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売家ラインに続き、唐様ラインこと天神ラインことダミアンラインにロックオンでD-Flagですかねえ・・・(爆wwwwwwww
警固神社(けごじんじゃ)は、福岡県福岡市中央区にある神社である。旧社格は県社。
祭神
本殿に警固大神(神直毘神・大直毘神・八十禍津日神)、相殿に建角身神・豊玉姫命・神功皇后・応神天皇を祀る。歴史
社伝では神功皇后による三韓征伐の際、皇后の船団を守護し勝利に導いた警固大神を福崎(現在の福岡城本丸周辺)の地に祀ったのが始まりとされる。慶長6年(1601年)福岡城築城の際に下警固村(現在の福岡市中央区天神周辺)に移され、慶長13年(1608年)に福岡城主黒田長政によって現在の場所に社殿が造営された。大正5年(1916年)、県社に列格した。社名及び周辺の地名である『警固』はかつて鴻臚館にあった役所『警固所』に由来する。
→ダミアン
鴻臚館(こうろかん)は平安時代に設置された外交および海外交易の施設である。前身として筑紫館や難波館が奈良時代以前から存在した。
その名称は北斉からあった九寺のうちの外交施設「鴻臚寺」に由来し、唐の時代にその名称が日本に導入された。「鴻」は大きな鳥の意から転じて大きいの意。「臚」は腹の意から転じて伝え告げるの意。「鴻臚」という言葉は外交使節の来訪を告げる声を意味していた。
筑紫の鴻臚館
筑紫の鴻臚館は現在の福岡県福岡市中央区城内にあった。福岡城敷地内に位置する。遺構が見つかっている唯一の鴻臚館である。筑紫(現在の福岡県西部)の外交施設の原型は魏志倭人伝の時代に遡るとされる。糸島半島にあった伊都国には「郡使の往来、常に駐まる所なり」と記された外交施設が存在していた。ただし施設名や場所についての記録は残っていない。
筑紫館
磐井の乱(527年 - 528年)の後、宣化元年(536年)に那津のほとりに宮家(遠の朝廷:とおのみかど)を設置し、九州支配と外交の役目を果たす。推古17年(609年)には筑紫大宰(つくしのおほみこともちのつかさ)の名で『日本書紀』に登場。白村江の戦いの翌年(664年)に行政機能は内陸の大宰府(現在の太宰府市)に移転、那津のほとりには大宰府の機関のひとつとして海外交流および国防の拠点施設が残された。この施設は筑紫館(つくしのむろつみ)と呼ばれ、唐・新羅・渤海の使節を迎える迎賓館兼宿泊所として機能し、海外使節はまず鴻臚館に入館して大宰府や都へ上ることとなっていた。筑紫館と大宰府の間は約16キロメートルだが、そこを最大幅10メートルの側溝を完備した直線道路が敷設されていた。ただしこの道路は8世紀内に廃道となる。持統2年(688年)には筑紫館で新羅国使全霜林を饗したと『日本書紀』に記されている。また海外へ派遣される国使や留学僧らのための公的な宿泊所としても用いられた。天平8年(736年)に新羅へ派遣される遣新羅使が筑紫館で詠んだ歌が『万葉集』に収録されている。律令制においては治部省玄蕃寮の管轄であった。筑紫館はまた外国商人らの検問・接待・貿易などに用いられた。
大宰鴻臚館
鴻臚の名は入唐留学僧円仁の『入唐求法巡礼行記』の承和4年(837年)の記述に初めて登場する。承和5年(838年)には第19回遣唐使の副使であった小野篁が唐人沈道古と大宰鴻臚館にて詩を唱和したとあり、承和9年(842年)の太政官符にも鴻臚館の名が記載されており、嘉祥2年(849年)には唐商人53人の来訪が大宰府から朝廷へ報告されている。天安2年(858年)には留学僧円珍が商人李延孝の船で帰朝し、鴻臚館北館門楼で歓迎の宴が催されたと『園城寺文書』にある。貞観3年(861年)および貞観7年(865年)には李延孝が再び鴻臚館を訪れている。この傾向は菅原道真により寛平6年(894年)に遣唐使が廃止されたのちに強まった。
当初鴻臚館での通商は官営であった。商船の到着が大宰府に通達され、大宰府から朝廷へ急使が向かう。そして朝廷から唐物使(からものつかい)という役人が派遣され、経巻や仏像仏具、薬品や香料など宮中や貴族から依頼された商品を優先的に買い上げた。残った商品を地方豪族や有力寺社が購入した。商人は到着から通商までの3か月から半年間を鴻臚館内で滞在。宿泊所や食事は鴻臚館側が供出した。その後延喜3年(903年)の太政官符には朝廷による買上前の貿易が厳禁されており、貿易が官営から私営に移行していることが窺える。そして延喜9年(909年)には唐物使に代わって大宰府の役人に交易の実務を当たらせている。
貞観11年(869年)の新羅の入寇の後、警固所として鴻臚中島館を建設し大宰府の兵や武具を移した。また1019年の刀伊の入寇の後、山を背にした地に防備を固めたという記述があり、これも鴻臚館の警固所を指しているとされる。
やがて時代が下って北宋・高麗・遼の商人とも交易を行ったが、11世紀には、聖福寺・承天寺・筥崎宮・住吉神社ら有力寺社や有力貴族による私貿易が盛んになって現在の博多から箱崎の海岸が貿易の中心となり、大宋国商客宿坊と名を変えた鴻臚館での貿易は衰退。永承2年(1047年)には放火される。寛治5年(1091年)に宋商人李居簡が鴻臚館で写経した記述を最後に文献上から消えることとなる。
江戸時代に福岡藩の学者青柳種信・長野種正・伊藤常足らが鴻臚館の位置を博多部の官内町(現在の福岡市博多区中呉服町付近)だと唱え、この説は大正時代まで広く信じられていた。しかし、九州帝国大学医学部教授の中山平次郎が、万葉集の記述[1]などを検討し福岡城址説を提唱した。当時、福岡城址には帝国陸軍歩兵第24連隊が駐屯していたが、1915年の博多どんたくによる同連隊の開放日に中山は兵営内を踏査し、古代の瓦を表面採集。1926年から1927年の「考古学雑誌」に論文を発表した。さらに、同連隊で兵役についていた鏡山猛が弾薬庫の歩哨のかたわら古代瓦の破片を採集したことも中山説の傍証となった。この2人はのちの1930年に九州考古学会を立ち上げている。
戦後の1948年、歩兵第24連隊兵営跡地に国民体育大会に伴う競技場建設が行なわれ、翌1949年には平和台野球場が建設された。この建設工事に際しては、1950年に中山平次郎に師事していた高野孤鹿・大場憲郎が大量の瓦や中国越州窯系青磁を採集し、1951年には瓦や越州窯系青磁と共に鴻臚館遺構の一部と考えられる礎石が出土したが、いずれも正式な発掘調査が行われず、遺構はそのまま破壊されたものと考えられていた。しかし、1957年に改修工事が行われた際に3,000点の陶片が出土、うち一部が中国越州窯系青磁のものと同定される。そして1987年の球場外野席改修工事による発掘調査で、破壊されたとみなされてきた遺構の一部が良好な状態で発見され、残る遺構も同様に残存している可能性が急浮上した。
平和台球場は1950年~1978年まで西鉄(後の太平洋クラブ、クラウンライター)ライオンズ[2]、1989年~1992年まで福岡ダイエーホークスが本拠地としていたが、ダイエーが1993年に本拠地を福岡ドーム(現:福岡 ヤフオク!ドーム)に移した後、歴史公園整備事業の開始に伴って1997年に閉鎖した。その後、スタンド等の建築物を解体した1999年から始まった本格的な発掘調査は現在も続いており、2004年5月には国の史跡に指定された。
発掘調査によって木簡や瓦類が出土。他にも越州窯青磁・長沙窯磁器・荊窯白磁・新羅高麗産の陶器・イスラム圏の青釉陶器・ペルシアガラスが出土している。また建造物の第1期から第5期に区分される時代的変遷が判明。ただし、9世紀後半からの第4期と10世紀後半~11世紀前半の第5期の遺構は福岡城建築によって破壊されている。奈良時代のトイレ遺構の寄生虫卵分析により、豚や猪を常食する外国人のトイレと日本人のトイレが別々に設けられていたことが判明している。さらに、男女別のトイレであり、トイレットペーパーには籌木(ちゅうぎ)という棒きれが使われていたことが判明している。
発掘調査が終了した南側遺構には1995年に鴻臚館跡展示館が建てられ、検出された遺構や出土した遺物が展示されている。
難波の鴻臚館
難波の鴻臚館は難波津(渡辺津)にあったとされ、現在の大阪府大阪市の中央区と北区に架かる天満橋から天神橋の間、あるいは中央区高麗橋近辺、または中央区心斎橋筋の三津寺付近にあったと考えられる。古墳時代から畿内の港として往来のあった難波津には外交施設として難波館(なにわのむろつみ)があり、『日本書紀』には継体6年(512年)12月に百済武寧王の使者が調を貢献するとともに任那四県の割譲を求めて館に留まったとある。これが外国使節を宿泊させる客館の初見である。
欽明22年(561年)には難波大郡(なにわのおおごおり)にて百済と新羅の使者を接待する。そののち推古16年(608年)4月に隋煬帝の使者裴世清が来訪するにあたって、まず筑紫に滞在させ、その間に「高麗館(こまのむろつみ)の上に新館を造る」(『日本書紀』)ことで歓迎の準備を整えている。斉明6年(660年)5月8日には高句麗使の賀取文が難波館に到着した。
鴻臚館という名称が難波館に用いられた年代は定かではないが、そののち承和11年(844年)に難波の鴻臚館が摂津国国府の政庁に転用され廃止されたとの記録が残っている。
難波の鴻臚館
難波の鴻臚館は難波津(渡辺津)にあったとされ、現在の大阪府大阪市の中央区と北区に架かる天満橋から天神橋の間、あるいは中央区高麗橋近辺、または中央区心斎橋筋の三津寺付近にあったと考えられる。古墳時代から畿内の港として往来のあった難波津には外交施設として難波館(なにわのむろつみ)があり、『日本書紀』には継体6年(512年)12月に百済武寧王の使者が調を貢献するとともに任那四県の割譲を求めて館に留まったとある。これが外国使節を宿泊させる客館の初見である。
欽明22年(561年)には難波大郡(なにわのおおごおり)にて百済と新羅の使者を接待する。そののち推古16年(608年)4月に隋煬帝の使者裴世清が来訪するにあたって、まず筑紫に滞在させ、その間に「高麗館(こまのむろつみ)の上に新館を造る」(『日本書紀』)ことで歓迎の準備を整えている。斉明6年(660年)5月8日には高句麗使の賀取文が難波館に到着した。
鴻臚館という名称が難波館に用いられた年代は定かではないが、そののち承和11年(844年)に難波の鴻臚館が摂津国国府の政庁に転用され廃止されたとの記録が残っている。
平安京の鴻臚館
平安京の遷都が延暦13年(794年)であり、平安京の鴻臚館は3つのうちで最も遅くに設立された客館となる。
当初は朱雀大路南端の羅城門の両脇に設けられていた。東寺・西寺の建立のため弘仁年間(810年 - 824年)に朱雀大路を跨いだ七条に東鴻臚館・西鴻臚館として移転。現在の京都府京都市下京区、JR丹波口駅の南東附近に位置した。天長10年(833年)の『令義解』にある鴻臚館は平安京の鴻臚館を指している。
平安京の鴻臚館はおもに渤海使を迎賓していた。「北路」にて来訪した渤海使は能登客院(石川県羽咋郡志賀町)や松原客院(福井県敦賀市)を経由して都に上る[3]。都の鴻臚館で入朝の儀を行ったのち、内蔵寮と交易し、次に都の者と、その次に都外の者と交易をした。しかし渤海王大仁秀治世に日本との関係に変化が生じて交易が減退。東鴻臚館は承和6年(839年)に典薬寮所管の御薬園へと改められた。さらに渤海国が遼によって滅亡(926年)したのち施設は衰え、鎌倉時代の頃に消失した。一説には延喜20年(920年)の頃に廃止されたともされる。
『源氏物語』第1帖『桐壺』には、鴻臚館滞在の高麗の人相占いの元を光源氏が訪れる様子が書かれている。また江戸時代には与謝蕪村が「白梅や墨芳しき鴻臚館」と詠っている。今では大正4年(1915年)に建てられた東鴻臚館址の碑が下京区西新屋敷揚屋町に残るのみである。
しかしですね・・・
嘘を嘘と見抜けないとあかんわけですよ。(爆wwwwwwww
中山 平次郎(なかやま へいじろう、1871年7月20日(明治4年6月3日) - 1956年(昭和31年)4月29日)は、明治後期から昭和前期にかけての日本の病理学者、考古学者。死没時の称号、位階勲等および学位は九州大学名誉教授正三位勲二等医学博士。
本来の職業は病理学者であるが、後世に残した業績は考古学分野での成果が大半を占めることから、一般には考古学者として知られている。
中山平次郎は、1871年(明治4年)、現在の京都市上京区に生まれた。東京市に移った後、家業であった医学の道を進み、1900年(明治33年)、東京帝国大学医科大学を卒業し、ドイツ・オーストリア留学から帰国した1906年(明治39年)には、京都帝国大学・福岡医科大学(のちの九州大学医学部)の教授に就任した。しかし、解剖の際に罹った感染症をきっかけに次第に医学を離れ、少年時代に興味を持っていた考古学の研究に打ち込むようになった。主に九州北部をテーマとして研究し、1930年(昭和5年)には、九州考古学会を設立した。1931年(昭和6年)9月15日、九州帝国大学定年退官に際し正三位に叙せられた[1]。1950年(昭和25年)、西日本文化賞を受賞した。1956年(昭和31年)、84歳で死去した[2]。
考古学分野で顕著な業績を残す。例として、鎌倉時代に博多湾一帯に築かれた「元寇防塁」の命名、倭奴国王印の具体的な出土地の推定、石器時代と古墳時代の間の「中間時代」(現在で言うところの「弥生時代」)の提唱、平安時代に北九州に設置された鴻臚館の位置の特定などがあげられる(詳細は後述「考古学上の業績」参照)。
1874年(明治7年)に中山家は東京・神田小川町を経て神田猿楽町に転居[3]、ここで中山は少年時代を過ごす。旧制中学生の頃にはすでに考古学に興味を示しており、自身が収集した土器片を東京帝国大学人類学教室の坪井正五郎に見せたところ、それは当時坪井らによって新発見され話題となっていた弥生式土器と同じ物であったという [7]。
帰国後、新たに開校した京都帝国大学福岡医科大学(後に九州帝国大学医学部を経て現在の九州大学医学部)の病理学教室初代教授に35歳の若さで就任。このとき中山は、前述の坪井正五郎から「弥生式土器の本場に行くね」と声をかけられたという[3]。
教授時代の中山から病理学を学んだ者の中には橋本策や郭沫若などがおり、橋本が1912年にいわゆる橋本病の発見について発表した論文[9]には、中山の病理学上の指導に対する謝辞が記されている[8]。また、後に中華人民共和国の要人となった郭沫若も、1955年12月に来日した際、福岡へ足を運び死の4か月前の中山を訪ねている[10]。
病理学者としての中山の専門は、日本住血吸虫の人体内における発育史の研究など、主に寄生虫症に関するものであった[8][10]。1907年(明治40年)、当時の学位令に基づき、京都帝大総長の推薦によって博士論文の提出なしに医学博士の学位を得る[6]。
1912年(大正元年)より、中山は福岡日日新聞紙上で考古学分野での研究発表を始め、1914年(大 正3年)からは専門誌である「考古学雑誌」で本格的な論文発表を行うようになった。以後、中山の活動領域はほぼ完全に考古学へと移行してゆく。九州帝大医 学部病理学第1教室教授として定年退官まで教壇に立ち続けたものの、実質的な教室の運営は第2教室教授の田原淳に譲り、病理学会とも疎遠になっていった [8]。
太平洋戦争が終わると、古希を過ぎていた中山は俄かに研究活動を再開する。考古学転向直後から取り組んだ金印研究の集大成である「金印物語」を執筆するかたわら、押しかけ入門してきた復員兵の原田大六に知識を伝授する日々を過ごした[7]。 しかし、名誉教授としての恩給以外に収入源を持たなかったこの時期の中山は、戦後の経済混乱によって極度の貧窮に陥る。顔は栄養失調で腫れ上がり、生活ぶ りも「ちり紙の代わりに新聞紙で鼻をかみ、その紙も乾かしてまた使う」「煙草の吸いかすをもみほぐし、煙管でまた吸う」といった有様だった。それでも中山 本人は「生活程度を以前の十分の一に引き下げればエエ」と笑って過ごしていたという[10]。中山の出土品コレクションと兄森彦の美術品コレクションで半ば博物館の様相を呈していた[12]福岡市荒戸の約500坪の邸宅[13]は、それらコレクションの多くとともに人手に渡り、かつて使用人の宿舎としていた建物の6畳の自室で、研究も食事も睡眠も全て完結する生活を送った[7][10]。前述した郭沫若の来日に際し、郭は中山宅への訪問を熱望したが、中山のあまりの困窮ぶりから郭を招いた日本学術会議は当惑し、結局売り渡した旧宅を借りて対面を果たした[10]。
中山は感染事故から間一髪で生還したことをきっかけに「いつ死ぬ身か分からず、家族が残されてはかわいそう」という理由で独身のままであった。軍籍 にあった森彦も同様の理由で生涯独身であり、妹の小春を含めた独身三兄妹で終生同居生活を送っていた。中山が死の床に就いたときには森彦もまた隣室で病に 伏しており、妹の小春は自ら70歳を過ぎて90歳と84歳の兄二人を看病しなければならない、今日で言う「老老介護」の状況で、この様子を目撃した弟子のひとりは「偉大な学者の最後がこれでいったいいいのだろうか」と憤っている[10]。
1956年(昭和31年)4月29日、肺炎に肋膜炎を併発した中山は自宅で息を引き取った。「わしの目の黒いうちに書き上げる。これは悲願だ」と死の直前まで執筆をつづけていた「金印物語」はついに未完のままとなった[10]。
中山の最後の言葉は「骨格は九大の解剖学教室へ、組織は病理学教室へ寄贈してくれ。そこで私は永遠に生きている」であったという。この遺言によって中山の遺体は九州大学医学部へ献体され、死の翌日に解剖された[10]。その後、全身骨格標本となって保管されていた遺骨は、2010年より同学部病理学教室が設置した「人体・病理ミュージアム」においてガラスケースに安置され、毎年秋ごろに期間限定で一般公開されている[14]。
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当初は朱雀大路南端の羅城門の両脇に設けられていた。東寺・西寺の建立のため弘仁年間(810年 - 824年)に朱雀大路を跨いだ七条に東鴻臚館・西鴻臚館として移転。現在の京都府京都市下京区、JR丹波口駅の南東附近に位置した。天長10年(833年)の『令義解』にある鴻臚館は平安京の鴻臚館を指している。
平安京の鴻臚館はおもに渤海使を迎賓していた。「北路」にて来訪した渤海使は能登客院(石川県羽咋郡志賀町)や松原客院(福井県敦賀市)を経由して都に上る[3]。都の鴻臚館で入朝の儀を行ったのち、内蔵寮と交易し、次に都の者と、その次に都外の者と交易をした。しかし渤海王大仁秀治世に日本との関係に変化が生じて交易が減退。東鴻臚館は承和6年(839年)に典薬寮所管の御薬園へと改められた。さらに渤海国が遼によって滅亡(926年)したのち施設は衰え、鎌倉時代の頃に消失した。一説には延喜20年(920年)の頃に廃止されたともされる。
『源氏物語』第1帖『桐壺』には、鴻臚館滞在の高麗の人相占いの元を光源氏が訪れる様子が書かれている。また江戸時代には与謝蕪村が「白梅や墨芳しき鴻臚館」と詠っている。今では大正4年(1915年)に建てられた東鴻臚館址の碑が下京区西新屋敷揚屋町に残るのみである。
しかしですね・・・
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中山 平次郎(なかやま へいじろう、1871年7月20日(明治4年6月3日) - 1956年(昭和31年)4月29日)は、明治後期から昭和前期にかけての日本の病理学者、考古学者。死没時の称号、位階勲等および学位は九州大学名誉教授正三位勲二等医学博士。
本来の職業は病理学者であるが、後世に残した業績は考古学分野での成果が大半を占めることから、一般には考古学者として知られている。
中山平次郎は、1871年(明治4年)、現在の京都市上京区に生まれた。東京市に移った後、家業であった医学の道を進み、1900年(明治33年)、東京帝国大学医科大学を卒業し、ドイツ・オーストリア留学から帰国した1906年(明治39年)には、京都帝国大学・福岡医科大学(のちの九州大学医学部)の教授に就任した。しかし、解剖の際に罹った感染症をきっかけに次第に医学を離れ、少年時代に興味を持っていた考古学の研究に打ち込むようになった。主に九州北部をテーマとして研究し、1930年(昭和5年)には、九州考古学会を設立した。1931年(昭和6年)9月15日、九州帝国大学定年退官に際し正三位に叙せられた[1]。1950年(昭和25年)、西日本文化賞を受賞した。1956年(昭和31年)、84歳で死去した[2]。
考古学分野で顕著な業績を残す。例として、鎌倉時代に博多湾一帯に築かれた「元寇防塁」の命名、倭奴国王印の具体的な出土地の推定、石器時代と古墳時代の間の「中間時代」(現在で言うところの「弥生時代」)の提唱、平安時代に北九州に設置された鴻臚館の位置の特定などがあげられる(詳細は後述「考古学上の業績」参照)。
生涯
中山家
中山の遠祖に当たる玄亨は、18世紀初頭に佐渡国から京に出て禁裏の医師となり、以後中山家は代々医術を生業とする家系になった。中山の祖父・曄は正五位下典薬大属兼摂津守の官位を授けられており、1861年(文久元年)、徳川家茂に嫁ぐ和宮親子内親王やその母・観行院(橋本経子)らの差添医師に任ぜられ江戸城へ下向した。曄は将軍家から奥医師同等の待遇を受け、和宮らの主治医として診察を務めた[3]。中山の父である徳輝も、典薬寮が廃止される1869年(明治2年)までは正六位下豊後介の官位をもつ同寮医師であった[4][5]。また、母のまさも、典薬寮医師を務めた高階経由の三女[6](高階経徳の妹)であり、中山は父系・母系ともにエリート医家の血統を受け継いでいた。少年時代
中山は1871年(明治4年)京都上京で、父徳輝と母まさの次男として誕生した。兄には、中山と同じく医学博士となり、帝国陸軍軍医監を務めた後に平次郎とともに九州帝国大学で教鞭をとった中山森彦が、弟にはロシア文学者の秋葉俊彦をはじめ4人の弟と1人の妹がいた [3]。1874年(明治7年)に中山家は東京・神田小川町を経て神田猿楽町に転居[3]、ここで中山は少年時代を過ごす。旧制中学生の頃にはすでに考古学に興味を示しており、自身が収集した土器片を東京帝国大学人類学教室の坪井正五郎に見せたところ、それは当時坪井らによって新発見され話題となっていた弥生式土器と同じ物であったという [7]。
医学者として
第一高等学校を卒業した中山は、家業である医学の道へ進み、東京帝国大学医科大学に入学した。兄の森彦は外科学を専攻して臨床医となったのに対し、中山は基礎医学である病理学を選んだ。卒業後、同校の病理学教室助手となったのち、1903年(明治36年)から1906年(明治39年)までの3年間、ドイツ帝国およびオーストリア=ハンガリー帝国に官費留学を命ぜられている。この当時、官費留学生に選ばれる者はエリート中のエリートであり、中山は病理学の分野で将来を嘱望された優秀な研究者であったと思われる。なお、このときヨーロッパへ往復する船に、後に九州帝大医学部病理学教室で同僚教授となる田原淳も偶然同乗していた(田原は私費留学)[8]。帰国後、新たに開校した京都帝国大学福岡医科大学(後に九州帝国大学医学部を経て現在の九州大学医学部)の病理学教室初代教授に35歳の若さで就任。このとき中山は、前述の坪井正五郎から「弥生式土器の本場に行くね」と声をかけられたという[3]。
教授時代の中山から病理学を学んだ者の中には橋本策や郭沫若などがおり、橋本が1912年にいわゆる橋本病の発見について発表した論文[9]には、中山の病理学上の指導に対する謝辞が記されている[8]。また、後に中華人民共和国の要人となった郭沫若も、1955年12月に来日した際、福岡へ足を運び死の4か月前の中山を訪ねている[10]。
病理学者としての中山の専門は、日本住血吸虫の人体内における発育史の研究など、主に寄生虫症に関するものであった[8][10]。1907年(明治40年)、当時の学位令に基づき、京都帝大総長の推薦によって博士論文の提出なしに医学博士の学位を得る[6]。
考古学への転向
しかし、博士号取得から間もなくして大きな転機が訪れる。1909年(明治42年)夏のある日、剖検の執刀をしていた中山の指先に解剖中の遺体から化膿菌が感染、これによって生死をさまようほどの感染症に罹患してしまった。幸いにして、リンパ腺摘出手術によって敗血症の一歩手前で一命を取り留めた中山であったが、この事故以後は極度に感染を恐れるようになり、メスを握ることはおろか解剖室に立ち入ることもほとんどなくなってしまった [8]。解剖の執刀ができないという、病理学者として致命的なトラウマを背負うこととなった中山は、代わりとして少年時代に熱中した考古学の研究へ情熱を傾けていった。1912年(大正元年)より、中山は福岡日日新聞紙上で考古学分野での研究発表を始め、1914年(大 正3年)からは専門誌である「考古学雑誌」で本格的な論文発表を行うようになった。以後、中山の活動領域はほぼ完全に考古学へと移行してゆく。九州帝大医 学部病理学第1教室教授として定年退官まで教壇に立ち続けたものの、実質的な教室の運営は第2教室教授の田原淳に譲り、病理学会とも疎遠になっていった [8]。
考古学上の業績
考古学者としての中山の研究テーマは、ほとんどが居住地であった九州北部に関する内容であった。そのうち、考古学史に名を残す功績は以下に示すようなものが挙げられる。- 「元寇防塁」の命名
- 1913年(大正2年)、福岡日日新聞に「元寇防塁の価値」という論説を投稿する際、福岡市の海岸線に点在する「石築地」と呼ばれていた石垣群を中山が便宜的に「元寇防塁」と名づけたことがきっかけとなり、以後はこの名称が通称として用いられるようになった。
- 漢委奴国王印の出土地の考証
- いわゆる「中間時代」の提唱
- 鴻臚館遺跡の位置特定
- かつて北九州に存在した平安時代の外交施設「鴻臚館」の位置について、江戸時代以来の通説である官内町説に対して、中山は福岡城址説を主張した。中山の死去から30年以上を経た1987年(昭和62年)、平和台球場の改修工事中に遺構が見つかり、福岡城址説の正しさが立証された(詳しくは鴻臚館#建設位置と発掘調査参照)。
晩年
大正時代を通し、九州の考古学界は中山ひとりによってリードされていたともいえる状態であったが、昭和に入って九州帝大を定年退官する頃には、考古学の分野で順次後進が育ち、また遺跡調査方法の主流も発掘調査へと移り変わっていた。そのような中、『考古学雑誌』に毎号のように論文を投稿していたことから、「『考古学雑誌』は中山の個人雑誌と化している」という批判が東京の学会で沸いた。これを耳にした中山は、1932年(昭和7年)の第22巻第6号を最後に同誌への論文発表をやめ[11]、考古学研究の一線から退いてしまった。それ以後は、もっぱら自宅に近くの浜辺へ釣りに出かける日々が続き、来客があっても「最近は魚釣りばっかりやっているもので」と答える一方、原稿用紙50枚分の未発表原稿を見せながら、気さくに会話に応じるのが常であった[11]。中山は福岡医科大学着任以来この地をこよなく愛しており、同じく九州にゆかりの仙厓義梵に魅了された森彦とともに、絶筆後も東京や京都には戻らず福岡に留まった。太平洋戦争が終わると、古希を過ぎていた中山は俄かに研究活動を再開する。考古学転向直後から取り組んだ金印研究の集大成である「金印物語」を執筆するかたわら、押しかけ入門してきた復員兵の原田大六に知識を伝授する日々を過ごした[7]。 しかし、名誉教授としての恩給以外に収入源を持たなかったこの時期の中山は、戦後の経済混乱によって極度の貧窮に陥る。顔は栄養失調で腫れ上がり、生活ぶ りも「ちり紙の代わりに新聞紙で鼻をかみ、その紙も乾かしてまた使う」「煙草の吸いかすをもみほぐし、煙管でまた吸う」といった有様だった。それでも中山 本人は「生活程度を以前の十分の一に引き下げればエエ」と笑って過ごしていたという[10]。中山の出土品コレクションと兄森彦の美術品コレクションで半ば博物館の様相を呈していた[12]福岡市荒戸の約500坪の邸宅[13]は、それらコレクションの多くとともに人手に渡り、かつて使用人の宿舎としていた建物の6畳の自室で、研究も食事も睡眠も全て完結する生活を送った[7][10]。前述した郭沫若の来日に際し、郭は中山宅への訪問を熱望したが、中山のあまりの困窮ぶりから郭を招いた日本学術会議は当惑し、結局売り渡した旧宅を借りて対面を果たした[10]。
中山は感染事故から間一髪で生還したことをきっかけに「いつ死ぬ身か分からず、家族が残されてはかわいそう」という理由で独身のままであった。軍籍 にあった森彦も同様の理由で生涯独身であり、妹の小春を含めた独身三兄妹で終生同居生活を送っていた。中山が死の床に就いたときには森彦もまた隣室で病に 伏しており、妹の小春は自ら70歳を過ぎて90歳と84歳の兄二人を看病しなければならない、今日で言う「老老介護」の状況で、この様子を目撃した弟子のひとりは「偉大な学者の最後がこれでいったいいいのだろうか」と憤っている[10]。
1956年(昭和31年)4月29日、肺炎に肋膜炎を併発した中山は自宅で息を引き取った。「わしの目の黒いうちに書き上げる。これは悲願だ」と死の直前まで執筆をつづけていた「金印物語」はついに未完のままとなった[10]。
中山の最後の言葉は「骨格は九大の解剖学教室へ、組織は病理学教室へ寄贈してくれ。そこで私は永遠に生きている」であったという。この遺言によって中山の遺体は九州大学医学部へ献体され、死の翌日に解剖された[10]。その後、全身骨格標本となって保管されていた遺骨は、2010年より同学部病理学教室が設置した「人体・病理ミュージアム」においてガラスケースに安置され、毎年秋ごろに期間限定で一般公開されている[14]。
、、、(爆wwwwwwwwwwwwwwwwwww
1 件のコメント:
>ダミアン
黒田
ぁぁ確かにメディチと共通点はありますた
派手さに目が奪われてたゎ
双子といわれてるのに
なぜ片一方とだけゆかりある言い方するんだろう とか
双子のファミリーネームなんだろ?とか思ったっけ
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