2013年6月3日月曜日

八の上にざびえる富士と隠れ切支丹だった聖徳太子と乳製品



に関して東西各方面のアレな純血縁者として少しインサイダー情報を・・・(爆w

























→乳牛


→乳牛から蘇(そ、チーズ)

中国にチーズなんて乳製品の歴史は無いわけで・・・(w

で、



で、その親戚の本家では戦前よりはるか昔から乳牛を飼育してて、以前はドイツ人がおったてたデッカイ洋館に住んでたりしたわけで、そこにはご近所だった吉田さんやその他、大磯に別荘を持っておられたエロイ人たちや高貴な方がたが・・・(爆w


で、野口家といえば・・・



→野口能毅





→鹿島

→沖縄

で、尖閣といえば岩フェラさんだったりするわけで・・・(w



後はこぴぺ

【 神奈川における徐福伝承 】       更新:2007年12月26日
●神奈川県では徐福の伝承は、従来あまり取り上げられてこなかったが、藤沢市の妙善寺に福岡家の墓があり、徐福の子孫であると刻んだ立石があることが判明した。

妙善寺の福岡家の墓碑については、近年発足した神奈川県徐福研究会の河野氏らは、この墓碑の文面を写しとって研究会で紹介した。その後、墓碑内容を、徐福研究作家・池上正治氏が解読したところ次のようであったと前田豊氏44)が次のように紹介している。

「居士緯粛政 称正兵衛。其先出於秦徐福 徐福避始皇之乱 航海来我神州 而下居 於富士山周麓。 故子孫皆以秦為姓。其以 福岡為氏者 亦取徐福一字也。

且近地有 名秦野者蓋係政粛 一族之旧蹟。亦足以 徴為祖先之地矢。 我子孫其永記勿忘焉。天文二十三甲寅歳 粛道日正居士 正月十一日」

これを、筆者なりの口語訳を行った結果は、つぎの通りである。

「故人は、諱名を粛政と称し俗名を正兵衛という。その祖先は秦の徐福から出ている。徐福は始皇帝の戦乱を避けて海を渡航し、我が神州(日本)まで来て、富士山の周麓に下り住む。それ故、子孫は皆、秦を姓とした。福岡を氏と為すものはまた、徐福の一字を取ったのである。且つ、近くの地に秦野の名があるのは、粛政の一族の旧蹟に係るものらしい。これは、祖先の地を明らかにするに十分である。我が子孫はそのことを永く記憶し忘れてはならない。天文二十三(1554)年甲寅一月十一日」というものである。

福岡家累代の墓 福岡平一郎 (明治二十年、熊野速玉大社参詣)

これによれば、福岡家は、秦の徐福の子孫であり、渡海して富士山麓に住み着いたのち秦野に移り、後に藤沢に移り住んだということがわかる。

尚、「富士古文書」によると、福岡姓は徐福の長男・福永の家系ということになる。

秦野の徐福伝承

藤沢の福岡家墓碑から、徐福の子孫の旧蹟は、藤沢に近い「秦野」の地であったことがわかった。

秦野の伝説を資料から探ってみたところ、果たして二つの伝承が存在したことが判明した。

岩田達治著「丹沢山麓 秦野の伝説」によると、徐福の子孫は、「からこさん」と呼ばれ、大磯から上陸して秦野に定着したという伝承である。また、丹沢山系から降りて定着した「からこさん」の伝承もあった44)と云う。

徐福一行の海上ルート

秦野の伝説によると、「からこさん(唐子さん)は、中国からおいでになり、大磯の浜辺から秦野に移住したと伝え、徐福一行ではないか」と考えられている。

定着した場所は乳牛(ちゅうし、町名)とよばれ、今の秦野市中心街・本町である。

かつて、唐子明神社が存在したが、現在は郷社・曽屋神社に習合されてしまっている。該当場所は、現不動尊の南約二百�付近であると云われる。

秦野の民話によれば、「'からこさん'と一緒に、こぼしさまが来られたが、こぼしさまは、大磯の浜からころがりころがりやっとのこと、丹沢の山にたどり着いた。そして、美しい”こぶし”の花'を咲かせた」という。

現在も秦野市の民家には、春には「こぶし」の花を咲かせているところが多い。

「こぼしさま」とは、小方士・法師さまで、徐福一行の童男女を表しているようにも思われるとし、岩田達治氏によると、からこさんは、乳牛(町名)で、乳牛を飼うことを教えたと云う。

乳牛(ちゅうし)近くの曽屋神社の由来は、乳牛から蘇(そ、チーズ)をつくる屋敷からきたともいわれる。

神社近くの市役所前の道を土地の人は「デーゴ道」と呼ぶが、これは醍醐(ダイゴ=チーズ)からきているということである。

からこさん達が着岸した大磯の背景をなす山が、高麗山と呼ばれるのは、唐子さんに由来するのかもしれない。

つまり、蓬莱の地を探し求めた徐福一行は、日本列島に渡航後、熊野、三河、遠州、駿河と、沿海を船で巡り、東海、関東に上陸した人たちもいたということであろう44)という。

内陸ルートの徐福の子孫

一方、秦野市の北部横野にある大秦野ゴルフ場・戸川公園の近くに、加羅古神社がある。

ここにも、「からこさま」に関する民話があった。

「ずっと昔の昔、大むかしのことです。丹沢山塊の高峰、孫仏さま(今の塔の岳)の山頂に、からこさまが、おいでになったのですと。からこさまは、里を見下ろされ、静々と山を降りられたのです。そして、やっとのこと、横野村(北地区横野)にお着きになったのです。それからは、いろいろと村人のために尽くされ、とうとう神様として崇めたてまつられました。そのお宮さまが、横野の鎮守さま「唐子明神社」(加羅古神社)です」44)と。

また前田豊氏は、新編相模風土記には、唐子明神社について、次のように書かれていると紹介している。

「村の鎮守なり。神体は木像、縁起に昔唐土より飛来せし神なるを以って、唐子明神と号す。この境内の山中に安ずる拘留尊仏は、即明神の垂蹟なる由見ゆ。その他記する所妄誕に亘れば、ここに漏らせり。天正十九年十一月一日、石の御朱印を給う」と。

ところで、唐子明神社の神主は、平塚の中原御殿に出向かれた徳川家康公に、この話を伝えたそうである。家康公は「これはよい話じゃ」といわれて,沢山のご褒美をくだされたということで、徳川家も徐福伝承については、特別の関心をもっていたことが伺われる。

荒竹清光氏の「古代日本と渡来文化」(明石書店)によれば、正倉院文書天平宝字二年(七五八)に相模国大住郡秦野に、唐子神が記してあるという。この神は、今の秦野市横野にある辛子神社(加羅古神社)とされているが、乳牛に定着した海上ルートの唐子明神の可能性も高い44)という。

富士山麓と秦野の徐福伝承のつながり

この話は、富士山麓の徐福伝承と、次のようなつながりを持っていたという。即ち、山梨県南都留郡山中湖村沖新田地区には、徐福の子孫の秦(はた)一族が住んでいたが、一一七〇年前の延暦一九年(AD八〇〇)の富士山大噴火で、今の神奈川県秦野市に移住したと云われている。

岩田氏の「秦野の伝説」の「からこさんと金印」について、次のように紹介している。

昭和四九年九月二四日の毎日新聞の夕刊に、「伝奇始皇帝の「金印」富士山麓で見つけた」という記事が載った。

山梨県側の富士山麓の畑から中国の大変古い印鑑が出土し、地元の郷土史家が飛び上がるほど興奮しているという。

富士文書(平安、鎌倉時代)が教える云い伝えが、正史に組み入れられるかもしれないからである。

「秦の始皇帝の命を奉じ、徐福の一行が富士山に不老長寿の薬草を採りに来て住みついた・・・。」

印鑑と徐福の結びつきが、もし立証されたなら、日本最古のものとなる。

富士吉田市明見の宮下義孝氏方に所蔵されている富士文書には、「始皇帝は、徐福ら五五八人に、蓬莱の国の不二の山に、不老長寿の薬草を採取してくるように命じた」ことを記し、中国の古い歴史書「始皇本記」にも、同様のことが書かれている。

郷土史家の渡辺長義氏は、徐福らが住みついたところは、印鑑発掘の場とみて、大胆な仮説を立てた。

「富士山麓・沖新田地区は、徐福の子孫の秦(はた)氏一族が住んでいたところであるが、一一七〇年前の延暦一九年、富士山大噴火で、いまの神奈川県秦野市に移住した。金印は、おそらく徐福の一行が持ってきたのではないか。

秦野市に移るまでの徐福の子孫らは、富士山麓で漢字を広め、古事記、日本書紀が作られる前までの日本古代史をまとめた。それらを伝える富士古文書は、富士山麓・高天原'説を伝えている」と。

そうだとすれば、富士山麓に住み着いた徐福の子孫は、富士山の大噴火のために住めなくなり、丹沢山を越えて秦野にやってきたことになる。

丹沢を越えてきたのは、不老不死の薬・丹(辰砂)を探したためともいわれ、「丹沢」の名称も、徐福の子孫によって名づけられた可能性があると云うのである。

秦野の伝説をまとめられた岩田氏が、これらの話を、北公民館で婦人会のみなさんに話したところ、もう少しで話が終わろうとしたとき、一人から発言があった。

「この話、ずいぶん前、うちのおじいさんから聞いたことがあるよ。なんでも、からこさんは、富士山からこちらにこられたそうだ。だから横野のからこさんは、女の神さまだあと。富士山は女の神さま(大山祇命の娘・コノハナサクヤ姫?)だから・・・」と。

「話が生きていた。話はあったのだ」と思い、言い知れぬ楽しさがどっと湧き起こったと、書いておられた。この話は、昭和の時代にも、老人に語り伝えられた生きた物語であった44)と云う。

神奈川県北部の徐福伝承44)

稲葉博著「神奈川の古寺社縁起—知られざる伝承・霊験譚—」(暁印書館、昭和六三年四月)によると、神奈川県北部にも徐福伝承をもつ家系があった。

県北部・津久井郡の西端で、山梨県上野原町まで数�のところ、藤野町小渕に三柱神社がある。唐土明神(カグツチ神)と大牟神社(大己貴命)と八坂神社(スサノオ神)を併せたので、三柱の名が起こったというが、この社は明治の神仏分離前は、峰昌寺という別当寺が管理していた。

この峰昌寺の後裔が栗原家で現当主は毅氏という。この家に徐福縁起があった。それは「唐土大明神之由緒−宝暦五年十月」である。

内容は「本朝第六代孝安天皇の御代、秦始皇帝、長命不死の薬を東に求め、徐福にこれを命じた。出発に当り始皇帝から肖像画を賜った。徐福は日本の九州筑紫に到着し、中国筋を経て東国に至ったものの、悪者どもが群がって到底進み得ず、止む無く本国に帰ることとしたが、折角の記念にと帝の尊像を当所の裏手、鷹取山の中腹の大岩石の下に埋めて去った。

後、誰云うともなく大明神と唱えたが、はるかに年をへだてた慶長年間、尊像を里に下ろすこととした。慶長七年(一六〇二)、地頭も彦坂小刑部元正に替わり、神社仏閣の調査をした時、従来はただ大明神と呼んでいたのを改めて「唐土大明神」とした云々」である。

その尊像は残念ながら消失してしまったが、明治の頃、新聞に発表された一部が残っていた。稲葉氏が見せてもらったところでは、「長さ約60cm、幅約17cmほどの神体で、お姿は明らかに中国服を着用し、冠をかぶりひげのある貴人の相をしていた。しかし、製作年代はどうも江戸時代頃としか考えられない」という。

また、御当主は、おそろしく古びた一挺の鍬を持ち出され、所伝ではこれも徐福将来のもので、これを以って近辺の開墾に当たったとのことである。

稲葉氏は、その後、この山間の小部落・小渕に「秦氏」を姓とする家が四軒もあることを考慮し、何か徐福とのつながりがあると感じ取り、富士吉田の富士古文書(宮下文書)にたどり着く。

そして、この徐福伝承は、富士吉田付近から神奈川県藤野町に、江戸時代の富士信仰の流れに乗って伝播波及したものであろうと推定されている。

しかし、藤野町は富士吉田から、相模の寒川神社に至る中間点にあり、交通路にあたる。少なくとも延暦年間の富士山噴火に関連している可能性が高く、もっと古い伝承であると考えたい44)。

大山阿夫利神社

相模の人々が信仰対象としている大山阿夫利神社は、関東総鎮護の役割を担っている。阿夫利神社のご祭神は、山の神・大山祇神である。大山祇神は、「徐福」をさすという説があり、信憑性が高い。たとえば、須田育邦氏は、その著書「八雲立つ」で大山祇命は「徐福」であると確信して記載されている。

榎本富夫氏は、歴史研究三二九号(一九九四)において、千葉県葛飾郡沼南町大井の福満寺の祭神と佐賀市金立神社の祭神の対比から、大山津見命を「徐福」と比定されている。

大山阿夫利神社の由緒書によれば、神社創立は、今から二二〇〇余年以前(徐福渡来の時期に合致する)の人皇第十代崇神天皇の御代であると伝えられている。古来より大山は、山嶽神道の根源地であり、別名に雨降山、古名を「大福山」と呼ばれていた。

大山祗神は、またの名を酒解神(サカワケノカミ)と言い、酒造の祖神としてもあがめられている。また、生活の資源、海運・漁獲・農産・商工業に霊験を示されるということは、徐福の特徴をよく反映している。

碓井静照氏の著書「徐福の謎」によると、徐福一族は、各地に定着するにあたり、あらかじめ目標を定めた山(その地域で一番高い山)に立ち、海や河川を望み、最も住みやすい地を選んで山を下りたと見られる。これが後に、土地の人々において、神の降臨伝承となった可能性が高いという。

また、大山寺縁起によると、大山は天竺南崇廟(徐福は天竺から各種経典を持参したといわれる)がかけ飛来したもので、「弥勒菩薩の浄土」(都率天)だとされている44)。

その他神奈川県内の徐福関連の地名等44)

秦野の地名と遺蹟

秦野:秦野市を含む周辺は、古代「幡多郷(はたごう)」といわれるように、秦氏族と深いかかわりがある。相模川上流の猿橋町秦野の八幡も相模の秦野に由来するという(窪田薫、富士北麓の秦氏二重構成説、秦武栄「徐福ロマン」特別寄稿)。

秦野市は、秦 河勝の一族が移住し、この地を開発したとも伝えられている。

蓑毛(みのげ):古い大日堂、不動堂、地蔵堂があって、その脇のほうに、これらの堂を建立したのは秦氏だという石碑が建っている。

伊勢原

日向薬師:伊勢原市日向に、大化一(六四九)年開創と伝えられる日向薬師があり、山門下に境内社として秦氏族の祀る白髭神社がある。

相 模

相模(さがみ):この名称も、サ・カミつまり「山の神」や「農耕神」を意味するという説がある。日本の徐福伝承には、徐福は人々に農耕を教えたとあり、伝承地の多くが徐福を「農耕神」として祀っている。サガミの神も「徐福」を表しているのではなかろうか。

寒川神社:相模川の河口近くの高座郡に、相模国一宮となる寒川神社がある。ここにも富士古文書に関する伝承が残っており、富士・高天原の川の名にちなんで寒川神社を創建し、伝来の文書を保管したという。古代の相模湾は、この神社付近まで入り込んでおり、渡来人伝承があり、古墳も確認できる。

丹沢:徐福一行が捜し求めた、丹(朱、辰砂)の採れる山、沢を意味している。

蓬莱町:横浜市中区に蓬莱町がある。

ほうらい橋:秦野市本町下流の室川には、ほうらい橋がかかっている。 

付近には、ほうらい公園、ほうらい会館、ほうらい児童館などが建てられている。

ほうらい橋の北一�ほどのところに、弘法山公園があり、その中腹には「めんようの里」と称して、羊が放牧されている。この羊は、中近東のイスラエル人が飼っている牧羊種と同じだそうで、徐福一行に古代イスラエル人が含まれていたことを彷彿させる。

藤沢の福岡家の墓碑は、明らかに徐福の子孫であることを明記していた。そして、福岡氏の一族は、秦野から遷ったことを示唆している。藤沢の福岡家の墓碑は、徐福の子孫の広がりを示す貴重な証拠資料と言える。

富士山麓の古文書が述べる徐福の子孫のことは、秦野市の民間伝承とつながっていた。つまり、徐福一行の子孫は、富士山麓から、別のピラミッド型の大山(ほうらい山)が遥拝できる秦野へ遷ってきたという伝承があった。 

また、海上ルートを経て大磯に上陸したグループもいる。おそらく、熊野、三河、遠州、駿河と、沿海を経由し、大磯に上陸、そして、秦野へ、藤沢へと、更に関東平野へと広がっていったのであろう。

富士山麓から相模に降り立った徐福の子孫は、神奈川県北部の徐福伝承があることから、再び相模から相模川を遡り、富士山麓へ戻った人たちもいるということであろう。

そもそも、神奈川県の名山「大山」は、古名「大福山」であり、そこにある阿夫利神社は、二二〇〇年前の創立と伝えられている。そのご祭神は「大山祇命」であるが、この神は「徐福」そのものとも考えられる。

相模の「サ・カミ」自体が「徐福」を反映した「山神」、「農耕神」を表している可能性がある。神奈川は、「神の川」であり、徐福一行、または子孫の居住に由来する地域と考えるのもまんざら荒唐無稽ともいえないであろう44)という。
http://www.syamashita.net/history/johuku/densetu_kanagawa.html

6 件のコメント:

ご近所 さんのコメント...

やっぱり佐賀の鹿島も繋がるんですなw
先日の広島の呉の産廃の件、近くに熊野町

匿名 さんのコメント...

>東西各方面のアレな
まことに、えろい(爆w
ところで、聖徳太子かるとの連中って矛盾してますよね?(w

匿名 さんのコメント...

で、その景教の影響を受けた作品が、古事記なんですよね。

だから、古事記の天地開闢の部分は、妙に聖書っぽいわけですし、造化三神というのはトリニティだったりするんジャマイカと。

匿名 さんのコメント...

話半分で…
>天皇を大祭司または祭祀王
これが当たりしょうね。
>景教的な発想
カクレとは少し違うかもしれませんね(w
しかし景教の造詣は深かったのでしょうね。

>インサイダー
おもしろいですね。

匿名 さんのコメント...

天皇はダビデの血統の王家で、レビ族の血統の大祭司が白川伯王家なんじゃないかな~と。祭司抜きで何かしようとすると神罰が下る、みたいな。

匿名 さんのコメント...

“徐福上陸は有明海から”

不老不死の薬草を探しに中国から日本を訪れたと伝えられている徐福が日本に上陸した場所について、海の状況や当時の航海技術などから、有明海だとする論文を元東京商船大学の教授がまとめ、佐賀県徐福会が公募した論文の最優秀賞に選ばれました。
徐福は、今からおよそ2200年前、中国の秦の始皇帝に命じられ不老不死の薬草を探しに日本を訪れたと伝えられ、上陸した場所についてはいまの佐賀市のほか全国各地に伝説があります。
徐福に関する研究などを行っているNPO法人「佐賀県徐福会」では徐福の資料を紹介する佐賀市の施設、徐福長寿館が来月開館20年を迎えるのを前に、上陸した場所についての論文を公募していました。
全国から24点の応募があり、審査の結果、帆船「日本丸」の船長や東京商船大学の教授を務めた、神奈川県に住む橋本進氏の論文が最優秀賞に選ばれました。
この論文では気象や海の状況、当時の船の構造や航海技術などから、徐福は阿蘇山や雲仙・普賢岳を目標に有明海に入り、上陸したと推定しています。
審査では、「九州への渡来を、帆船の航海技術などの科学的側面から証明しようとした、傑出した内容」と評価されました。
橋本氏は、来月24日に佐賀市で開かれる徐福に関する国際シンポジウムで表彰され、記念講演を行う予定です。
04月20日 09時41分
www3.nhk.or.jp/lnews/saga/5084157471.html?t=1429525748590