2014.5.12 21:04更新
【オウム法廷再び】
井上死刑囚「菊地さん逃亡のきっかけ作った」と謝罪 両親宛て手紙で「証人としての責務を果たす」
信仰の熱心さから、かつてオウム真理教で「修行の天才」と呼ばれた確定死刑囚が、約17年間の逃亡生活を送った菊地直子被告と法廷で対面した。防弾パネルが設置される厳戒態勢の中、井上嘉浩死刑囚は東京都庁郵便物爆発事件について「菊地さんが行ったことは上司である私の責任。長年逃亡するきっかけを作ってしまい、申し訳ないと思っています」と謝罪した。
東京地裁は、死刑囚の心情への配慮や警備上の問題などから、傍聴席からの視線をさえぎるついたてに加え防弾パネル10枚を設置。多数の警備担当職員が見守るものものしい雰囲気の中で証人尋問が行われた。
井上死刑囚は、教団「諜報省」のトップとして多くの非合法活動に関与したとされる。
「救済という物語に酔いしれ、かけがえのない多くの命を奪ってしまった」と、身勝手な動機で一連の事件に突き進んだことを被害者にわびた。証言の間、菊地被告は表情を変えずに耳を傾けていた。
井上死刑囚は証言で、菊地被告に非合法活動の認識があった可能性を示唆。菊地被告側の「爆薬の原料と知らなかった」とする主張と食い違った。
井上死刑囚が今年5月、両親に宛てた手紙には、事件の責任を認める言葉に加えて、「立ち直ってもらいたい」と菊地被告への思いもつづられていた。
井上死刑囚の京都市内の高校の先輩で、石川県かほく市の僧侶、平野喜之さん(50)は平成18年以降、面会や文通を重ねてきた。
この日の公判を傍聴し、閉廷後に「2人の言い分が違ったが、一つの真実にたどり着いてほしい。オウムのような事件が二度と起きないように、井上さんには罪を見つめ真実を話す心を持ち続けてほしい」と話した。
http://www.sankei.com/affairs/news/140512/afr1405120006-n1.html
阿含宗(あごんしゅう)は、桐山靖雄(きりやませいゆう)により1978年(昭和53年)4月8日に創設された仏教系の新宗教。 毎年2月11日、(2011年で第38回目となる)「炎の祭典・阿含の星まつり」という修験道の儀式である護摩の一種大柴燈護摩供を京都・花山にて開催することでも知られる。
概要
但しスリランカから拝受された仏舎利の由来書原文にはどこにも真正と書かれていない。桐山著書の由来書和訳には「1881年、ブッダガヤーの金剛宝 座の下から発掘された仏舎利49個」「その真正仏舎利であることは、元考古委員長セーネーラード・パラナウィタネー博士により証言されております」と記載 されている。しかし翻訳業者による和訳では「ある日、スリ・マハ・ボディに近いヴァスラー・サナ付近で日々行われていた瞑想の会の中で、ある目に見えぬ存 在から彼はその聖なる仏陀の遺物の入った箱を授かった」とある。1881年考古学者カニンガムが金剛法座の下から仏舎利を発掘したという歴史的事実は存在 せず、これは桐山管長の捏造である。 オウム真理教始め多数の日本の教団が寄付と引き換えにスリランカ政府から記念品仏舎利を拝受している。阿含宗も同等品を受け取ったと考えられる。- 依経 阿含経(あごんぎょう)
- 拠点 国内74カ所、海外8カ所
略史
1948年頃に桐山靖雄が横浜に創設した皇道治教の布教所そしてそこから形式上独立した観音慈恵会を前身とする。阿含宗の名称である阿含はゴータマ・ブッダ=釈迦とその弟子たちの教法を伝える唯一の経典教典、阿含経(アーガマ)を依経とすることを自称したことから名付けられた。桐山は陰陽道・占いから、観音信仰、法華経、密教へ進み、『阿含経』の七科三十七道品という因縁解脱の法(成仏法)を体得し、成仏力を得る。真言宗金剛院派の 北野惠宝の元で得度した、とされるようである。又、チベット仏教より金剛・胎蔵両部の伝法灌頂を受け(ニンマ派からはギュルミ・ドルチェ・ドドルチェル 〈一切万霊守護金剛〉の法号と金剛阿闍梨耶の僧位を授かり、その後、サキャ・ツァル派からンガワン・リクジン・テンペル〈智証光明大覚者〉の法号と金剛大 阿闍梨耶の僧位を授かる)、ブータン仏教からカギュ派の無上タントラ瑜伽の法統を受け継ぐ。さらには南伝仏教のスリランカ仏教からもキールティ・スリ・サ マ・ドゥータ(輝く平和の大王)という法号と名誉大僧正位を授かり、法統を受け継いでいる。
初期には桐山の念力で護摩木に火を点けるという「念力護摩」を宣伝文句に使っていた。念力の護摩は関西本部、北陸本部、東京総本部の3カ所で奉修された。桐山はクンダリニーヨーガのチャクラ開発の技法を取り入れることで求聞持法、念力の護摩を成就し、それが阿含経の「七科三十七道品」の修行達成につながった、としている。
一般に「桐山密教」として知られるように、かつては密教の修行による能力開発を強く打ち出していたが、教団名の変更に伴い、阿含経が釈迦が 直接説いた内容をまとめた唯一の経典であるという主張を強め、自らそれを奉じていると自称していることによる正統性の主張や、釈迦の生地やローマ教皇庁を 訪問するなど国際的に活動する印象を与える。 但し、実質的処女作で大ベストセラーとなり密教ブームを巻き起こした『変身の原理』(昭和46年刊)で、すでに七科三十七道品について言及している。 近年は、1996年モンゴル大柴燈護摩供、2000年の9・11後に行われたニューヨーク護摩法要、2003年パリ大柴燈護摩供、2006年アウシュビッツ大柴燈護摩供、 2007年シベリア大柴燈護摩供、2008年イスラエル大柴燈護摩供、2009年ガダルカナル大柴燈護摩供など海外での法要も活発に行う。特に近年はシベ リア抑留犠牲者や南方戦線の戦死者など、太平洋戦争の戦死者・戦没者・殉難者の供養法要が多くなっている。その要因は戦死した人の多くが桐山と同年代であ り、その御霊を安らかにしたいという桐山の思いからである、という。
1980年代にはニューアカデミズムの流行に乗り、カジュアルなメディテーションをアピールし、また1983年のSIGGRAPHには阿含宗により製作されたCG「MANDARA'83」が出展されたり、広告代理店に依頼したメディア戦略なども、若い世代に受け入れられる側面があった。またこの頃、東京神保町にメディテーションセンター「シャンバラ」というスポットを開設するなどしていた。
1983年にはチベット仏教ゲルク派のダライ・ラマ14世は、1983年に仏舎利を寄贈したり[1][2]、1984年に日本武道館における「第一回 オーラの祭典」で護摩壇を並べて、合同護摩を行った[3]。また、1989年にノルウェーのオスロで開催されたノーベル平和賞授賞式にも阿含宗を招待していた[4]など、ダライ・ラマ14世は阿含宗を積極的に支援していた。
桐山の初期の著書にあった学歴や信仰歴等を詐称していたことを、週刊誌で採り上げられたことがあった。オウム真理教(現アーレフ)が引き起こしたとされる一連の事件が問題になった際、同教団の古参信者の中にかつては阿含宗の信者だった人がいたことが話題になった。1991年(平成3年)、炎の祭典・阿含の星まつり修法地の隣接地境内(敷地約15万坪)に総本殿・釈迦山大菩提寺を建立、チベット仏教ニンマ派ミンドリン寺コチェン・トルク宗務総長一行を招き盛大に落慶法要を営む。
1994年(平成6年)より、それまで「金剛界」「胎蔵界」の大柴燈護摩供であったものを「神仏両界の秘法」による大柴燈護摩供とした。仏界の本尊に真正仏舎利、神界の主神として素戔嗚命を奉祭し神仏両界の護摩壇として毎年星まつりを修している。
1999年からは毎年、桐山自身が日本棋院名誉八段であることから日本棋院主催の「阿含桐山杯全日本早碁オープン戦」に協賛している。
真言宗金剛院派(しんごんしゅうこんごういんは)は真言宗善通寺派から独立した分派で、兵庫県たつの市(旧揖保郡新宮町)にある弘法寺を大本山とする。
- 1946年昭和21年の宗教年鑑記載に愛知県豊田市の金剛院にて弘法大師像を祭ったのが始まりだとされ金剛院が真言宗善通寺派の寺院であると「明確」に記載されている。
- 高野山大師教金剛院という名で善通寺派から独立し皇道治教の傘下にあった時期は、皇道治教陰陽道高野山大師教と名乗る。
- 学研「密教の本」「真言密教の本」にも分派系統として善通寺派からと明記されている。
- 1953年(昭和28年)7月:『真言宗金剛院派』に改称し、愛知県より宗教法人認証。
- 初代管長:浦野晴弘 別名・耕牛
- 二代目館長:北野恵宝
- 三代目管長:北野真弘
- 当所で得度を受けた人物には、阿含宗管長の桐山靖雄や、霊能者の弘法院恵正らがいる。
- 過去、桐山靖雄師は、1972年に権大僧正及び副管長の地位にあり、北野恵宝師の愛弟子であったと「阿含宗の研究・桐山密教の内実」に北野師の元弟子の証言にある。
教義
、、、(爆wwwwwwwww
2 件のコメント:
たらればからでなんですが
他はコミュ障で学歴他どんな才覚あろうとムリと思う中
この確定死刑囚は宗教に踏み入るのを留まれたら普通かそれ以上の人生を送れたかもしれないと思わす人でしたね、
ゲルグ派 尊師はグル
阿含宗の中盤の赤太字の羅列は眩暈を覚えるが
立宗を4月8日 炎&星まつりを建国記念日にしてる所にグッときた
阿含宗 囲碁
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