コレも、
と関係してるわけで・・・
→仏教徒を装って
オルレ - Google 検索 via kwout
→済州島
、、、(爆wwwwww
五島列島 カクレキリシタンとカトリックの胸の内
2011年2月18日
隠れキリシタン組織の第9代大将(最高責任者)を務める坂井好弘師のお宅では、約1時間半の長きにわたり、参加者も積極的に質問しての熱い質疑応答が繰り広げられた。
金子:現在、カクレキリシタンの組織はいくつあるんですか?
坂井大将(以下、大将):五島列島でカクレの組織は、ここしか残っていません。全国では、他に長崎市の外海地区に2つあるだけです。彼らとは交流があって、以前、うちに来た際に、「五島のカクレキリシタンたちが一番、昔のまま信仰している」と言われました。
五島列島には江戸中期の1797年以降に、その外海から約3000人のカクレキリシタンが仏教徒を装って、荒地を開墾する農民として移住してきました。
しかし、うちの初代が大将になったのは、移住より前のことだと思います。「大将」は、代々家内の家に受け継がれ、7代目の義父は50~60年も大将をしていました。
坂井夫人(以下、夫人):私の父には男子がいなかったため、宗教を継いで欲しいが故に、私には高校の時から従兄弟という許婚(いいなずけ)がいたのです。
大将:実は、私は、元々は仏教徒で島の人間でもないんです。恋愛結婚をしてここに住むようになって、義父がお祈りしているのに気づいて、はじめてカクレキリシタンだとわかった。「洗礼を受けなさい」と言われたので受洗しましたが、気にはしていませんでした。当時は、義父には3人の付き人がいて、祈る時には納戸を閉め切って声を出さずに行っていたのです。
金子:なぜ、カクレキリシタンと分かったんですか?
大将:毎週日曜日になると、夜明け前に付き人たちが山道を歩いて来て、夜明けごろになると帰って行くのです。その際には、義父は、普段は着ない着物を着るものですから。
夫人:父は、ハマチの養殖を36年間もしていました。忙しかったけれど、お祈りもしなければならない。しかし、一度も愚痴を言ったことはないんです。そのお陰で、私たちは幸せになっていると思っています。
大将:大将になる人間は、正直であって嘘はつかない、人を騙さない。毎週日曜日には、大将だけがお祈りをするんですよ。現在の信者は14軒ですが、皆の名前を言って、その家族も守ってもらえるようにと。
夫人:その父の後を継いで8代目となったのは、今は86歳になる親戚でした。10年ほど大将をしていましたが、病気で入院してしまったのです。するとある時、病院から呼び出しがあって、「2人で来て欲しい。後を継いで欲しい」と言うのです。その時はもう(絶句)。私は継ぐことをお断りしてきたんです。父の様子は見て来ましたが、祈りの言葉もわからないし、オラショのノートを見ても内容もわからなかったから。
大将:私たちだけで決めることは出来ないんですね。信者の皆さんに図らなければならない。皆さんは、義父の養子となった私たちの長男が継いでくれるまでは、ということになった。私たちはあくまで中継ぎなんですよ。
夫人:息子は現在、結婚して33歳です。カクレにもお盆があるのですが、息子は3歳の頃から、小さいながらも父に付いて6~7軒の檀家(だんか)を廻っていたんです。小さい頃から「自分が継ぐんだ」と言っていました。息子は、カクレのことをこうしてお見せするのも「とんでもない」と言うんです。息子の代になったら、「また、伏せたい」と言っています。
金子:ということは、こういう機会はなくなると言うことですか?
夫人:そうです。
大将:私は義父の付き人を30~40年やって来て、先代の親戚にも一緒に来てもらってお祈りの仕方を習いました。ですから、息子も60歳で定年を迎えたら、私と一緒に廻ってやり方を覚えてもらいたいと思っているんです。そして、代々受け継いできた「神様」(ロザリオやイエス・キリスト像)を渡していきます。
大将は、年に3回大きな行事の際に信者が祈りを捧げると言う、「神様」を手に取って見せてくれた。神様に触れることができるのは大将だけだという。
大将:12月24日の夜中に行うクリスマスでも、私が最初に祈りを捧げたあと信者にも「神様」を廻します。信者はこの箱の中をのぞき込むようにして見ながら、おさい銭を入れて願い事をするんです。
一つの箱には「400~500年前のロザリオ」が、もう一つの箱にはイエス・キリスト像と伝わる日本人的な金属製男性像と共に、江戸時代の古銭と5銭や1銭玉が入っていた。
話が白熱してくると、大将夫妻は、カクレとしての心のうちを赤裸裸に語ってくれた。
大将:3年前(平成19年)の12月22日に「引き継ぎの儀」を行い、私たちが「神様」をお預かりして、大将になってから、カクレのことを少しでも興味がある人に披露した方がよかと思いました。それで、信者の皆さんにもクリスマスに集まった時に図って許可を得た。それで、公開するようになったんです。
金子:どうして、そういうお気持ちになったのですか?
夫人:何も知らないからだと思います(一同爆笑)。
私は本当に胸が痛くて、父が亡くなって12年になるんですけど、父に申し訳なくて、毎日、毎日・・(目に涙を浮かべる)。
大将:でも、これは日本の歴史です。もう、これは、先行き、絶対に無くなるんです。私は、あるうちに伝えていった方が良いと思うんです。だけど、家内やお年をとった人は、そういうもんじゃない。一切、人には触れさせたくない。見せたくないと言うんです。
夫人:この人は、NHKにも。絶対見せないって約束しているのに裏切ってから(一同爆笑)。その時は大喧嘩なんです。今でも葛藤があります。申し訳ないと言う気持ちの方が大きい。
参加者:今の時代、密にする必要はあるのでしょうか?
夫人:禁教令が解けて138年になります。ですから、隠さなくても良いんですけど、代々して来ているものだから、隠さなければいけない、隠していきたいと思うんです。そうでないと、ご先祖様に申し訳ないと思うんです。一方で、もう、オープンでも良いとも思う。
大将:そやけん。私も心が痛いんですよ。30~40年も見て来たし、付き人もずーっとしてきて。
夫人:ほんと?(一同爆笑)そうなの!?今まで、そんなこと一言も言わなかったじゃない!
大将:それは心の中では。でも、それを吹っ切らんば。だから、対立すっとですたいね。
参加者:カトリックに対しては、どういうお気持ちをお持ちですか?例えば、この「神様」もイエス・キリストですよね?
大将:イエス・キリストですけど、カクレとカトリックとはぜんぜん交流はないのです。祈りの言葉も似ていますけど(オラショを唱え始める)。今のカトリックの聖書は3回ほど変わっていて、私たちのはその前のに似ているんです。
夫人:カトリックの人たちは、「自分たちと一緒なのにどうして教会に来ないの」と言うんですよ。でも違うんです。私の父の信仰とカトリックは違うんです。
金子:どのように違うんですか?
夫人:カクレは今でも密に守っているが、カトリックはオープンにしている。カクレは少人数で祈るが、カトリックは皆で祈る。カクレは御膳を作るが、教会ではパンとワインです。カクレが十字を切るのは受洗の時と亡くなった時だけですが、カトリックは何度でも十字を切る。
実は、高齢の先代は、3年前に引き継ぎの儀をしてから、カトリックになってしまったんですよ(残念そうに)。83年間もカクレキリシタンで、30~40年も付き人をやって、大将を10年もしていたのに。考えられないですよね。
大将:自分の最期と死後を見る子供たちがカトリックなものですから、泣き泣きカトリックに行くんですね。それはわかるんです。
夫人:それでも、その人から電話が掛かって来て、教会暦を毎年作るんですけど、「どこどこはわかっとるとね。わからなかったら聞いて」と。だからその人も名残があるんですよ。
大将:でも、昔からの仕来りで、一度、カクレからカトリックや仏教になった人は、もう2度とこの「神様」の前に来ることはできないんです。悲しそうなのはわかりますが、「いいから来んね」とは言えないんです。
坂井大将夫妻の話に心を揺さぶられた私たちは、後ろ髪を引かれる思いで、次の目的地であるカトリックの桐修道院に向かった。
ここでは、下本照子シスター(79歳)が出迎えてくれた。
「私は、先祖の信仰の遺産を受けて、神の計らいで、19歳のときに修道女となりました」。
実は、シスターは、明治初年のキリシタン弾圧の際、「キリシタン洞窟」に隠れ住んで難を逃れようとした
隠れキリシタンの一人、山下久八を先祖に持つ、4代目の子孫なのだ。
キリシタン洞窟は、若松島南端の大海に面した断崖絶壁の底にあり、現在でも船でしか訪れることはできない。シスターの話によると、そこに、ご先祖の久八ら3家族が潜んでいた。しかし、ある朝、洞窟から漏れた朝食の煮炊きの煙が沖行く漁船に怪しまれ、あえなく代官に捕まってしまう。連行された3家族は、海に投げ込まれ、浮き上がったら沈められ、浮き上がったら沈められる「水責め」、三角の角材を並べた上に正座させられ、太ももの上に重い板石を乗せていく「算木責め」といった過酷な拷問を受け、ついに、久八ら2名の家長は歩行困難になってしまう。その一部始終を見ていた当時9歳の久八の次女が晩年に話をしたことで、キリシタン洞窟が世に知られるようになったのだと言う。
明治5年に戸籍が作られることになると、平民の多くは地名を姓として名乗ったが、代官たちは、キリシタンには軽蔑の意味を込めて、「下(しも)」の文字を入れた姓を付けた。
「下本、下山、下村、山下・・・、もう、下ばっかりです。しかし、今では、その軽蔑の文字が信仰の証となっています」。
シスターの話のあと、私は、参加者を代表して、疑問点を正していった。
金子:ご先祖様がキリシタン洞窟で受難されたわけですが、隠れキリシタンからカトリックに変わったのは何代前からですか?
シスター:初めからずーっとです。久八も幼児の時からカトリックです。カトリックだったけれども禁教令で、信仰はしてはいけないと言うことになってたでしょう。
金子:すると、あくまで、潜伏はしていたけれども、最初の先祖からシスターまで、ずっとカトリックとして変わらなかったと言うことですか?
シスター:そうです。
シスターのきっぱりとした答えに、会場には静かなどよめきが起こった。カトリックとカクレは別の信仰と見る坂井大将夫妻の考え方との違いが、明確に浮かび上がって来たからだ。
金子:今でもカクレキリシタンを称する人々をどう思いますか?
シスター:信仰は自由になり、隠れなくても良くなったのですから、公に出て来て、教会に帰ってもいいと思うんです。
金子:カクレキリシタンも同じカトリックなのですか?
シスター:そうです。ですから、いつでも教会にいらっしゃいと言うんです。私の親戚にもカクレをしている人がいて、『おじちゃん、出ればいいとね』と言ったら、『おばあちゃんが先に逝っとるが、(カトリックになると)おばあちゃんの墓に行かれないから』と。私は、『いや、そんなことないよ』と言ったんですけど、そういうちょっとした考えの違いがあるんですよ。
ある参加者からは、旅が終わったあと、次の様なメールが届いた。
「今回の旅で、今まで良く分からなかったカクレキリシタンとカトリックとの関係が、やっと理解でき、腹に落ちました」。
そうなのだ。山神神社の例大祭に始まり、坂井大将夫妻、そして、下本シスターとの交流という一連の流れが、参加者の「隠れキリシタン」への理解を深めてくれたのだ。しかし、当初の日程では、下本シスターの桐修道院には、この日の最初に行く予定だった。それが、台風によるフェリーの欠航で、これ以上あり得ないという絶妙な流れに変わったのだ。それは、正に「神の采配」とでも言うべきものだった。
・五島列島の隠れキリシタン:
戦国時代の1566年、ポルトガル人と日本人の2人のカトリック修道士が五島列島を訪れ、領主・宇久純定の病気治療を通して信頼を得て布教を開始。やがて、各地には教会堂が建ち、信徒は2000人を超えた。しかし、江戸時代に入り1614年に禁教令が発布されると、宣教師は追放され、キリシタンは弾圧された。一度は消滅した五島列島のキリシタンだったが、江戸中期の1797年以降には、幕府の荒地開墾奨励政策を受けて、長崎の外海から約3000人の仏教徒を装った潜伏キリシタンが五島列島各地に移住した。
江戸末期の1865年、長崎の居留地に建った大浦天主堂(カトリック教会)に潜伏キリシタンが訪れ、禁教令により最後の神父(日本人)が殉教してから229年ぶりに神父(フランス人)と再会。この「信徒発見」のニュースは瞬く間に広がり、当時のローマ教皇は「東洋の奇蹟」と言って感激したという。神父再来のニュースは五島列島にも伝わり、信徒代表らがこぞって大浦天主堂を訪問。ついには、五島列島・久賀島の信徒たちが役人に信仰を表明したことをきっかけに、明治元年には五島列島のキリシタン弾圧が始まった。これらの事件は、列強諸国の反発を招き、明治政府は、ついに、明治6年(1873年)、江戸時代以来の禁教令を廃止。その後、五島列島では外国人宣教師による布教が行われ、明治13年(1880年)には信徒数が6000人を数えたという。
一般的に「隠れキリシタン」と呼ばれている人々は、学術的には、江戸時代の禁教令下で信仰を守った「潜伏キリシタン」と、明治6年(1873年)に禁教令が解かれたあとも、カトリックには戻らず、禁教令下と同じ秘教的信仰形態を守り続けた「カクレキリシタン」とに分かれる。カクレの信仰は、カトリックから出発したものの、禁教令下の聖職者不在のなか、仏教や神道の影響も受けて独自の進化を遂げていた。
http://www.asahi.com/travel/hikyou/TKY201102150432.html
8 件のコメント:
そういえばBob兄貴んとこで
一時期この記事がアゲアゲされてたようなw
http://birthofblues.livedoor.biz/archives/51299027.html
個人的に腹筋が、、、(爆wwwww
この記事上げてたオツムてんてんの君達
ねえいまどんな気持ち?^^やっぱ死にたい?(爆www
中日の社長さんはこの記事とは関係ないけどねw
また記事上げ上げを開始した模様(爆www
わかりやすいバカ連中ですなあ^^
>金子
ポインタが飛んで飛んで♪したのでどういった方か調べてみますたw
http://www.alc.co.jp/eng/ej40/comment/05.html
~
『English Journal』40周年、本当におめでとうございます! 心よりお祝い申し上げます。
この文章を書いている現在、私が専門とする中東・北アフリカ地域では、約 40 年間続いた2つの独裁政権が、今正に倒されようとしています。リビアのカダフィ政権と、シリアで親子2代にわたって君臨したアサド大統領のバース党政権です。両国の「民主化」を求める反政府勢力は、多くの犠牲者を出しながらも、首都にある政権の牙城にまで迫る勢いです。一方、EJは、40年間、英語教育界に「君臨」し続けています。この両者は一体何が違うのでしょうか。「ばかばかしい比較だ」と一笑に付す読者もいらっしゃるかもしれません。しかし、少々お付き合いください。
中東では、イデオロギーが、左翼的な社会主義から右翼的なイスラーム原理主義へ、そして、現在の脱イデオロギー的なインターネットを通しての民主主義を求める時代へと、大きく変化したにも関わらず、カダフィ大佐は、最後まで「(社会主義的な)革命」を叫び続け、両政権共、時代の変化と国民の要求には応えられていなかったと思うのです。
それに対して、EJは英語教育の時代の変化に、また、刻々と変化する読者の要望に応え続けて来られたのではないでしょうか。そのEJに、私は、半年から1年半にわたる連載を、計4回執筆させていただきました。
「世界各国人生模様」(1994年)では、世界6カ国(アメリカ、イギリス、スウェーデン、エジプト、スーダン、インド)の計約30家族を訪問取材して、「教育」「住居」、はては「恋愛・結婚」に至るまで、さまざまなテーマで国別比較を行いました。
「世界の誰とでも仲良くなる法」(1995~96年)では、文字通り、世界の人々との異文化間交流のコツを伝授。「異文化間コミュニケーション」の学術的最新研究成果を踏まえて、国や文化圏別に、「友達の作り方」「恋愛の仕方」「近所との付き合い方」などの人間関係の「傾向と対策」を執筆しました。
「世界丸ごと交際術」(1999年)では、世界主要国のビジネス文化の違いと対応法を記載。
「歴史の風景を訪ねて」(2000~01年)では、歴史と宗教から見た世界各文化圏の真髄を執筆。お蔭様で、各連載共、好評を博することができました。
これらの連載に共通するテーマは、「異文化間交流」です。そして、このテーマは、英語を学ぶ読者の永遠の関心事であり、現在でもEJの柱の一つとなっているのではないでしょうか。
これらの連載を通して、私自身も、ライターとして、また、異文化間コーディネーターとして育てていただき、NGO「中国福建省残留邦人の帰国を支援する会」代表(1995~98年)、NGOピースボート水先案内人(講師)(1998~2001年)、陸上自衛隊イラク派遣部隊付アラビア語通訳兼異文化間コーディネーター(2004年)、大阪市立大学(2006年)や東洋大学(2010年)での非常勤講師などとして結実することができました。
この記念すべき40周年のときに、EJとお世話になった編集部の方々に改めて深く感謝申し上げますと共に、EJの益々の発展と若い英語学習者への貢献を祈念して祝辞と致します。
金子貴一(かねこ たかかず)
~
>NGO「中国福建省残留邦人の帰国を支援する会」代表(1995~98年)
ポインタ飛びますたwww
https://www.google.co.jp/search?q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E7%A6%8F%E5%BB%BA%E7%9C%81%E6%AE%8B%E7%95%99%E9%82%A6%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%B8%B0%E5%9B%BD%E3%82%92%E6%94%AF%E6%8F%B4%E3%81%99%E3%82%8B%E4%BC%9A%E3%80%80%E9%87%91%E5%AD%90%E8%B2%B4%E4%B8%80&oq=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E7%A6%8F%E5%BB%BA%E7%9C%81%E6%AE%8B%E7%95%99%E9%82%A6%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%B8%B0%E5%9B%BD%E3%82%92%E6%94%AF%E6%8F%B4%E3%81%99%E3%82%8B%E4%BC%9A%E3%80%80%E9%87%91%E5%AD%90%E8%B2%B4%E4%B8%80&aqs=chrome..69i57&bmbp=1&sourceid=chrome&espvd=215&es_sm=122&ie=UTF-8
>NGOピースボート水先案内人(講師)(1998~2001年)
ぴーすぼーと水先案内人って(爆wwwww
https://www.google.co.jp/search?q=NGO%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%88%E6%B0%B4%E5%85%88%E6%A1%88%E5%86%85%E4%BA%BA&oq=NGO%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%88%E6%B0%B4%E5%85%88%E6%A1%88%E5%86%85%E4%BA%BA&aqs=chrome..69i57&bmbp=1&sourceid=chrome&espvd=215&es_sm=122&ie=UTF-8#es_sm=122&q=NGO%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%88%E6%B0%B4%E5%85%88%E6%A1%88%E5%86%85%E4%BA%BA%E3%80%80%E9%87%91%E5%AD%90%E8%B2%B4%E4%B8%80
>陸上自衛隊イラク派遣部隊付アラビア語通訳兼異文化間コーディネーター(2004年)
陸上自衛隊イラク派遣部隊 金子貴一
ヒゲの隊長もご存知な方なんですかね?(w
>大阪市立大学(2006年)
大阪市立大学 金子貴一
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:IlVrjTmB668J:sea.ap.teacup.com/hachidaiga/24.html+&cd=2&hl=ja&ct=clnk&gl=jp
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:qw3I2ug3lHsJ:sea.ap.teacup.com/hachidaiga/49.html+&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp
>東洋大学(2010年)
東洋大学 金子貴一
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:geJBmEBkIVQJ:sea.ap.teacup.com/hachidaiga/119.html+&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp
>中国福建省残留邦人の帰国を支援する会 金子貴一
こんなページが、、、(w
中国密教、弘法大師空海の研究
http://www5.nkansai.ne.jp/users/kusatani/My%20Documents/newpage2.html
どなたが書いてるかというと、、、
http://www5.nkansai.ne.jp/users/kusatani/My%20Documents/index.htm
ひょうのせん@明石の上(爆wwwwww
昔スキーやバイクのジムカーナの練習でよく行きましたわw>氷の山
新年初腹筋崩壊death^^;
http://sankei.jp.msn.com/life/print/140105/trd14010511300003-c.htm
「オルレ」別府コース一時閉鎖
自然の中を歩くレジャー「オルレ」のコースとして人気がある「別府コース」が、今回の一連の地震の影響で、落石や土砂崩れなどのおそれがあるとして一時的に閉鎖され、別府市が利用の自粛を呼びかけています。
「オルレ」は韓国が発祥の自然の中を歩くレジャーで、国土交通省九州運輸局と九州観光推進機構が、韓国からの観光客誘致につなげようと、九州各地でコース作りを進めています。
このうち別府市の「志高湖」をスタートして高原を1周するおよそ11キロの「別府コース」は、由布岳と鶴見岳の雄大な景色を楽しめる観光スポットとして人気を集めています。
しかし、今回の一連の地震の影響で、落石や土砂崩れなどのおそれがあるとして、別府市は、今月19日からコースを一時的に閉鎖し、利用の自粛を呼びかけています。
別府市によりますと、コースの管理を委託している会社が、安全かどうかの確認作業を進めているということで、別府市は、大型連休の間に確認を終え、早ければ連休明けにもコースを再開したいとしています。
04月26日 18時23分
www3.nhk.or.jp/lnews/oita/5074814911.html?t=1461702937230
>「オルレ」は韓国が発祥の自然の中を歩くレジャーで、国土交通省九州運輸局と九州観光推進機構が、韓国からの観光客誘致につなげようと、九州各地でコース作りを進めています。
オルレ(韓国が発祥の自然の中を歩くレジャー)開設前に清掃
自然の中を歩くレジャーで、九州各地でコース作りが進んでいる「オルレ」の新しいコースが来月、みやま市に設けられるのを前に、地元の人たちがゴミ拾いを行いました。
「オルレ」は、韓国が発祥の自然の中を歩くレジャーで、九州観光推進機構などが九州各地でコースの整備を進めています。
このうち、みやま市の清水山を巡る「みやま・清水山コース」が来月19日に開設されるのを前に、26日、地元のウォーキング協会の人たちおよそ30人が集まり、コースを歩きながらごみ拾いをしました。
参加した人たちは林の中や溝など見えにくい場所に捨てらていた空き缶や紙くずなどをていねいに回収していました。
清水山を巡るコースは全長11点5キロで、清水寺の周辺の山道や竹の林、山頂の展望所などを回ります。
およそ5時間かけて歩きオルレコースの難易度は中級から上級になるということです。
「みやまウォーキング協会」の丸尾敏朗会長は「コースの開設が楽しみで、訪れる人たちに喜んでもらうためコースをきれいにしました」と話していました。
01/27
http://www3.nhk.or.jp/lnews/k/fukuoka/5013377991.html
倭寇が盗んだら盗み返すニダ
「宮城オルレ」認定が決定 Wed, 13 Sep 2017 10:44:20 +0900
地域の文化や歴史に触れながら自然の中を散策するコースを宮城県が気仙沼市などに整備する計画が韓国生まれのレジャー「オルレ」に認定されました。認定は九州に次いで全国で2番目だということで県は今後、コースの整備を進める方針です。「オルレ」は、地域の文化や歴史に触れながら自然の中を散策しコースに沿ってゴールを目指す韓国生まれのレジャーで、チェジュ島の社団法人が認定しています。県は、震災で落ち込んだ沿岸部の観光客数の増加につなげようと気仙沼市の唐桑半島の先端から付け根までのおよそ15キロのコースのほか、東松島市にもコースを整備する方針を決めて、認定を申請するとともに7月には現地視察などを行ってきました。その結果、9月9日に県の担当者が韓国を訪問した際、社団法人の理事会で「宮城オルレ」として認定することが決まったと伝えられたということです。沿岸部の豊かな自然環境などが評価されたということで、認定は九州に次いで全国で2番目だということです。県はことし11月にも社団法人と正式に協定を結んでコース整備に取りかかり、来年春以降のオープンを目指す方針です。
20170913/3880711.html
高麗神社近辺や朝鮮通信使とゆかりのある地域や皇居周辺も、オルレに最適ではないでしょうか!
コメントを投稿