このままじゃ表向きの本体である北トンスルランドの方が先に浄化されてしまいそうなわけですが、アベシンゾーet al.は日本国内の東阿Qサマナをさっさと完全パージせんと今度は日本が南トンスルランドと共に真空パック化されてしまいますぜ!(爆w
で、最近は自衛隊情報保全隊以外にも注目されてる田母神閣下からの非常にマズ~な芋づるをたどってみました。(爆wwwww
モランボン株式会社
種類 株式会社
市場情報 非上場
本社所在地
〒183-0022
東京都府中市宮西町2丁目5-1
設立 1972年9月(1951年3月創業)
業種 食料品
事業内容 食品や調味料の製造
食堂、売店の事業展開
代表者 全平烈(ジョン・ピョンヨリ:代表取締役社長)
資本金 3億1000万円
売上高 164億761万円(平成21年3月)
従業員数 781名
決算期 3月
関係する人物 全演植(創業者)
外部リンク http://www.moranbong.co.jp/
、、、(爆wwwww
おまけ
頑張れ日本!全国行動委員会の正体 via kwout
大東ウンコ大学とか竹田のアレとかアジア主義者の台湾人とか閣下の周りは阿Q臭すぎですなあ。(爆w
北朝鮮問題を斬る:471 - 呂成根副会長の逝去を悼む
2013/06/25 Tuesday 10:04:04 JST
立命館大学と言えば、白川静先生の名前が浮かぶ。次に、知人の娘も学んでいたことが思い出される。知人の娘は卒業しているが「ウリ同窓会」に参加しているのだろうか?立命館大学ウリ同窓会の存在は結構知られている。それには呂成根副会長の存在があった。むろん他にも知られた商工人は多く、例えば京都の鄭東善氏もいる。
在日朝鮮商工聯合会の呂成根副会長は立命館大学の卒業生である。慶尚北道慶州郡安心面に、1927年8月18日に生まれ、16歳で渡日したと言われるから、1943年前後に玄界灘を渡ってきたことになる。呂成根副会長自身は、向学心に燃えての渡日だと語っている。
1950年に立命館大学法学部を卒業している。その間、16歳で渡日してきたという処からくる朝鮮語能力を買われて、昭和21年頃に朝聯が設けた国語講習所の教員を務めている。
下関は在日朝鮮人が多数居住する町であった。呂成根氏は下関を事業の根拠地にして、山口県商工会の理事長、副会長、会長を歴任している。この間、自民党の実力者・安倍晋太郎・元外相の知遇を得ている。御存知のように安倍晋太郎は東学党の乱を鎮めるのに功のあった大島義昌将軍の曾孫で、出身地の油谷と慶尚北道間の航路を開いた安倍寛代議士の息子である。
1986年2月28日、全演植・在日本朝鮮商工会会長と共に金日成主席の「拝謁」を受けている。この1986年10月から在日本朝鮮商工聯合会副会長の重責を担うこととなる。その後半生は愛国的商工人として愛族事業に尽くしている。その愛国の一心は生産技術の合弁事業に取り組ませ、1994年から今日迄、朝鮮総聯合弁事業研究会、在日朝鮮合弁経済交流協会の会長として、北朝鮮との合弁、合作事業の土台を築き、その強化発展に貢献している。
その功績は、金日成主席の名入り時計、金日成勲章、共和国労働英雄、祖国統一賞、社会主義愛国賞、国旗勲章第一級などの授与に現されている。
特に知られている業績では国際トレーディングの創立に関わったことであろうか。『朝鮮商工新聞』紙上で、趙康造・工学博士が報告している。
(株)国際トレーディング(本社・東京都港区芝大門、呂永伯社長)は、共和国との合弁企業「国際化学合弁社」のレア・アース(希土類)工場を咸鏡南道の咸興市に完成させ、さる四月から操業を開始した。本工場では、原料のモナザイト処理から高純度の酸化ランタン、酸化ネオジム、酸化イットリウムなど最終製品までの一貫した生産が可能である。(『朝鮮商工新聞』平成3年7月23日付け)
社長の呂永伯とは、呂成根副会長の子息であり、5月15日に下関で行われた家族葬では喪主を務めている。
この趙康造工学博士の報告は、何気ない報告に見えるが、ランタンとニッケルの合金は水素吸蔵能があることから、燃料電池の燃料である水素を安全に貯蔵する容器として期待されていた。それに、ネオジムは工業的に重要視されるレア・アースであった。強力永久磁石として「ネオジム磁石」が知られている。
イットリウムは固体レーザーにアルミニウムとの酸化物が使われており、モナザイトに含まれているが、産地はカナダと中国だとされている。咸興工場には鉄山のモナザイトを原料鉱石として使っており、その「工場は、10万平方メートルの敷地に延べ3万平方メートルの建屋(二十数棟)をもつ規模であり、精鉱処理、中間原料精製などの前処理工程とレア・アースの抽出・分離・電解などの生産ラインのほか、分析と応用製品開発のための研究所をも併設している。現在、五十数名の工程技師を含む500人の従業員が三交替で運転をしており、その生産意欲も極めて高い」(『朝鮮商工新聞』(1991.7.23)と、趙康造工学博士は報告している。
酸化ランタン、酸化ネオジム、酸化イットリウムの生産には、日本の産業界の期待も大きかった。90年代半ば頃から対日輸出も増加傾向にあったが、製造工程に多くの隘路を抱えて市場競争に敗れる。
趙康造・国際化学合弁会社理事は、レア・アース工業の発展が北朝鮮へ大きなインパクト与えるとして、以下の様にも述べている。
「祖国との合弁企業が共和国の重工業・先端工業に必要な材料を提供する化学工業の分野を扱うのは初めてのことであり、レア・アース工業を興すことによって祖国の工業発展に期待できる効果は数しれないものがある」(『前掲』)
呂成根副会長が推進したレア・アース工業は、北朝鮮だけでなく、関係する日本企業から熱い視線が投げかけられた。稼働を始めた1991年4月には、多くのマスコミが報道したことからも期待の大きさが伺われた。その製品は日本へも輸入されたが、間もなく挫折する。中国のレア・アース製品に価格競争で負けたことが挙げられる。中国は国際的に独占化を狙って、国際化学合弁潰しに掛かったのである。
だが、リビアのカダフィ大佐の核開発放棄から、イエローケーキの北朝鮮からの輸入が明らかになると、国際化学合弁はウラン精錬事業に関わっているだろうとの嫌疑を米国筋から受け、経済制裁の対象企業とされた。これは結果論だが、レア・アースの安定的供給という観点から、日本企業にはマイナスに響いた。この国際化学合弁への経済制裁にはウラン精錬疑惑がある。だが、その疑惑を拡大させた背景には中国の影が浮上している。その理由は、レア・アースがIT産業を支える原料として重要視されると、国際化学合弁が国際的に重要な企業と化すことを恐れたからであろう。それは国際化学合弁が制裁の対象と化して国際市場から退くと、中国の独占的供給に成り、レア・アースの価格が暴騰したことからも証明された。
呂成根副会長の葬儀は、5月15日の下関での家族葬、5月28日には在日本朝鮮商工聯合商工会と山口県商工会による追悼式がリーガロイヤルホテル小倉で執り行われている。
リーガロイヤルホテル小倉は、南牛なども同窓会に使うホテルであり、追悼式がそのホテルで行われた、というだけで親近感を感じたものである。
2013年6月23日 南牛 安部桂司
http://www.pyongyangology.com/index.php?option=com_content&task=view&id=1021&Itemid=81
【寄稿】北の次なる核実験はウラン型原爆か 印刷 Eメール
内外展望 - 海外情勢
2006年 12月 31日(日曜日) 00:00
【寄稿】北の次なる核実験はウラン型原爆か!
北の核開発に脈打つ「日本のウラン精錬技術」
社友・ウラジミール(Vladimir・ジャーナリスト)
「わが国は北朝鮮と同じ共産主義国家です。だから北朝鮮がやること、あるいは今後やろうとしていること、彼らの手の内はすべてわかります。来年、北朝鮮は間違いなく次の核実験を行うでしょう。それも比較的早い時期に……」。中国政府のさる高位当局者は筆者に直接、こう断言した。
はじめに
北の核実験を振り返って
昨年における北朝鮮をめぐる劇的な情勢変化のうち、最も衝撃的な事件として、10月9日に実施された核実験を挙げることに異論はないだろう。北朝鮮はこの日を境にして、極端に言えば「核保有国」という、いわば別の国に生まれ変わったのだ。
核兵器とは何か。大量殺戮を可能にする兵器であると同時に、その国の経済力、技術力、工業力、国際的発言力を集約した政治的兵器であることは言を俟たない。語弊を恐れずにいえば、核兵器を持たなければ国際社会における「一流の国」とはいえない。
北朝鮮は10月に、それを達成したのである。「我々はいまや5大国、国連安保理常任理事国と同格なのだ」という強いメッセージ、「我々を一人前に扱え」という言外の堂々たる姿勢が、あの一発の核実験には込められている。
筆者は北朝鮮核実験を、政治的にも技術的にも一定の成功を収めたものと考える。そしてこの見解を産経新聞社が発行する月刊誌「正論」2006年12月号に寄稿した(ご関心のある方はこちらをごらんください)。
だが同じ掲載誌には、北朝鮮の軍事情報に詳しいジャーナリストの惠谷治氏が「北の核は恐るるに足らず」とのインタビュー記事を載せている。いわく「小規模の実験だったのではなく、完全な失敗に終わったと見ています」とのこと。その根拠として、プルトニウム型原爆の起爆装置が技術的に未成熟だった可能性を挙げている。
プルトニウムは均一に圧縮しなければ爆発(核分裂)しない。そのためプルトニウム原爆とは、簡単に言えばプルトニウムを中心に置き、それを取り囲むように通常32~64個からなる起爆装置が球状に配置されている。これら起爆装置を数百万分の一秒の誤差で同時に爆発させる(インプロージョン/爆縮レンズ)ことにより、中心に置かれたプルトニウムは瞬間的に超臨界質量に達し、核分裂を起こす。
起爆装置が数百万分の一秒の誤差で同時に爆発……。この部分に非常に高度な技術を要するのはいうまでもない。ここで誤差が大きくなれば当然、爆発の威力は半減してしまう。北の核実験が、事前通告の4キロトンをはるかに下回る衝撃波しか生じなかったのは、起爆装置の技術的未熟さのゆえ、というのだ。その根拠は、核爆発によって周辺国に伝播した振動の波形である。
だが北朝鮮は、米国や旧ソ連の核開発の歴史を再演しているのではない。爆発の出力増大競争など、北にとっては意味がないのだ。核実験に先立つ7月、北朝鮮はテポドンを含むミサイルの連続発射を行った。おもに小型ミサイルで発射に成功を収めたこの実験は当然ながら、後続する核実験とワンセットで考えねばならない。北の核とは、最初からミサイルの弾頭に搭載可能な「小型化」を目指していることは明らかだ。
北朝鮮が10月に行った実験が、小型核によるものであったなら。国際社会にとってこれほどの脅威はないだろう。北のミサイル販売先の筆頭にあげられるのはイランである。つまりイスラムはミサイルも、弾頭に搭載可能な核も保有した……ということになる。
イスラエルをターゲットとするイランにとって、大陸間弾道ミサイル(テポドン)も、大型の「核起爆装置」も不要。必要なのは中・短距離ミサイルと、弾頭に搭載可能な小型核である。
イスラエル、特に空軍の確固たる方針は「同国を核攻撃できる可能性のある場所はすべて潰す」こと。だが98年に実験された「パキスタンの核」についで「北の核とミサイル」……つまり「イスラムの核とミサイル」を手にした「イスラエルを核攻撃できる可能性」として、イランが急遽浮上してきたのである。
これまでイスラエルは「イランに対する攻撃の意志」を問われる都度、一笑に付してきた。「イランを攻撃すればホルムズ海峡が封鎖されるのは必至だ。そうなれば民間タンカーが通過できなくなる。世界最大のの産油国であるサウジ等から石油が一切輸出されなくなり、世界経済は破滅するだろう。われわれがそんなことするはずがないでないか」……。これが従来までのイスラエルの主張だった。だがさる7月の北のミサイル連続発射以後、イスラエル政府当局者は筆者に次のように明言した。
「わがイスラエルは、もはや座して死を待つようなことはしない」……。ホルムズ海峡の封鎖は米軍の出動を誘発する。アメリカ参戦の可能性を含め、イスラエルの出方次第によっては、まさに第三次世界大戦の火蓋が切られようとしているのだ。我々はいま、そのような時代に生きている。
惠谷氏は先に述べた記事にて、北朝鮮の核実験をプルトニウム型原爆であると断定した上で、こうも述べている。「ウラン濃縮には膨大な資金と電力、時間が必要なのです。現在の北朝鮮にそんな力があるはずもなく、ウラン濃縮技術は確立できていません」……。
テレビでおなじみの軍事専門ジャーナリストをことさら貶めるつもりはないのだが、この発言はいただけない。惠谷氏はいったい何を根拠に、こんな馬鹿げたことを断言するのだろうか。
まず資金。02年、わが国が在日本朝鮮信用組合協会(朝銀)に膨大な国民の血税を投入した。その額、約1兆4000億円。日本政府内にも公的資金を投入するべきではないという議論があったものの、不明瞭な政治決定によってこの膨大な公的資金が朝銀救済のために使われた。
朝銀破綻の理由は、言うまでもなくその滅茶苦茶な経営にある。詳細は割愛するが、事実上の無担保で朝鮮総聯系商工人に十数億を貸し付けるケースも多々見られた。これらの資金……わが国が1兆4000億円を「尻ぬぐい」しなければならなくなったほどの資金の多くが、過去何十年にもわたり北朝鮮に不正送金されてきたのである。「核開発のカネ」など、いくらでもあるのだ。
次に電力。北朝鮮が慢性的な電力不足にあえいでいることは周知の事実だ。だが忘れてはいけないのは、北において電力は「民需用」と「軍需用」に分けられていない、ということ。つまり全土の灯りを消して、集中的に軍需に回している……それが北朝鮮の電力不足の実態であり、「先軍政治」の一つの形である。
そしてウラン濃縮技術。北がウラン製錬技術を手に入れてから、もう15年以上も経過しているのだ。その間にパキスタンの「核の父」カーン博士のネットワークより遠心分離器を導入し、また日本からはレーザー濃縮法に必要な超高精度の集光レンズを入手している。さらにいえば北朝鮮は、第二次大戦時における日本のウラン型原爆開発の流れを、きちんと継承しているのである。「北の核は恐れるに足らず」などという惠谷氏の発言こそは、軍事ジャーナリストの鼎の軽重を問われるか、さもなければ「日本が北の核に動揺し、その脅威によって動くことを封じたい」勢力を背景にしているとしか思えない。さて、その勢力とは「時間稼ぎをしたい北朝鮮自身」なのか、「日本核武装論の勢いを削ぎたい中国サイド」か、あるいは同じく日本の核武装に反対する「米軍サイド」なのか……。
大阪大学・核開発ライン
「会長の李時求さんと私とは、いささか私的な関係がございまして……」
伏見康治博士は89年、朝鮮総聯傘下団体の「科協」13期大会にて、居並ぶ在日朝鮮人科学者を前に壇上からやさしげに、こう語りかけた。
1909年生まれ、今年で98歳を迎える伏見康治博士の肩書きを列挙するのは大変だ。大阪大学名誉教授、名古屋大学名誉教授、元日本学術会議会長、元参議院議員……。
阪大理学部長を経て名古屋大学プラズマ研究所長をも勤めた伏見康治教授は、戦後の日本原子力研究の指導者であった。その伏見教授は、戦時中は理化学研究所と共同で濃縮ウランの研究に従事。そこを起点として、原子爆弾の開発研究にも取り組んでいた物理学者である。
いっぽう、1926年生まれの李時求氏は原子力開発の専門家。彼は京大理学部から阪大大学院理学科を出た後、58年に朝鮮大学校の教授となり、64年に科協中央会長に就任。以後95年まで会長をつとめた(現17期は常任理事)、科協のいわば「顔役」である。李時求氏は87年……つまり大韓航空機爆破事件と同年、伏見博士を北に訪朝させている。そして翌88年に、李時求氏は北朝鮮から「共和国科学院院士」の称号を授与されている。北のミサイル開発に当初から深く関わってきたのが「北のフォン・ブラウン」徐錫洪博士なら、「北のオッペンハイマー」と呼ぶべきは李時求院士をおいて他にいないだろう。
「日本のウラン濃縮の権威」伏見博士と、彼を北に連れて行った原子力開発専門家・李時求院士。2人の出会いは、大阪大学理学部時代であった。
北朝鮮の元技師が米議会で「ミサイル部品の90%が、万景峰号を通じて運ばれていた」と証言したのは有名な話だ。だが日本から北に導入されたのは、ミサイルの部品だけではない。軍事力を含め北の科学技術全般の水準を高めたのは日本の工業力であり、その媒介をつとめたのは朝鮮総聯傘下団体である「科協」(在日本朝鮮人科学技術協会)を中心とする、在日朝鮮人科学者である。旧ソ連の軍事規格と日本のJIS規格とを正確に整合させたのは、世界広しといえども科協以外にはない。
北朝鮮の核開発も同様だ。北朝鮮は日本をモデルに核開発を行ってきた。核開発に必要な情報と資材を供給したのは朝鮮総聯の有力傘下団体……より正確に言えば、科学技術情報は科協、資材は商工連(在日本朝鮮商工連合会)となる。
科協の大会にて、伏見博士が壇上より李時求会長(当時)との私的関係を語ったのは89年。このとき氏は参議院議員(公明)でもあった。
この89年とは、北朝鮮における「第3次7カ年計画」の3年目。北朝鮮はミサイル製造と核開発を真剣に考えるようになっていたため、その製造に欠かせない基盤技術の遅れを実感していた、ちょうどそのときである。その1年前、金日成は2度の演説にて、このことを吐露している。
北朝鮮の自力更生の革命精神とは「パルチザン精神」である。極めて簡単に翻案すれば、必要に応じて「あるところ・持っているところ」から調達することだ。このパルチザン精神は核開発にも存分に発揮されることとなる。
だが、パルチザン精神に襲撃される日本側の実情とは、まったくの無防備であった。その無防備さは「日本の原子力技術」(日刊工業新聞社、81年1月刊)という、ある意味で驚くべき書籍が端的に示している。日本の原子力エネルギー開発の技術、特にウランの濃縮に関しては、公開しても構わないと述べているのである。その根拠は、日本から盗まれ可能性のある情報とは、日本の濃縮能力あるいは開発水準であって、センシティブなノウハウなのではない、というのであった。
さらに「仮にその情報が開発途上の危険国に伝わっても、その国の工業力では簡単には実施できない。また容易に実施できるくらいなら、逆に現場情報の価値もそれだけ低いと見るべきであろう」と、周辺の社会主義諸国を非常に甘く見ているのである。実際にこのころの日本は中国からの調査団を受け入れ、また日本に数少ないウラン鉱脈のある人形峠にて研究されていた、遠心分離ウラン濃縮技術などを公開している。
まったく、日本は周辺諸国の工業力を軽く見過ぎていたのだ。原爆の製造原理は高校生でもわかると一時期言われたが、現実は膨大な工業力を背景にしなければ原爆そのものは製造できないことはいうまでもない。80年代に入ると、朝日新聞は「日本でも核武装は可能か」との特集を組んだ。この特集こそは、北朝鮮が得た一つのヒントと見るべきであろう。おそらく、北朝鮮ではこのとき、日本の工業力を背景にすれば核開発が実現可能なことを認識してたに違いない。
北の核開発を支えたのは旧ソ連留学派ではない
昨年、NHKが放映した北朝鮮特集3部作を観ると、北朝鮮の核開発があたかも旧ソ連の大きな支援によって進められたかのような内容であった。だが、これは事実と異なる……いや、正確に言えば旧ソ連以上に大きな支えを与えた存在を、知ってか知らずか無視している。いうまでもなく、日本である。
北朝鮮の核開発過程をおおざっぱに分類すると、60年代後半~80年代初期が「第1期」、80年代初期~80年代後半が「第2期」となる。第1期は北の核開発にとって濫觴期であり、試行錯誤の時代でもあった。この第1期において対立していたのは「東工大派」と「ドゥブナ派」だった。
東工大派――。日本の理工系大学に通う在日学生たちをオルグし、名簿を作成し仕分けするのが当時、特に70年代~80年代初めの朝鮮総聯傘下団体「留学同」(在日本朝鮮留学生同盟)の、大きな役割の一つだった。同組織は総聯の意を受け急遽、理工系大学の最高レベルにある東工大に通う学生たちを選別し、北に送った。北送されたものの多くは、在日とはいえ民族学校出身者ではなかった。朝鮮語すらまったくと言っていいほど話せない、日本人と変わらない若者たちだった。北に到着した翌日「なぜ朝飯に納豆が出ないのか」と文句を言う学生もいたほどだった。いっぽう「ドゥブナ派」とは、いうまでもなく旧ソ連のドゥブナ(Dubna)研究所に大挙して派遣され留学してきた北朝鮮の学者らだ。
北帰者の社会では、北朝鮮「原住民」を評してしばしば「貧農国解」という言葉が使われる。貧農出身の国語しか解らない奴ら、という意味だという。東工大派にとっては、当時の金日成綜合大学の教授陣やドゥブナ派とは、まさに十把一絡げに「貧農国解」の連中であった。「アパッチどもが、ドゥブナで何を勉強してきたってんだ?」と、ときに北朝鮮科学者のレベルの低さは嘲笑の対象となったという。なお余談だが北帰者は原住民を日本語で「アパッチ」「原ちゃん」「インディアン」と呼ぶ。翻ってドゥブナ派にとっては、東工大派とは「チョッパリ学者」であった。両者は最初から相容れない存在だった。
両者の対立が決定的になる契機に、サイクロトロンの導入がある。サイクロトロン決定の過程で「朝鮮語もできないチョッパリ学者」たちにかけられたのはスパイ容疑だった。言葉の障壁もあり、東工大派はまともな弁明すらできないまま収容所に送られたのである。
現在でも北朝鮮研究家の間ではしばしば「朝鮮の科学者たちは理論派、在日科学者たちは現場派」と言われるが、正確に言えば在日出身科学者は「理論派であり、かつ現場派」だった。アパッチどもとは比較にもならなかったのだ。
この「東工大派vsドゥブナ派」の争いでドゥブナ派は生き残った。だが、彼らだけで核などできるはずもない。インディアンに核開発は無理なのだ。そこで核開発第2期、新たに日本から「京大派」が登場するのだが、これについては別の機会にゆずる。
ともあれ核開発第2期である80年代、北朝鮮は日本の工業力、技術力を土台とし、いよいよ現実的な核開発を本格化する。
北朝鮮に豊富なウラン資源
北朝鮮にはウラン資源が豊富である。
朝鮮総督府地質調査所が編纂した「朝鮮鉱物誌」をひもとくと、希土類の項目にモナズ石、モナザイト(Monazite)が登場する。平安南道から平安北道に大量に産し、セリウムを含むため朝鮮総督府の時代から利用されてきた鉱石である。モナズ石は砂礫鉱脈に産し、「朝鮮鉱物誌」によれば、韓国忠清南道天安郡の砂金地のモナズ石は「U」で0.494%、「U3O3」で0.582%含有するとある。
モナザイトから希土類(レア・アース=Rare Earth Elements)を分離する過程で「イエローケーキ」(ウラン精鉱)が生じる。モナザイトにはウランとトリウムが含まれているため、希土類を分離するときにはイエローケーキの原料ができる。このイエローケーキとは、「ウラン鉱石から粗精錬の過程で大部分の不純物を除いたもの。ウラン精鉱とも呼ばれ、黄色をしているので、原子力関係ではイエローケーキと呼ばれる。Uは2ウラン酸塩の形で含まれ、U3O5としての含量は約75%(鉱石は1%以下程度)である。鉱山でイエローケーキにしてから精製工場へと運ばれる」(「岩波理化学事典」第5版、岩波書店)とあって、濃縮ウラン製造過程の中間物質であることがわかる。
また平安北道朔州郡には銅ウラン鉱がある。北朝鮮とはまさに、ウラン資源に事欠かない土地である。黄海道・菊根鉱山のサマルスキー石も天然ウラン資源の宝庫である。
この北朝鮮の潤沢なウラン資源を使用し第二次大戦中、わが国は理化学研究所を中心として原子爆弾の研究を進めていたことは有名な話だ。
わが国の原爆製造は、まず濃縮ウランの作り方から始められた。国内においてはウランは朝鮮・黄海道や福島県石川町などで採取され、東京で精錬(イエローケーキの製造)された。
黄海道のサマルスキー石に着目した日本の核開発は、陸軍と海軍とで別々の方法が模索された。陸軍が推進し理科学研究所の仁科博士が主導した「二号作戦」では、天然ウランとフッ素を化合させ、生じた六フッ化ウランを熱して、軽いU235は上へ、また重いU238は下へと自然に分離する、熱拡散法による分離が考えられていたと言われる。だが熱拡散法は消費エネルギーに対して分離効率が極めて悪いため、まったく実用的ではなかった。
いっぽう海軍が推進し、京大化学研究室の荒勝教授が主導した「F作戦」では遠心分離法が考えられていたという。余談だがこの荒勝教授の研究室には韓国人留学生がいた。彼は韓国へ戻りやがてソウル大学工学部長となり、後に北朝鮮に亡命した。人造繊維ビナロンの発明で名を馳せた北朝鮮の核開発の中心人物、李升基博士である。この李升基博士については、本文最後にもう一度触れる。
植民地朝鮮において日本が活用した、もう一つの豊富なウラン資源がモナザイトである。だが、そのモナザイトからセリウム(映画や青写真、医療用に使われるアークカーボンの製造に必要な希土類)を分離する役割を果たしたのは、戦前の日本窒素が興南に築いた大規模コンビナート、日窒興南工場であった。
この日窒興南工場は第二次世界大戦中は、何の損傷も受けなかった。終戦直後の1945年8月26日、元山から上陸したソ連軍によってこの工場は接収された。
だが朝鮮戦争の初期、米軍はソ連の手に渡った日窒興南工場に対し、徹底的な爆撃を加え、工場は完膚無きまでに破壊された。その理由はアメリカがこの工場こそが、日本の原爆製造の物質的基盤であったことを、戦後5年経って認識したからであった。アメリカは日窒興南工場が、ソ連の核兵器製造の基地になると判断したのだった。
アメリカはなぜ「朝鮮国際化学合弁会社」を
制裁企業の筆頭においたのか
さる7月のミサイル連続発射後の9月、アメリカは大量破壊兵器開発への関係が疑われる北朝鮮のメーカーや商社、銀行などに対し金融制裁を実施。これを受け、わが国は独自に3団体を追加した15団体・1個人に対し、銀行口座を事実上凍結する措置を講じた。
制裁対象はスイスのコハス・AG社をはじめ朝鮮国際化学合弁会社、朝鮮光星貿易、朝鮮総合設備輸入会社、朝鮮東海海運会社、朝鮮富強貿易、朝鮮鉱業貿易、朝鮮蓮河機械合営会社、朝鮮連峰総会社、朝鮮聯光貿易会社、端川商業銀行、土城技術貿易、平壌情報センター、朝鮮海星貿易、烽火診療所の15団体に、コハス・AG社社長ヤコブ・スタイガー氏の1個人であることが財務省により発表された。
ただし、北朝鮮の特定企業をねらい打ちしたこうした経済封鎖がどの程度有効なのかといえば、はなはだ心許ないものであろう。アメリカですら「これは象徴的なもので実効性はない」とし、各国の自発的な監視と措置を要請した。
このリストの中には、北朝鮮のウラン型核開発と関連する、大変興味深い企業が筆頭にあげられている。「朝鮮国際化学合弁会社」がそれだ。同社は平壌市万景台区域に所在し、主要事業としてレアアース(希土類元素)の生産および販売を行う。この合弁会社の理事長は、朝鮮商工連(在日本朝鮮人商工連合会)副会長である呂成根氏。美術商の顔をも持つ氏は「朝鮮合弁経済交流協会会長」もつとめる、日朝合弁ビジネスの重鎮である。
朝鮮国際化学合弁会社は、北朝鮮の朝鮮龍岳山貿易総会社と日本の総聯系企業である(株)国際トレーディング(東京都文京区小石川)との、文字通り合弁会社だ。国際トレーディングの社長は呂成根氏の子息である呂永伯氏。合弁契約は88年に交わされ、出資金2000万ドルの比率は国際トレーディングが50,4%、龍岳山貿易総会社が49,8%である。91年4月には咸鏡南道咸興市にて、朝鮮国際化学合弁会社の「咸興化学合弁工場」が操業を開始した。
ここで少々、北朝鮮との「合弁・合営」とはどのようなものであるかを述べねばなるまい。この問題については、「正論」誌2006年4月号に筆者が寄稿した記事「謎の組織・科協に迫る」から再掲しよう。
北朝鮮の科学技術水準は、在日科学者の水準とは比較にならないほど低かった。韓国科学技術政策院の李春根氏によれば「北朝鮮国内の大学の水準が低かったがため、海外留学生の活用もろくに行われていなかった。先ず外国留学生の派遣先が社会主義国家を中心に推進され、この中でも60年代まではソ連に、80年代以降からは中国に極端に備っていた。これにより北朝鮮は資本主義の先進国の発達した技術をきちんと導入出来なかった」のである。
金日成親子への偶像化と政治思想教育も、理工系学生の質の低下の大きな要因になった。留学から帰って来た優秀な人材を現場支援の中心に配置しても、そこを支配する「経済理論」は自力更生と主体思想である。国内の原料に依拠する研究開発体制は先進技術の導入の障害となった。また先進技術の導入を強く主張すれば、「事大主義者」との誹りを免れ得なかった。そのため優秀な外国留学組を活用し、新産業を創出する未来志向的な研究や、先進国に追いつくための戦略分野に集中する研究など、まったくと言っていいほど行われなかったのである。
80年代に入っても、北朝鮮の科学技術にはほとんど進展が見られなかった。84年には中国の開放政策を意識して「合弁法」を制定し、世界のさまざまな資本主義国家とも資本や技術協力を強化する開放政策を標榜したが実績は挙がらなかった。業を煮やした金日成は85年9月、平壌から離れた平城郡(現在の平壌恩情区域)に科学技術センターを設立した。在日同胞科学者の技術を北の科学技術発展に活用するという計画であったが、結局このプランは北朝鮮側の科学者らの反発を買い頓挫した。
日本の先端技術を何としても導入したい金日成は翌年、訪朝した在日商工連感謝団に接見し教示を与えた。これは「謎の2・28教示」……公式には「『商工連結成40周年記念商工人感謝団』に対する1986年2・28教示」と呼ばれている。なぜ謎の教示なのかといえば、このとき金日成は団長である全演植氏らに口頭で、個別に教示を与えたためである。文書による正確な内容の記録が残されていないのだ。朝鮮新報等で報じられた在日商工人らの言葉、総聯関係者らの証言を拾い上げてみれば、この教示の大きなテーマは「日本の先端技術を祖国に導入するための合弁事業の推進」、「民団(在日本大韓民国居留民団)同胞などの活用」、さらには恐るべきことに……「ウランとミサイル開発に関する非常に具体的な指示」であったという。
「合弁法」の目論見が花開いたのはこの「2・28教示」以後である。1986年10月には朝鮮国際合弁総会社が設立され、合弁事業が本格化したのだが、ここに科協の科学者、技術者が多く関与している。86年からの10年間に設立された合弁会社は41社、合作会社は35社。総契約金額は1億5000万ドル近くに達した。(拙著記事「謎の組織・科協に迫る」・月刊「正論」2006年4月号より)。
合弁相手である「朝鮮龍岳山貿易総会社」の正体
「2・28教示」の内容を類推させる文献として、「金日成著作集」39巻掲載の「技術革命の促進と金属工業の発展について」がある。この結語で、金日成は技術革命のためには海外から近代化した工場を輸入せよと述べ、そのための合弁会社を「在日本商工業者たちとも合弁会社を組織し」と、まずは朝鮮総聯との関係による設立を説いている。つぎに社会主義諸国、それから「資本主義諸国とも合弁会社を組織すべきです」と述べ、この合弁会社設立の意義を「技術導入」と、明確に規定したのである。
<われわれは外国との合弁会社をたくさん組織しようとするのは、決して外貨を導入するのが目的ではありません。われわれが合弁会社を組織する目的は、外国の先進技術を取り入れようとするところにあります。(「著作集」39巻、316ページ)>
この「2・28教示」が与えられた「商工連結成40周年記念商工人感謝団」には、先に紹介した呂成根氏も加わっていた。JETROが発行した「北朝鮮の経済と貿易の展望」92年版によれば、呂成根氏が合弁工場の設立を思い立ったのは、まさに86年2月に平壌で金日成から「2・28教示」を受けた後という。
そしてこの合弁事業の推進により、アメリカが「日本の核開発の温床」と警戒し爆撃した、あの興南化学工場が「咸興化学合弁工場」として、咸鏡南道咸興で復活したのである(興南は咸興の南側海岸にある)。その復活の主役こそが、今回アメリカが金融制裁企業の筆頭にあげた「朝鮮国際化学合弁会社」だ。
合弁法は外貨目当てではない。その精神は「技術導入」。このことは何度繰り返しても足りないほど重要だ。咸興化学合弁工場の真の目的とは、「モナザイトからイエローケーキを抽出するための技術導入」であった。だが合弁会社の設立の際、表だってこんな主張をすることはできない。ウラン型原爆開発をやります、と言っているのに等しいからだ。そこで、咸興化学合弁工場は設立の際、表向きの理由を拵えた。それは外貨稼ぎ……すなわちモナザイト資源の活用による、レアアースの対日輸出企画であった。
朝鮮国際化学合弁会社の元理事をつとめた、科協のウラン専門科学者・趙康造氏は、「原料のモナザイト処理から高純度の酸化ランタン、酸化ネオジム、酸化イットリウムなど最終製品までの一貫した生産が可能である。平安南道鉄山に産する原鉱を選鉱したモナザイト精鉱(65%以上)の処理能力は、年間1300トンであり、製品は一部国内の工業需要にまわすほか、そのほとんどを日本など西側諸国向けへの輸出を計画している」と述べた。
朝鮮国際化学合弁会社咸興化学合弁工場は89年7月に着工し、1年9ヶ月で完成した。この工場建設に大いに手を貸したのは、中国であった。
「工場の建設に伴う設備機器の大半は中国から輸入し、工場に納めた機器類の量は列車で148両分にも及んだ。89年7月に工場の建設に着手し1年9ヶ月後にスピード完成した工場は、敷地が10万平方メートル、建坪3万平方メートルに15棟の各種工程工場が建ち並んでおり、原鉱石処理、中間原料精製、レアアースの抽出および分類まで一貫生産ができ、年間1000トンの鉱石を処理し350トンのレアアースを生産する予定という」(JETRO・「北朝鮮の経済と貿易の展望」92年版)。
こうして建設された咸興化学合弁工場は、91年4月8日に当時の朴成哲副主席、金達玄副総理などの参席のもとで操業式を開いた。この咸興での始業式には、中国の工場関係者も出席した。その中国側の技術者は「高いレベルの技術は移していません」と、意味深長に日本政府筋へ述べている。
この「日本の核開発基盤の再来」とも目される咸興化学合弁工場を運営する朝鮮国際化学合弁会社が、北朝鮮の朝鮮龍岳山貿易総会社と日本の総聯系企業である(株)国際トレーディングとの、文字通り合弁会社であることは先に記したとおりだ。
だが注意しなければならないのは、国際トレーディングの合弁先である朝鮮龍岳山貿易総会社(平壌市普通江区域所在)こそは、北朝鮮の軍需産業を支える「第二経済委員会」対外経済総局に所属する有力会社であることだ。朝鮮機械設備輸出入会社、朝鮮総合設備輸出入会社、朝鮮一般製品輸出入会社、朝鮮龍岳山輸出会社、朝鮮龍岳貿易会社を吸収合併して設立された龍岳山貿易総会社は、「龍峰貿易会社」という別名をも使用する軍需企業である。
ジャーナリストの加藤博氏は、この会社を「ロシアから核やミサイルの軍事技術者をヘッドハンティングしている貿易会社」と紹介している。そして、加藤博氏によれば、このとき龍岳山貿易総会社は朝鮮労働党39号室の管轄下にあり、金正日の直接指揮下にあった。また、かつて在コンゴ北朝鮮大使館一等書記官をつとめ、91年に韓国に亡命した高英煥氏は、97年に行われた米上院公聴会にて、龍岳山貿易会社が北朝鮮製ミサイルの輸出を担当していると証言したこともある。
龍岳山貿易総会社は、科協系企業・国際トレーディングとの合弁により、しっかりと「モナザイトからイエローケーキを抽出する技術」を導入したのだ、と筆者が強く疑うのは、このような状況からである。
第3次7カ年計画と科協
国際トレーディングはこののち、レアアースの対日輸出においては中国との競争を余儀なくされ、国際市場から撤退していった。「日朝貿易会」解散時から3年間は対日輸出が続けられたようである。それが途絶える直前、JETROの「北朝鮮の経済と貿易の展望」96年版はこう伝えている。
「96年も上半期で見ると希土類金属の対日輸出は落ち込んでいる。興南の酸・アルカリ工業の不振が伝えられていることから、その影響と思われる」
だが「技術移転」という、咸興化学合弁会社に課せられた真の目的はとうに達成された。レアアースの対日輸出で中国に敗北を喫したとて、同社の役割は充分に果たされたと思われる。
その後に浮上してきたのが地下工場建設にともなう、新たな核疑惑である。ここにおいて気になるのは、北朝鮮の「第3次7カ年計画」に対する、科協の関与だ。北の李根模政務院総理(当時)は「第3次7カ年計画について」の発言で、このように述べている。
<原子力を動力として利用する化学研究活動を力強く進め、核エネルギーの平和的利用分野で提起される科学技術問題も、わが国人民経済の現実的要求と具体的実情にあわせて積極的に解決しなければならない。
人民経済発展第3次7カ年計画は、金日成主席が示した富強な社会主義祖国建設の偉大な構想を実現し、栄えある我が党が導く労働党時代をいっそう輝かせる、偉大な経済建設綱領である。
我が党が決心し、我が人民が取り組んで闘えば、達成できない目標などはない>
この李根模総理の第3次7カ年計画についての報告を日本語に訳し、科協は会員に配布したのである。それは、科協が北朝鮮の第3次7カ年計画になみなみならぬ決意で協力する準備であったことを示唆している。その協力こそ「日本からの技術移転」であることは言うまでもない。
製塩技術から導入された高濃度ウラン製錬技術
イエローケーキは、先に記したとおりモナザイトからセリウムを抽出する過程で得られる。だがこうして得られたウラン精鉱の純度は高くはない。では、この過程からさらに高濃度なウランを得るにはどうしたらいいのか。具体的にどの技術が、どのように日本から移転されていったのか……。ここで大きなヒントとなるのが、製塩技術である。キーワードは「イオン交換膜」。
日本から北朝鮮への軍需目的の技術移転は、消費財生産の目的として導入された技術のなかから適宜、転用されてきた。そうしたなか、消費財生産を目的としつつウラン精錬に応用されうる技術として、イオン交換膜と電気エネルギーを利用して鹹水 ( かんすい )を取り、真空式蒸発缶で煮詰める製塩方法の技術がある。
北朝鮮が塩の国内需要を自国産の天日製塩だけではまかなえず、インドなどから輸入したことはつとに知られている。それゆえ金日成は製塩工場の建設に意欲を燃やしていた。
86年当時、金日成は塩田の現代化を叫んでいた。そして、89年の「水産業のいっそうの発展と塩生産の増大をはかるために」(金日成著作集41巻、340ページ)では、長々と塩田の改良について述べた後、「製塩工場を建てるべきです」の一言を加えている。だが「製塩工場」の必要性について金日成が本格的に論じ出すには、91年の「工業的方法で塩を生産するために」(著作集43巻)まで待たねばならない。
<塩の問題を解決するためには、興行的な製塩方法を導入しなければなりません。塩を工業的方法で生産する問題は、今日初めて提起することではありません。われわれが塩を工業的方法で生産するため最初に手がけたのは、イオン交換膜が設置された電機透析機による製塩法です>(著作集43巻、193ページ)。
ここで金日成は、工場の廃熱利用の製塩についてもかなり詳しく述べ、ステンレス鋼で近代的な製塩設備を作ればよいのはわかっているものの、現況では不可能である、と嘆いている。この発言でわかることは、金日成の頭の中にある「製塩工場」とは、工場の廃熱利用の製塩を指していたのである。つまり89年時、ぽろりと一言だけ口にした「製塩工場」が、まさに廃熱利用による製塩工場。
だが91年の「製塩工場」では、金日成はイオン交換膜を用いる製塩方法を視野においている。そしてさらに「イオン交換膜」に関しては、次のように述べている。
<電機透析機による製塩法を導入すれば、コストの安い塩が大量生産できるのですから、電気透析に必要なイオン交換膜は輸入するか、さもなければ国内で生産する対策を立てるべきです。陽イオン交換膜は国産化されているのですから、陰イオン交換膜を開発する対策を立て、今後は塩の生産に必要なイオン交換膜の国産化に努めるべきです。>(著作集43巻、193ページ)。
この発言の中で「イオン交換膜」が頻出することは注目に値する。いうまでもなく金日成はこのとき、すっかり老いていた。だが、老いてなおかつその演説のなかで、こうした最新の科学知識を開陳しているのである。死の3年前、彼はなぜイオン交換膜にこれほど固執したのであろうか……。筆者はこれこそ、イオン交換膜からのイエローケーキ製造に、金日成が半ば強迫観念のように取り憑かれていた証拠に思えてならない。
北朝鮮の工場式製塩を追うと、この間の科協の動きとは、ここに引用した金日成の言葉を逐一裏付けるものである。第3次7カ年計画が発動されるやいなや、87年8月に科協は神奈川支部を主たる構成員とする「塩の代表団」を北朝鮮へ派遣している。これは北朝鮮側の要請に基づいたものであったという。
北への製塩技術移転と科協
科協が「塩の代表団」を派遣した87年の秋、こんどは北朝鮮からの「塩の代表団」が技術導入を図るべく、日本を訪ねてきた。北朝鮮の代表団はこのとき、渋谷の「塩と煙草の博物館」から、瀬戸内海沿岸立地の赤穂海水化学工業、ナイカイ塩業を訪れている。そして金日成が先に挙げた「工業的方法で塩を生産するために」を演説した2ヶ月後の10月2日、工業都市・咸興では「現代的な塩工場の着工式」がもたれている。
この10月には北朝鮮で全国科学者大会が開催され、科協も代表団を連ねて参加している。この大会に金正日は「科学技術発展で新たな転換を呼び起こそう」と題された書簡を送っているのだが、その書簡には科協へ大いに期待する言葉、すなわち「在日朝鮮人科学者との創造的協調」が挿入されているものであった。
筆者の知人は、96年春に行われた日本化学会にて、「塩の代表団」の一員として訪朝した科協のメンバーに「北のイオン交換膜法の塩の生産は順調ですか」と尋ねたエピソードを語ってくれた。そのとき、科協メンバーは開口一番、こう答えたという。
「おわかりでしょう」――。電力不足のおかげで、製塩工場は操業していないとのことだった。
では、せっかく技術導入したイオン交換膜法による製塩工場は遊んでいるとでもいうのだろうか。あるいは解体され、屑鉄として中国に持ち込まれるために、鴨緑江を渡ったとでも言うのだろうか。筆者の考えはノーだ。
むすび
本文冒頭に紹介した、中国政府高位当局者による「北朝鮮は来年の比較的早い時期に、再び核実験を行う」という予測については、筆者も同じ危惧を抱いている。
北朝鮮にとって「核開発の大本命」はウラン型核兵器、それも小型のものだ。先に述べたとおり、ミサイルの弾頭として搭載可能な大きさに近づけることが、一つのゴールであろう。
だが北の核開発にとってウラン型核兵器が目指す究極の姿とは、弾頭サイズにまで小型化することだけではない。ウラン型にせよプルトニウム型にせよ、いわゆる原子爆弾とは核分裂爆弾。これに較べ、核融合爆弾(水素爆弾)の方が放出エネルギーが大きく、臨界量がないため威力の上限もない。核分裂爆弾はいまや、核融合爆弾の起爆装置として使われるのが一般的だ。簡単に言えば、北朝鮮による原子爆弾開発とは、単なる起爆装置づくり。彼らが将来保有するであろう、水素爆弾の起爆装置の開発、という可能性も、現実問題としていま浮上している。
北の核を「恐れずに足らず」という認識は百害あって一利なし。第一、核を持たない日本が、核保有国を「恐れるな」とは、いったいどういう論理なのか。
北の核を侮るなかれ。そして2007年のわが国にもっとも必要なことは、北の核を契機として、日本の核武装について議論を尽くすことだろう。
* * *
日本の原爆研究は陸軍が理研、海軍が京大に依頼して43年から始められた。「マンハッタン計画などとは比べものにならない小さな規模であるとはいえ、日本でも原子力研究が原爆研究から始まったことは、注目すべき」(市川富士夫「私は原子炉JPDR」リベルタ出版、89年10月)ことである。この理研の研究は「二号研究」、京大のは「F研究」と暗号で呼ばれていたそうだが、その京大で留学生として軍事研究に従事していたのが「北朝鮮核兵器開発の第一人者」李升基博士であった。
李升基博士の自伝には、「この時代の研究は自分の意に添わないものであった」と語っている。だが、李升基は日本の軍事研究に従事したことで、その体制と技術とを丸ごと身につけていたのである。韓国に戻り、さらに北朝鮮へと渡った李升基博士がトップリーダーとなった「北の軍事研究体制」のなかに、かつての日本の姿を見ることができる。つまり北朝鮮の「主体的核開発」とは、大日本帝国における軍事研究の延長線上にある、と理解しうるものだ。
北朝鮮で唯一、金日成に対等に口をきけたのは李升基博士だった、というのは、科学技術移転に従事した脱北者から筆者が直接聞いたことだ。朝鮮語を充分に解するものなら、李升基博士がどのような位置にいたかが、より正確に理解できたはずである。その意味は深く、そこから「主体思想」に対して別の、従来とは異なる解釈が必要とされてくる。■
(2006年12月31日 記)
http://www.gyouseinews.com/?option=com_content&view=article&id=67:2009-07-09-03-37-42&catid=40:2009-07-09-03-16-55&Itemid=62&fontstyle=f-larger
7 件のコメント:
福岡教育大学 韓星民
Amazon 若林忠宏著
もっと知りたい世界の民族音楽
blogs.yahoo.co.jp./enishiforumblog
田母神さんも付き合う相手間違えましたね。
1国(日本)2制度(北+日)3制度(巴、鼎)。 そのケツモチを含めると何制度になるやら。
The disasterを止める器がアベシンゾーに本当にあるのか。
いつZ製薬@アサコールが噴出すのか不安DEATH
インドネシア、ニッケル禁輸…日本の最大輸入先
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20140112-OYT1T00924.htm?from=blist
>「ただちに影響が出る可能性は低い」
キリッwwww
>姫路市白浜町宇佐崎
って阪神大震災後オイラが住んでた仮説住宅があった町じゃないですかー(爆w
つーか則武www
電力用変圧器技術発展の系統化調査 - 産業技術史資料情報センター
sts.kahaku.go.jp/diversity/document/system/pdf/013.pdf
矢成敏行 著 -
この時点をもってわが国の変圧器技術が一人前になったと見てよいと考える。 (2)朝鮮半島での発展. わが国の変圧器が大いに発展したのは昭和に入って. 朝鮮半島に進出して電力開発を進めた時代に合致して. いる。最初は1928年に36MVA器が納入された .
此処に排除すべき
団体やら人物がwww
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