石像無残、手や足壊される 熊本市・金峰山神社
熊本市の金峰山(標高665メートル)の山頂にある金峰山神社で、石像2体の手や足が壊されているのが見つかった。登山者らからは「いたずらにしても罰当たり」と憤りの声が上がっている。 被害に遭ったのは、拝殿前に祭られている「金剛蔵王大権現[こんごうざおうだいごんげん]」(台座を含め高さ約3メートル)と、「役行者[えんのぎょうじゃ] 神変大菩薩[じんべんだいぼさつ]」(同約2・5メートル)。 神社宮総代の原口環さん(71)=同市=によると、登山者の1人が20日朝、大権現の左手の指と右足の爪先、大菩薩の右手が壊されているのを発見、警察に通報した。 ハンマーなど硬い物を使ってたたき割ったとみられ、破片の一部は見つかっていないという。「しめ縄を荒らされたりしたことはあったが、石像への被害は初めて」と原口さん。同日、熊本南署へ被害届を提出した。 金峰山一帯は、同市内で気軽に山歩きを楽しめる場所として人気。車で夜景を見に来る人もいるという。ここ数日、登山で訪れているという水洗寿男さん(45)=同市=は「厳粛な場所でこんなことをするのは残念」と話していた。(石本智)
[記事全文]
2011/04/22 13:20 【熊本日日新聞】
で、日本にも東北の2万人のお仲間の方々にも法則が発動してしまったわけです。(w
役小角出自
役氏(役君)は三輪氏族に属する地祇系氏族で、加茂氏(賀茂氏)から出た氏族であることから、加茂役君(賀茂役君)とも呼ばれる[1]。役民[注釈 1]を管掌した一族であったために、「役」の字をもって氏としたという[2]。また、この氏族は大和国・河内国に多く分布していたとされる[1]。
生涯
舒明天皇6年(634年)に大和国葛城上郡茅原(現在の奈良県御所市茅原)に生まれる。生誕の地とされる場所には、吉祥草寺が建立されている。
17歳の時に元興寺で孔雀明王の呪法を学んだ。その後、葛城山(葛木山。現在の金剛山・大和葛城山)で山岳修行を行い、熊野や大峰(大峯)の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築いた。
20代の頃、藤原鎌足の病気を治癒したという伝説があるなど、呪術に優れ、神仏調和を唱えた。また、高弟にのちに国家の医療・呪禁を司る典薬寮の長官である典薬頭に任ぜられた韓国広足(からくに の ひろたり)がいる。
文武天皇3年(699年)5月24日[注釈 2]に、人々を言葉で惑わしていると讒言され、役小角は伊豆島に流罪となる。人々は、小角が鬼神を使役して水を汲み薪を採らせていると噂した。命令に従わないときには呪で鬼神を縛ったという[3]。
2年後の大宝元年(701年)1月に大赦があり、茅原に帰るが、同年6月7日に箕面の天上ヶ岳にて入寂したと伝わる。享年68。
韓国広足 とは - コトバンク via kwout
韓国広足
生年: 生没年不詳
奈良初期の宮廷の呪術師。物部連の遠い子孫で,その祖が韓国に派遣され,この姓になったといわれる。修験道の開祖とされる役小角に師事して,道教的な呪術を学んだが,文武天皇3(699)年,師の秀でた験力を妬んで,妖術で人々を惑わしていると讒言し,これによって役小角は伊豆島に流刑にされたといわれる。神亀年間(724~729)には,医療を司る典薬寮の呪禁師であった。呪禁師とは杖刀をもって呪文を唱えて悪気を払い,病気や災厄を防ぎ除去する道教的な呪術を行う者である。天平4(732)年には,典薬寮の長官である典薬頭になっている。
(川村邦光)
韓国広足
韓国広足(からくに の ひろたり、生没年不明)は、7世紀末から8世紀の日本にいた呪術者である。姓(カバネ)は連。氏は物部韓国(もののべのからくに)ともいう。役小角を師としたが、699年に小角を告発した。呪禁の名人として朝廷に仕え、732年に典薬頭になった。外従五位下。
事績
韓国氏は古代の有力氏族である物部氏の分かれで、先祖が遣わされた国にちなんで改姓したと伝えられる[1]。在来の氏族ではあるが、その系譜から外来の知識・技能を学ぶに適した伝統があったと思われる[2]。
『続日本紀』によれば、文武天皇3年(699年)5月24日に呪術者の役小角が伊豆島に遠流された。外従五位下韓国連広足は小角を師としたが、後にその才能をねたんで(あるいは悪いことに使われ)、妖惑だと讒言した[3]。この箇所の解釈には、讒言したのは誰か別の人であるとしたり[4]、そもそも広足が小角を師としたくだりが後世の挿入だとする説もある[5]。『続日本紀』には外従五位下とあるが、韓国がこの位を授けられたのは天平3年だから、この時点ではもっと低かったはずである[6]。役小角は修験道の祖として有名な人だが、確かな歴史事実はこの事件のみで、他の事績は伝説に包まれている。妖惑とされた事実の有無・内容については不明だが、「讒言」という評価は『続日本紀』が編纂された100年後までの後世にできたものであろう[7]。
韓国広足は、『藤氏家伝』の「武智麻呂伝」に、余仁軍とともに呪禁の名人として記される。また、大宝令の注釈である『古記』に「道術符禁は道士の法で今辛国連がこれを行なう」とある。この辛国連(韓国連)は、広足のことであろう[8]。広足の呪禁は道教的な術であったと考えられる[9]。
天平3年(731年)1月27日に物部韓国広足は外従五位下になった。翌4年(732年)10月17日に典薬頭に任命された。典薬寮には呪禁博士1人、呪禁師2人、呪禁生6人が配属されていたので、広足は朝廷の呪禁者として勤め、典薬頭に上りつめたのであろう[10]。その後の事績は不明である。
平泉洸
平泉 洸(ひらいずみ あきら、1924年2月16日 - 1995年10月7日)は、日本の歴史学者である。平泉寺白山神社宮司・玄成院第二十五世。金沢工業大学名誉教授。
東京に、平泉澄の長男として生れる。京華中学校・大阪高等学校を経て、1948年東京大学文学部国史学科卒業。福井県立勝山高等学校教諭、福井県立勝山精華高等学校(現福井県立勝山南高等学校)教諭などを歴任し、1972年から、金沢工業大学教授。1980年、平泉寺白山神社宮司。1994年、金沢工業大学を退官して、名誉教授となった。
金沢工業大学教授平泉隆房の父。
と韓国広足を擁護されてる小林恵子さんですが・・・
『 確かに小林恵子さんの本は、むちゃくちゃな話ばかりですが、あなたの言うように貴種願望という面もあるかもしれないが、日本文化朝鮮淵源説と見たほうが分かり易いのではないか。韓国や北朝鮮の学者が、このような説を述べるのは今までにもあったが、日本の学者が書く、ということに、文芸春秋社などの大出版社が、売れる、と見て後援しているのではないだろうか』、ということでした。
キムチ工作員なわけです、、、(爆wwwww
2 件のコメント:
平泉澄 「この刀によって私は陸軍というものを鍛え直した」 (w
カルトに武道w
de
武道必修化なんて止めちまえ!(爆w
http://tokumei10.blogspot.jp/2013/08/blog-post_1080.html
絶滅危惧ギフチョウ保護条例
御所市は葛城山に生息する絶滅危惧種の「ギフチョウ」を守るために、山の周辺での捕獲の禁止や罰則を盛り込んだ保護条例を制定しました。
ギフチョウは、広げると6センチほどになる黒と黄色の鮮やかな模様の羽根が特徴的な日本の固有種ですが、乱獲などで数が減少し、環境省が絶滅危惧種に指定しています。
御所市の葛城山に生息するメスは、ほかの地域のチョウに比べ大型で学術的に貴重とされますが、市によりますと、10年ほど前からギフチョウが乱獲されたり、卵を産み付ける植物のミヤコアオイが根こそぎ採取されたりする被害が相次いでいるということです。
このため御所市は、葛城山とその周辺のあわせて100ヘクタールあまりの範囲でギフチョウの捕獲やミヤコアオイの採取を禁じて、違反した場合5万円以下の罰金を科すことを定めた保護条例を12月に制定しました。
条例は、来年の2月から施行されます。
御所市によりますと、ギフチョウの保護条例は関西の自治体では初めてだということで、今後、葛城山の遊歩道に条例の規定を記した看板を設置するほか、ボランティアの監視員が巡回するなど保護に力を入れていくことにしています。
(2014年)12月25日 18時32分
http://www3.nhk.or.jp/lnews/nara/2054160781.html?t=1419588975312
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