになった。例幣に遣わされる奉幣使のことを例幣使(後述の日光例幣使と区別して伊勢例幣使とも)という。また、天皇の即位・大嘗祭・元服の儀の日程を伊勢神宮などに報告するための臨時の奉幣を由奉幣(よしのほうべい)という。
白イノシシ@丹波 | 匿名党 via kwout
、、、(爆wwwwwwww
1 件のコメント:
川上村の神社で不審火 放火か
www3.nhk.or.jp/lnews/nara/2055356121.html
17日朝、川上村の神社で境内に置かれた木製の竜の置物などが焼ける火事があり、ふだん現場に火の気がないことから、警察は放火の疑いもあるとみて調べています。
17日午前7時すぎ、川上村迫の丹生川上神社の上社で、神社の境内に置かれた、竜をかたどった木製の置物が焼けているのに宮司の男性が気づいて警察に通報しました。警察が確認したところ、全長4メートル、高さ2メートルほどの置物がすべて焼けていたほか、そばにある拝殿の柱の一部が焼け焦げていました。
神社の建物は文化財などの指定は受けていません。
警察によりますと、前日の午後10時ごろに宮司が境内を確認したところ、異常はなかったということです。
現場にはふだん火の気がないことから警察は、放火の疑いもあるとみて調べています。
丹生川上神社の上社は、後醍醐天皇が吉野を訪れた際に歌を寄せたとも伝えられる長い歴史のある神社で、前の神社が大滝ダムの完成で水没することになったのに伴い、平成10年に今の場所に移されました。
12月17日 14時06分
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