【旧統一教会】被害男性 国会で涙…“アポなし訪問”勅使河原氏「メディア出ないで」
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岸田文雄総理大臣が17日、旧統一教会について、宗教法人法に基づく「質問権」を行使して、調査をするよう指示をしました。一方で、旧統一教会の勅使河原秀行本部長が、教団による被害を訴える男性の自宅にアポなしで訪問し、「メディアには出ないでほしい」と要請していたことが分かりました。 ■元妻が“高額献金”…長男は“焼身自殺” 岸田総理:「私自身は知る限り、旧統一協会とは関係を持たずに政治活動を行ってきましたが、こうした関係を持たない私が責任を持って、未来に向けてこの問題解決をしていきたい」 17日、責任を持って解決すると発言した岸田総理。この日の答弁をうつむきながら傍聴している男性の姿がありました。 元妻が世界平和統一家庭連合、旧統一教会の信者の橋田達夫さんです。 橋田さん:「僕が外に出ていったら、家から煙が出ていて。庭で焼死をしました。自ら命をとりました。死体が僕の長男だと分かったのは、1週間後でした」 元妻の高額献金などが原因で、長男は自宅の庭で焼身自殺。意を決して、12日に名前や顔を明かして会見を開いた橋田さんに16日、旧統一教会のある人物が突然、自宅にやってきたというのです。 橋田さん:「高知の統一教会から、勅使河原さんが会いたいと。『いや、僕は日曜日会えない』と。『東京に行く予定です』と言ってあったから、突然(勅使河原氏が)一人でマスクを外して来たんですよ」 橋田さんの自宅にやってきたのは、旧統一教会の勅使河原本部長でした。
https://news.yahoo.co.jp/articles/4cccbe543a1904b1a43916d439bcbf9cde7e09ee
写真週刊誌「FOCUS」(新潮社・休刊)は93年5月、「『破断された』統一教会『勅使河原秀行』男の研究」の記事を掲載した。 勅使河原氏がどのような人物なのか、幼少期から遡って徹底的に取材したものだ。当時の記事を要約して紹介する。 勅使河原氏は愛知県一宮市の生まれ。3人きょうだいの長男で、弟と妹がいる。父親は大阪に本社のある繊維問屋の取締役で一宮支店長。ごく普通の中流家庭に育ったと言っていい。 「小学校の頃は、腕白でケンカもよくした。やんちゃで、学校でも指折りのイタズラっ子でした」(幼なじみ) 中学から剣道を始め、高校では副将として地区大会で団体準優勝もしている。 「スポーツマンだし、ユーミンやオフコースが好きでコンサートにもよく行っていた。統一教会なんて、当時の姿からはピンと来ませんね」(高校の同級生) 成績は常にトップクラス。 「ただ、女の子に対しては無頓着なタイプだった。身だしなみに気を使わないし、女の子に敬遠されるタイプでした。それに理屈っぽくて、どこまでも自分の考えを主張する奴だった」(他の同級生)
「24時間教会に身を捧げたい」
一浪後、京大の農学部農林経済学科に入学した。 「医学部を勧めたんですが、息子の希望で農学部にしたんです。本人は“何年か先、世界は食糧危機の時代が来る。人口も増加する一方だから、コントロールしないといけない。そのために勉強したいんだ”と言う。将来は国連で働きたいと言っていました」(父親) その「理想主義」的なところが、統一教会に入信する素地になったのかもしれない。勅使河原氏は大学3年生の時から授業に出なくなる。統一教会の学生組織、原理研究会に入会したのである。 原理運動に熱中したせいか、勅使河原氏は4年生になっても卒業できず留年。「筋金入り」の原理研メンバーになっていた彼は、大学卒業後の進路について、「教会の職員になって24時間教会に身を捧げたい、と思っていた」(関係者) が、両親が反対。 「“なんとか普通の会社に就職してくれ。3年経ってまだその時、原理をやりたいというのなら認めよう”と言いました。世間の波に揉まれたら考えも変わると思ったんです」(父親) 勅使河原氏は、この条件をのむ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/0e1cebb0fa7df41d7bbcfb41d53683ec865dcb59?page=2
【名字】勅使河原
ロバート・M・フリン(Robert M.Flynn、1920年3月12日 - 2009年2月7日)は、宗教家・教育者。プログレス・イン・イングリッシュなどを中心とした著作活動[1]や教育活動を行っていた。
1920年、ニューヨーク市生まれ。カトリック、イエズス会の私立高等学校(4年制)を卒業後、1937年8月14日イエズス会の修道会に入る、フォーダム大学(ニューヨーク市、2年間、文学専攻)、セントルイス大学(ミズーリ州、3年間、哲学専攻)で学ぶ[2]。卒業後、ニューヨークの高校で英語、ラテン語、ギリシャ語、宗教を3年間教え、ベルギーとドイツに留学して神学を勉強する[2]。1950年8月24日、Eegenhoven(ベルギー)にて司祭叙階[2]。
1952年10月29日、神父として来日。イエズス会のキリスト教主義学校(ミッション・スクール)である六甲学院中学校・高等学校(神戸)や泰星中学校・高等学校(福岡)で35年間英語を教え、その指導実践のなかから、オーラル・コグニティブ・アプローチに基づいた教科書『プログレス・イン・イングリッシュ』全6巻を著す[2]。高校生・中学生対象の英語によるスピーチのカリスマ指導者であり、その成果は関係者の間では有名。ネイティブによる発音とユニークな内容を盛り込んだスピーチで、全国レベルから地方レベルに及ぶ数々の英語弁論大会で、同高校生・中学生に多くの賞を受賞させた。1988年より津和野カトリック教会にて主任司祭を努めた後[2]、萩、山口の教会にて司牧。六甲学院高等学校のバスケットボール部のOB会は氏の名前を付け「フリン杯」と呼ばれている。晩年は東京都練馬区上石神井のイエズス会ロヨラハウスにて静養していた。
2009年2月7日にロヨラハウスにて、88歳で召天。
3 件のコメント:
六角形の甲羅
亀さんでつね
シューウリジンのお友達 キッコーマン
不倫は文化death
けだし名言
何だ・・・テッシ〜かぁ。
だから女に逃げられるんだょ。
破防砲発射したら良いのに
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