豊臣秀吉による「通し矢」@三十三間堂@天台宗の実地禁止が確認された件
三十三間堂の「通し矢」、秀吉時代に流行過熱?
豊臣秀吉の治世下、三十三間堂(京都府東山区)が「通し矢」の実施をたびたび禁止されていたことが、長岡京市の旧家に保存されていた書状で確認された。
新成人が晴れ着姿で矢を射る新春恒例の「大的(おおまと)全国大会」で知られる三十三間堂。通し矢は江戸時代に人気を博したと考えられてきたが、安土桃山時代から盛んに行われていた可能性を示す貴重な資料と言えそうだ。
調査した長岡京市教委の馬部隆弘・文化財技師によると、書状の花押(かおう)(サイン)から、秀吉側近の五奉行の一人で京都所司代だった前田玄以が、三十三間堂を管轄する妙法院(東山区)に宛てたものと確認できたという。他の書状との関係などから、1596年(文禄5年)1月に出されたとみられる。
書状には、「三十三間堂で矢を射ることを禁止している」「それでも射る者がいれば通報するように」などと記されている。以前から繰り返し禁止してきたことを示す「連々御法度」との記述もあり、通し矢の流行が相当過熱していたことがうかがえるという。
書状が出されたのは、隣接する方広寺で秀吉の威信をかけた大仏殿の建設が進められていた時期。通し矢を禁止した理由について、馬部技師は「三十三間堂がならず者の集まる場になっていたのかも知れない。周辺を聖域化する狙いがあったのではないか」と推測している。
三十三間堂の通し矢はお堂の端から120メートル離れた的を射抜き、その矢数を競うもの。始まった時期は、鎌倉時代、安土桃山時代などの諸説があるが、広く流行するのは江戸時代とされていた。
また、秀吉の甥・秀次の重臣が1595年(文禄4年)に書いた日記に、「通し矢が禁止された」との記述があるが、禁令が複数回にわたったことなど、具体的な経緯はわかっていなかった。(倉岡明菜)
(2012年10月28日 読売新聞)
7 件のコメント:
さっきへうげもので
宣教師が娘商人するのを船検めして抑えた秀吉やってた
刀抜いてたし
俺の国の物は俺の物だ勝手は許さんって理屈でアレ禁止コレ禁止ってなったに触れてていいんだけど
その娘っこたちそのまま放置して下船だったので娘っこらはどうするんだって状態は
作り手の意図的なものを感じますです
晩年秀吉が呆けた、独裁者孤独病で狂人となったと史実にしないと
なんで秀吉がそんなことしたの?って誰でもその方向にむくからだよねw
匿名党読者になって思うのは
「古代・中世の歴史が結構改竄されている」
文書が残っていても、適当に「抜いて」「隠して」改竄簡単だったかも。
古代の文書は殆ど改竄有りと見た方が良い。
日本では特に酷い。
室町 安土 江戸期に多く手が入ってる。
そこから何が加筆されたかを読み解くのが
古代歴史家の仕事。丸飲みはカルト脳の
第一歩。
10月29日 朝日新聞夕刊
ソープ8件経営 会長ら8人逮捕
~吉原でソープランド8件を経営する「サン・ワールドホールディングス」(東京都台東区)の会長小松崎信男容疑者(67)や同社員ら男21人を売春防止法違反(場所提供業)容疑で逮捕し、29日発表した。
~風営法は各店を別店舗として届け出ていたが、実は違法に売り上げを一括管理しており、道庁は風営法違反(無許可営業)容疑での裏付けを進めている。
~台東区千束4丁目のグループ店舗内で~。
>月夜さんのコメント、匿名さんのコメント
を拝見して、
①原本とされる古文書が失われ、写本しか存在しない場合の改竄の可能性
②原本とされる古文書すら改竄の可能性
を考えると、
団長さんの仰る「ごく一部の日本人しか知らない日本の真の歴史を知ってて…」の人達が口を開かない以上、
一般の日本人が日本の真の歴史に近づくのは容易では無いですね。
歴史の検証も発掘調査や地質調査、年代測定やDNA解析等の物的証拠で行うのでしょうが、
年代測定の誤差や人DNA解析のサンプルの取り方など問題も指摘されています。
特に日本人の起源を探る研究で現代人のDNAから遡って推測する手法の場合、サンプリングが重要で、
日本人のDNAと称して♪ピー・・・、全く違う結果になるでしょうね...orz
http://tokumei10.blogspot.jp/2012/11/blog-post_5224.html
>「真」の歴史
前の大戦は、これが暴かれるのを防ぐためだったり?
奈良や京都でよくある話なんですが
家やビルを新築する際
当然下に向かって掘ると、色々な物が出てくるわけで
小さい工務店の請負とかなると
それが原因で工事中断、延期、中止、となると
費用損害その他誰もケツを持ってくれないので
役所が来る前にバラバラに砕いて
産廃屋になるべく早めに持って行ってナイナ~イしてしまうわけです
これも原因の一つ
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