はて?
やっぱ・・・
ですかねえ・・・(爆wwwwwwwww
生:明治2年(1869年)12月24日、福山・深津町140(現福山市宝町)生まれ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
没:昭和32年(1957年)4月11日、享年89歳、京都黒谷墓苑に葬る | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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「住友信託物語」より抜粋 大島久太郎 著 大平さんの住友在職中における大事業といえば住友私立職工養成所の設立と別子鉱業所の改革であろう。今日隆々たる新居浜諸事業の基盤は鉱山はじめ化学、電力等大平さんの画策に負うところ多大なものがある。 しかるに大正11年(1922年)鈴木総理事が脳溢血のため辞任せらるるや、大平さんも知己に殉じ自ら請うて職を退かれた。大平さんの住友在職は11年半であったが深く恩義を感じて終生住友のため陰に陽に心を砕いておられた。 住友辞任後外遊を経て帰朝早々西園寺公のお声がかりと終生の親友幣原喜重郎はじめ、浜口雄幸、伊庭多喜三氏の勧説により満鉄副総裁に就任された。在任中 配下の一技師が研究した石炭液化方式が九分九厘きまった海軍方式に比し年約1億円の節約になることを確認された大平さんは、海軍を向うに廻して火の出るよ うな闘争の末目的を貫徹された。 当時の奉天総領事が後の吉田茂首相で、以来「大磯の弟」と称して大平さんに兄事しておられた。 戦後幣原氏の推挽で枢密顧問官になられたが現行憲法特に国体に関する第1条の審議に多大の貢献をされた。 (中略) ・「日本国の象徴」 (中略) 憲法第1条には、 「天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とある。 この第1条が枢密院会議に諮られたとき「天皇は日本国の象徴」が問題となり、ご前で枢密院会議が開かれた。 時の筆頭顧問官林頼三郎氏はまず立って、「『天皇を日本国の象徴』などと申し上げることはわが国の歴史に未だ嘗てないことであり洵に恐れ多く、これは受け入れかねると愚考致しまする」と申し述べられた。次に佐藤尚武氏が之に讃同された。 その次が大平さんで大要次のご意見を申し述べられた。 「只今、林、佐藤両顧問官のご高見を拝聴致しまして洵にご尤と存じまする。ただこの草案の決定までには日本の国体護持につき曩の駐日大使グルー、キャッ スル等親日家の並々ならぬご配慮のあったことを仄聞致しておりまする。また“Symbol of the State”という語は初めて使用されたものではなく、カナダ(?)憲法にもあると伺っておりまする。今この草案を拒否致しますならば、これらの方面にす くなからぬ影響の及ぶことと存じまする。また仮に「日本国の象徴」と申し上げたと致しましても日本国民の忠誠はこれによって変るような薄弱なものではない と存じまする。云々」と衷心の赤誠を披瀝された。 すると林顧問官は再び立って、「只今、大平顧問官から寔に適切なるご意見を拝聴致しましてご尤至極と存じまする。就ては私は前言を撤回致しまする」と讃成され、佐藤氏その他の顧問官もこれに同ぜられて、ここに第1条は原案通り決定をみたのである。 その時、天皇陛下はいともご満足なご微笑をお洩らしになったそうである。 そして廊下に出るや竹越与三郎氏が抱きつき「大平君よくやってくれた」と感涙にむせばれたとのことである。 (中略) ・宮中劇場 枢密院会議後の午餐会には陛下のご前で、各顧問が輪番で何かお話申し上げることとなっていた。(中略)そこで大平さんの当番の際次のようなお話をされた。 「日本には古来立派な芸術が綿々と伝わっております。歌舞伎、文楽、京舞、一中節等々いろいろございます。これは何とか永く伝えてゆきたいものと存じま する。そこで宮中に大小二つの劇場をご造営になりまして大劇場は外国国賓等の公用に、小劇場は皇室お内輪のご鑑賞用として、これに古典芸術をご上演遊ばし ましては如何と存じ上げまする。さすれば戦後お楽しみの少ない折柄一面ご慰安ともなり、併せて民芸のご奨励にもなるかと存じ上げまする」と申し上げられ た。そのとき心からお満足の龍顔は今に忘れ得ないと語っておられた。 これが原因かどうかそこは知らないが現在宮中に二劇場が出来ており、一昨年井上八千代さんは小劇場で宮様方に京舞をご鑑賞の光栄に浴されたことは人の知るところである。 (出典1、108頁) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「住友回想記」より抜粋 川田順 著(住友常務理事、歌人) 大平駒槌は別子の所長であったが、住友を辞めてから満鉄副総裁になり、最後には枢密顧問官となった。彼はおのずからのままの人で、敢えて自分の粋を隠そうとはしなかった。枢密院の会議で、天皇陛下へ、 「大阪には文楽座と申しまして、個展芸術の粋がございます。陛下にも一度御覧あそばされたらいかがのものかと存じ上げます」他の顧問官等は、大平の発言 にちょいと面喰らったらしかった。大平としては、政治上の意見は誰でも申し上げる。こういうことこそ御耳に入れるべき大切なことだと信じたのであった。 昭和22年(1947年)6月、関西行幸のとき、陛下には14日午後、文楽座を御覧あそばされた。 (中略) それは枢密院に於ける大平の言上が動機の少くとも一つであったと私は考える。このことを文楽座の人々にも記憶して戴き度い。(中略) かような大平駒槌も私をひいきしてくれた。数年前、私が東宮殿下御作歌の指導を内合せられ、まだ公表せられなかったとき、「これこれの次第です」と大平にだけ内密に打明けたらば、彼は杯を挙げて喜んでくれた。云々 その折川田さんは、殿下のお始めての作歌を御披露の上、その大らかな御作風に感嘆して居られた。同席の高田保馬先生ともども文学談議に一夜をあかしたのだった。 (出典1、111頁) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
弔 詞 高田保馬(社会経済学者、京都帝国大学教授) 大平様手術の後長く健康をつづけて居られましたので御病氣とは伺いながら急變があるとは夢にも思いませんでしたのに花をまたずに世を去られまして御近親 の悲痛はもとより私共までが俄に寂廖の身に迫るのを感じます。後輩の一人の惜別の念を申上げるのを御許し下さい。普通に見れば私は隣人として往復を致した のに過ぎませぬ。しかし私にとりてあなたは地位高き生活の豐なる一隣人ではありませんでした。すべての有たれるものを取去って見る時人間の高さに打たれて 參りました。或人は財界官界の最高層をとびゆく幸運の方と云ひましたが私は全くそうとは思いませぬ。福山の豪家に生れて生活様式に自ら大人の風格を具ヘた あなたは斗酒なほ辭せざる生活の間に禪と念佛と漢籍とによつて自らを鍛錬し豪宕の性格と酒間に養はれたる英氣から人の統御の妙諦を體得し而も情誼に厚く人 材に下り且つ果斷勇敢の實績を積まれました。大住友に入つては今日の隆昌の一因を作り滿鐵に於ては長期の計畫を腹案し樞府に入りては親友幣原首相を難局に 助ける如きこれは幸運でなくして人間の高さの致すところであります。私はいつも對面して眼前に明治の風格の結晶を見つめました。幣原伊澤濱口等の大政治家 との親交信頼が一生の長きに亙って續けられましたことはこれらの人々との人間的高さを理解し吸収しようとする接觸でありました。而もあなたが一後輩の私に 對する信頼は全く私を感激させ結果は師に對し兄に對する如き氣持ちを以てひき寄せられました。私の不敏はあなたの誤り期待されるやうな仕事に到達せずそれ の成る日にこそ幼き弟が兄に報告して喜ばせるやうにしたいと思いつづけて戰後十年そのまま永遠にお別れする事の寂廖の今日の春寒の如く身に迫るのを覺えま す。これは一生を通して取去ることは出來ぬでありましよう。これに似たる寂しさの感情は多くの方々が懷かれてゐることと存じます。ただあなたの御一生とし ては功成り名遂げて而も一門隆昌その上には求められぬ所でありませう。さうして人間としての高さと情誼の深さは長く後輩の中に生きて景仰の的となることで ありましよう。今はただ天上の安らけき冥福を御祈り申上げます。 一九五七年四月十二日 (出典1、113頁) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大平儀右衛門の三男。 大平要太郎氏(福山市議会議長)は実兄。 大平彦市(海軍軍医大佐、福山病院長)、および大平善市氏(陸軍中将)は実弟。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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情報提供:花本真澄氏(昭和32年卒) 情報提供:大平智子氏 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
出典1:『貧民救護事業下調 「解読文」並に参考資料』大平駒槌著、清徳記念福祉室刊、平成元年4月1日 出典2:『大平要太郎君小傳』濱本鶴賓著、河合二一郎刊、昭和12年11月9日 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2007年6月28日追加●2007年7月2日更新:経歴、関連情報●2007年7月31日更新:写 真、経歴●2007年8月1日更新:誠之館所蔵品●2007年8月3日更新:経歴●2007年8月7日更新:誠之館所蔵品●2007年9月12日更新:誠 之館所蔵品、関連情報●2008年2月5日更新:経歴、本文、誠之館所蔵品、関連情報削除●2009年6月29日更新:誠之館所蔵品● |
、、、(爆wwwwwwwwwwwwwwww
1 件のコメント:
国立公文書館
戦争放棄条項と天皇制維持との関係について―大平駒槌氏の息女のメモ
1952年2月 憲00115105
佐藤達夫文書請求番号 478(R-60)
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