2013年7月6日土曜日

バチカンのサイドチェンジ確定(爆w














、、、(w

4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

日本をこれだけ荒廃させたクズどもが
何の不利益を被ることなくのうのうと生きられるってことを、
のうのうと暮らす人達に知って欲しいが、
無理なんでせうねぇ

匿名 さんのコメント...

ヨハネ・パウロ2世

2013年7月2日、聖人になる条件である二つ目の「奇跡」が認定され、年内にも、死去してから約8年という異例の短期間で列聖式が行われる見通しとなった。

当時、戦前のクラクフのユダヤ人社会に親しんでいたが、そのことが後に教皇としての姿勢に影響を与えることになる。

葬儀には、ネルソン・マンデラ 南アフリカ元大統領も参列。
この方にも奇跡はあるのでしょうか。

ご近所 さんのコメント...

早速ですかw


山口仙二さん死去 長崎被爆者、国連で証言など反核運動けん引

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/nagasaki/article/24872

長崎原爆で被爆し、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の代表委員として日本の反核運動の先頭に立ってきた山口仙二(やまぐち・せんじ)さんが6日午前9時30分ごろ、心不全のため長崎県雲仙市内の病院で死去した。82歳。長崎県五島市出身。自宅は雲仙市小浜町北本町。葬儀・告別式は8日午後1時から雲仙市小浜町北本町905の58、来迎舎小浜斎場で行われる。喪主は妻幸子(さちこ)さん。
 山口さんは長崎県立工業学校1年のとき、学徒動員で塹壕(ざんごう)掘りの作業中に爆心地から約1・1キロの地点で被爆。上半身に大やけどを負い、顔や体にケロイドが残ったほか、原爆症と思われる肝機能障害に終生苦しんだ。
 戦後は被爆者に対する偏見に耐えながら、1955年の長崎原爆青年会創設を皮切りに、被爆者組織の結成に奔走。全国の被爆者団体でつくる被団協の結成にもかかわった。
 81年に被団協代表委員に就任し、長期にわたって被爆者を肉体的、精神的に苦しめ続ける核被害の実相を国内外で訴えた。82年、米ニューヨークで開かれた国連軍縮特別総会では、被爆者として初めて国連総会議場で演説。「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ウォー(戦争)、ノーモア・ヒバクシャ」と絶叫し共感を呼んだ。
 84年から98年までは長崎原爆被災者協議会の会長を務め、94年の被爆者援護法制定に尽力した。ノーベル委員会の米国人顧問が功績を評価し、2005年には平和賞候補に推薦された。
 体調の悪化などにより、10年に被団協代表委員を退き顧問になった。雲仙市内のケアハウスで療養中も国内外のメディアの取材に積極的に応じ、晩年まで核兵器廃絶を訴え続けた。昨年10月の取材には、東京電力福島第1原発事故に触れながら「放射能の危険性への認識を世界にもっと広めないとだめ」と答えていた。
 本紙で01年11月から02年1月まで聞き書き「灼(や)かれてもなお」が連載された。
 ■援護法制定に導いた
 被爆者で元長崎大学長の土山秀夫さん(88)の話 正義感が強くて明るく、核兵器の問題になると徹底して主張した。晩年まで被爆者団体をリードし、被爆者援護法の制定に導いた。
=2013/07/07付 西日本新聞朝刊=


ご冥福を祈ります

と一応礼儀をつくしておいて

>山口
この苗字も多いなあ同級生

>五島市出身
>島原市小浜町
>長崎県立工業学校

合わせて1本(爆w


>被爆者で元長崎大学長の土山秀夫さん(88)

あら?オイラの同級生の天理教信者と同じ苗字ニダw

なつに咲くはなきょうちくとう~♪
せんそう終えた~その日から~♪
の続きの歌詞忘れちゃったw

とヒバク2世が冒涜してみるテスト^^

匿名 さんのコメント...

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