相互依存の日韓関係【9】
朝鮮戦争特需と日本の繊維産業
朝鮮戦争特需効果は、当時日本の産業全般に及んだ。なかでも繊維産業、特にレーヨン工業は著しく好業績を上げた。生産の増加、操業率の向上に加えて価格高騰により、レーヨン工業の業績は飛躍的に向上して莫大な収益を上げたものだ。朝鮮戦争の勃発後の半年間に、主要製品の価格は、レーヨン3倍、綿糸2倍、生糸1.8倍、電気銅2.5倍、薄銅板2.2倍、棒鋼2.2倍と急上昇した。
総資本に対する利益率からみた場合、1949年下期の化繊工業は6.1%であった。製紙業10.6%、百貨店10.2%、綿紡9.2%、板ガラス7.2%、石炭6.9%にも及ばなかった。しかし、朝鮮戦争開始後の50年上期には4倍以上の26%に急増し、全企業のトップに躍り出た。50年下期には化繊はさらに飛躍して91.8%の利益率を上げた。また綿紡も4倍近くの利益率を上げて40.5%と第2位を占めた。第3位の製紙の29.4%に大きく水をあけた。化繊と綿紡の景気は、質量ともに恐ろしいほど上昇した。
朝鮮戦争勃発前の1949年の日本の工業全体の生産額は1兆5079億円であったが、開戦後の51年には4兆1473億円と2.7倍の上昇であった。同期間、紡績業は約3.5倍上昇した。また、全工業のうち紡績業が占める割合は49年の16.9%から、51年には21.2%に上がった。紡績業が全産業の5分の1以上を占めている。この時期の日本経済は特需の恩恵をもっとも多く享受していた紡績業界に大きく依存していた。
朝鮮戦争勃発により海外需要が急増し、特に繊維、機械、金属部品への需要が増大した。さらに戦争特需は、復興途上にあった日本の綿業界に「糸へんブーム」を起こし、復興のスピードを急速に速めた。
連合軍総司令部(GHQ)は、50年前半期に化学繊維の生産、配給、価格の制限を撤廃したため、自由経済の下での生産活動に入った。GHQの勧奨によって、50年8月以降、純綿糸月産12万5000梱を目標とする特別増産運動が行われた。当時の設備状況から見れば過大と思われたが、紡績各社は紡績機械の回転数を引き上げ、休日操業による運転時間の増加などによって目標を上回る生産を上げた。この結果、50年の純綿糸生産は対前年比50.2%増を記録し、翌年には対前年比37.3%増となった。
このような綿業の好況は輸出・内需両面で支えられた。綿糸ペースで、輸出は49年の9万9000トンから50年には14万トンに伸び、内需もまた5万1000トンから10万5000トンに増加した。特に綿織物、綿二次製品が著しく増加した。綿織物輸出量は51年以降トップの地位を獲得した。輸出先は、アジア、欧州、米州、アフリカ、オセアニアなどであった。国別では、インドネシア、パキスタン、タイ、ビルマ(現ミャンマー)、アメリカ、南アフリカなどであり、東南アジア地域への輸出が圧倒的に多かった。
輸出綿糸布相場は韓国戦争勃発後急上昇した。輸出相場の高騰は国内の闇相場にもはね返り、紡績業界は莫大な利益を享受した。このような価格の上昇によってもっとも恩恵を受けたのは化繊部門であった。このように紡績業界はめざましい業績をあげた。
50年下期の日本の法人所得ベスト10は、繊維メーカーが独占した。「糸へん景気」を謳歌していた。「糸へん景気」は軍の衣料品、毛布、麻袋などに必要な繊維需要を表わしている。繊維メーカーの中でも東洋紡績が首位の座を維持していたが、売上に対する利益率では化学繊維部門が圧倒的に強かった。第1位の東洋紡績は売上高345億円に対して61億4800万円の利益を上げ、売上利益率は18%であった。ところが第2位の東洋レーヨンは売上高91億9400万円に対して41億5900万円の利益を上げ、売上利益率は45%を超えた。また、第4位の帝人は、売上高81億2200万円に対して37億1400万円の利益を上げ、売上利益率は約46%だ。収益率においては化繊部門が紡績部門より圧倒的に高い。
51年上期にも東洋紡績は、法人所得第1位を確保し、売上高227億円、純利益61億円であった。これは日本銀行に次ぐ第2位であり、実質日本一の純利益であった。純利益の資本金に対する割合は年率875%という異常な高率であり、4割8分の高配当率であった。29億5000万円を社内留保し、設備拡充資金に当てた。当時、八幡製鉄20億円、日立5億円、松下2億円、東洋レーヨン41億円の売り上げと比較して、東洋紡がいかに群を抜いていたかがわかる。
相互依存の日韓関係【10】
朝鮮戦争特需と日本の繊維産業
法人所得第2位の東洋レーヨンの51年の年間輸出実績は人絹糸472万7000ポンド、スフ399万3000ポンド、スフ糸331万ポンド、スフ織物1035万1000平方ヤード、ほかに織物業者渡しの人絹織物の輸出も相当あって、日本のレーヨン製品輸出の15~20%を占めた。他にナイロン、染色加工、ペニシリンなども好調で、東洋レーヨンの業績は飛躍的に向上した。50年上期の売上高は48億円、純利益は12億円、50年下期の売上高は92億円、純利益は41億円に増加した。51年上期の売上高は89億円、純利益は24億円であった。51年12月には資本金を15億円に増資した。
第3位の鐘紡は、50年上期の94億9000万円から51年上期には247億1000万円に152億円の売上増となった。純利益は50年下期には40億円を超え、51年上期には18億7000万円と半減したが、当時、17億8000万円の資本金を考えれば、高収益である。株式配当も50年3月期の1割8分から9月期には2割6分、51年3月期には3割6分、9月期にはついに4割の高率配当を行った。
第4位の帝人は、50年上期に40億6500万円を売上げ、9億4100万円の純利益を出した。50年下期には81億2200億円を売り上げ、37億1400万円の純利益を上げた。51年上期にも79億8500万円を売り上げ、23億5700万円の純利益を上げている。50年3月期の売上高が28億2200万円であるので、51年9月までの2年半の間に、売り上げは2.8倍以上伸びている。また、純利益は同期間に9倍の増加である。さらに50年下期と51年上期には5倍の配当が行われた。
第6位の倉敷紡績は、50年3月決算で、売上高44億9500万円、当期利益2億5400万円から、1950年上期決算では、売上高60億3400万円、当期利益8億1300万円に上昇し、50年下期決算では、売上高95億2100万円に向上して、当期利益は20億100万円へと跳ね上がった。朝鮮戦争勃発前に比べれば、開始後1年間で売上高は2.1倍上昇し、利益は7.8倍以上の急上昇である。そして4割の配当を行っている。半期20億100万円の利益は、5億円の資本金に対し、資本金利益率800%となり、大変な高収益であった。
「当時糸に対する需要は、激甚をきわめた。造りさえすれば売れて、いつも原料や資材に悩まされていた。だから、三原で資材係が 原料のパルプを、北海道まで特別購入に出かけた時などは、工場長以下が正門に整列して、これを見送り激励したほどである」と帝人の社史は書き残している。くず糸さえも飛ぶように売れる時代であった。当時の世相を現わした次のエピソードは興味深い。とにもかくにも人絹メーカーから現物を手にすれば、それが一夜にして3倍に売れるという連日の暴動相場が続き、プロの相場師は無論のこと、商社マンから地方のはた屋、それに一般庶民まで一獲千金を夢みて狂奔した。メーカーに対する高級キャバレーへの連日の招待戦術、糸を玉代にして芸者遊びに夢中になる商店主など、昭和の成金が一挙に全国に誕生したようなものだった。当時、こうした人々の間でさかんに使われたやり方に「オッパ」がある。A商社が糸の割り当てを受けると、それをB商社が買い、B商社はすぐそれをC商社に売る(これを「追っ放す」という。造語のもとがこれ)、そしてめぐりめぐって結局最初のA商社に戻ってくることもあったそうである。それでも各社とも十分に利益を上げたというからいかに熱狂的な相場だったかがわかる。
各社の社史は、朝鮮戦争特需についてかなりのスペースを割き、「糸へん景気」、「糸へんブーム」で大きな業績を上げていることを書き残している。東洋紡績株式会社の谷口豊三郎社長が、62年に綿紡工業が斜陽化した時、嘆いて「朝鮮動乱ブームがなければ、日本綿業も今日のような姿にはならなかったであろう」と述懐した。朝鮮戦争時の綿紡工業の莫大な利潤はあくまでも朝鮮戦争による特需ブームによるもので、この種のブームは決して長く続くものではなかった。戦争ブームによる巨額な利益を単なる量的な設備拡張に使用するのではなく、質的改善および競争力強化を伴う設備拡張、または将来を見据えた新技術の開発および新しい分野への投資が必要であった。そのような対策ができた企業はさらに発展し、そうでないところは淘汰したのである。
成功した例として、東洋レーヨンはデューポン社に対して払込資本金を3億円余も超過する莫大な対価で特許を取得した。倉敷レイヨンはビニロンの開発に社運を賭けた。
http://www1.ocn.ne.jp/~eapea/sougoizon/9-10.doc
、、、(w
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