2014年11月5日水曜日

菟餓野の誓約

5日午前8時40分ごろ、大阪市北区兎我野町の雑居ビルで「男が女性を刺した」と男性から110番通報があった。女性(38)は顔、胸など約10カ所を刺されて意識不明の重体という。駆け付けた大阪府警曽根崎署員が現場にいた大阪市西成区の無職、中勝美容疑者(66)を殺人未遂の疑いで現行犯逮捕した。
「相手が殴ってきたので刺した」と供述しているという。

中容疑者は2008年に京都府舞鶴市で高校1年の女子生徒が殺害された事件で起訴されたが、無罪判決が確定した。

現場はJR大阪駅の東約800メートルの雑居ビルやホテルが建ち並ぶ繁華街の一角。現場の雑居ビルには複数のホテルが入っている。近くのホテルで働く50代女性は「警察に取り押さえられると、男は興奮した様子で暴れた。刺された女性はビル内の一室で血だらけで倒れていた」と話した。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141105-00000048-mai-soci




〈人〉神戸地裁所長に着任した 川合昌幸さん

裁判官を志したのは、生まれ育った長崎・佐世保で中学校に通っていたころだった。戦後間もなく、闇米など食糧関係の違反事件を担当していた東京の裁判官が、自らを律するあまり栄養失調で亡くなった話を本で読み、胸を打たれた。裁判所の場所さえ知らなかった少年は志を抱き続け、1977年、法服に腕を通した。 東京地裁や大阪高裁の判事を歴任した刑事裁判のベテラン。大阪地裁では2003年、8人が殺害された大阪教育大付属池田小学校の児童殺傷事件で、殺人罪などに問われた宅間守被告=死刑執行=に対し、死刑を言い渡した。 裁判官の理想は「一つ一つの事件に誠実に向き合うこと」という。裁判官には日々の仕事でも、当事者にとっては一生に1回のことかもしれない。後進を指導する機会が増え、若手に「マニュアルにないことに戸惑う傾向が見られるが、調べる力や情報を整理する力はある」と期待をかける。 増加する民事訴訟への対処を課題に挙げる。「件数が多いのは、自分の権利が実現できていないと感じている人が社会に多いということ」。調停の活用など工夫を共有する勉強会を考えている。 裁判員裁判の開始以降、多くの市民が訪れる場所になった裁判所。職員には「積極的に声を掛け、丁寧に案内するように」と指示する。 57歳。家族は妻と長男、次男。趣味は、北海道時代に美しい景色を見て始めたカメラ。(記事・霍見真一郎、撮影・立川洋一郎)
[記事全文]
2010/07/18 14:24 【神戸新聞】





兎我野は兎餓野、菟餓野、闘鶏野、刀我野、都下野、斗賀野とも書かれ、その名のは古事記、日本書紀の時代から登場し、当神社氏地の中でも最も古く、古代においては当神社の氏地一帯(今のキタ・梅田界隈)を兎我野と呼んでいたようである。

現在の兎我野町という町名は明治33年4月の町名改正により新設された町で、近世には大阪三郷の内には入らない土地であった。

この兎我野が史書に登場するのは、前述の通り日本で一番古い書物である古事記、日本書紀であり、この中の神功皇后摂政前記に、「菟餓野に出でて、祈狩(ウケイガリ)して曰はく、「もし事を成すこと有らば、必ず良き獣を獲む」という」とあり、この兎我野にて狩猟を催した記録がある。これは「ウケイ」という一種の占いを狩猟にあてたもので、「これからいい事あればいい獲物が取れますように」と祈ったものである。

このウケイ(誓約とも書く)は何の為に執り行ったかというと、神功皇后の御子である応神天皇(八幡神)の誕生を疎ましく思っていた異腹兄の忍熊王、香坂王のニ皇子が、神功皇后と応神天皇を亡き者にしようと考え、戦いを仕掛けて倒す事が出来るかどうかを、狩りで良い獲物が獲れるか獲れないかで占おうという、古代の神託的要素を含んだ狩猟であった。

香坂王はその狩りをクヌギの木の上から眺めていたが(日本書紀では桟敷から)、神々の意に沿わなかった為、神罰があたり、大きな赤い猪が現れてクヌギの木を押し倒し襲われてしまう。つまりは占いの結果は大凶という事であったが、忍熊王は占いの結果を無視して戦いをしかけてしまい、武内宿禰、武振熊らの軍によってあえなく惨敗。逃走するも瀬田川(現在の琵琶湖近くの淀川水系か)まで追い詰められ、遂に川に投身し、後日菟道川(宇治川)で遺体となって発見されるというのが事の結末である。

このように兎我野は、古くには占いを執り行うような神聖な地であり、地勢学上重要な地であったのかもしれない。
なお、この「菟餓野の誓約」の場所に関しては、この兎我野町の他、兵庫県神戸市灘区の都賀川流域という説もあり、日本書紀の記述の前後を考えると神託により廣田、生田、長田の兵庫県の大阪湾沿岸を抑えている事や、忍熊王らの軍が神功皇后らを待ち構える為に陵墓造成の為と偽って明石あたりに出征していた事などから神戸説が有力であるが、
http://www011.upp.so-net.ne.jp/u-shirae/ujichi/toganotyou.html



古事記』『日本書紀』によれば仲哀天皇(第14代)の皇子で、母は彦人大兄命の女・大中姫(おおなかつひめ、大中比売命)。同母弟に忍熊皇子がいる。応神天皇(第15代)の異母兄である。
両書によれば、新羅征討中に仲哀天皇が崩御し、神功皇后誉田別尊(後の応神天皇)を産んだ。それを聞いた坂皇子と忍熊皇子は、次の皇位が幼い皇子に決まることを恐れ、共謀して筑紫から凱旋する皇后軍を迎撃しようとした。

皇子は仲哀天皇の御陵造営のためと偽って陣地を構築し、倉見別犬上君の祖)と五十狭茅宿禰(いさちのすくね、伊佐比宿禰とも)を将軍として東国兵を起こさせた。ところが菟餓野(とがの、比定地未詳)で反乱の成否を占う祈狩(うけいがり)を行った際、皇子はに襲われて食い殺されたという。

『古事記』『日本書紀』に記される坂皇子の反乱説話は、神功皇后の非実在性と同様に史実ではないと考えられている[2]王朝交替説では、神功・応神説話は古王朝崇神天皇朝)と中王朝(仁徳天皇朝)をつなぐもので、坂皇子の説話もその挿話の1つとする説があるが、王朝交替説自体明らかでなく定かとはされていない[2]
一般には、上記の内乱伝承は神功皇后・応神天皇の集団と坂王・忍熊王の集団との政治的な対立抗争といわれる。これに対して、4世紀後半のヤマト王権の拠点である佐紀(奈良県北部:佐紀古墳群)の正統な後継者が坂王・忍熊王であったと見て、実際に反乱を起こしたのは神功皇后・応神天皇の側で、勝利後に拠点を河内(大阪府東南部:古市古墳群百舌鳥古墳群)に移したとする説が挙げられている[3









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