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2012年10月29日月曜日

豊臣秀吉による「通し矢」@三十三間堂@天台宗の実地禁止が確認された件


三十三間堂の「通し矢」、秀吉時代に流行過熱?

豊臣秀吉の治世下、三十三間堂(京都府東山区)が「通し矢」の実施をたびたび禁止されていたことが、長岡京市の旧家に保存されていた書状で確認された。

新成人が晴れ着姿で矢を射る新春恒例の「大的(おおまと)全国大会」で知られる三十三間堂。通し矢は江戸時代に人気を博したと考えられてきたが、安土桃山時代から盛んに行われていた可能性を示す貴重な資料と言えそうだ。

調査した長岡京市教委の馬部隆弘・文化財技師によると、書状の花押(かおう)(サイン)から、秀吉側近の五奉行の一人で京都所司代だった前田玄以が、三十三間堂を管轄する妙法院(東山区)に宛てたものと確認できたという。他の書状との関係などから、1596年(文禄5年)1月に出されたとみられる。

書状には、「三十三間堂で矢を射ることを禁止している」「それでも射る者がいれば通報するように」などと記されている。以前から繰り返し禁止してきたことを示す「連々御法度」との記述もあり、通し矢の流行が相当過熱していたことがうかがえるという。

書状が出されたのは、隣接する方広寺で秀吉の威信をかけた大仏殿の建設が進められていた時期。通し矢を禁止した理由について、馬部技師は「三十三間堂がならず者の集まる場になっていたのかも知れない。周辺を聖域化する狙いがあったのではないか」と推測している。

三十三間堂の通し矢はお堂の端から120メートル離れた的を射抜き、その矢数を競うもの。始まった時期は、鎌倉時代、安土桃山時代などの諸説があるが、広く流行するのは江戸時代とされていた。

また、秀吉の甥・秀次の重臣が1595年(文禄4年)に書いた日記に、「通し矢が禁止された」との記述があるが、禁令が複数回にわたったことなど、具体的な経緯はわかっていなかった。(倉岡明菜)
(2012年10月28日 読売新聞)