那珂湊攻略計画の裏づけ
先の宍戸藩領図を見ても宍戸藩は那珂湊には接していないことが分かる。
那珂湊が水戸藩により封鎖されてしまえばローマ法王からの援軍が到着しても涸沼には辿り着くことができない。当然のように那珂湊攻略が計画され理想郷(バライソ)建設を願う切支丹達はそれを支援することになる。
中丸川の那珂川合流地点 <那珂湊と切支丹石仏が多数祀られている柳沢の丘を隔てて中丸川は流れている。>
那珂湊攻略はその地形から簡単な物ではなかった。
東側は太平洋に面し南側は那珂川が流れる。そして西側は中丸川が流れ、
その周辺から現在の那珂湊駅付近まで湿地が広がり昔は地名を「島巡り」と言ったほど深い湿地だった。
残る北側の平磯方面のみ徒歩で行き来が可能で、この地形は幕末まで大きく変わる事は無かった。
その幕末の元治元年天狗党の乱で実際に那珂湊は幕府軍より攻撃されることになる。 面白い様に切支丹石仏の祀られた場所は天狗党の乱の戦場と重なるのだ。元治元年天狗党の乱(那珂湊戦争)の際の布陣図/クリックすると大きな画像がご覧になれます
幕府軍は柳沢の丘に陣取り、那珂湊方面へ大量の大砲を打ち込んだ。
関東島や百色山付近は渡河せんとする幕府軍と抗する天狗党の激戦の地だ。
平磯は那珂湊に攻め込まんとする幕府軍に対抗して天狗党が立て篭もった。当然切支丹石仏も有る。 また、既出の猿田彦から名付けられたと推測した「田彦/たびこ」も天狗党の乱の激戦地になった。 ここは那珂川上流で渡河した幕府軍が助川城方面と那珂湊方面へ別れる分岐点に当たる。
この事から如何に的確に那珂湊攻略ポイントに切支丹が配置されていたか知ることが出来るだろう。 理想郷(バライソ)建設の為に決死の思いで切支丹達は此の地に移住してきたのだ。
、、、(w
8 件のコメント:
http://www.shihoujournal.co.jp/plaza/130214_1.html
法律事務所が破産したのに所謂マスコミがどこも報じないのはどうしたことか()
イタリアの「ハチ公」死ぬ 教会通いで話題に
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130214/trd13021414290012-n1.htm
キリスト教終了のお知らせ
ご冥福をお祈りします
那珂 ルネサス
http://web.archive.org/web/20090911093013/http://www.universal-law.jp/aboutus/index.html
最近あのバス釣り雑誌が必死なわけDEATHねw
渋沢栄一 徳川慶喜
徳川慶喜 山岡鉄舟
山岡鉄舟 あんぱん
あんぱん 銀座
パン ポルトガル語 フランス語
パンの普及≒キリスト教の普及 ?
ワインの産地も
神戸で7年間過ごしたのち、1879年(明治12年)、ジェル・オーグスト・シャトロン神父を後任をとして、京都に入る。京都では日本人の心理を知るため、知恩院に通い仏教を研究したり、フランス語塾を開いて青年にフランス語を教えたりしていた。この塾の生徒には、渋沢栄一、稲畑勝太郎、林市蔵などがいた。またこの頃、東京のフランス公使館の隣に開かれた和仏学校で教えた事もあり、その時の生徒の中には西園寺公望、原敬、松岡康毅などがいた。ヴィリヨンは京都に教会を建てようと尽力し、1890年(明治23年)5月1日に聖フランシスコ・ザベリオ記念天主堂(現在の河原町教会)が完成した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%A1%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%A8%E3%83%B3
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